投稿者「dada.sakai」のアーカイブ

鳥になれ 鳥よ

「鳥」 安水稔和

鳥よ

花が咲いてもとっくに散って。
風が吹いてもとっくに止んで。
河が溢れてもとっくに涸れて。
水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
声かける。

―鳥になれ。
鳥よ。

 安水稔和さんはこの詩で人間の回復を訴えている。

 鳥が鳥として容易には生きられないという認識がその裏にひそんでいます。だが、鳥は鳥として生きるしかないし、鳥は鳥としてこそ生きたいのだ。ありかたの全体が、人間の回復がここでは呼びかけられているのです。
 あなたは今、自分が部分としての生き方を強いられていると強く感じはしないでしょうか。鳥は鳥でなければならぬ。あなたでなければならぬ。一度口にだしていってみてください。
 さあ。
 鳥になれ。
 鳥よ。

 鳥が鳥として生きられないのは、大気汚染・大気汚染・放射能汚染などの環境破壊を引き起こす人間の仕業だ。鳥が鳥として生きるためには、人間が人間として生きなければならない。人間が組織の一部として隷属的になれば、銭ゲバな機械人間や、空っぽなプラスティック人間に陥りやすい。人間が人間である為には、自然界に於ける人間という存在が、生態系の一部であるという視点に還らなければならない。
 鳥をイメージする時に、大空を飛ぶ鳥や水辺に佇む鳥だけを想うのではなく、走っても走っても飛び立てない鳥、首を泥田に突っ込んで息絶えた鳥、首を大きな手で握られた鳥、太陽のなかへ飛び込む鳥、もはや鳥とはいいがたい鳥たちの悲しみを想う事だ。
 さあ。
 人間になれ。
 人間よ。

参考文献:『鳥になれ 鳥よ』 安水稔和 花曜社

雨にもまけず

「雨にもまけず」
変詩/桝川濁(原詩/宮澤賢治)

雨にもまけず
風にもまけず
帝国主義にも軍国主義にもまけぬ
強い思想と意志をもち
私有欲はなく
決してヒヨらず
いつも何かの本を読んでいる

一日にハイライト一箱と
学園食堂にうどんを食い
あらゆる事を自分の問題として受けとめ
よく見聞きし判り
そして忘れず

体育館の二階の
小さな部屋にいて
東にデモあれば行って機動隊に石を投げ
西(西門)に検問体制あればヘイを乗り越えて学内に入り
北(梅田)でクラブの忘年会あれば野球ケンでパンツ一枚になり
南に合同読書会あれば行ってカッコイイことを言う

封鎖解除の時は涙を流し反革命者には正当な暴力をふるう
後期試験もどこ吹く風でせっせと「正午」の原稿を書き
パチンコもマージャンもせずいつも文芸部の仕事をし
女の子から「すてき」と言われる
そういう人間に私はなりたい

(『日本反政治詩集』 立風書房刊 1973年 より)

 安保闘争や全共闘運動は、身体的記憶はまったく無く遠い昔の寓話のようだ。しかし、団塊の世代からひとまわり離れ、彼らが残した「管理教育」という負の遺産を背負わされた世代にとっては、この種の詩を読むと胸のすく思いになる。
 現在は「デモをしても何も変わらない」とか「世の中そんなものだ」と考え、政府や社会に対して抗議運動をしている人を横目に冷笑したり、勝ち馬に乗って羽振りよく生きていこうとする風潮が強い。しかし、デモで社会は確実に変わる。なぜなら、デモをすれば日本人はデモをする社会に変わるからだ。それよりも大事なのは、自分がシニシズム(冷笑主義)に陥らないようにする事だ。
 シニシズムというのは希望を失ったときに傾倒する。現在の若い人たちが、希望を持つことがリスクになるくらい先行きに失望し、安易に権力に迎合して「権利」を頂戴する姿は悲しい事だ。民主主義において権力に対する「抗議」は、市民に許された「表現の自由」であり、「市民の権利」というよりも「市民の義務」だと思う。

生きるに希望なし、自我あるのみ

 DADAウイルス(ダダイスム)の感染力は強い・・・。
 DADAウイルスの感染源は、第一次大戦中(1916年)のスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテール。フーゴ・バルとエミー・ヘニングスはドイツからトリスタン・ツァラはルーマニアからハンス・アルプはフランスから、自由と独立を求めてヴォルテールに集まってきた。彼ら若者たちは社会への嫌悪感、未来への不安を共有しつつ、新たな生を模索しようとした。そんな中からウイルスは生まれ、感染は瞬く間に世界中に広まっていった。
 日本で最初に感染が確認されたのは、1920年8月15日付けの『萬朝報』紙に載った「享楽主義の最新芸術」と「ダダイズムー面観」という2本の記事。感激した高橋新吉はすぐさま感染した。1921年4月に詩誌『シムーン』創刊号に発表した「倦怠」が、日本文学史上の最初のDADAの文学作品といわれている。

「皿」 高橋新吉

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
 額に蚯蚓(みみず)匍う情熱
白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処(そこ)にも諧謔が燻すぶつてゐる
 人生を水に溶かせ
 冷めたシチユウの鍋に
退屈が浮く
 皿を割れ
 皿を割れば
 倦怠の響が出る

 この「皿」という詩は、貧乏な新吉が食堂の皿洗いのバイトをしていた時の心境が綴られている。最後の3行の「皿を割れ/皿を割れば/倦怠の響きが出る」は、社会の底辺でもがき苦しむ労働者の心情の吐露である。
 第一詩集『ダダイスト新吉の詩』の巻頭にあたるマニフェスト的散文詩「断言はダダイスト」は、「一切のものがDADAの敵だ。/一切を呪ひ殺し、啖ひ尽くて、尚も飽き足らない舌を、彼は永遠の無産者の様にベロベロさしてゐる」という言葉で締めくくられているように、DADAの本質とは社会的権力に対する反逆精神なのだ。

 人は誰でも思春期に自我に目覚める。自分が世界の中で「かけがえのないひとり」であり、同時に「その他大勢の中のひとり」でしかないという二重性を生きなければならない。何者でもない僕が青年期にDADAに感染した理由として、辻潤を通してステイルネルの〈唯一者〉の概念と出会った事が大きい。「いかなる人間的共通性にも解消できない〈私〉という自我を目指す」と内意して生きてきた。
 いまだにDADAウイルスに感染している・・・。

小さな一歩

(『PEANUTS 』1993.4.24)

「私とは誰か」「何のためにここにいるのか」。心の中でさまざまなに問いかけてくる。「お前は誰だ」「何のためにそこにいるのか」。自分が「ここにいる」というのは自明のことだと信じて疑わなかったチャーリー・ブラウンは、「ここってどこ?」という内なる声に問い返されて、言葉を失う。改めて考えてみれば、ぼくが「チャーリー・ブラウンという名前の人間である」ことも、「あの両親の子ども」だということも、「20世紀のアメリカのここにいる」ことも、すべて当たり前ではない、謎なのである。内なる声の主は、手を振ってみせろと言うけれど、いったいどこから「ぼく」を見ているのか。そこから「ぼく」は、どんなふうに見えるのか。そもそも、「手を振ってみせろ」と話しかけてくる相手も「ぼく」のはずではないか。
このようにして人は人生のどこかで、私に語りかけるところの〈私〉と初めて出会う体験をすることがあるのではなかろうか。眠れぬ独りの夜、鏡を見た朝、親友に裏切られた日、深い山で空を見上げた瞬間―さまざまなきっかけで、人は、自分自身を対象化してとらえる「主体としての私」のはたらきに気づく。それは、私でありながら未だ私ではない誰かと出会うということでもあり、突然に自分と世界が変容する体験でもなり得る。
そう考えと、〈私〉と出会う体験というのは、「やっと出会えた」という喜びの場面になるとは限らないことがわかる。「ああ、私は〈私〉だったんだ」と最初から納得される、幸運な出会い方をする人がいないわけではないと思うが、漠然とした違和感や不安だけを残したり、見えていなかったものが突然目の前に姿を現し、その存在を認めようと迫ってくる、圧倒される不可思議な体験として意識たりする人のほうが多いのではないか。そして、そのような出会いの体験は、一度きりで終わるとは限らず、時を変え、形を変えて、人生の経過の中でふいに訪れるものなのではないかと考えられる。(『自我体験とはなにか』高石恭子)

「自我」とは何とも煩わしいものだろうか。
人間が人間らしくなる前の恐竜の餌だった太古から、植物連鎖の頂点に立ち、科学技術が発達した近代において「自我」は進化の副産物でもある。デカルトやパスカルを罵倒する訳にもいかず、毎夜のように「自我」格闘し続けなければならないのが人生というものだ。
人間は誰でも不安の中で自分の明日を創るために、「小さな一歩」を踏み出さなければばらならない。眠れない夜は「小さな一歩」の証でもある。
それでも安心さ、隣にスヌーピーがいるからね。

井田真木子という情景

 本質は事後的に気付かされる。
 井田真木子さんの『プロレス少女伝説』は読過していたが「井田真木子」 という名前はひとつの活字として僕の頭の中で眠っているだけだった。
 四方田犬彦氏の著書を読んで再び「井田真木子」という名前と出会った時は、彼女が亡くなってから20年以上も経っていた。そして、彼女が詩人であった事も知った。

「食べるべきものもロクに食べず、極度の栄養失調に陥り、救急車で運ばれた先の病院で息を引き取った。井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた。そして、死ぬとたちまち忘れられた。彼女のことをなんとか記憶しておきたいという編集者が、死後13年目に、ようやく絶版本を探し出し復刊させた。『井田真木子著作撰集』である」(四方田犬彦)

「気息 Ⅰ」 井田真木子 (『雙神の日課 詩』 無限 1975年より)

火山弾が冷える
七月
原人の
眠りが 途絶えた
彼は
どなりながら
大陸棚に 降り立ち
途端に
遠い雨を もとめて
立ち去る
僕の王国を ごらん!

アカメガシクの葉影で
〈闇のエルフ〉が
呼ぶ
毛深い塊が
華やかな 闘いの空に
勃起している

ベネディクティンを 飲み干す
〈闇のエルフ〉の背に
祭儀の 棘 は
刺さった
〈闇のエルフ〉を
不意に訪問する
始祖鳥の
病の 記憶!
僕の中の
原人が
一人
青銅の 眠りから
起きあがる
彼の名に 誰かが 触れた

彼は 思っている

線状β 文字の
輝きが
彼 を
襲った

※闇のエルフ:いたずらを好み、傷痕を残さずに不意に痛みを残さずに不意に痛みをおこさせる小さな鉄の矢を射る闇の妖精。

 神の日課という題は、インド最古の文学であるといわれるリグ・ヴェーダからヒントを得てつけたものです。リグ・ヴェーダの神々にはそれぞれに捧げられた歌があり、その歌によって各々の神の姿は歴史を一瞬にしてとびこえる力を得るといえるでしょう。
 リグ・ヴェーダに限らず種々の神話や、日常に密着してつくられた儀式に付随する辞や歌は、前述の様な歴史を透徹させる力をもつと同時に、ある同じ強い情感によって貫ぬかれていると思われます。二年ほど前から、その情感が何であるかという疑問は私をとらえて離しませんでした。その情感は古代の辞にだけではなく、極く最近の詩人の詩や小説にさえみつける事が出来ました。それは日常、自分が経験し慣れている喜怒哀楽の四つの感情と根本を同じくしながらも、はるかにそれを超越し、強いていえば怒り以上の怒り、喜びの感知され得る領域を脱した喜びということが出来、これを換言すれば、未だ人間の中で発掘し尽されていない未知の感情ともいえると思います。私は無数の散乱した言葉や物を、この情感を焦点にして一つのたちあがった情景にするという事を処女詩集を編むにあたって試みてみました。 (「あとがき」1975年 井田真木子より)

「街には人がいたか」 井田真木子 (『街』 無限 1977年より)

A・Dは1950年代にうまれている

しばらくして
同じ子宮から
似た名をもったヒトがうまれた
彼の兄弟は
1960年代のある日
彼の手から最初のものを奪った
彼は1960年代の始めの2・3年間
オモチャの機関車と悪戯心
シャツの二番目のボタン
などは奪われたが
その次の2・3年間よりはまだ多くをもっていた

その次の2・3年で
彼は
英字絵本
興奮して眠れぬ夜
我儘に透きとおった心
虫をとじこめて爆死させる遊び
そして嫉妬心を奪い去られた
それらのものは
だいたい彼が気付かぬうちに盗みとられたものばかりだが
が この2・3年のうちで
彼が 略奪に気付いたことがひとつだけあった
それは
彼の兄弟が朝食の卓の下で彼の貧乏ゆすりを盗みとった時のことだった
それが盗まれた瞬間
彼は急に足先が失神したのを感じ方をみたのだった
弟は
マーマレードだらけの口を小さくあけて
奪いとった 貧乏ゆすりの幸せに目を固く閉じていた
彼は弟にとびかかり
肩をつかんで揺さぶった
弟はそれでも返すとはいわなかった
それどころか細い足を彼に前に突き出して
今奪った貧乏ゆすりを
彼にみせびらかした
彼は弟を部屋の隅に吐息とばした
弟は
口のまわりのマーマレードをなめなめ
足を小刻みに動かしていた

(中略)

1970年代の何年間か
彼は略奪に慣れたのかあるいはもう完全に諦めたのか弟とその盗みの手に何の興味も示さなかった
彼はもう暗がりの中でクモの遊びをすることもなかったし外の世界に色調に気を取られているようだった
彼は気の利いたことをしばしばいい
陽気で
親切で
辛抱強く
過不足なくて
取柄もなかった
彼は黒点を知った太陽だった
彼の内部の熱感はさまされることがなかった
彼の恋人達は
彼が眩しくて血のように重いと思った
その中で最も不幸な一人は
彼の重く熱い血の感触の中に失われた不安の記憶がただよっているのを探りあてた
彼女は
世界のカギを目前にして崩れ落ちた
彼の血管の奥深くひそむその記憶がなければ
彼の重い血の一滴はすべての人にのぞまれるものだったのだ

1970年代のある日
彼は
目の前を横ぎったブヨをみていた

    (彼は自分が何であるかを知った)

彼は
春のブヨを素手でつかまえた

    (彼は手の中のブヨよりも更に小さいのだった)

彼の恋人達は
彼をまだ眩しいと思った

彼は何者でもなかった
彼は数年ぶりに弟の寝床にいきそこに自分の残骸を眺めた
そして掌を開いた
手にはブヨがいた
ブヨはあと数秒で
飛んでいくだろう

 「夢的」であるとはどのようなことだろうと考え、あらためて「夢」という言葉を眺めてみると、それは「夢想」「夢みがちな」「夢に逃げこむ」等といったファンタジックで非現実的な語感をもっています。しかし実のところ実際に私達がみる「夢」はファンタジーとは程遠いものでむしろ多くの人間のきれぎれの訴えや、途切れがちな実生活の記憶からなっていると私は思います。
 そして、その実生活の記憶とは、満員電車の吊り皮と雑踏の絡まりあう風景、「てのひらにのるこのテープでなんと120分の録音が可能です。」
といった吊り広告の文句、隣りの席の乗客の誰にいうともない不満、といったこの上なく日常的なものではないでしょうか。又、「夢」は幼児期をしばしばみごとに再現してくれますが、同時に現実の精緻な描き手でもあります。
 私はこの詩集で現実がより現実へむかう姿としての「夢」の一性格に似せた一夜にして半生の作品をつくれないだろうかと試みてみました。 (「あとがき」1977年 井田真木子より)

 井田真木子さんは大学時代に2冊の詩集を刊行した。フリーランスのノンフィクションライターになったのは出版社勤務を経た25歳(1981年)の時だ。バブル期を挟んで日本経済が、天国から地獄に落ちた時代をフリーのライターとして仕事をしていた事になる。僕も同じ時代をフリーのGデザイナーとして仕事をし、現在に至っている。四方田犬彦氏が語る「井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた・・・」という言葉には心が痛む。
 コネが無い人間がフリーランスで生きていこうとすれば向上心が全てだ。生活を犠牲にしてまで頑張らなければ生き残る事ができない。井田さんがライターとして評価さたのがバブル崩壊後の出版不況に向う時代であり、減少する仕事を奪い合うのが当たり前だった時代ならなおさらの事である。

 僕ら世代の若い頃は「日常」における「非日常」が文学や演劇などの文化活動のテーマだった。死ぬほど退屈で孤独な「日常」に、井田さんの詩集のテーマでもある「夢」や「神話」などの「非日常」を内面化する事で、現実の世界の中でも「自分だけの世界」を生きる事ができた。しかし、バルブが崩壊し、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件が起きた時代とは「日常」が壊れて残酷な「非日常」が始まった時代であり「夢」を見る事も「自分だけの世界」を創る事もできない時代だ。努力しても報われない若者たちの「引きこもり」や「漂流化」が社会問題として表面化したのがこの時代だった。
 井田さんのノンフィクションライターとしての取材対象はマイノリティ達が殆どだ。「日常」が壊れ、社会が壊れ、人間が壊れ、居場所を失うストレンジャー達を、寝食も忘れ寄り添い、ペンを持って社会と戦う姿はセカイ系のヒロインのようだ。誰かを救おうと思えば「自分だけの世界」から出て、壊れた現実の日常の中で戦わなければならない。それは、自分の中に苦しんんきた同時者性があり、引き裂かれていく自分を言語化しようとする詩人の感性の戦いでもあったのだと思う。

 無駄話になるが、衆議院総選挙で某大物2世政治家が落選した。敗戦のコメントが「勝負は時の運」という事らしい。その1ヶ月後には首相の「お友達人事」で救済ポストが与えられた。その時のコメントが「まだ私も十分に体力・能力ともにあると思っている」という事らしい。しかし、数日後には「過去のズル賢い行為」がネットで炎上してあえなく辞任した。
 本質は事後的に気付かされる。

(2022年2月11日)

荒地に吹いた風

 戦争の爪痕が色濃く残る1947年、詩誌「荒地」の創刊のために戦後日本の現代詩運動の中心となる詩人たちが集まった。「荒地」は戦前から詩を書き続けていた青年たちが、戦後の状況を絶望と死の影にみちた〈荒地〉と認識し、「破滅からの脱出、滅びへの抗議は僕達にとって自己の運命に対する反逆的意志であり、生存証明でもある」と主張した。それは、時代の様相への批評と人間の実存を核とする詩の出発という意味でもあった。
 敗戦から77年経過し「荒地」のメンバーたちは既に鬼籍の人になってしまった。敗戦後の〈荒地〉は実り豊かな大地になったのだろうか。

「浜で」 衣更着信
水際からほんの少し引き上げられただけで
砂のうえで舟はすっかり元気を失う
だが心配することはないんだろよ、魚のように
おまえは乾いて死にはしない

 この詩は、「荒地」のメンバーのひとりである衣更着氏が1983年に発表した『孤独な泳ぎ手』という詩集に収められている。
 敗戦復興した日本経済は、大量生産、大量販売、大量消費で、1983年頃はバブルに向かう手前の時代だった。若い女性の詩人たちの活躍があったものの、戦争を経験してきた詩人たちは、潮が引くように元気がなくなっていった。平和ボケした不毛な時代にあって、誰もが戦争や敗戦後にリアリティを感じ無くなったと同時に、小難しい詩を書く詩人たちが活躍する場が無くなってしまったのだ。
 日本の現状を憂いた衣更着氏の不安や苛立ちの根底には「水際からほんの少し引き上げられた」舟のような気持ちがあったのではないか。そして、「浜辺に打ち上げられた魚のように乾くもんか」と自分に檄文を発していたんじゃないかと思う。表現者とは何かを伝えると同時に、自分の大事な部分が変わらないための闘いでもある。

衣更着信(きさらぎしん)
1920年2月22日、香川県大川郡白鳥村(現・東かがわ市)生まれ。
本名は鎌田進。最初、如月信のペンネームを使ったのが、のちに衣更着信とした。これは平家物語に「きさらぎ」を、「衣更着」としてあったにので、改名したということである。大川郡三本松中学校在学中の1935年頃から詩作を始め、詩誌『若草』に投稿。明治学院高等商業部に進学して上京し、鮎川信夫らとともに『荒地』の前身である『LUNA』の創刊に参加。以後『ル・バル』『詩集』『荒地』に作品を発表。50歳まで郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して活動していたが、退職後は詩作・翻訳活動に専念した。
東京での学生生活は、中桐雅夫の「ルナクラブ」に所属し、森川義信、牧野虚太郎、田村隆一、鮎川信夫、北村太郎、三好豊一郎など、現代の一流詩人たちと交流を深めた。1968年に第1詩集『衣更着信詩集』を思潮社から出版、1976年に第2詩集『庚申その他の詩』を季節社から出版、1987年に第3詩集『孤独な泳ぎて』を書肆季節社から出版、1994年に第4詩集『モダニズムの絵』を思潮社より出版、詩集以外にも、詩や小説の翻訳も手がけている。
2004年9月18日午前1時、多臓器不全により高松市内の病院で死去。享年84歳。

 この年譜は「香川県詩史」笹本正樹著のテキストを参照しています。
 笹本氏は取材で衣更着信邸を訪れた際に、年譜を作るのに衣更着氏にいろいろ尋ねたところ「年譜なく生きることこそ、詩人らしいことである」と言われたそうだ。謙虚な詩人らしさに好感が持てたと記しています。

「左の肩ごしに新月を見た 勤労は夕べにまでいたる 詩篇」 衣更着信

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
光のない 色だけのかたむいた弧にさえ
ぼくは祈る さいわいはぼくぼくらの上にあれ
一条の幸運なと ぼくらの前に射せ

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
その目は あるいは似ていたかもしれぬ
弱い動物のもつ かなしい被害者の目に
一条の幸運なと この目び前に射せ

紺の海の上に落ちかかる雲の不吉なかたち
皮膚の熱をうばって吹く風のながれ
ぼくらを捉えた無言の威しよ 去れ

ぼくらの胸の ぼくらのかなしみをいとおしめ
とおい国の歌もおもい出してうたおう
勤労は夕べぶまでいたる 旅は冬に終わる

 敗戦後に衣更着氏は、郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して詩を書いた。この詩は、1952年「荒地詩集第2巻」に寄せたものであり、第1詩集『衣更着信詩集』の巻頭に収められた。
 この詩について三好豊一郎氏は語っている。

・・・「左の肩ごしに新月を見た」が『衣更着信詩集』の巻頭に置かれたのは、彼の詩の特質である節度と落ちつきと比喩の巧妙を語ってふさわしい。添え書きに「勤労は夕べにまでいたる 詩篇」とあるのも、またこれが詩句に援用されてあるのも、戦後の労働観からみれば、至って古典的でゆかしい、いやゆかしすぎるといえるかもしれなぬ。
この詩に込められた作者の労働に対する思いとは、労働とは神から与えられた人間生活の基本行為であり、近代の工業を主とする労働意識とは異なり、ひたすら人間の生存への労働の希いとなっている。
夕べに早々と空に浮かぶ新月に「さいわいぼくらの上にあれ、と祈る」思想的根拠が彼の生活の周囲にはまだ生きていたのだろう。「弱い動物のもつ、かなしい被害者の目」とは、燔祭の羊、あるいは狩りの獲物、犠牲に供される動物への、祈りの心から見られた目だ。「紺の海の上に落ちかかる雲」「皮膚の熱をうばって吹く風」とは荒々しい自然の現象そのものだが、思考の飛躍も用意されている。終わりの2節、「とおい国の歌」のとおい国とは他国か自国か、また「旅は冬に終わる」の旅の意味するところも、不意に差し出されたカードにように一瞬視線を立ちどまらせる。旅が単に旅行にとどまらぬことは明らかだ。

「とびうおの歌」 衣更着信

うねりの下にうねりよりも青く生きていた
線条のような柔らかな骨は
プランクトンと潮が作るしなやかな肉ぐるみしなった
撃ちこまれた鉛のようにはやく沈んだ

しぶきをあげて悲しいかもめの啼き声を拒否した
胸びれにはげしく風をはらんで

危険な空気のなかにしばらくとどまった
星にはつづかぬ旅 紡錘形のけなげな不幸

白いぬれた胸に叫びをつめて
燃えつきる蠟燭のように横腹にきらめく太陽

追われ追われて追われることに
つきとおされた嘘のように慣れっこになっていた
死んだとき血も脂肪もなかった

 僕が一番好きな衣更着氏の詩は、同じく『衣更着信詩集』に収められている「とびうおの歌」だ。
 とびうおは大型魚に食べられないために、羽根という武器を身につけ大海原を休む事なく飛び回る。衣更着氏は、全身全霊で詩作に励む自分をとびうおに重ねた。死んだときは「血も脂肪」も残らず、全てを詩に捧げるという切迫した想いが込められている詩だ。
 敗戦で〈荒地〉だった街は、華やかにビルが建ち並らびインフラも整備されているが、そこで生きる人間たちは豊かなのだろうか。1921年度の日本のGDPは世界3位だ。しかし、1人当たりのGDPでは世界24位で、世界幸福度ランキングにいたっては56位である。もはや先進国ではない。敗戦当時は貧しかったが未来や希望を描く事が出来た。犯罪は多かったし、ならず者も多かったが、弱い者をいじめる社会ではなかったはずだ。「荒地」のメンバーたちや多くの表現者たちはファシズムの本質である差別主義に抗うために命を賭けて闘った。
 現代社会は、他者を論破したり、他者にマウントをとる事がカッコいいとされている。若き有識者たちは「勝ち馬に乗る」ために、権力に迎合してファシズムの渦の中に身を置いている。ファシズムからは何も生まれないし、「ことば」の世界が必然とされない。社会の不正や矛盾をカタチにするのが表現者ならば、こんな時代だからこそ、先人たちの様に多くの「ことば」を発しなければならない。
 僕のこころの中は〈荒地〉のようだ。血はドロドロに澱み、腹は脂肪の塊りだ。あの頃の「荒地」に吹いていた風の声を聞きに行きたい。

(2022年1月31日)

詩と差別問題

「メクラとチンバ」 木山捷平

お咲はチンバだった。
チンバでも
尻をはしょって桑の葉を摘んだり
泥だらけになって田の草を取ったりした。

二十七の秋
ひょっくり嫁入先が見つかった。

お咲はチンバをひきひき
但馬から丹後へーー
岩屋峠を越えてお嫁に行った。

丹後の宮津では
メクラの男が待ってゐた。
男は三十八だった。

どちらも貧乏な生ひ立ちだつた。
二人はかたく抱き合ってねた。

この詩は、木山捷平(1904-1968年)が1931年に自費で刊行した第二詩集『メクラとチンバ』に収録されている。
現在では「メクラ」と「チンバ」が差別用語として、メディアに取り上げられることはおろか論じることも憚られている詩だ。
戦前の日本社会は、身分制差別を深く刻み、強者の視点が優先され、差別に対して誰も疑いを持っていなかった。
戦後になっても経済を優先するあまり差別問題をおろそかにしてきたこと、戦前からの天皇制下の官僚が生き残り支配を継続してきたことで、現在になって数々の差別問題や人権問題を引き起こしている。
「メクラとチンバ」は、当時も差別用語であることには変わりはないと思う。詩人や作家は特権階級であり、誰も声を上げることが出来ないので差別用語を使うことにためらいがい起きないのだろう。
詩の内容は「貧しい障がい者どうしが結婚して幸せになった」というはなしだ。
タイトルの付け方から想像すると、この設定はフィクションだと思う。
差別用語も然ることながら、障がい者を使って「共感」や「感動」を生み出す手法は好きではない。
安易な「感動ポルノ」が無くならない限り、差別問題からは解放されるこはない。
木山捷平は中原中也と同時代人であり、大正デモクラシーを通過した人だ。この時代はアナボル連中が虐殺され、血盟団事件などテロルが頻発した「冬の時代」だ。「抑圧的な身分社会を抗うのが詩人の生き方である」と思っている私としてはいささか不満である。

(2022年1月3日)

五輪と日の丸

 五輪という「幻想」に揺れた1年だった。東京五輪は「何」を未来に語り伝えていくのか・・・
 五輪が閉会して残ったものといえば、2度と国際的な陸上競技大会が行われない新国立競技場と、莫大な借金と、永遠に続きそうな増税と、メディアが作り上げた少しの感動物語だ。2人の自殺者を出し、コロナ感染者は入院もできず自宅で死に、今だに「原子力緊急事態宣言」も解除されてないのに、国民を分断させてまで五輪を開催した意味があったとは思えない。強いて言うなら、五輪利権に巣食っているグロテスクな存在を可視化したことが、五輪そのもの意味を考える上で重要なことだったかもしれない。
 五輪の理念とは、国を超えたスポーツを通じて世界平和への貢献である。国別対抗戦でないことが五輪憲章に明記され、国別のメダルランキング表の作成は憲章違反になりかねない。五輪は各国の国威発揚の場とされ「ベルリン五輪のユダヤ人選手排除」、「メキシコ五輪の大量虐殺」など悲劇の歴史があり、その過ちから学んだなずなのにメディアが率先して民族主義・全体主義・排外主義を煽ってさえいるのが現状だ。
 過去には「世界平和は掲げるならば国家・国旗を一切排除するべき」との声がIOCの中から発せられていた。
 五輪における国家・国旗の儀礼の廃止を積極的に提起したのは、第5代IOC会長アベリー・ブランデージ氏であった。ブランデージは自らを「クーベルタンの五輪の理想の真髄の守り手」とみなし、五輪を「商業主義や政治主義」から断固として守り抜く必要がると考えてきた。なぜなら、彼はアマチュアリズムを人生哲学とし、「騎士道の精神、競技者に対する尊敬、徹底したフェアプレーと、すぐれたスポーツマンシップといった精神的価値」に重きを置き、その上で、「競技者はもとより、組織する者も役員も五輪を自らの利益のために利用してはならないという鉄則」を堅持することを信奉したからである。ブランデージはこのような自身のオリンピズム観に則り、五輪は国家間に対抗試合ではなく、あくまで個人の相争う大会であるとして、国家・国旗の廃止を提起したからである。
 五輪の良心だった第5代IOC会長ジャック・ロゲ氏は国旗掲揚について、「五輪は個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と認識しながらも、「私が自由に選択できるなら、国旗を掲げる表彰式より五輪旗を掲げる方を選ぶ。ただ、残念ながら国旗掲揚をやめたら発展途上国のスポーツに対する投資の多くが消える。それが現実だ」と語っている。

「旗」 栗原貞子

日の丸の赤は じんみんの血
白地の白は じんみんの骨

いくさのたびに
骨と血の旗を押し立てて
他国の女や子どもまで
血を流させ 骨にした

いくさが終わると
平和の旗になり
オリンピックにも
アジア大会にも
高く掲げられ
競技に優勝するたびに
君が代が吹奏される

千万の血を吸い
千万の骨をさらした
犯罪の旗が
おくめんもなくひるがえっている

「君が代は千代に八千代に
苔のむすまで」と
そのためにじんみんは血を流し
骨をさらさねばならなかった
今もまだ還って来ない骨たちが
アジアの野や山にさらされている

けれども もうみんな忘れて
しまったのだろうか
中国の万人抗の骨たちのことも
南の島にさらされている
骨たちのことも

大豆粕や 蝗(いなご)をたべ
芋の葉っぱを食べてひもじかったことも
母さんと別れて集団疎開で
シラミを涌(わ)かしたことも
空襲警報の暗い夜
防空壕で 家族がじっと息を
ひそめていたことも
三十万の人間が
閃(せん)光に灼(や)かれて死んだことも
もうみんな忘れてしまったのだろうか

毎晩 テレビ番組が終わったあと
君が代が伴奏され
いつまでも いつまでも
ひるがえる 血と骨の旗

じんみんの一日は
日の丸で括(くく)めくくられるのだ

市役所の屋上や
学校の運動会にもひるがえり
平和公園の慰霊碑の空にも
なにごともなかったように
ひるがえっている
日の丸の赤はじんみんの血
白地の白はじんみんの骨
日本人は忘れても
アジアの人々は忘れはしない

「旗」 城山三郎

旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
社旗も 校旗も
国々の旗も
国策なる旗も
運動という名の旗も
ひとみなひとり
ひとりには
ひとつの命
走る雲
冴える月
こぼれる星
奏でる虫
みなひとり
ひとつの輝き
花の白さ
杉の青さ
肚(はら)の黒さ
愛の軽さ
みなひとり
ひとつの光
狂い
狂え
狂わん
狂わず
みなひとり
ひとつの世界
さまざまに
果てなき世界
山ねぼけ
湖しらけ
森かげり
人は老いゆ
生きるには
旗要らず
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
限りある命のために

 栗原さんと城山さんの言おうとしていることは同じだ。過去の侵略戦争・植民地支配において「日の丸」を国威発揚の道具としてアジア諸国の人々に対し多くの人の生活をふみにじり、死に追いやってきた組織の暴走。同調圧力によって国は正しいと信じ込ませ、人間を皆同じ色に染めようとしてきた人たち。そればかりか戦後もそのことに対して自己保身するだけで謝罪も補償もしていない。そうした日本のあり方を厳しく批判しているのだ。そして、「日の丸」を誇ったり、「日の丸」のために頑張る、というような単純で薄っぺらな発想がいかに愚かで謝ったことか教えてくれる。
 戦争は「特別」だからというはなしではない。東京五輪においても、メディアは盛んに五輪は「特別」だからと繰り返してきた。戦争も五輪も基本的な構造は同じものだし、歴史は真っ直ぐにつながっている。戦後の国民主義は「特別」なことを無くすためにあるはずだ。
 五輪は「日の丸」をナショナルシンボルとして利用し、メダル獲得争いを媒介にして国威発揚を促すことによってナショナリズムを生み出す。そのナショナリズムによって政治的な一体感を創り出そうとする政治界や、商業的利益を生み出だす経済界など、ありとあらゆるもによって利用される大会である。
 国や組織が振る「日の丸」の道具として利用され、自らが盲目的に「日の丸」を振ってはいけない。血に染まった「日の丸」の背後には、自分が優秀であるという傲慢さ、個人の自由を侵害し、自分と異なる人間を排除し、暴力と攻撃の力が隠れている。
 クーベルタンは、1926年にパリで行われた集会の演説で「100年後にもし私は生まれ変わるとしたら、こんどは自らの苦心作(オリンピック)をぶち壊す立場に回るだろう」と未来の五輪を案じるようなことばを残したという。
 2024年の五輪はクーベルタンが生誕したパリの地で行われる。
 あの手この手で延命させてきた現在の五輪は、政治的パフォーマンスに利用され、汚職や不正行為にまみれ、人権問題を引き起こし、自然環境を破壊し、ドーピング問題を引き起こすなど、理念とかけ離れたグロテスクな姿になってしまった。
 五輪開催の有無を真剣に議論できるのは、クーベルタンの末裔のパリ市民たちなのかもれない。

(2021年12月31日)

ハチのムサシは死んだのさ

 1972年に平田隆夫とセルスターズによって歌われた「ハチのムサシは死んだのさ」 という異彩を放った曲がヒットした。
♪ ハチのムサシは 死んだのさ
♪ 夢を見ながら 死んだのさ
♪ 遠い昔の 恋の夢
♪ ひとりぼっちで 死んだのさ
 この曲の原詩は、多くの悪役を演じた俳優であり、小さないきものや自然を紡ぐ詩人でもある内田良平さん(1924-1984年)が、1974年に上梓した第一詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』に収められた「ハチのムサシ」という詩だ。

「ハチのムサシ」 内田良平
ハチの
ミヤモトムサシは死んだんだ
とおい
山の奥の畑で
お日様と果し合いをあいをして
死んだんだ
彼の死骸は
真っ赤な夕日に照らされて
麦の穂から
ポトリと落ちて
やっぱり 確かに死んだんだ
勝てなかったお日様や
やさしく抱いてくれた土の上で
真っ直ぐな顔で
静かに
空を
むいていた

 内田さんは詩作について『おれは石川五右衛門が好きなんだ』のあとがきで語っている。
 「わたしは多少、やけっぱちで書いた。子供が叱られて、カベ板に落書でもするように、詩なんてものはどうせ役に立たないシロモノであるから、自分で楽しけりゃそれでいい、と思って書いた。
 だいたい、昔から文学者が政治家や官僚よりもえらい勲章を貰ったためしはない。少なくとも生きてるうちは、である。だからわたしもその点、勲章つまりこの国の政治から与えられる名誉への情熱ははじめから持たないことにした。
 だから必然的に、その反動として勲章をくれない階層を相手にするべく努力しなければならないと思ったのである。わたしに勲章をくれない相手は子供である。わたしが童謡をそれも、もっとメチャクチャに書こうと思ったのは、そのためである。
 子供はメチャクチャだし、わたしの性格も多少その傾向を帯びている。
(略)
 わたしが虫の詩を書くのは、彼らの方が、ずっとはっきりした顔付をしているからである。ゴキブリなんかは四億年も、たった一つの顔で生きている。日本刀が、斬るという一つの機能をどこまでも追求することによって、あのような美しさを保ちつづけているように、数億年を生きのびてきやヤツの顔をつくづく眺めると、まるで精密機械のように無駄がない。わたしたち人間の顔付ほどアイマイではないのである。
 わたしの想いを託すには、人間たちの行為や姿態よりも、彼らのほうが、ずっと、たしかであろう。それに虫たちは、子供のころからの仲間で気心が知れている。虫たちは、人間よりも、もっとぜい肉を削りとった人間の姿をして、わたしの前に現われてくれる。虫を前にして、またしても私はメチャクチャになることができたのである」

 「ハチのムサシは死んだのさ」 がヒットした理由として、当時の学生運動を示唆した楽曲で、〈ハチのムサシ〉という一人の青年が国を変えようと国家という〈太陽〉に挑戦して焼かれて死んで落ちたという内容が大衆の共感を呼んだことだという。現在は学生運動の時代も過ぎ去り〈ハチのムサシ〉は、革命的マルキストではなく、戦闘的エコロジストとしてこの曲を聴くことができる。
 資本主義社会の欲望は、自然環境を取り返しのつかない事態にまで破壊し続けている。
 世界食料の90%を受給する100種の作物のうち70種以上がミツバチによって受粉しており、昆虫や他の動物による花粉交配は世界の食料生産にとって必要不可欠なものである。しかし、ネオニコチノイド系の農薬のために多くのミツバチが殺されている。2017年にヨーロッパ連合では「フィプロニル」が全面禁止されたが、日本では今でもあちこちの田畑でネオニコチノイド系の農薬が使われている。
 2018年5月15日の農林水産委員会で、農水省の消費・安全局長は、野党議員から、ネオニコチノイド農薬とミツバチ大量死の関係や、世界で規制が進んでいるのに日本が逆行する理由を聞かれ、こう答えている。
 「大丈夫です。日本ではミツバチの大量死は、まだ年間50件程度しか出ておりません」
 農水省農薬対策室は、「国内で使用できる農薬は安全性が確認されたもので使用基準を守っていれば問題ない」という見解だ。ネオニコチノイド生産メーカーである住友化学も同様に、科学的根拠はないとして、その危険性を否定した。
 因果関係が証明されてからでは問い返しがつかないと、食と環境と国民の命を守ることを優先して予防的措置を取っているのが世界の国々であり、50軒もの農家でミツバチが大量死しても、農家のために農薬は必要だと言い続けているのが日本政府である。
 農薬使用大国ニッポンに生まれた「農薬ムラ」の主要な構成員は、農薬にお墨つきを与える農水省と、農薬を製造するメーカー、それを販売する農協などであり、これを農林族議員が支えている。
 農協は、農水省にとって行政の窓口となり、政治家にとっては集票マシーンとなる。見返りとして農水省と農林族議員は農協や農薬メーカーに有利な行政をし補助金を流す。農協とメーカーは天下り官僚を受け入れる。ムラの住人たちはこのような関係で結びついている。
 2021年5月12日に農林水産省は、持続可能な日本の農林水産業を目指して「みどりの食料システム戦略」を策定した。2050年までに化学農薬を半減するなど「低農薬への転換」を掲げたが、2050年ではあまりにも遅い対応である。
 ミツバチがいなくなれば農業そのものができなくなることを、農薬ムラの人間たちは気づいているのだろうか?
 この先、どれだけの〈ハチのムサシ〉が殺されるのだろうか?

 内田さんの詩作において〈海〉も大事なテーマのひとつである。
 没後、友人たちの手で編まれた『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』から4遍の詩を・・・

「かもめ」 内田良平
何があるだろう、だが、
行かねばならぬ、なお、
おれもかもめも。
母と、あしたと望郷を
口にくわえて、
ひと目見知らぬ今日を
飛び交う。
空の向こうは空、
海の向こうも海……なのに。

「たった一つ……」 内田良平
たった一つしかない。
海はかけがえがない。
誰が何と言ってもたった一つだ。
おれは叫ぶ
だがそれも
誰にも届かないひとりごとだろう。
手をひろげて 海は切り刻まれてた体を
投げ出して笑っている。

「海」 内田良平
小さく生きよう
小さなことは恥ではない

渚や 海水の中の生きものたちのように

ただ自然を信じる
いっさい海に向かって
小さく生きて終わろう
無と同じもの か……
打ち続く この波や 風や雲
草や光と同じはるかに流れ行く
それなら同じ
魚たち
おれのゆくえも知ることはない

「傷ついて……」 内田良平
傷について、ひざつき 首をたれれば
死は近く。
海のとおく
さらに とおいものを 見ようとしよう。
いける場所はありはしない。
ねがうは 荒れ立つ波の向こうに
すべてを超えるもののあるを。
風強いふるさとにたどりついて、
波をみて、死近く、首はたれ、
海はおれを生んでまた
おれを むかえてくれる。

 内田さんにとって〈海〉とは、母であり、故郷であり、生命を生み出す根源的なものでもある。今の自分を生かしている存在が〈海〉ということばで表現されている。
 「海はいいよ……海は」「こいつだけは変わらない。こいつだけは変わっちゃいけないんだ」と日ごろ友人に語っていたという内田さんは、故郷の銚子の自然破壊を憂えて、銚子市長選へ出馬を考えたこともあるという。

 海はゴミや生活排水で汚染され海洋生物が死に、大気は車の排気ガスや工場から排出される有害物質で汚染され鳥が死に、大地は農薬や森林伐採で汚染され動植物が死んでいる。そして、福島第一原子力発電所事故により排出された放射性物質が、海・大気・大地の汚染をさらに加速させている。
 地球上の生物、海、大気、大地などは相互に連携し、密接に関係し合いながらそれぞれの地域で生態系を構成し、そのバランスを保っている。生態系の一員である人間にとっても同じことがいえる。生態系から独立しているかに錯覚しがちな現代の人間社会も、多様な生物の働きから成る生態系という地球の営みの中でしか生きられない。
 内田良平という詩人が殺される側の小さな生き物の視点に立って世界を見ていたように、私たちも少しだけ立ち止まって、小さな生き物を追いかけ回していた子どもの頃を想いだし、小さな生き物の声、海や大地の声に耳を傾けなければいけない。

(2021年12月13日)

親分はつらいよ

——生まれはミナミの国、灰郷(はいごう)と発します。肥後熊本・銀杏城下がります。白河の片ほとり、21歳のとき郷里熊本を飛び出し、一天地六の賽(さい)の目に振り出されたる刹那主義、純情もセンチメンタルも空吹く風に吹き飛ばして、晒の木綿を胸高に巻き、雪駄履き、ただ今では、大東京の屋根の下、都の西北、早稲田の森は片ほとりに仮の住まいをまかりおります。縁持ちまして片親と発しますは、会津家四代目松葉式、従います若い者にございます。姓名と発します。失礼さんでございます。姓は坂田、名は浩一郎、通称〈わがりやの浩ちゃん〉と発します。今日向面態(きょうこうめんてい)お見知りおかれまして昵懇(じっこん)に願います。

 この「メンツウ」の主は詩人親分と知られる会津家本家五代目・坂田浩一郎氏のこと。
 会津家とは靖国神社や高田馬場の穴八幡を庭に露天商を営んできた香具師(テキ屋)である。メンツウとは初対面のときの挨拶であり、俗にいう「仁義」と同じ意味である。
 坂田氏は熊本の郷里にいたころは同人誌『詩火線』『亜細亜詩風』などに所属した詩人である。21歳で上京後は小さな出版社に勤めたが倒産し、円本や同人誌を仕入れて牛込の山吹町に露店を出した。ただ、並べて置いただけではでは能がなさ過ぎるので〈全国同人誌即売会〉の看板を掲げて売った。界隈には複数の大学がありよく売れた。但しその一帯は会津家の庭場で、兄貴分の口利きで同一家に入門した。最初の3年間は「稼ぎ込み」と呼ばれる見習い期間、正式に盃を受けたのは5年後くらいだった。伝統的な修業の後、実子分(親分候補)に選ばれ、跡目実子(次期親分)になったのは戦後のこと。
 詩界では日本歌謡芸術協会、日本詩人連盟に所属し、詩集『火の国の恋』を出している。

「孤独と貧乏」 坂田浩一郎

男ひとり
酒を飲んでいる
生活に疲れている
男は孤独に泣きながら
酒を飲んでいる

貧乏の苦しさの中に
思考も散漫としていて
絶望の底に沈む

こんなとき
うしろに女の声がする
ひからびた女の声がする
——あんたに意気地がないんだ——
という

 野村克也氏は「リーダーは孤独なくらいでちょうどいい」という。南海のプレーイングマネージャー時代から楽天に至るまで、一度たりとも選手と食事に行くことはなくグラウンド以外で親睦を深めることはまったくしないことを信条としていた。その理由は、「監督が持つべき厳しさがゆるむからだ。「かわいがっているから多少打てなくてもいい」。仲良くなれば、こうした人情が働くのは当然のことだ。ならば、最初から互いの距離を近づける必要などない。むしろ近づくことで、いうべきことがいえない関係性を築いてしまうことになるわけだ」とのこと。
 坂田親分は一家の頂点である。だから周囲者に苦悩や愚痴をこぼすことはできない、そんなことをすれば自分の弱みをさらすことになるからだ。親分は孤独であり、心の中は常に無常観や虚無感に包まれている。うしろから女性にハッパをかけられ自分を奮い立たせて生きていたのかもしれない。親分もつらいのだ。

参考資料
『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』猪野健治(筑摩書房)
『やくざ・右翼取材事始め』猪野健治(平凡社)

(2021年5月14日)