中桐雅夫の「聖なる瞬間」

 年越しの大祓は歩いて浅草寺に向かう途中の、セイタカアワダチソウが生い茂ったようなビル街を歩いていた。星もない寒空を眺めたら、中桐雅夫さんの詩「新年前夜のための詩」が頭に浮かんた。

「新年前夜のための詩」  中桐雅夫

最後の夜
最初の日に向う暗い時間
しずかに降る雪とともに
とおくの獣たちとともに在る夜
さだかならぬもの
冷たくまたあわれなすべてのもののなかに
形づくられてゆくこの夜

ちいさな不幸が窓ガラスをたたき
人間の眼は灰の悲しみに光る
最後の歌は地をおおい
闇のなかに 聖なる瞬間はしだいに近づいてくる
死と生とが重なりあうその瞬間
「時」のなかのそのちいさな点が
われわれに襲いかかってくるまえに
なにかなすべきことがわれわれに残されているだろうか

おお その聖なる瞬間
われわれはただ知らされるのだ
すべての偉大な言葉はすでに言いつくされ
生の約束も死の約束の変形にすぎないことを
おお その聖なる瞬間
あすに向って開かれたドアからは
すべての未来が流れこみ
室内は水晶と闇の光に輝く
おお その聖なる瞬間
わたしは忘れ わたしは忘れ去られる
死骸が墓のなかに落ちこんでゆくように
わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
わたしの細く深い海峡のなかに
わたしの暗いあすのなかに

 この詩について、三好豊一郎氏が解説している。
〈「新年前夜のための詩」は『荒地詩集』1951年版に発表、好評だったものである。好評だったゆえんは、時代に対するペシミズムがニヒリズムに堕すことなく、その底から生きるに値する精神的基盤を強く求める姿勢を、生と死の二律背反の形にとって、より高次の形而上世界、この詩でいう「聖なる瞬間」に体験(――への志向)を跡づけた詩的表現として、成功したからであった。〉

 1945年、戦争で傷を負った若き詩人たちは「荒地」に立ち尽くした。彼らは、その傷痕をひたすらに見つめ、そこから滴り落ちる血で詩を書き始めたという。彼らは、戦争で死んだ者たちの声を聞き、戦争で失った自己の回復と再生を求めて「荒地」を歩き続けた。
 1964年、中桐雅夫さんは第一詩集『中桐雅夫詩集』を刊行し、冒頭に「新年前夜のための詩」を載せた。この詩は詩人中桐雅夫の決意表明であり、「死」は大きなテーマでもある。中桐雅夫さんにおける「死」とは、ドロドロした血なまぐさいものではなく観念的な世界だ。「新年前夜のための詩」の「聖なる瞬間」とは、次の載せた詩の「ある価値」に示された死者たとちと対話する祈りの世界だ。

「ある価値」  中桐雅夫

ある価値
それは奪うことはできない
それはそこに見えるものである
それは触知し得ざるものである
消えてゆく十字路のごときもの
消えゆく砂漠のごときものである

 「わたしををして人間たらしめよ
 すべてのものを意識せしめよ
 夜明けに輝く海辺のひとつの石を
 その移ろいの一切の過程を

 「私をして歌わしめよ
 つねにひとりで 誇高く
 わが心を貫ぬく光を
 わが心を貫く闇を

市と王座と権力とは時の眼の中にある
そしてこの地上に
ふたたび市の栄えることはない
虧けた月がまた満ちても
乾いた河にまた水が満ちても
王座と権力とがふたたびその場所をもつことはない

死はいろいろの言葉で語る
死は歓びの声をもつ
死は天の青春である
死は枝の炎である
死は一個の卵である

 「わたしをして死なしめよ
 死せる乞食は生ける王より偉大である
 わたしをして死なしめよ
 死せるものは生ける何ものより偉大である

 「わたしをして土たらしめよ
 一握りに足らぬ土たらしめよ
 わたしをして人間たらしめよ
 わたしをして歌わしめよ   

ある価値
それは奪うことはできない
それは支配しないものである
それは支配されざるものである
はるかな雪のごときもの
はるかな顫えのごときものである

 中桐雅夫さんが「新年前夜のための詩」を発表したのは32歳の時だった。僕が32歳だったのは1993年。バブル経済が崩壊して数年後ということになる。
 1990年代とは、敗戦後の日本人がむしゃらに働いて築き上げた「安定」と「安心」が、芋づる式に「崩壊」した時代だった。阪神・淡路大震災で街が壊れ、オウム真理教が地下鉄でサリンをばら撒き、北海道拓殖銀行・山一證券などの大企業が経営破綻、55年体制は崩壊し、もんじゅと東海村で原発事故、O-157・狂牛病・ダイオキシン・環境ホルモンなどの問題が起きた。その結果、長時間労働、リストラ、非正規雇用、就職氷河期(就職難)、少年犯罪、いじめ・引きこもり、メンヘラなどの問題が表面化した。その反面、経営不振に陥った大手金融機関はゾンビ化して生き延びた。税金を使って国民にツケを押し付けたということだ。この時代、社会の底が抜けて年間自殺者数の3万人以上が吸い込まれていった。それ以降、年間自殺者数3万人以上が13年間も続いたことを考えると、救われる「命」と捨てられる「命」が可視化されたことが、最もこの時代を象徴している。間違いなく言えることは、ゾンビ化した者たちが支配する社会の中で、指定席を奪い合う闘いをしている限り、この国はどこまでも転がり落ちるということだ。
 90年代はどのようにバブル崩壊を迎えたかによって風景の見え方が違ったと思う。僕の90年代は「平坦な戦場」から「嶮岨の戦争」のようだった。転がり落ちることはなかったものの、ヒエラルキーが低く、決まった指定席もなく、小さな地雷は難度も踏んだ。バブル崩壊後は、誰もが大きな「物語」を生きることが出来ず、小さな「物語」を生きなければならなかった。もともと小さい「物語」しか生きられない僕にとっては、ある意味よかったと思う。小さな「物語」の本質でもある「見たいモノしか見ない」という世界は、サブカル・アングラバカの者としては望むところでもある。それよりも、僕によっての1990年代とは、尾崎豊、江戸アケミ、カート・コバーン、GGアリン、佐藤泰志、山田花子、見津毅が死に、岡崎京子が交通事故で創作を中断せざるを得なかった時代だった。まるで自分がたった一人で焼け野原に立たされているような喪失感を味わった。日本はタテ社会であり常に上からの抑圧を受ける。抑圧に抗って生きてきた彼らの作品は、僕が小さな物語を生きる上ではかけがえのないものだったのだ。
 築き上げていく時間は永いが、崩れ落ちていく時間は短い。あっという間に「失われた30年」だ。経済格差は広がり、いじめ・引きこもりも多く、今度は原発が大爆発し、社会は今にも転がり落ちそうだ。相変わらず僕はヒエラルキーの底にいる。しかし「失われた30年」の間ずっと、転んでも怪我をしないように受け身の練習をだけは今でも欠かさないで続けている・・・。

 年越しの大祓の帰りは護国寺を抜けて池袋を通ってきた。サンシャイン60のビルが卒塔婆のように高く聳えていた。かつてこの場所には巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)があった。第2次世界大戦で勝戦国のアメリアによってA級戦犯として処刑された人間と、日本を統治するための道具として処刑を逃れた人間が選別された場所だ。1945年の敗戦後の社会とバブル崩壊の社会は、生き延びたゾンビたちが跋扈する社会という構図はまったく同じだ。
 荒地派の若き詩人たちは、戦後の状況を絶望と死の影にみちた荒地と認識し「破壊からの脱出、亡びへの抗議は僕達にとって自己の運命に対する反逆的意思であり、生存証明でもある」と敗戦後の生き方を誓い合った。
 僕はマリオゲームのように何度も足を踏み外したが、何度も受け身の練習を重ねリセットをするように生き抜いてきた。荒地の詩人たちが「生存証明」するために死者との対話が必要だったように、僕も90年代に死んでしまった表現者たちとの対話をすることが、デタラメな社会に対する反逆的意思であり、生存証明でもあった。「僕だけでは生き抜く」ことはできないが「僕たちとなら生き抜く」ことができる。僕の未来は前にあるのではなく後ろにある。彼らと一緒に転がり落ちないように踏ん張って歩んできた「荒地」に刻んだ足跡の中にあるのだ。

「きのうはあすに」  中桐雅夫

新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?

河島英五を聴きながら(2)

「ノウダラ峠」 河島英五

こんもりと繁った大木の 木陰に腰をおろしている
山の方から気持ちのいい 風が吹いてくる
幾頭かの馬の列が背中に荷物を背負って
鈴を鳴らしながら通り過ぎて行く
幾つもの山を越えてきた ノウダラ

ワラぶき屋根とドロ壁の家 笑い声をあげる子供たち
谷川の水を水瓶につめて 山を上って来る娘たち
太陽に照りつけられて流れる汗と土にまみれ
生きものたちに囲まれて生きてゆく人々よ
幾つもの山を越えてきた ノウダラ

何かを求めて旅に出た 僕にとっては この村が
ただの通りすがりではなく 何かを感じさせた人もいれば
何かを捨てて旅に出ることを 願う人もいるだろう
幾つもの山を越えてきた ノウダラ
幾つもの山を越えてきた ノウダラ

「ノウダラ峠」は河島英五が1980年にリリースしたアルバムの『文明 I』に収録されている。『文明Ⅰ』から『文明Ⅲ』のシリーズは、世界中を旅した際の心緒を唄ったアルバムであり、旅を通して自分の在り方を綴った記録でもある。
1980年代といえば僕は完全に落ちこぼれていた。僕の周辺に生きていた者たちもみんな落ちこぼれていた。僕たち落ちこぼれは先を競うようにインドやネパールへ「自分を探し」の旅をした。
「ノウダラ峠」はネパールのポカラからダンプスに向かうトレッキングコースの途中にある。ダンプスはトレッキングビザが必要のない手軽に行くことが出来るトレッキングコースだ。ダンプス、ノウダラは生活圏で、笑い声をあげる子供たちや山を上って来る娘たちとの出会いがある。
思えば20歳代は世界を放浪ばかりしていた。僕が中高を過ごした70年代後半は、「管理教育」や「体罰」などの抑圧的な指導が恒常化されていた時代だった。管理社会の中で強く抗がえば落ちこぼれてしまう。挫折感、劣等感を身に纏い、矮小な自分を大きく見せることが放浪することだったのかもしれない。自分を探しに〈此処ではない何処か〉にたどり着いても、其処は単なる〈場所〉でしかなく、また違う〈此処ではない何処か〉を探しに行く事の繰り返し・・・。自分が変わらなければ何も変わる事がないと気づいたのは、フリーランスとして仕事を始めた29歳の時だった。
この時間が無駄だったとは思わない。生きものたちに囲まれて生きてゆく人々たちの、人間的なものに触れる事によってやさぐれていた心を溶かしてくれた。頭で考えるよりもクタクタになるまで歩き、足で感じた思考は唯一信頼できるものだったのだ。
今は毎週にように5時間くらいモノであふれた東京の街を歩いている。
クタクタになれば景色が変わってくる。
笑い声をあげる子供たちや山を上って来る娘たちが瞼に浮かぶのだ。ウフフ・・・。

♪ 山よ河よ雲よ空よ
風よ雨よ波よ星たちよ
大いなる大地よ はるかなる海よ
時を越える ものたちよ
あなた達に囲まれて 私達は生きてゆく
たった一度きりの ささやかな人生を
くり返し くり返し ただひたすらに
くり返し くり返し 伝えられてきたもの
くり返し くり返し 伝えてゆくんだ
くり返し くり返し 心から心へ
心から心へ 心から心へ
(『文明Ⅲ』「心から心へ」より)

酒井英行 2

1987年頃のノウダラにて(撮影:酒井英行)


酒井英行 1

1987年頃のカトマンズにて(撮影:酒井英行)


酒井英行 3

1987年頃のポカラにて(撮影:酒井英行)

僕の居場所などあるのかい?

 僕はあまりにも歳を重ねてしまったようだ。
「僕の居場所などあるのかい?」という萩原慎一郎さんの切実さを、若い頃の自分に重ね合わせることをしてしまう。乗り越えてもいないし、強くもなってもいない。ましてや未だに居場所を見つけた訳でもない。強いて言うなら自分の時間との折り合いを付けただけにすぎないだろう。
 萩原さんは「非正規の歌人」という、嬉しくないような呼ばれ方をしている。
 1990年代前半、転がせるものは何でも転したバブルのドス黒い欲望は瞬く間に崩壊した。負債を抱えた企業が求人を控えたために、多くの若者は就職することが出来なかった。閉塞した社会の中で、規制緩和利権の政商たちが合理化を目的に推し進めたのがネオリベ社会だった。誰もが負けると分かっている競争をさせられ、自己責任の名のもとで犠牲になったのが多くの若者だった。この時代の若者たちのことを「就職氷河期世代」や「ロスジェネ世代」と呼んでいる。
 大人社会の出来事は、子ども社会においても必ず投影される。「いじめ」「ひきこもり」「メンタルヘルス」「ネット心中」など、多くの子どもの「生きづらさ」を表す悲しいワードが大きな社会問題になったのがこの時代だった。
 ロスジェネ世代の雨宮処凛さんは当時を振り返り語っている。
「団塊ジュニアとか貧乏くじ世代とか就職氷河期世代とかロストジェネレーションだとかいろいろな呼び方があるが、どれもロクなものではない。また、学生時代はベビーブームで子どもが多いことから苛酷な受験戦争を戦わされ、管理教育のなかで教師からの体罰などを当たり前に経験し、時代的に校内暴力の嵐が去ってイジメが蔓延していた、という書けば書くほどいいことがない世代だ。おまけに自らが社会に出る頃にはキレイさっぱリバブルが終わり、長い長い不況に突入したにだからたまらない」
 同じ世代の萩原さんも中学校から高校と長期間に渡っていじめを受け、大学在学中はいじめによる後遺症に悩まさた。大学卒業後は非正規で働きながら表現活動をしていたという。

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼を食べる   萩原慎一郎
非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ   萩原慎一郎
逃げるわけにもいかなくて平日の午後六時までここにいるのだ   萩原慎一郎

 バブル崩壊もネオリベも外圧によるものだった。米国に従属して転がされ続ける日本社会の始まりであり、卑屈に生きさせられてる日本人を意味するものだった。誰もが犠牲者であり共闘しなければならないのに、一部の支配層によって職場や学校などの社会の中で、競わされ、分断させられた。誰もが自分を守るために弱い者を探して攻撃するような排他的な社会へと変り果ててしまった。一九九八年から十四年連続して日本の自殺者数は三万人を超えている。〇三年の自殺者は三万四四二七人で統計史上最多だった。〇二年から、二〇代、三〇代の死因の一位は、現在に至るまでずっと自殺である。
 萩原さんは「生きづらさ」から抜け出すために必死に何者かになって自分を変えようとした。自分が解放され認められる「居場所」が、短歌という表現の世界だった。萩原さんの何者かなろうとする切実さは痛いほどわかる。しかし、周りが自分を受け入れてくれような「居場所」に過剰に依存しすぎれば、その「居場所」を失わない為に無理をしてでも必死に守らなければならない。それは同時に、自ら命を絶った多くの表現者たちのように「殉教の死」を意味するものでもある。萩原は時代の犠牲者だったかもしれなが決して敗者ではない。強いて言うならば敗者とは卑屈な社会であり、卑屈に生きている者たちだろう。
 バブル崩壊から経済が回復しないまま「失われた30年」を迎えている。日本が従属し続けるのであれば「生きづらさ」はまだまだ続くだろう。近年のコロナ禍ではセーフティネットの脆弱さが露呈するように、女性と小中高生の自殺者が急増した。これは「生きづらさ」を表す日本社会を象徴しているものだろう。そして、これからの労働環境はAIの急速な進歩によって、今ある仕事の半分は無くなると言われている。若者たちは、生き残りを賭けた椅子取りゲームを競わされることになる。卑屈な社会の中で、卑屈に生きないためには、他人を攻撃するような内向する無軌道な怒りのエネルギーを、しっかりと自分の言葉として外に向けて表現するように社会を変革しなければならない。
 萩原さんが遺した『歌集 滑走路』は決して絶望の物語りではない。苦しみや悲しみを乗り越え、新しい何かを見つけ出そうと格闘した物語りなのだと思う。

冬空の下で切なくなったりもするよな それを乗り越えてゆけ   萩原慎一郎
真夜中の暗い部屋からこころからきみはもう一度走り出せばいい   萩原慎一郎
きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい   萩原慎一郎

参考文献:『歌集 滑走路』 萩原慎一郎 KADOKAWA

二人の「夏の果て」の物語

 優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと思っている。
 コラムニストの小田嶋隆さんは、視点を左や下に少しずらし、人間社会の現象を分析する。
 多くの本を出している小田嶋さんであるが、二十代の後半の頃は半失業者のような苦しい生活だったという。そんな状況だったにも関わらずポジティブでいられたのは、高校・大学の同期生であり親友の岡康道さん(クリエイティブ・ディレクター)が、自分の事を評価してくれてたからだと語っている。

「夏の果て」 小田嶋隆

夏の雲が立ち上がるのを見上げていたぼくたちは、十六歳だった。
いいや、そんなのはウソだ。わかっている。
ぼくは十六歳ではなかった。
あらためて、記録に沿って数え直してみれば、おそらく、ぼくは十五歳だった。
それも、いまとなってはあやしい。
なぜなら、あの時、あの場所にいたかもしれない人間たちは、ひとり残らず、この世の者ではないからだ。

ぼくたちがよく知っていた夏に、ビーチ・ボーイズは鳴っていなかった。
当然の話だ。よくわかっている。
その代わりに、ぼくの目にうつっていたのは、灰色かかった砂と、その砂を濡らす不潔な出所不明の水流だった。
そこからやってくるのか、そのかぼそい流れは、砂浜を隠れるように逃げてまわり、最終的に波打ち際まで届いていた。彼方には、赤く錆びた色の缶と、そのまた向こう側に消えていく蟹の小さなハサミが揺れ動いていた。
どこからどう眺めても、美しい景色ではない。
それでも、日差しが一番激しい音を立てる時刻がやってくると、夏は比類のない季節である実感を残していった。

夏は、かたちどおりにやってくるものではない。
それは、いつだったか誰かが耳打ちしたとおり、本当のことだ。
でも、春夏秋冬と、四通りあるはずの道すじのうちで、夏に至る道程だけが、必ず、はるかに遠い高みで、特権的にわれわれを待ち構えていた。
どうして夏だけが、いつもあんなふうに、ウソそれ自体のまばゆさに満ちあふれながら、けっして手の届かない場所で輝いていることができるのだろう。
春・夏・秋………と、折り重なる季節の中で、夏だけが、どうしても手の届かないはるか彼方で輝いているその理由を。
もちろん、こんな話はウソだ。しかも間違っている。
夏だけが特別なわけではない。
すべての一日は等価で、しかも無意味だ。
これがぼくのたどりついた結論で、それを証明することがぼくの生活だった。
白色レグホンの無精卵みたいに等価で無意味な一日。そしてまた、おなじ一日。それらを無造作に積み上げて、積み上げたままに突き崩すのが、すなわちぼくの日々であり、義務でもあった。
でも、それにしても、どうしてあの夏の日々は、ありもしなかったことがはっきりとかわってしまったあとになっても、あんなに美しく輝いて見えたのだろうか。
同じように並べられ、繰り返される日々の退屈さと、それらの日々が本当に価値あるはずの時間をむしばんでゆく感覚に、ぼくたちは苦しめられていた。
それが若さだということに気づいた時、ぼくは、自分がもうなにも手に入れられないことをしみじみと知った。
ところが、なにも手に入れることができず、ひとつとして持ちきたえられていないのに、それでもにかを失うことだけはできた。
そして、それこそが、夏雲の向こう側にわれわれが仮定していたものの正体だった。
二度とかえってこないというそのことだけが、日々を特別な瞬間に変える魔法だったことを知った時、ぼくの時計は過ぎ去った時刻を指していた。そして、なんということだろう。きみの時計はゆっくりと動きを止めようとしていた。
「くだらない趣味だけどさ」
と、言い訳をしながら、見せてくれた雨水色の腕時計のことを、ときどき思い出す。
「こういう時計は、いったいどこの時間を指しているものなんだ?」
と、水を向けると
「ずっとむかしの、おまえが知らない時間だよ」
と言って笑った。
その時間に向かってぼくも歩きはじめている。また会おう。
はるかな、夏の果てに、待っているかもしれない、あの時間の中で。
(二〇二一年八月六日)

 この詩は、小田嶋さんが岡さんに贈った鎮魂詩だ。
 岡康道さんが二〇一三年に発表した自伝的小説『夏の果て』を、後年に小田嶋さんが読んで呼応するかたちで発表したものだ。
 岡さんの小説『夏の果て』に登場する「若松」が小田嶋さんの事である。
〈若松は、コンピューター関連のカタログや入門書や翻訳を膨大にこなしていた。その合間に、鋭いエッセイを書いた。これが面白い。同世代の書き手の中でも、僕は依怙贔屓を差し引いても若松が断然トップだと思った。しかし、書き続ける日々は、若松に次第にダメージを負わせた。あるいは、若松は本当に書きたいものを書いてはいなかったかもしれない。九〇年代に入るとアルコールに依存するようになった。生活が荒れ始め、雑誌で資本主義そのものを鋭く批判する。九一年のソ連邦崩壊によって共産主義の非現実性が露になり、バブルがはじけた日本では、これから先何を目指せばいいのか、みんなわからなくなっていった。若松の資本主義批判も次第に説得性を失っていった。若松は僕の作ったCM制作者の名前入りでこき下ろし、広告すべてを軽蔑する文章を発表した。弟の温は、それを偶然見つけた。「アタマに来るかもしれないけど、若松さんが言ってることは、今まで彼が批判していた視点から見れば当然のことだ。兄貴は怒ったらだめだよ」と僕を諭すように言った。しかし、僕は人からその掲載雑誌を見せられ、激怒し、若松と縁を切った。〉(『夏の果て』岡康道 小学館 P315より)
 二人が絶交していた期間は一〇年くらいだったと言う。僕はこの時代の小田嶋さんの本を読んだことが無く、思想・信条はわからない。執筆の勉強のためパクるように読み始めたのは、二人の共書を含め今から一〇年くらい前からという事になる。
 近年の日本社会は歴史修正主義者によって歴史が改竄されている。権力を私物化した為政者に対し忖度、迎合するヨイショ本ばかりが巷に溢れている。誰もが物事の本質を重層的に考えようとしない反知性主義者も多い。小田嶋さんは「政治や社会を鋭く批評したコラムニス」と言われているが、当たり前の事を言っているにすぎない。優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと書いたが、小田嶋さんが亡き後に改めて書物を読み直してみると、小田嶋さんが遺したコラムは現代歴史学のテキストだとも言えるかもしれない。
 岡さんは二〇二〇年に亡くなり、小田嶋さんは後を追うかのように二〇二二年に亡くなった。二人は僕より少し上の世代にあたる。まだまだ若い。当たり前の事が当たり前でない社会の中で、真っ当な表現者が亡くなってしまった事は残念である。

Do it oneself !

 キュビズムは時間と空間をぶっ壊した。
 岡本太郎の言葉は、過去の封建的な時間と現代の閉塞的な空間をぶっ壊してくれる。
〈「お互いに」とか、「みんなでやろう」とは、言わないようにしなければいけません。「だれかが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、いつかはきっとそうなる」「徐々に」という、一見誠実そうなもの、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければらないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものなら、かならず現在ある。だからこそ私の将来のことでも、現在全責任をもつのです。〉
 去年、東京都美術館開催された「展覧会 岡本太郎」には多くの若者が訪れていた。歴代の日本画の巨匠たちが展覧会を開催しても多くの若者が訪れる事はないだろう。それは、画壇の権威によって位置づけられた芸術家に魅力を感じないからだ。
 真っ逆さまに落ちていく日本経済。現政権は「未来」に向かうのではなく、ひたすら失敗した「過去」に戻ろうとしている。未来を描けない時代にあって、自分の未来を描く為には、封建的・既得権益的な不平等の壁をぶっ壊して前に進まなければならない。ぶっ壊したその先に見えるものこそ本質である。
 岡本太郎は常に「瞬間」を生きろと言う。その瞬間の純粋な気持ちが大事であり時間がたてば打算的になる。純粋な気持ちこそが自分自身が持っている形而上的なエネルギーなのだ。
 
 
いつ死んでも悔いはない。他人におべっかなんて使わない。 岡本太郎
ぼくはいつ命がなくなってもかまわない。
たったいま死んでも悔いのない、瞬間瞬間を生きてきたつもりだ。
火山が猛烈にふき出して、あとは静かになってしまうような、命がの燃焼が大切なんだ。
他人におべっかなんか使わない。
自分のプライドに納得のいく生き方を選ぼうと思う。

瞬間瞬間を運命にかける。 岡本太郎
健康法なんか考えないことが、いちばんの健康法だ。
よく人間ドックに入って、自分のからだの悪い部分を調べる人がいるけど、
あれはムリして病気を探しているようなものだね。
自分自身を信頼していない証拠だ。
そんなことはいっさい考えないし、気にしない。
健康、不健康なんて条件を問題にしないで、瞬間瞬間を運命にかける。
肉体、精神ともにつらぬいて生きているという自信が、まず、大切だ。
ぼくはいつでも絶対的に生きている。

人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。 岡本太郎
人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。
思春期には未知の人生への感動として、
なまなましくその実感がある。
しかし中年以降、とかくその意気込みがにぶり、
いのちが惜しくなってくる。
堕落である、つまらなさだ。

生きるときに生き、ひらくべきときにひらけ。 岡本太郎
くりかえしていう。
人間の運命は。その文化の素晴らしさは、
それが猛烈におこり、また滅びる、いわば瞬間瞬間に情熱的にひらき、
そして悲劇のなかに、栄光のなかに崩れ失われてゆくとこにある。
性急な語調にように、またため息のように、
透明で太いリズムで流れ、ひろがってゆく美しさなのだ。
生きるときに生き、ひらくべきときにひらく。
その瞬間に、純粋に生きる。
壊れるな壊れてもいい、と心をきめた方がさわやかではないか。

結果なんて考えない。 岡本太郎
結果にこだわるからなにもできなくなる。
もしこうしたら、こうなるんじゃないかと、あれやこれや自分がやろうとする前に、結果を考えてしまう。
誠実に、その瞬間瞬間にベストをつくしたんなら、結果なんていっさい考える必要なし。
大切なのは、運命をつらぬいて生きることだ。

いくつになったら、なんて考えるな。 岡本太郎
男は四十になったら自分に顔に責任をもて。
よくもったいぶってそんなことを説教する奴がいる。
四十になったら自分の顔に責任をもて、とはつまり、その歳になったら一人前の人格をもて、というわけだ。
ぼくはそれを聞くと腹が立つ。じゃあ、それまでは顔に責任をもたないのか? 人格がなくていいのか?
人間はどんなに未熟でも、全宇宙を背負って生きてるんだ。
自分の顔に責任をもって生きるとは、
この瞬間瞬間において、若さとか、老年とかいう条件を越えて、
未熟なら未熟なり、成熟したら成熟したなりの顔をもって、
精いっぱいに挑み、生きていくということだ。
いくつになったら、という考え方が人間を堕落させるんだよ。

死ぬのもよし、生きるもよし、すべて無目的、無条件。 岡本太郎
この世の中で自分を純粋につらぬこうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、かならず絶望的な危険をともなう。「死」が現前する。
惰性的にすごせば、死の危機感は遠ざかるだろう。だがむなしい。
死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。
今日、ほとんどの人が純粋な生と死の問題を回避している。
だから虚脱状態になるのだ。
個人財産、利害得矢だけにこだわり、ひたすらマイホームの無事安全を願う、現代人のケチくささ。卑しい。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだと思う。
死ぬのもよし、生きるもよし。それが誇りだ。
ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。

眼の前に瞬間があるだけ  岡本太郎
眼の前にはいつも、なんにもない。
ただ前に向かって身心をぶつけて挑む、瞬間、瞬間があるだけ。
頭のいいやつは、ちゃんとはるか先までの道を見とおしてしまう。
いつもできている道、そこを賢くたどって進んでいくのだ。
つまらないだろうなと思う。
うまくやっていればいるほど、道の方が先に仕上がっている。
こちらは逆に、前途いつもお先真暗なのだ。
ナマ身でぶつかり、転げていく。
幼い時から、ずっとそうだった。
空しさに耐えながら、逆にうれしく、やってきた。

引き裂かれる  岡本太郎
私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。
「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相克する。
「反」の内にまたと闘争する「正」がゆるぎなくある。
その矛盾した両極は互いに激烈に挑みあい、反発する。
人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。
対極は、瞬間だ。
だから私は「合」を拒否する。
現在の瞬間、瞬間に、血だらけになって対極のなかに引き裂かれてあることが絶対なのだ。
 
 
 岡本太郎のように、自分自身に妥協せず誇り高く生きることは出来ないだろう。しかし、太郎は教えてくれる。「弱くてもいい、失敗してもいい、かっこ悪くてもいい、負けたっていい。君は君のままでいい。弱いなら弱いまま、たったひとりの自分をつらぬいて生きる。それでいいじゃないか。誇り高く生きてみろよ!」と。
 岡本太郎は18歳で渡仏した。絵画だけでなくパリ大学で哲学を学び、ニーチェから強い影響を受けている。もしかしたら、多くの言葉は負けそうな自分と向き合った中から生まれたものかもしれない。生涯をかけて語った多くの言葉は、僕たちに「今やらなければならない事」を教えてくれる。
 美術館に行けば多くの作品と出会う事が出来るし、書店に行けば多くの言葉と出会う事が出来る。それよりも、瞬間を生きれば岡本太郎の声が聞こえてくるのだ。瞬間という永遠を岡本太郎と共存する事が出来るのだ。
 
 
ぼくはきみの心のなかに生きている。 岡本太郎
ぼくはきみの心のなかに生きている。
心のなかの岡本太郎と出会いたいときに出会えばいい。
そのときのぼくがどんな顔をしているかは、きみ次第だ。
ぼくはきみの心のなかに実存している。
疑う必要はいっさいないさ。
そうだろ?

参考文献
『孤独がきみを強くする』 岡本太郎 興陽館
『強くなる本』 岡本太郎 興陽館
『自分の中に毒を持て』 岡本太郎 青春出版社

月に吠える

 働けど働けど猶わが生活楽にならざりーー。
 本も買えないと思っていたら、毒書家の兄事からダンボールいっぱいの本が届いた。今宵は『稲垣足穂全詩集』を読んで月と語り合うのだ。
 足穂が作家になった時代とは、帝国主義を掲げ、植民地支配を推し進め、戦争に突入しようとした時代であり、関東大震災が発生し、スペイン風邪が流行し、大杉栄や幸徳秋水などの無政府主義者・社会主義者らが権力によって虐殺された〈冬の時代〉だった。足穂や同時代人の江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史などの幻想文学作家たちは、ナショナリズムの熱狂の渦の中に身を投じることはなく、権力に背を向け、怪奇幻想や猟奇的な夢幻の世界に遊ぶ事が、彼らの芸術的抵抗だった。
 封建的社会の中で、気が付けばいつも少数派に属しジタバタ生きている。いつの時代も〈自由〉に生きようとすればするほど〈不自由〉を強いられてしまうのは何故だ。それでも〈自由〉を欲するのは、〈冬の時代〉に〈自由〉のために闘った住井すゑ、尾形亀之助、小林多喜二、秋山清、金子光晴たちの読書尚友が助けてくれるからだ。
 大杉栄の有名な言葉がある。
「僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」
 いつの時代も階級闘争が成功したことがない。いくら大衆に団結を呼びかけても、多くの人は権力側が作りあげた日常的労働のなかに習慣的にとらわれている。抑圧される者は、支配されることの中に、自分の日常の居場所を見出すことによってしか従属できないからだ。大杉栄はこのような従属する人間のことを〈奴隷根性〉と語る。
「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消し去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業を完成しなければならぬ」
 自由人の大杉栄が目指したのは〈絶対的自由〉だ。自由を何者にも優先させるべき価値だと考え、権力やそれに基づく序列すべてに反対する事だ。資本家と労働者、富者と貧者の格差を生み出す資本主義の根底には〈奴隷根性〉があり、政府とともに廃絶すべき対象と語る。
「資本主義はなんでもかんでも数量化し、善悪、優劣のヒエラルキーをもうけようとする。人は気付かないうちにそれがあたりまえと思い込み、そのなかで高く評価されようと必死になってしまう。本当は他人によって、自分の価値が決められなんてとてもおかしいことなのに、たくさんカネを貰えば、何だか褒められているようでうれしくなってしまうし、あまりカネをもらえなければ、自分はダメなんだと思って落ちこまされてしまう。貧乏であることわるいことであり、負い目に感じるべきものである。もっと働け、カネ稼げと。大杉は、この負債の感覚を〈奴隷根性〉とよんだのである。いつだって、もっと支配してくれといわんばかりだ」と語るのはアナキズムを継承している栗原康氏だ。うーん、大いに納得である。
 近年の日本が〈右傾化〉し〈戦前回帰〉だと危機感を抱く論評を目にする。戦争法案の強行採決、武器輸出三原則の見直し、日本会議や教育勅語の右翼思想などがその理由だ。〈戦争する国づくり〉と言っても、対米国従属国家である日本が米国の下請けとして都合の良いように使われるだけだ。むしろ、米国に従属し戦争の危機感を煽りナショナリズムを刺激することで、政権の延命を図りたいだけだ。守りたいのは市民ではなく、自分たちの利権のように見える。
 いつの時代も変わらないのは、市民を分断して統治しようとする〈愚民政治〉であり、社会に〈奴隷根性〉を植え付けようとすることだ。強権的な為政者の周りには〈アメ〉が欲しさに〈奴隷〉たちが群がり、同調圧力によって排外主義を生み出す。政権に異論を持つ人を〈非国民〉と罵倒し、退廃した愚かな空気が社会に蔓延する。

「呼子と口笛 補遺」 石川啄木

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電いなづまのほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

我は知る、
その電いなづまに照し出さるる
新しき世界の姿を。
其處にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、雷のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――
(一九一一・六・一五 夜)

 石川啄木の未完詩集『呼子と口笛』は、幸徳秋水たち26名の無政府主義者・社会主義者らが逮捕され、1911年1月に12名が処刑された〈冬の時代〉のなかから生まれた抗議の言葉だ。大逆事件がフレームアップだということは、多くの知識人たちは知っていたが抗議の声を上げた者はさほど多くは無かった。しかし、啄木は身の危険を顧みず抗議の声を上げ、幸徳秋水たちテロリストに共感を示すことで〈個〉の精神のあり方を貫いた。
 幸徳秋水のように知識力はない、大杉栄のような行動力もない。しかし、啄木のように社会の矛盾に抗議の声を上げ続けたい。誰かの〈奴隷〉にならず、誰かを〈奴隷〉にせず、〈自由〉のために闘うためだ。
 今宵も静かだ――。夜の静寂は本当の自分を生きる時間だ。「詩人の世界には太陽がなく、詩人はつねに太陽に背を向けている」という。月光が彼らの影を鮮明に映し出し、彼等と〈自由〉を語るのだ。彼らの時代の痛みを感じることでしか本当の自分に出会うことができないのだ。
 月光の夜は僕を狼に変え、遠く過ぎていった者たちの想いを吠える――。
 

参考資料
『大杉栄伝 永遠のアナキズム』 栗原康 (角川ソフィア文庫)
『大杉栄 日本で最も自由だった男』 KAWADE道の手帖 (河出書房新社)

さよなら1975年(立中潤 ’S)

 1975年—— 。色なき風が漂うゲバルトの街に、森田童子のデビューシングル「さよならぼくのともだち」が流れていた。

♪  長い髪をかきあげて
 ひげをはやした やさしい君は
 ひとりぼっちで ひとごみを 歩いていたネ
 さよなら ぼくの ともだち
 
 粛清で終わった若者たちの革命闘争。多くの大学生たちは「就職が決まって髪を切り、若くないさといいわけ」をして社会に逃げ込んで行った。この時代に流行った歌といえば「あの頃~」や「あの時~」や「あの時代~」など、こころに傷を負った全共闘世代が少し前の世代を愁える歌が多く、若者たち誰もが前に進むことが出来ない後ろ向きな時代だった。
 早稲田大学の革マル系の活動家だった立中潤は、1975年5月20日に23歳の若さで自死した。同年3月に大学を卒業し、地元愛知県の信用金庫に就職してわずか2ヶ月後のことだった。

「十月」 立中潤

腐るために動く必要はない。ただ そこに居ればひとりで腐ってゆける。きみは死の中を流れているのだから もう死ぬことからでさえつき離されている。恐れるものは何もない。つらい時間のながれの他には。きみはきみの腐敗を生きてゆくのだ。日々のうすぐらい沼で醒めているきみの眼球のみが きみの行き先を決めてくれるだろう。肉は眼球を囲繞する重圧の衣だ。きみの抱いてきた女の身体にように いつまでやわらかな触首を伸ばしてくる。帰らない日々を思い出すようにきみは肉の柵を見る。そのとき きみに視えてくるのは滅びの懸崖をうろついている魂 であり 死者たちの無言のざわめき だ。もしきみのめが光ったとすれば
 彼らの物事はぬ眼液がきみのほてった眼球を冷たく潤したのだ。おお 帰らないものらよ。帰らない日々よ。きみは苦い後悔の燃焼のなかで刻々と進んでゆく時間を生きる。地獄のような時間! ただ 流れていることのうちに きみはどれほどのものを喪なわねばならなかったのか? 健康に甦えることも腐敗。病気の殻にうずくまることも腐敗。そこ に居さえすればとどこうりなく腐ってゆける。もう死ぬことにさえ意味はないのだから きみの生の意味も口を閉ざしたまま遠くまでつづいている。忍従の生液のみが朝から夜へと鉛のように体内(からだ)を巡っている。きみが生きている故に。


御茶の臭いでさえ生の香りがする。畑に拡がっている作物たちも生きる臭いを強烈に発散している。十月の寂しい夜にひとり発散しているきみ!は 枯れてゆくものからも生きてゆくものからも遠くつき離されている。(きみ自身からも?)。日々は圧迫ばかりを積み加え きみは身いっぱいでそれを受けとめている。理由もなにもありはしない。敵たちのにぎやかな生存がみじめに氾濫しているだけだ。きみと同じように理由をもたぬものたち。(否! きみが理由を細々に打ち砕かれたのだ。) 彼らはきみのみじめさを最大限増幅してきみに見せてくれる。世界はこんなにも明るくて…。砕けたきみの型 を一枚の衣粧で隠蔽することはできぬ。病んだきみの魂はどれでもひかることをやめてはいない。それだけけが日々の指標となる。ほのぐらく寂しいひかりにきみは全霊をこめればよい。そて以外にきみの機会はきみから放逐されているのだ。うそ寒い時間の底にはきみの自死させた欲望たちが精虫のように動めいており きみのうすぐらい底辺を徐々にけずりおとしている。〈さよならだけが人生さ!〉 うそぶく声は日々のものではに きみのものでない 何か。


きみの絶望はきみだけのものだ。安価に売却できぬきみの生存そのものだ。抑圧と圧政のみがあったきみの少年の日々からきみの生存は地続きになっている。胸の襞のうづきでしか答えられぬ幼い屈辱の数々。怒ることもなく笑うこともなく現場を立ち去ることしかできなかったきみ が遺留しつづけたものは何だ。膨らみきっていたきみの悲哀。つめたい悲哀の吹きっ晒しにはいつでもふりつもっているものだ。まるでそれのみが救いの堆積でもあるかにように。だが、うずくまっている自我像を撫でつけたとしても きみの顔はひきつっていた。そのときからきは死の中へ押し出されていった……拒絶の生きた幻。ああ 画然たる死の形相! そこにしかきみの生存をながしこむ場処がない。日々のたたかいは重い生理学の下を過ぎていく。行く先も目的地もありはしない。きみはきみの貧しい生存をただながれてゆくのだ。死の幻を実存させるきみの黴臭い脳味噲 の線に沿って。街燈によりそっているのはつめたい亡霊のようなきみの陰だ。きみを一瞬も離さないきみの重い陰。十月の冷雨がきみの足元を湿らせてゆく。爽やかさを感ずる皮膚にきみは鋭い眼光を注いでいる。そうだ。いつのまにかそうなっているのだ。ひえてゆく季節・十月 も過敏な繊細できみをつつみこむ。うすぼやけた繊維の霧のなかからはきみの様々な陰たちがあらわれ きみの体内をだまって通りすぎてゆく。台地を踏みしめる悲哀 が同時に一陣の風となってきみの身体を横切っていった。美しい現世たちはこの地上に足をつけるときはなやかな一瞬の栄華を誇る。ながれてゆくことの虚しい一瞬。にぎやかな少女たちが可憐さを背一杯ふりまいて通りすぎぎてゆくときのようにそこにすべてがある一瞬。ひび割れた時間も空間もそこからは視えてこない。アスファルトを蔽った死臭もすでにきみのなかにしか生きていない。自らを地下の方まげこんでいる道路 がどこまでもどこまでもつづいているだけだ。たたかいの血糊はけれどもきみのかぐらい襞の奥にべっとりと付着している。……きみはきみの目前の一切を信じないためにきみの陰をひきづってゆくのだ。露骨な島流しには誰もがあわねばならない! ひりひりときりもみしてくる痛覚にこそ 時代へとはせるきみの反逆の根拠がある。みじめさの方へ身を寄せるな。うずくまることの一秒の長さをこそ思え。決して浮上してゆかぬために。(『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』)

 1969年1月18日、ゲバヘルを被り火炎瓶を抱えて東大安田講堂に集まった全共闘の学生たちの叛乱は、機動隊の催涙弾と放水によって傷だらけで敗北した。
 立中潤が早稲田大学に入学するために上京したのは1970年だった。高校時代に書き記していた「読書リスト」を見みると、左翼的偏向が強く社会科学系の本を熱心に読み込んでいたということが伺われる。大学闘争に参加するために大学進学したようなものだ。しかし、入学して直ぐに革マルの活動に参加したものの、たったの1年で革マルの活動から離れることになった。
 彼が大学に入学してから死に至る5年間という時代は、分裂した全共闘が殺し合いの状態になり、全国の大学構内や路上で内ゲバが繰り返された。その中心だったのが革マルと中核の抗争であり、1974年から1975年の2年間だけでも、31人が死亡し、1,150人が負傷者したほどだ。大学の外の世界では新左翼系の武装組織が、よど号ハイジャック事件(1970年)、あさま山荘事件(1972年)、三菱重工爆破事件(1974年)などの暴力事件を引き起こし、若者たちの革命闘争が大衆や知識人たちの支持を失なっていった時代だった。
 彼は大学闘争に見切りを付けて、詩や文学で主体の再生をはかろうとした。毎日のようにして書かれたおびただしい量の詩的表現は、彼の自死した前日まで続いている。大学闘争において喪失した主体の飢餓感の激しさと、その熱量を表している。74年に書いたエッセイ「契機としての七十年」からは当時の心境が緊々と伝わってくる。

〈七十年安保闘争をひとつのメルクマークとする「政治」体験に、必ず行きつくはずである。ぼくは機あるごとに、この「政治」体験に触れてきたつもりだが、少しも納得できる型で組織できず、増々混乱している。直接的にたどっても何も出て来ないとも言ったが、「七十年」を「完敗」として受けとり、それを「感受性」の深みにおいてとらえた(とらざるを得なかった)ぼくたちの現在が、窮屈、自閉を深めてゆかざるを得ないということはどういうことなのだろう。それを時代的な契機との絡みの中で、どう把握したらいいのかという問をたてざるを得なくなっている〉
〈七十年」からすでに四年余の歳月が流れている。その間に喪ったもの、あるいは新たに所有せざるを得なかったもののことを思えば、目もくらむような思いにかられるが、そのような地点に居残っている余裕はぼくたちにはない。敗退機の困難さ——苦渋は現在的に増々深まり、ぼくたちの日々に侵攻してくる。ぼくはオノレの現在をそのようにみる。七十年反安保闘争に於ける敗北の後のいま、その敗退期に生様を晒しつづけることの意味が、その故、ぼくたちに日常的に問われているわけであり、この最も触れたくない部分との交錯点において、ぼくたちは自らの生を把握し、根拠づけてゆく作業に耐えてゆかねばならない。そこにしか自らの意味は有り得ないはずだし、意味づけてゆく主体はあくまでもオノレであり、オノレの醒めつづける営為としてしかそれは為せないはずである。むきだしの個を基盤にして、何がなんでもやってゆくしかない!〉
〈七十年反安保闘争とはオノレにとって何だったんだろうという問をたてるとき、勿論、ぼくはぼくのいまある姿が、良きにつけ悪しきにつけ、「七十年」に充分よく規定されていることを了解している。からっぽな「革命」の視角からする党派的な総括でもなく、あるいは「青春」論的な意識からでもなく、オノレの現在を、最も重い「むごん」で支え、拮抗しているそれとして、現存との深い緊張の中で、オノレに向きあっている「七十年」を視つめてゆきたいと考えている〉

 北川透氏は立中潤の思想的精神を「断念」という言葉で論じている。
「彼の精神の表情を一言で言おうとすればどうなるだろうか。わたしはそれを、断念という病巣にの中に立ちつくした生とでも、ひとまず名づけておきたい。断念は巨きな時代的契機をもって全面的だったが、彼はそこに何の防御もなく立とうとしたのである。むろん、ある意味で、現在、断念は一つの時代病となっている。時代病の中に安住しうれば、それは容易に美意識にも、自然にも、そして、諦観にも小さな幸福の意識にも移行しうる、しかし、立中にはそのどこへ行く通路もふさがっていた。いや、その通路に虚偽が彼にはよく視えていたのである。彼は断念を病ませられ、その病ませられている自分を、想像力への源泉として引き受けるしかほかなかった。」
「わたしは、先に立中潤に断念という病巣は、巨きな時代的契機をもっていると書いたが、その中心を占めるものの一つに、彼の政治的思想の問題があるだろう。一九七〇年に早稲田大学(革マル)に入学したことが、彼にとっては決定的に意味を持った。彼にとって大学は、世界を知り自己を開放する場所であって、それを何よりも学生運動の機能のなかに求められていたのである。世界を知ることと、それを変えることが緊密に一体化して思想する場所というのが、彼の大学=学生運動に見出したものではなかっただろうか。」
「この幻想はすぐに破れる。党派的に系列化された学生運動の中では、その思想する場所は、はじめから一定の固い枠がはめられ、自由に思想するのではなく、信仰する場所になってしまっているからである。その断念を、詩や文学における全体性の回復という形で、乗り切ろうとしていった。この断念は、現実的な場所の喪失をもらたしたということである。」
「多くは自分の意志と関係なく、いやな職業を押し付けられるというのが、分業の社会というものである。立中は、この問題に直面して、職業選択にかかわる自分の意志をすべて放棄した。そこには社会的な位階に対する上昇志向を断ち切るという彼の断念が働いているわけだが、しかし、同時に彼のどうしようもない甘さ、甘えが会ったように思う。なぜなら、息子の断念のために両親は、風土の中の地縁、血縁を頼って、息子の就職口を見つけることになるからである。」
「自己放棄とという形で、両親に、そしてその家が取り結んでいる濃密な血の風土に、彼自身は甘えかかっているのだから、この関係が緊張していけば、相手を殺害するよりは、自分を殺害する方向へ行くのは、ああるいは自然な勢いだったかも知れない。三月になって自分の間違いに気づき、根本的な反省を下記つ付けている。しかし、すでに時は遅かった。彼がやり方を根本から変えようとすれば、彼を迎え入れた濃密な風土的な関係と全面戦争は避けられなかったかも知れない。それをしなかったのは、あるいはできなかったのは、彼の存在の根幹をおかしている断念という病いのなかで、死の想念がもはやどのような生活的意力をもくじいてしまうほど、成熟していたからであろうか。」

 辛辣な意見だが、北川氏は自分と関わった若き詩人の死が無念と感じた上でのことなのだろう。
 北川氏は立中の「断念」という病のことを「甘え」があると語っている。つまり、主体の弱さということだと思う。若者が父権的封建制度から自立するために、煩悶することが通過儀礼みたいなものだ。立中はそれを政治的なもので乗り越えようとして失敗した、その敗北感を糧に詩作で自分の居場所を求めようとしたが、その壁を突破できなかった。就職の際に両親のコネで決まったのが資本主義の権化のような金融機関であり、父権的封建制度からに抜き出せないまま自己矛盾に陥り行き場を失った……。主体が弱いと書いたが、主体の弱さに忠実という方が正しいかもしれない。主体が強く、主体と客体のバランスよければしたたかに生きれたかもしれない。しかし、若き詩人の魂は主体の不完全燃焼の爆発が詩作の源泉でもあるし、詩人にとっては死も1つの創造であり敗北ではないと理解したい。

♪  河岸の向うにぼくたちがいる
 風の中にぼくたちがいる
 みんな夢でありました
 みんな夢でありました
 もう一度やりなおすなら
 どんな生き方が
 あるだろうか


 森田童子は「みんな夢でありました」で〈もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか〉と問いかける。
 立中潤と森田童子は1952年生まれだ。彼らの世代は、全共闘運動の最後の最後に関わったものの正確には全共闘世代ではない。したたかな全共闘世代が暴れまわった「お祭り」の後片付けをさせられ、全共闘世代が就職して社会に逃げていくのを眺め、組織全体についても知らされず、使い捨ての一駒として上層部の命令に服従し、内ゲバによる殺し合いに加担しなければいけなかった「内ゲバ世代」であり、若者たちの革命闘争の「名もなき世代」なのかもしれない。70年代前半は特別な時代だったと思う。1960年代生まれの僕にはよくわからない。各党派による大学闘争と大学紛争といっても多少のニュアンスが違う。ノンセクトによる自治会の学生運動を含めると、それぞれの「正義」が何なのかよくわからない。各党派のヒエラルキーが崩壊していく中で、自己否定を突き詰め純化(原理主義化)し、イデオロギーの違いで殺し合い、一般学生(一般人)をも巻き添えにした時代である。若者の生き方は時代精神を象徴していると言われるように、運動に関わらなかった若者たちの中にも、こころに深い傷を負って自ら命を絶った者も多かったという。
 しかし、時代がどうであろうと人間の理念の中心にあるものは変わるものではない。社会の矛盾に対しては声を上げなければならないし、権利を主張すれば「政治的」なものと闘わなければならない。結果はどうであれ、革命共闘世代が人生を棒に振る覚悟で闘った純粋な正義感だけは忘れないでいたいと思う。
 さよなら、1975年—— 。自己を否定の否定=肯定的な形で乗り越えていくことこそが革命の「ロマン」である! 主体はあくまでもオノレである!
 
参考文献:『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』、『闇の産卵 立中潤遺稿 日記・書簡』

十七才の風景 高岡和子の詩  

 一九六四年二月の夜、一人の天才的な少女詩人が、湘南海岸で短い命を絶った。
 多くの創作者が、自らの才能によって押しつぶされ、真理を求めて心を破壊していったように……。
 幼ないころより詩を書くことに喜びを覚えた彼女は、詩人として生きていくことを決心した。誰にも明かすことなく、中学一年から高校まで詩作を続け、自分の苦しみや悲しみ、孤独感、そして喜びや感動を、心象詩としてノートに書き続けていた。
 そのことは家族すらも知らなかったという。
 彼女は、心の叫びを書き残して、寒い冬の海に帰った。浜辺に置かれたノートは、見つかるまで、三日三晩、波風にさらされていたが、その内容は友人や兄妹らの手によって、遺稿集『雨の音』として発表された。
 雨の音とは、中学三年のとき彼女が書いた詩だった。

「雨の音」 高岡和子

ポトンとおちた瞬間に
心もいっしょにふるえるような
雨の音
孤独を音にしたら
こんなふうになるだろう   (中三・六月)

 そして、いま再び、彼女の鮮烈な詩が甦るときがやってきた。
 傷口で風を感じるような鋭敏な彼女が、いまを生きる小さな詩人たちの胸に……。
(『さようなら十七才 海と心の詩』 高岡和子 2012年/リーダーズノート出版 より) 

 海の聲が聞こえる街で育ち、海の聲が聞こえる街で彼女の詩と出会った。遠いむかしのことだ。
 高岡さんの「死」は海と溶け合い「風景」として、僕の「生」の断片に臥せる「現象」になっている。
 思春期に達した人間は「死」そのものに強い関心を示す。それは自意識が芽生え、自らの「生」が「永遠」でないことを自覚するようになるからだ。思春期の「生」というのは、喪失感を内面化することであり、孤独感を胸の奥に抱え込み息苦しさを感じながら生きることだ。

「祈り」 高岡和子

かみさま
わたくしは
どこから来て
どこへ行くのでしょう
  
かみさま
わたくしは
どうして生まれ
どうして死ぬのでしょう

かみさま
わたくしは
しあわせですか……   (中二・九月)

「空」 高岡和子

口でいえる深さとは
    人間の深さだ
空は そんなものではない
空は 人間と同じではない
空は 空だけしか知らない   (中三・二月)

「無題」 高岡和子

波の音だけが耳をおおい
風だけが私の手をとり
砂だけが意識し
空だけが見ている

けれど
波の音ははかなく
風は見えない
砂は無言で冷たく
空は遠い
空は遠い……   (中三・二月)

 高岡さんは十七才で逝った。
 十七才という季節は、子どもでもなく大人でもない季節であり、子どもでもあり大人でもある季節だ。大人の都合によって、ある時は「子どものくせに」と言われ、ある時は「もう大人なんだから」と言われる。この両義性の矛盾を内包させられて生きていたことを今でも覚えている。自分自身の存在を確認することも困難で、暗闇の中で色々なものにぶつかって全身が傷だらけになりながら自分自身を確認し、自分自身にしか見えない「風景」を手探りで探していた。
 思春期の季節は遠く過ぎ去ったが、「漠然とした不安感」や「現実に対する嫌悪感」は現在に至っても続いている。おそらく自分は世の中と折り合いことなどできず、生きづらさを抱えたまま一生を終えるだろうと思う。

 限りある「生」の中で、「永遠」なる「風景」を見つけることが生きる意味だと思う。
 ランボーは、
 ……また見つかった! 何が? 永遠が。 それは、海。 溶け合うのは、 太陽。
 ブレイクは、
  ……一粒の砂に世界を見/一輪の野の花に天国を見/掌に無限を乗せ/一時のうちに永遠を感じる
 と語る。
 高岡さんの詩は、波光のように「永遠」に煌めき続けている。
 「永遠」とは、人間を超えた存在を感じ真実の世界に近づくことである。言葉をかえると、自分が自然の中に融けこんで、見えない存在となり、自然と一つにつながっていると感じることだ。
 高岡さんの詩を想いだす。

「無題」 高岡和子

あの汽車に乗れば
どこか
どこかへ行けるのだ

そうしたら
海を
山を
空を見よう

そうしたら
砂の上に
草の上に
雲の下にねそべって

歌をうたおうか

地面や空に
とけこうもうか   (中二・九月)

鳥になれ 鳥よ

「鳥」 安水稔和

鳥よ

花が咲いてもとっくに散って。
風が吹いてもとっくに止んで。
河が溢れてもとっくに涸れて。
水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
声かける。

―鳥になれ。
鳥よ。

 安水稔和さんはこの詩で人間の回復を訴えている。

 鳥が鳥として容易には生きられないという認識がその裏にひそんでいます。だが、鳥は鳥として生きるしかないし、鳥は鳥としてこそ生きたいのだ。ありかたの全体が、人間の回復がここでは呼びかけられているのです。
 あなたは今、自分が部分としての生き方を強いられていると強く感じはしないでしょうか。鳥は鳥でなければならぬ。あなたでなければならぬ。一度口にだしていってみてください。
 さあ。
 鳥になれ。
 鳥よ。

 鳥が鳥として生きられないのは、大気汚染・大気汚染・放射能汚染などの環境破壊を引き起こす人間の仕業だ。鳥が鳥として生きるためには、人間が人間として生きなければならない。人間が組織の一部として隷属的になれば、銭ゲバな機械人間や、空っぽなプラスティック人間に陥りやすい。人間が人間である為には、自然界に於ける人間という存在が、生態系の一部であるという視点に還らなければならない。
 鳥をイメージする時に、大空を飛ぶ鳥や水辺に佇む鳥だけを想うのではなく、走っても走っても飛び立てない鳥、首を泥田に突っ込んで息絶えた鳥、首を大きな手で握られた鳥、太陽のなかへ飛び込む鳥、もはや鳥とはいいがたい鳥たちの悲しみを想う事だ。
 さあ。
 人間になれ。
 人間よ。

参考文献:『鳥になれ 鳥よ』 安水稔和 花曜社

雨にもまけず

「雨にもまけず」
変詩/桝川濁(原詩/宮澤賢治)

雨にもまけず
風にもまけず
帝国主義にも軍国主義にもまけぬ
強い思想と意志をもち
私有欲はなく
決してヒヨらず
いつも何かの本を読んでいる

一日にハイライト一箱と
学園食堂にうどんを食い
あらゆる事を自分の問題として受けとめ
よく見聞きし判り
そして忘れず

体育館の二階の
小さな部屋にいて
東にデモあれば行って機動隊に石を投げ
西(西門)に検問体制あればヘイを乗り越えて学内に入り
北(梅田)でクラブの忘年会あれば野球ケンでパンツ一枚になり
南に合同読書会あれば行ってカッコイイことを言う

封鎖解除の時は涙を流し反革命者には正当な暴力をふるう
後期試験もどこ吹く風でせっせと「正午」の原稿を書き
パチンコもマージャンもせずいつも文芸部の仕事をし
女の子から「すてき」と言われる
そういう人間に私はなりたい

(『日本反政治詩集』 立風書房刊 1973年 より)

 安保闘争や全共闘運動は、身体的記憶はまったく無く遠い昔の寓話のようだ。しかし、団塊の世代からひとまわり離れ、彼らが残した「管理教育」という負の遺産を背負わされた世代にとっては、この種の詩を読むと胸のすく思いになる。
 現在は「デモをしても何も変わらない」とか「世の中そんなものだ」と考え、政府や社会に対して抗議運動をしている人を横目に冷笑したり、勝ち馬に乗って羽振りよく生きていこうとする風潮が強い。しかし、デモで社会は確実に変わる。なぜなら、デモをすれば日本人はデモをする社会に変わるからだ。それよりも大事なのは、自分がシニシズム(冷笑主義)に陥らないようにする事だ。
 シニシズムというのは希望を失ったときに傾倒する。現在の若い人たちが、希望を持つことがリスクになるくらい先行きに失望し、安易に権力に迎合して「権利」を頂戴する姿は悲しい事だ。民主主義において権力に対する「抗議」は、市民に許された「表現の自由」であり、「市民の権利」というよりも「市民の義務」だと思う。