Do it oneself !

 キュビズムは時間と空間をぶっ壊した。
 岡本太郎の言葉は、過去の封建的な時間と現代の閉塞的な空間をぶっ壊してくれる。
〈「お互いに」とか、「みんなでやろう」とは、言わないようにしなければいけません。「だれかが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、いつかはきっとそうなる」「徐々に」という、一見誠実そうなもの、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければらないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものなら、かならず現在ある。だからこそ私の将来のことでも、現在全責任をもつのです。〉
 去年、東京都美術館開催された「展覧会 岡本太郎」には多くの若者が訪れていた。歴代の日本画の巨匠たちが展覧会を開催しても多くの若者が訪れる事はないだろう。それは、画壇の権威によって位置づけられた芸術家に魅力を感じないからだ。
 真っ逆さまに落ちていく日本経済。現政権は「未来」に向かうのではなく、ひたすら失敗した「過去」に戻ろうとしている。未来を描けない時代にあって、自分の未来を描く為には、封建的・既得権益的な不平等の壁をぶっ壊して前に進まなければならない。ぶっ壊したその先に見えるものこそ本質である。
 岡本太郎は常に「瞬間」を生きろと言う。その瞬間の純粋な気持ちが大事であり時間がたてば打算的になる。純粋な気持ちこそが自分自身が持っている形而上的なエネルギーなのだ。
 
 
いつ死んでも悔いはない。他人におべっかなんて使わない。 岡本太郎
ぼくはいつ命がなくなってもかまわない。
たったいま死んでも悔いのない、瞬間瞬間を生きてきたつもりだ。
火山が猛烈にふき出して、あとは静かになってしまうような、命がの燃焼が大切なんだ。
他人におべっかなんか使わない。
自分のプライドに納得のいく生き方を選ぼうと思う。

瞬間瞬間を運命にかける。 岡本太郎
健康法なんか考えないことが、いちばんの健康法だ。
よく人間ドックに入って、自分のからだの悪い部分を調べる人がいるけど、
あれはムリして病気を探しているようなものだね。
自分自身を信頼していない証拠だ。
そんなことはいっさい考えないし、気にしない。
健康、不健康なんて条件を問題にしないで、瞬間瞬間を運命にかける。
肉体、精神ともにつらぬいて生きているという自信が、まず、大切だ。
ぼくはいつでも絶対的に生きている。

人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。 岡本太郎
人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。
思春期には未知の人生への感動として、
なまなましくその実感がある。
しかし中年以降、とかくその意気込みがにぶり、
いのちが惜しくなってくる。
堕落である、つまらなさだ。

生きるときに生き、ひらくべきときにひらけ。 岡本太郎
くりかえしていう。
人間の運命は。その文化の素晴らしさは、
それが猛烈におこり、また滅びる、いわば瞬間瞬間に情熱的にひらき、
そして悲劇のなかに、栄光のなかに崩れ失われてゆくとこにある。
性急な語調にように、またため息のように、
透明で太いリズムで流れ、ひろがってゆく美しさなのだ。
生きるときに生き、ひらくべきときにひらく。
その瞬間に、純粋に生きる。
壊れるな壊れてもいい、と心をきめた方がさわやかではないか。

結果なんて考えない。 岡本太郎
結果にこだわるからなにもできなくなる。
もしこうしたら、こうなるんじゃないかと、あれやこれや自分がやろうとする前に、結果を考えてしまう。
誠実に、その瞬間瞬間にベストをつくしたんなら、結果なんていっさい考える必要なし。
大切なのは、運命をつらぬいて生きることだ。

いくつになったら、なんて考えるな。 岡本太郎
男は四十になったら自分に顔に責任をもて。
よくもったいぶってそんなことを説教する奴がいる。
四十になったら自分の顔に責任をもて、とはつまり、その歳になったら一人前の人格をもて、というわけだ。
ぼくはそれを聞くと腹が立つ。じゃあ、それまでは顔に責任をもたないのか? 人格がなくていいのか?
人間はどんなに未熟でも、全宇宙を背負って生きてるんだ。
自分の顔に責任をもって生きるとは、
この瞬間瞬間において、若さとか、老年とかいう条件を越えて、
未熟なら未熟なり、成熟したら成熟したなりの顔をもって、
精いっぱいに挑み、生きていくということだ。
いくつになったら、という考え方が人間を堕落させるんだよ。

死ぬのもよし、生きるもよし、すべて無目的、無条件。 岡本太郎
この世の中で自分を純粋につらぬこうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、かならず絶望的な危険をともなう。「死」が現前する。
惰性的にすごせば、死の危機感は遠ざかるだろう。だがむなしい。
死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。
今日、ほとんどの人が純粋な生と死の問題を回避している。
だから虚脱状態になるのだ。
個人財産、利害得矢だけにこだわり、ひたすらマイホームの無事安全を願う、現代人のケチくささ。卑しい。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだと思う。
死ぬのもよし、生きるもよし。それが誇りだ。
ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。

眼の前に瞬間があるだけ  岡本太郎
眼の前にはいつも、なんにもない。
ただ前に向かって身心をぶつけて挑む、瞬間、瞬間があるだけ。
頭のいいやつは、ちゃんとはるか先までの道を見とおしてしまう。
いつもできている道、そこを賢くたどって進んでいくのだ。
つまらないだろうなと思う。
うまくやっていればいるほど、道の方が先に仕上がっている。
こちらは逆に、前途いつもお先真暗なのだ。
ナマ身でぶつかり、転げていく。
幼い時から、ずっとそうだった。
空しさに耐えながら、逆にうれしく、やってきた。

引き裂かれる  岡本太郎
私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。
「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相克する。
「反」の内にまたと闘争する「正」がゆるぎなくある。
その矛盾した両極は互いに激烈に挑みあい、反発する。
人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。
対極は、瞬間だ。
だから私は「合」を拒否する。
現在の瞬間、瞬間に、血だらけになって対極のなかに引き裂かれてあることが絶対なのだ。
 
 
 岡本太郎のように、自分自身に妥協せず誇り高く生きることは出来ないだろう。しかし、太郎は教えてくれる。「弱くてもいい、失敗してもいい、かっこ悪くてもいい、負けたっていい。君は君のままでいい。弱いなら弱いまま、たったひとりの自分をつらぬいて生きる。それでいいじゃないか。誇り高く生きてみろよ!」と。
 岡本太郎は18歳で渡仏した。絵画だけでなくパリ大学で哲学を学び、ニーチェから強い影響を受けている。もしかしたら、多くの言葉は負けそうな自分と向き合った中から生まれたものかもしれない。生涯をかけて語った多くの言葉は、僕たちに「今やらなければならない事」を教えてくれる。
 美術館に行けば多くの作品と出会う事が出来るし、書店に行けば多くの言葉と出会う事が出来る。それよりも、瞬間を生きれば岡本太郎の声が聞こえてくるのだ。瞬間という永遠を岡本太郎と共存する事が出来るのだ。
 
 
ぼくはきみの心のなかに生きている。 岡本太郎
ぼくはきみの心のなかに生きている。
心のなかの岡本太郎と出会いたいときに出会えばいい。
そのときのぼくがどんな顔をしているかは、きみ次第だ。
ぼくはきみの心のなかに実存している。
疑う必要はいっさいないさ。
そうだろ?

参考文献
『孤独がきみを強くする』 岡本太郎 興陽館
『強くなる本』 岡本太郎 興陽館
『自分の中に毒を持て』 岡本太郎 青春出版社

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です