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月に吠える

 働けど働けど猶わが生活楽にならざりーー。
 本も買えないと思っていたら、毒書家の兄事からダンボールいっぱいの本が届いた。今宵は『稲垣足穂全詩集』を読んで月と語り合うのだ。
 足穂が作家になった時代とは、帝国主義を掲げ、植民地支配を推し進め、戦争に突入しようとした時代であり、関東大震災が発生し、スペイン風邪が流行し、大杉栄や幸徳秋水などの無政府主義者・社会主義者らが権力によって虐殺された〈冬の時代〉だった。足穂や同時代人の江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史などの幻想文学作家たちは、ナショナリズムの熱狂の渦の中に身を投じることはなく、権力に背を向け、怪奇幻想や猟奇的な夢幻の世界に遊ぶ事が、彼らの芸術的抵抗だった。
 封建的社会の中で、気が付けばいつも少数派に属しジタバタ生きている。いつの時代も〈自由〉に生きようとすればするほど〈不自由〉を強いられてしまうのは何故だ。それでも〈自由〉を欲するのは、〈冬の時代〉に〈自由〉のために闘った住井すゑ、尾形亀之助、小林多喜二、秋山清、金子光晴たちの読書尚友が助けてくれるからだ。
 大杉栄の有名な言葉がある。
「僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」
 いつの時代も階級闘争が成功したことがない。いくら大衆に団結を呼びかけても、多くの人は権力側が作りあげた日常的労働のなかに習慣的にとらわれている。抑圧される者は、支配されることの中に、自分の日常の居場所を見出すことによってしか従属できないからだ。大杉栄はこのような従属する人間のことを〈奴隷根性〉と語る。
「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消し去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業を完成しなければならぬ」
 自由人の大杉栄が目指したのは〈絶対的自由〉だ。自由を何者にも優先させるべき価値だと考え、権力やそれに基づく序列すべてに反対する事だ。資本家と労働者、富者と貧者の格差を生み出す資本主義の根底には〈奴隷根性〉があり、政府とともに廃絶すべき対象と語る。
「資本主義はなんでもかんでも数量化し、善悪、優劣のヒエラルキーをもうけようとする。人は気付かないうちにそれがあたりまえと思い込み、そのなかで高く評価されようと必死になってしまう。本当は他人によって、自分の価値が決められなんてとてもおかしいことなのに、たくさんカネを貰えば、何だか褒められているようでうれしくなってしまうし、あまりカネをもらえなければ、自分はダメなんだと思って落ちこまされてしまう。貧乏であることわるいことであり、負い目に感じるべきものである。もっと働け、カネ稼げと。大杉は、この負債の感覚を〈奴隷根性〉とよんだのである。いつだって、もっと支配してくれといわんばかりだ」と語るのはアナキズムを継承している栗原康氏だ。うーん、大いに納得である。
 近年の日本が〈右傾化〉し〈戦前回帰〉だと危機感を抱く論評を目にする。戦争法案の強行採決、武器輸出三原則の見直し、日本会議や教育勅語の右翼思想などがその理由だ。〈戦争する国づくり〉と言っても、対米国従属国家である日本が米国の下請けとして都合の良いように使われるだけだ。むしろ、米国に従属し戦争の危機感を煽りナショナリズムを刺激することで、政権の延命を図りたいだけだ。守りたいのは市民ではなく、自分たちの利権のように見える。
 いつの時代も変わらないのは、市民を分断して統治しようとする〈愚民政治〉であり、社会に〈奴隷根性〉を植え付けようとすることだ。強権的な為政者の周りには〈アメ〉が欲しさに〈奴隷〉たちが群がり、同調圧力によって排外主義を生み出す。政権に異論を持つ人を〈非国民〉と罵倒し、退廃した愚かな空気が社会に蔓延する。

「呼子と口笛 補遺」 石川啄木

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電いなづまのほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

我は知る、
その電いなづまに照し出さるる
新しき世界の姿を。
其處にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、雷のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――
(一九一一・六・一五 夜)

 石川啄木の未完詩集『呼子と口笛』は、幸徳秋水たち26名の無政府主義者・社会主義者らが逮捕され、1911年1月に12名が処刑された〈冬の時代〉のなかから生まれた抗議の言葉だ。大逆事件がフレームアップだということは、多くの知識人たちは知っていたが抗議の声を上げた者はさほど多くは無かった。しかし、啄木は身の危険を顧みず抗議の声を上げ、幸徳秋水たちテロリストに共感を示すことで〈個〉の精神のあり方を貫いた。
 幸徳秋水のように知識力はない、大杉栄のような行動力もない。しかし、啄木のように社会の矛盾に抗議の声を上げ続けたい。誰かの〈奴隷〉にならず、誰かを〈奴隷〉にせず、〈自由〉のために闘うためだ。
 今宵も静かだ――。夜の静寂は本当の自分を生きる時間だ。「詩人の世界には太陽がなく、詩人はつねに太陽に背を向けている」という。月光が彼らの影を鮮明に映し出し、彼等と〈自由〉を語るのだ。彼らの時代の痛みを感じることでしか本当の自分に出会うことができないのだ。
 月光の夜は僕を狼に変え、遠く過ぎていった者たちの想いを吠える――。
 

参考資料
『大杉栄伝 永遠のアナキズム』 栗原康 (角川ソフィア文庫)
『大杉栄 日本で最も自由だった男』 KAWADE道の手帖 (河出書房新社)

さよなら1975年(立中潤 ’S)

 1975年—— 。色なき風が漂うゲバルトの街に、森田童子のデビューシングル「さよならぼくのともだち」が流れていた。

♪  長い髪をかきあげて
 ひげをはやした やさしい君は
 ひとりぼっちで ひとごみを 歩いていたネ
 さよなら ぼくの ともだち
 
 粛清で終わった若者たちの革命闘争。多くの大学生たちは「就職が決まって髪を切り、若くないさといいわけ」をして社会に逃げ込んで行った。この時代に流行った歌といえば「あの頃~」や「あの時~」や「あの時代~」など、こころに傷を負った全共闘世代が少し前の世代を愁える歌が多く、若者たち誰もが前に進むことが出来ない後ろ向きな時代だった。
 早稲田大学の革マル系の活動家だった立中潤は、1975年5月20日に23歳の若さで自死した。同年3月に大学を卒業し、地元愛知県の信用金庫に就職してわずか2ヶ月後のことだった。

「十月」 立中潤

腐るために動く必要はない。ただ そこに居ればひとりで腐ってゆける。きみは死の中を流れているのだから もう死ぬことからでさえつき離されている。恐れるものは何もない。つらい時間のながれの他には。きみはきみの腐敗を生きてゆくのだ。日々のうすぐらい沼で醒めているきみの眼球のみが きみの行き先を決めてくれるだろう。肉は眼球を囲繞する重圧の衣だ。きみの抱いてきた女の身体にように いつまでやわらかな触首を伸ばしてくる。帰らない日々を思い出すようにきみは肉の柵を見る。そのとき きみに視えてくるのは滅びの懸崖をうろついている魂 であり 死者たちの無言のざわめき だ。もしきみのめが光ったとすれば
 彼らの物事はぬ眼液がきみのほてった眼球を冷たく潤したのだ。おお 帰らないものらよ。帰らない日々よ。きみは苦い後悔の燃焼のなかで刻々と進んでゆく時間を生きる。地獄のような時間! ただ 流れていることのうちに きみはどれほどのものを喪なわねばならなかったのか? 健康に甦えることも腐敗。病気の殻にうずくまることも腐敗。そこ に居さえすればとどこうりなく腐ってゆける。もう死ぬことにさえ意味はないのだから きみの生の意味も口を閉ざしたまま遠くまでつづいている。忍従の生液のみが朝から夜へと鉛のように体内(からだ)を巡っている。きみが生きている故に。


御茶の臭いでさえ生の香りがする。畑に拡がっている作物たちも生きる臭いを強烈に発散している。十月の寂しい夜にひとり発散しているきみ!は 枯れてゆくものからも生きてゆくものからも遠くつき離されている。(きみ自身からも?)。日々は圧迫ばかりを積み加え きみは身いっぱいでそれを受けとめている。理由もなにもありはしない。敵たちのにぎやかな生存がみじめに氾濫しているだけだ。きみと同じように理由をもたぬものたち。(否! きみが理由を細々に打ち砕かれたのだ。) 彼らはきみのみじめさを最大限増幅してきみに見せてくれる。世界はこんなにも明るくて…。砕けたきみの型 を一枚の衣粧で隠蔽することはできぬ。病んだきみの魂はどれでもひかることをやめてはいない。それだけけが日々の指標となる。ほのぐらく寂しいひかりにきみは全霊をこめればよい。そて以外にきみの機会はきみから放逐されているのだ。うそ寒い時間の底にはきみの自死させた欲望たちが精虫のように動めいており きみのうすぐらい底辺を徐々にけずりおとしている。〈さよならだけが人生さ!〉 うそぶく声は日々のものではに きみのものでない 何か。


きみの絶望はきみだけのものだ。安価に売却できぬきみの生存そのものだ。抑圧と圧政のみがあったきみの少年の日々からきみの生存は地続きになっている。胸の襞のうづきでしか答えられぬ幼い屈辱の数々。怒ることもなく笑うこともなく現場を立ち去ることしかできなかったきみ が遺留しつづけたものは何だ。膨らみきっていたきみの悲哀。つめたい悲哀の吹きっ晒しにはいつでもふりつもっているものだ。まるでそれのみが救いの堆積でもあるかにように。だが、うずくまっている自我像を撫でつけたとしても きみの顔はひきつっていた。そのときからきは死の中へ押し出されていった……拒絶の生きた幻。ああ 画然たる死の形相! そこにしかきみの生存をながしこむ場処がない。日々のたたかいは重い生理学の下を過ぎていく。行く先も目的地もありはしない。きみはきみの貧しい生存をただながれてゆくのだ。死の幻を実存させるきみの黴臭い脳味噲 の線に沿って。街燈によりそっているのはつめたい亡霊のようなきみの陰だ。きみを一瞬も離さないきみの重い陰。十月の冷雨がきみの足元を湿らせてゆく。爽やかさを感ずる皮膚にきみは鋭い眼光を注いでいる。そうだ。いつのまにかそうなっているのだ。ひえてゆく季節・十月 も過敏な繊細できみをつつみこむ。うすぼやけた繊維の霧のなかからはきみの様々な陰たちがあらわれ きみの体内をだまって通りすぎてゆく。台地を踏みしめる悲哀 が同時に一陣の風となってきみの身体を横切っていった。美しい現世たちはこの地上に足をつけるときはなやかな一瞬の栄華を誇る。ながれてゆくことの虚しい一瞬。にぎやかな少女たちが可憐さを背一杯ふりまいて通りすぎぎてゆくときのようにそこにすべてがある一瞬。ひび割れた時間も空間もそこからは視えてこない。アスファルトを蔽った死臭もすでにきみのなかにしか生きていない。自らを地下の方まげこんでいる道路 がどこまでもどこまでもつづいているだけだ。たたかいの血糊はけれどもきみのかぐらい襞の奥にべっとりと付着している。……きみはきみの目前の一切を信じないためにきみの陰をひきづってゆくのだ。露骨な島流しには誰もがあわねばならない! ひりひりときりもみしてくる痛覚にこそ 時代へとはせるきみの反逆の根拠がある。みじめさの方へ身を寄せるな。うずくまることの一秒の長さをこそ思え。決して浮上してゆかぬために。(『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』)

 1969年1月18日、ゲバヘルを被り火炎瓶を抱えて東大安田講堂に集まった全共闘の学生たちの叛乱は、機動隊の催涙弾と放水によって傷だらけで敗北した。
 立中潤が早稲田大学に入学するために上京したのは1970年だった。高校時代に書き記していた「読書リスト」を見みると、左翼的偏向が強く社会科学系の本を熱心に読み込んでいたということが伺われる。大学闘争に参加するために大学進学したようなものだ。しかし、入学して直ぐに革マルの活動に参加したものの、たったの1年で革マルの活動から離れることになった。
 彼が大学に入学してから死に至る5年間という時代は、分裂した全共闘が殺し合いの状態になり、全国の大学構内や路上で内ゲバが繰り返された。その中心だったのが革マルと中核の抗争であり、1974年から1975年の2年間だけでも、31人が死亡し、1,150人が負傷者したほどだ。大学の外の世界では新左翼系の武装組織が、よど号ハイジャック事件(1970年)、あさま山荘事件(1972年)、三菱重工爆破事件(1974年)などの暴力事件を引き起こし、若者たちの革命闘争が大衆や知識人たちの支持を失なっていった時代だった。
 彼は大学闘争に見切りを付けて、詩や文学で主体の再生をはかろうとした。毎日のようにして書かれたおびただしい量の詩的表現は、彼の自死した前日まで続いている。大学闘争において喪失した主体の飢餓感の激しさと、その熱量を表している。74年に書いたエッセイ「契機としての七十年」からは当時の心境が緊々と伝わってくる。

〈七十年安保闘争をひとつのメルクマークとする「政治」体験に、必ず行きつくはずである。ぼくは機あるごとに、この「政治」体験に触れてきたつもりだが、少しも納得できる型で組織できず、増々混乱している。直接的にたどっても何も出て来ないとも言ったが、「七十年」を「完敗」として受けとり、それを「感受性」の深みにおいてとらえた(とらざるを得なかった)ぼくたちの現在が、窮屈、自閉を深めてゆかざるを得ないということはどういうことなのだろう。それを時代的な契機との絡みの中で、どう把握したらいいのかという問をたてざるを得なくなっている〉
〈七十年」からすでに四年余の歳月が流れている。その間に喪ったもの、あるいは新たに所有せざるを得なかったもののことを思えば、目もくらむような思いにかられるが、そのような地点に居残っている余裕はぼくたちにはない。敗退機の困難さ——苦渋は現在的に増々深まり、ぼくたちの日々に侵攻してくる。ぼくはオノレの現在をそのようにみる。七十年反安保闘争に於ける敗北の後のいま、その敗退期に生様を晒しつづけることの意味が、その故、ぼくたちに日常的に問われているわけであり、この最も触れたくない部分との交錯点において、ぼくたちは自らの生を把握し、根拠づけてゆく作業に耐えてゆかねばならない。そこにしか自らの意味は有り得ないはずだし、意味づけてゆく主体はあくまでもオノレであり、オノレの醒めつづける営為としてしかそれは為せないはずである。むきだしの個を基盤にして、何がなんでもやってゆくしかない!〉
〈七十年反安保闘争とはオノレにとって何だったんだろうという問をたてるとき、勿論、ぼくはぼくのいまある姿が、良きにつけ悪しきにつけ、「七十年」に充分よく規定されていることを了解している。からっぽな「革命」の視角からする党派的な総括でもなく、あるいは「青春」論的な意識からでもなく、オノレの現在を、最も重い「むごん」で支え、拮抗しているそれとして、現存との深い緊張の中で、オノレに向きあっている「七十年」を視つめてゆきたいと考えている〉

 北川透氏は立中潤の思想的精神を「断念」という言葉で論じている。
「彼の精神の表情を一言で言おうとすればどうなるだろうか。わたしはそれを、断念という病巣にの中に立ちつくした生とでも、ひとまず名づけておきたい。断念は巨きな時代的契機をもって全面的だったが、彼はそこに何の防御もなく立とうとしたのである。むろん、ある意味で、現在、断念は一つの時代病となっている。時代病の中に安住しうれば、それは容易に美意識にも、自然にも、そして、諦観にも小さな幸福の意識にも移行しうる、しかし、立中にはそのどこへ行く通路もふさがっていた。いや、その通路に虚偽が彼にはよく視えていたのである。彼は断念を病ませられ、その病ませられている自分を、想像力への源泉として引き受けるしかほかなかった。」
「わたしは、先に立中潤に断念という病巣は、巨きな時代的契機をもっていると書いたが、その中心を占めるものの一つに、彼の政治的思想の問題があるだろう。一九七〇年に早稲田大学(革マル)に入学したことが、彼にとっては決定的に意味を持った。彼にとって大学は、世界を知り自己を開放する場所であって、それを何よりも学生運動の機能のなかに求められていたのである。世界を知ることと、それを変えることが緊密に一体化して思想する場所というのが、彼の大学=学生運動に見出したものではなかっただろうか。」
「この幻想はすぐに破れる。党派的に系列化された学生運動の中では、その思想する場所は、はじめから一定の固い枠がはめられ、自由に思想するのではなく、信仰する場所になってしまっているからである。その断念を、詩や文学における全体性の回復という形で、乗り切ろうとしていった。この断念は、現実的な場所の喪失をもらたしたということである。」
「多くは自分の意志と関係なく、いやな職業を押し付けられるというのが、分業の社会というものである。立中は、この問題に直面して、職業選択にかかわる自分の意志をすべて放棄した。そこには社会的な位階に対する上昇志向を断ち切るという彼の断念が働いているわけだが、しかし、同時に彼のどうしようもない甘さ、甘えが会ったように思う。なぜなら、息子の断念のために両親は、風土の中の地縁、血縁を頼って、息子の就職口を見つけることになるからである。」
「自己放棄とという形で、両親に、そしてその家が取り結んでいる濃密な血の風土に、彼自身は甘えかかっているのだから、この関係が緊張していけば、相手を殺害するよりは、自分を殺害する方向へ行くのは、ああるいは自然な勢いだったかも知れない。三月になって自分の間違いに気づき、根本的な反省を下記つ付けている。しかし、すでに時は遅かった。彼がやり方を根本から変えようとすれば、彼を迎え入れた濃密な風土的な関係と全面戦争は避けられなかったかも知れない。それをしなかったのは、あるいはできなかったのは、彼の存在の根幹をおかしている断念という病いのなかで、死の想念がもはやどのような生活的意力をもくじいてしまうほど、成熟していたからであろうか。」

 辛辣な意見だが、北川氏は自分と関わった若き詩人の死が無念と感じた上でのことなのだろう。
 北川氏は立中の「断念」という病のことを「甘え」があると語っている。つまり、主体の弱さということだと思う。若者が父権的封建制度から自立するために、煩悶することが通過儀礼みたいなものだ。立中はそれを政治的なもので乗り越えようとして失敗した、その敗北感を糧に詩作で自分の居場所を求めようとしたが、その壁を突破できなかった。就職の際に両親のコネで決まったのが資本主義の権化のような金融機関であり、父権的封建制度からに抜き出せないまま自己矛盾に陥り行き場を失った……。主体が弱いと書いたが、主体の弱さに忠実という方が正しいかもしれない。主体が強く、主体と客体のバランスよければしたたかに生きれたかもしれない。しかし、若き詩人の魂は主体の不完全燃焼の爆発が詩作の源泉でもあるし、詩人にとっては死も1つの創造であり敗北ではないと理解したい。

♪  河岸の向うにぼくたちがいる
 風の中にぼくたちがいる
 みんな夢でありました
 みんな夢でありました
 もう一度やりなおすなら
 どんな生き方が
 あるだろうか


 森田童子は「みんな夢でありました」で〈もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか〉と問いかける。
 立中潤と森田童子は1952年生まれだ。彼らの世代は、全共闘運動の最後の最後に関わったものの正確には全共闘世代ではない。したたかな全共闘世代が暴れまわった「お祭り」の後片付けをさせられ、全共闘世代が就職して社会に逃げていくのを眺め、組織全体についても知らされず、使い捨ての一駒として上層部の命令に服従し、内ゲバによる殺し合いに加担しなければいけなかった「内ゲバ世代」であり、若者たちの革命闘争の「名もなき世代」なのかもしれない。70年代前半は特別な時代だったと思う。1960年代生まれの僕にはよくわからない。各党派による大学闘争と大学紛争といっても多少のニュアンスが違う。ノンセクトによる自治会の学生運動を含めると、それぞれの「正義」が何なのかよくわからない。各党派のヒエラルキーが崩壊していく中で、自己否定を突き詰め純化(原理主義化)し、イデオロギーの違いで殺し合い、一般学生(一般人)をも巻き添えにした時代である。若者の生き方は時代精神を象徴していると言われるように、運動に関わらなかった若者たちの中にも、こころに深い傷を負って自ら命を絶った者も多かったという。
 しかし、時代がどうであろうと人間の理念の中心にあるものは変わるものではない。社会の矛盾に対しては声を上げなければならないし、権利を主張すれば「政治的」なものと闘わなければならない。結果はどうであれ、革命共闘世代が人生を棒に振る覚悟で闘った純粋な正義感だけは忘れないでいたいと思う。
 さよなら、1975年—— 。自己を否定の否定=肯定的な形で乗り越えていくことこそが革命の「ロマン」である! 主体はあくまでもオノレである!
 
参考文献:『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』、『闇の産卵 立中潤遺稿 日記・書簡』

十七才の風景 高岡和子の詩  

 一九六四年二月の夜、一人の天才的な少女詩人が、湘南海岸で短い命を絶った。
 多くの創作者が、自らの才能によって押しつぶされ、真理を求めて心を破壊していったように……。
 幼ないころより詩を書くことに喜びを覚えた彼女は、詩人として生きていくことを決心した。誰にも明かすことなく、中学一年から高校まで詩作を続け、自分の苦しみや悲しみ、孤独感、そして喜びや感動を、心象詩としてノートに書き続けていた。
 そのことは家族すらも知らなかったという。
 彼女は、心の叫びを書き残して、寒い冬の海に帰った。浜辺に置かれたノートは、見つかるまで、三日三晩、波風にさらされていたが、その内容は友人や兄妹らの手によって、遺稿集『雨の音』として発表された。
 雨の音とは、中学三年のとき彼女が書いた詩だった。

「雨の音」 高岡和子

ポトンとおちた瞬間に
心もいっしょにふるえるような
雨の音
孤独を音にしたら
こんなふうになるだろう   (中三・六月)

 そして、いま再び、彼女の鮮烈な詩が甦るときがやってきた。
 傷口で風を感じるような鋭敏な彼女が、いまを生きる小さな詩人たちの胸に……。
(『さようなら十七才 海と心の詩』 高岡和子 2012年/リーダーズノート出版 より) 

 海の聲が聞こえる街で育ち、海の聲が聞こえる街で彼女の詩と出会った。遠いむかしのことだ。
 高岡さんの「死」は海と溶け合い「風景」として、僕の「生」の断片に臥せる「現象」になっている。
 思春期に達した人間は「死」そのものに強い関心を示す。それは自意識が芽生え、自らの「生」が「永遠」でないことを自覚するようになるからだ。思春期の「生」というのは、喪失感を内面化することであり、孤独感を胸の奥に抱え込み息苦しさを感じながら生きることだ。

「祈り」 高岡和子

かみさま
わたくしは
どこから来て
どこへ行くのでしょう
  
かみさま
わたくしは
どうして生まれ
どうして死ぬのでしょう

かみさま
わたくしは
しあわせですか……   (中二・九月)

「空」 高岡和子

口でいえる深さとは
    人間の深さだ
空は そんなものではない
空は 人間と同じではない
空は 空だけしか知らない   (中三・二月)

「無題」 高岡和子

波の音だけが耳をおおい
風だけが私の手をとり
砂だけが意識し
空だけが見ている

けれど
波の音ははかなく
風は見えない
砂は無言で冷たく
空は遠い
空は遠い……   (中三・二月)

 高岡さんは十七才で逝った。
 十七才という季節は、子どもでもなく大人でもない季節であり、子どもでもあり大人でもある季節だ。大人の都合によって、ある時は「子どものくせに」と言われ、ある時は「もう大人なんだから」と言われる。この両義性の矛盾を内包させられて生きていたことを今でも覚えている。自分自身の存在を確認することも困難で、暗闇の中で色々なものにぶつかって全身が傷だらけになりながら自分自身を確認し、自分自身にしか見えない「風景」を手探りで探していた。
 思春期の季節は遠く過ぎ去ったが、「漠然とした不安感」や「現実に対する嫌悪感」は現在に至っても続いている。おそらく自分は世の中と折り合いことなどできず、生きづらさを抱えたまま一生を終えるだろうと思う。

 限りある「生」の中で、「永遠」なる「風景」を見つけることが生きる意味だと思う。
 ランボーは、
 ……また見つかった! 何が? 永遠が。 それは、海。 溶け合うのは、 太陽。
 ブレイクは、
  ……一粒の砂に世界を見/一輪の野の花に天国を見/掌に無限を乗せ/一時のうちに永遠を感じる
 と語る。
 高岡さんの詩は、波光のように「永遠」に煌めき続けている。
 「永遠」とは、人間を超えた存在を感じ真実の世界に近づくことである。言葉をかえると、自分が自然の中に融けこんで、見えない存在となり、自然と一つにつながっていると感じることだ。
 高岡さんの詩を想いだす。

「無題」 高岡和子

あの汽車に乗れば
どこか
どこかへ行けるのだ

そうしたら
海を
山を
空を見よう

そうしたら
砂の上に
草の上に
雲の下にねそべって

歌をうたおうか

地面や空に
とけこうもうか   (中二・九月)

鳥になれ 鳥よ

「鳥」 安水稔和

鳥よ

花が咲いてもとっくに散って。
風が吹いてもとっくに止んで。
河が溢れてもとっくに涸れて。
水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
声かける。

―鳥になれ。
鳥よ。

 安水稔和さんはこの詩で人間の回復を訴えている。

 鳥が鳥として容易には生きられないという認識がその裏にひそんでいます。だが、鳥は鳥として生きるしかないし、鳥は鳥としてこそ生きたいのだ。ありかたの全体が、人間の回復がここでは呼びかけられているのです。
 あなたは今、自分が部分としての生き方を強いられていると強く感じはしないでしょうか。鳥は鳥でなければならぬ。あなたでなければならぬ。一度口にだしていってみてください。
 さあ。
 鳥になれ。
 鳥よ。

 鳥が鳥として生きられないのは、大気汚染・大気汚染・放射能汚染などの環境破壊を引き起こす人間の仕業だ。鳥が鳥として生きるためには、人間が人間として生きなければならない。人間が組織の一部として隷属的になれば、銭ゲバな機械人間や、空っぽなプラスティック人間に陥りやすい。人間が人間である為には、自然界に於ける人間という存在が、生態系の一部であるという視点に還らなければならない。
 鳥をイメージする時に、大空を飛ぶ鳥や水辺に佇む鳥だけを想うのではなく、走っても走っても飛び立てない鳥、首を泥田に突っ込んで息絶えた鳥、首を大きな手で握られた鳥、太陽のなかへ飛び込む鳥、もはや鳥とはいいがたい鳥たちの悲しみを想う事だ。
 さあ。
 人間になれ。
 人間よ。

参考文献:『鳥になれ 鳥よ』 安水稔和 花曜社

雨にもまけず

「雨にもまけず」
変詩/桝川濁(原詩/宮澤賢治)

雨にもまけず
風にもまけず
帝国主義にも軍国主義にもまけぬ
強い思想と意志をもち
私有欲はなく
決してヒヨらず
いつも何かの本を読んでいる

一日にハイライト一箱と
学園食堂にうどんを食い
あらゆる事を自分の問題として受けとめ
よく見聞きし判り
そして忘れず

体育館の二階の
小さな部屋にいて
東にデモあれば行って機動隊に石を投げ
西(西門)に検問体制あればヘイを乗り越えて学内に入り
北(梅田)でクラブの忘年会あれば野球ケンでパンツ一枚になり
南に合同読書会あれば行ってカッコイイことを言う

封鎖解除の時は涙を流し反革命者には正当な暴力をふるう
後期試験もどこ吹く風でせっせと「正午」の原稿を書き
パチンコもマージャンもせずいつも文芸部の仕事をし
女の子から「すてき」と言われる
そういう人間に私はなりたい

(『日本反政治詩集』 立風書房刊 1973年 より)

 安保闘争や全共闘運動は、身体的記憶はまったく無く遠い昔の寓話のようだ。しかし、団塊の世代からひとまわり離れ、彼らが残した「管理教育」という負の遺産を背負わされた世代にとっては、この種の詩を読むと胸のすく思いになる。
 現在は「デモをしても何も変わらない」とか「世の中そんなものだ」と考え、政府や社会に対して抗議運動をしている人を横目に冷笑したり、勝ち馬に乗って羽振りよく生きていこうとする風潮が強い。しかし、デモで社会は確実に変わる。なぜなら、デモをすれば日本人はデモをする社会に変わるからだ。それよりも大事なのは、自分がシニシズム(冷笑主義)に陥らないようにする事だ。
 シニシズムというのは希望を失ったときに傾倒する。現在の若い人たちが、希望を持つことがリスクになるくらい先行きに失望し、安易に権力に迎合して「権利」を頂戴する姿は悲しい事だ。民主主義において権力に対する「抗議」は、市民に許された「表現の自由」であり、「市民の権利」というよりも「市民の義務」だと思う。

生きるに希望なし、自我あるのみ

 DADAウイルス(ダダイスム)の感染力は強い・・・。
 DADAウイルスの感染源は、第一次大戦中(1916年)のスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテール。フーゴ・バルとエミー・ヘニングスはドイツからトリスタン・ツァラはルーマニアからハンス・アルプはフランスから、自由と独立を求めてヴォルテールに集まってきた。彼ら若者たちは社会への嫌悪感、未来への不安を共有しつつ、新たな生を模索しようとした。そんな中からウイルスは生まれ、感染は瞬く間に世界中に広まっていった。
 日本で最初に感染が確認されたのは、1920年8月15日付けの『萬朝報』紙に載った「享楽主義の最新芸術」と「ダダイズムー面観」という2本の記事。感激した高橋新吉はすぐさま感染した。1921年4月に詩誌『シムーン』創刊号に発表した「倦怠」が、日本文学史上の最初のDADAの文学作品といわれている。

「皿」 高橋新吉

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
 額に蚯蚓(みみず)匍う情熱
白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処(そこ)にも諧謔が燻すぶつてゐる
 人生を水に溶かせ
 冷めたシチユウの鍋に
退屈が浮く
 皿を割れ
 皿を割れば
 倦怠の響が出る

 この「皿」という詩は、貧乏な新吉が食堂の皿洗いのバイトをしていた時の心境が綴られている。最後の3行の「皿を割れ/皿を割れば/倦怠の響きが出る」は、社会の底辺でもがき苦しむ労働者の心情の吐露である。
 第一詩集『ダダイスト新吉の詩』の巻頭にあたるマニフェスト的散文詩「断言はダダイスト」は、「一切のものがDADAの敵だ。/一切を呪ひ殺し、啖ひ尽くて、尚も飽き足らない舌を、彼は永遠の無産者の様にベロベロさしてゐる」という言葉で締めくくられているように、DADAの本質とは社会的権力に対する反逆精神なのだ。

 人は誰でも思春期に自我に目覚める。自分が世界の中で「かけがえのないひとり」であり、同時に「その他大勢の中のひとり」でしかないという二重性を生きなければならない。何者でもない僕が青年期にDADAに感染した理由として、辻潤を通してステイルネルの〈唯一者〉の概念と出会った事が大きい。「いかなる人間的共通性にも解消できない〈私〉という自我を目指す」と内意して生きてきた。
 いまだにDADAウイルスに感染している・・・。

井田真木子という情景

 本質は事後的に気付かされる。
 井田真木子さんの『プロレス少女伝説』は読過していたが「井田真木子」 という名前はひとつの活字として僕の頭の中で眠っているだけだった。
 四方田犬彦氏の著書を読んで再び「井田真木子」という名前と出会った時は、彼女が亡くなってから20年以上も経っていた。そして、彼女が詩人であった事も知った。

「食べるべきものもロクに食べず、極度の栄養失調に陥り、救急車で運ばれた先の病院で息を引き取った。井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた。そして、死ぬとたちまち忘れられた。彼女のことをなんとか記憶しておきたいという編集者が、死後13年目に、ようやく絶版本を探し出し復刊させた。『井田真木子著作撰集』である」(四方田犬彦)

「気息 Ⅰ」 井田真木子 (『雙神の日課 詩』 無限 1975年より)

火山弾が冷える
七月
原人の
眠りが 途絶えた
彼は
どなりながら
大陸棚に 降り立ち
途端に
遠い雨を もとめて
立ち去る
僕の王国を ごらん!

アカメガシクの葉影で
〈闇のエルフ〉が
呼ぶ
毛深い塊が
華やかな 闘いの空に
勃起している

ベネディクティンを 飲み干す
〈闇のエルフ〉の背に
祭儀の 棘 は
刺さった
〈闇のエルフ〉を
不意に訪問する
始祖鳥の
病の 記憶!
僕の中の
原人が
一人
青銅の 眠りから
起きあがる
彼の名に 誰かが 触れた

彼は 思っている

線状β 文字の
輝きが
彼 を
襲った

※闇のエルフ:いたずらを好み、傷痕を残さずに不意に痛みを残さずに不意に痛みをおこさせる小さな鉄の矢を射る闇の妖精。

 神の日課という題は、インド最古の文学であるといわれるリグ・ヴェーダからヒントを得てつけたものです。リグ・ヴェーダの神々にはそれぞれに捧げられた歌があり、その歌によって各々の神の姿は歴史を一瞬にしてとびこえる力を得るといえるでしょう。
 リグ・ヴェーダに限らず種々の神話や、日常に密着してつくられた儀式に付随する辞や歌は、前述の様な歴史を透徹させる力をもつと同時に、ある同じ強い情感によって貫ぬかれていると思われます。二年ほど前から、その情感が何であるかという疑問は私をとらえて離しませんでした。その情感は古代の辞にだけではなく、極く最近の詩人の詩や小説にさえみつける事が出来ました。それは日常、自分が経験し慣れている喜怒哀楽の四つの感情と根本を同じくしながらも、はるかにそれを超越し、強いていえば怒り以上の怒り、喜びの感知され得る領域を脱した喜びということが出来、これを換言すれば、未だ人間の中で発掘し尽されていない未知の感情ともいえると思います。私は無数の散乱した言葉や物を、この情感を焦点にして一つのたちあがった情景にするという事を処女詩集を編むにあたって試みてみました。 (「あとがき」1975年 井田真木子より)

「街には人がいたか」 井田真木子 (『街』 無限 1977年より)

A・Dは1950年代にうまれている

しばらくして
同じ子宮から
似た名をもったヒトがうまれた
彼の兄弟は
1960年代のある日
彼の手から最初のものを奪った
彼は1960年代の始めの2・3年間
オモチャの機関車と悪戯心
シャツの二番目のボタン
などは奪われたが
その次の2・3年間よりはまだ多くをもっていた

その次の2・3年で
彼は
英字絵本
興奮して眠れぬ夜
我儘に透きとおった心
虫をとじこめて爆死させる遊び
そして嫉妬心を奪い去られた
それらのものは
だいたい彼が気付かぬうちに盗みとられたものばかりだが
が この2・3年のうちで
彼が 略奪に気付いたことがひとつだけあった
それは
彼の兄弟が朝食の卓の下で彼の貧乏ゆすりを盗みとった時のことだった
それが盗まれた瞬間
彼は急に足先が失神したのを感じ方をみたのだった
弟は
マーマレードだらけの口を小さくあけて
奪いとった 貧乏ゆすりの幸せに目を固く閉じていた
彼は弟にとびかかり
肩をつかんで揺さぶった
弟はそれでも返すとはいわなかった
それどころか細い足を彼に前に突き出して
今奪った貧乏ゆすりを
彼にみせびらかした
彼は弟を部屋の隅に吐息とばした
弟は
口のまわりのマーマレードをなめなめ
足を小刻みに動かしていた

(中略)

1970年代の何年間か
彼は略奪に慣れたのかあるいはもう完全に諦めたのか弟とその盗みの手に何の興味も示さなかった
彼はもう暗がりの中でクモの遊びをすることもなかったし外の世界に色調に気を取られているようだった
彼は気の利いたことをしばしばいい
陽気で
親切で
辛抱強く
過不足なくて
取柄もなかった
彼は黒点を知った太陽だった
彼の内部の熱感はさまされることがなかった
彼の恋人達は
彼が眩しくて血のように重いと思った
その中で最も不幸な一人は
彼の重く熱い血の感触の中に失われた不安の記憶がただよっているのを探りあてた
彼女は
世界のカギを目前にして崩れ落ちた
彼の血管の奥深くひそむその記憶がなければ
彼の重い血の一滴はすべての人にのぞまれるものだったのだ

1970年代のある日
彼は
目の前を横ぎったブヨをみていた

    (彼は自分が何であるかを知った)

彼は
春のブヨを素手でつかまえた

    (彼は手の中のブヨよりも更に小さいのだった)

彼の恋人達は
彼をまだ眩しいと思った

彼は何者でもなかった
彼は数年ぶりに弟の寝床にいきそこに自分の残骸を眺めた
そして掌を開いた
手にはブヨがいた
ブヨはあと数秒で
飛んでいくだろう

 「夢的」であるとはどのようなことだろうと考え、あらためて「夢」という言葉を眺めてみると、それは「夢想」「夢みがちな」「夢に逃げこむ」等といったファンタジックで非現実的な語感をもっています。しかし実のところ実際に私達がみる「夢」はファンタジーとは程遠いものでむしろ多くの人間のきれぎれの訴えや、途切れがちな実生活の記憶からなっていると私は思います。
 そして、その実生活の記憶とは、満員電車の吊り皮と雑踏の絡まりあう風景、「てのひらにのるこのテープでなんと120分の録音が可能です。」
といった吊り広告の文句、隣りの席の乗客の誰にいうともない不満、といったこの上なく日常的なものではないでしょうか。又、「夢」は幼児期をしばしばみごとに再現してくれますが、同時に現実の精緻な描き手でもあります。
 私はこの詩集で現実がより現実へむかう姿としての「夢」の一性格に似せた一夜にして半生の作品をつくれないだろうかと試みてみました。 (「あとがき」1977年 井田真木子より)

 井田真木子さんは大学時代に2冊の詩集を刊行した。フリーランスのノンフィクションライターになったのは出版社勤務を経た25歳(1981年)の時だ。バブル期を挟んで日本経済が、天国から地獄に落ちた時代をフリーのライターとして仕事をしていた事になる。僕も同じ時代をフリーのGデザイナーとして仕事をし、現在に至っている。四方田犬彦氏が語る「井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた・・・」という言葉には心が痛む。
 コネが無い人間がフリーランスで生きていこうとすれば向上心が全てだ。生活を犠牲にしてまで頑張らなければ生き残る事ができない。井田さんがライターとして評価さたのがバブル崩壊後の出版不況に向う時代であり、減少する仕事を奪い合うのが当たり前だった時代ならなおさらの事である。

 僕ら世代の若い頃は「日常」における「非日常」が文学や演劇などの文化活動のテーマだった。死ぬほど退屈で孤独な「日常」に、井田さんの詩集のテーマでもある「夢」や「神話」などの「非日常」を内面化する事で、現実の世界の中でも「自分だけの世界」を生きる事ができた。しかし、バルブが崩壊し、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件が起きた時代とは「日常」が壊れて残酷な「非日常」が始まった時代であり「夢」を見る事も「自分だけの世界」を創る事もできない時代だ。努力しても報われない若者たちの「引きこもり」や「漂流化」が社会問題として表面化したのがこの時代だった。
 井田さんのノンフィクションライターとしての取材対象はマイノリティ達が殆どだ。「日常」が壊れ、社会が壊れ、人間が壊れ、居場所を失うストレンジャー達を、寝食も忘れ寄り添い、ペンを持って社会と戦う姿はセカイ系のヒロインのようだ。誰かを救おうと思えば「自分だけの世界」から出て、壊れた現実の日常の中で戦わなければならない。それは、自分の中に苦しんんきた同時者性があり、引き裂かれていく自分を言語化しようとする詩人の感性の戦いでもあったのだと思う。

 無駄話になるが、衆議院総選挙で某大物2世政治家が落選した。敗戦のコメントが「勝負は時の運」という事らしい。その1ヶ月後には首相の「お友達人事」で救済ポストが与えられた。その時のコメントが「まだ私も十分に体力・能力ともにあると思っている」という事らしい。しかし、数日後には「過去のズル賢い行為」がネットで炎上してあえなく辞任した。
 本質は事後的に気付かされる。

(2022年2月11日)

荒地に吹いた風

 戦争の爪痕が色濃く残る1947年、詩誌「荒地」の創刊のために戦後日本の現代詩運動の中心となる詩人たちが集まった。「荒地」は戦前から詩を書き続けていた青年たちが、戦後の状況を絶望と死の影にみちた〈荒地〉と認識し、「破滅からの脱出、滅びへの抗議は僕達にとって自己の運命に対する反逆的意志であり、生存証明でもある」と主張した。それは、時代の様相への批評と人間の実存を核とする詩の出発という意味でもあった。
 敗戦から77年経過し「荒地」のメンバーたちは既に鬼籍の人になってしまった。敗戦後の〈荒地〉は実り豊かな大地になったのだろうか。

「浜で」 衣更着信
水際からほんの少し引き上げられただけで
砂のうえで舟はすっかり元気を失う
だが心配することはないんだろよ、魚のように
おまえは乾いて死にはしない

 この詩は、「荒地」のメンバーのひとりである衣更着氏が1983年に発表した『孤独な泳ぎ手』という詩集に収められている。
 敗戦復興した日本経済は、大量生産、大量販売、大量消費で、1983年頃はバブルに向かう手前の時代だった。若い女性の詩人たちの活躍があったものの、戦争を経験してきた詩人たちは、潮が引くように元気がなくなっていった。平和ボケした不毛な時代にあって、誰もが戦争や敗戦後にリアリティを感じ無くなったと同時に、小難しい詩を書く詩人たちが活躍する場が無くなってしまったのだ。
 日本の現状を憂いた衣更着氏の不安や苛立ちの根底には「水際からほんの少し引き上げられた」舟のような気持ちがあったのではないか。そして、「浜辺に打ち上げられた魚のように乾くもんか」と自分に檄文を発していたんじゃないかと思う。表現者とは何かを伝えると同時に、自分の大事な部分が変わらないための闘いでもある。

衣更着信(きさらぎしん)
1920年2月22日、香川県大川郡白鳥村(現・東かがわ市)生まれ。
本名は鎌田進。最初、如月信のペンネームを使ったのが、のちに衣更着信とした。これは平家物語に「きさらぎ」を、「衣更着」としてあったにので、改名したということである。大川郡三本松中学校在学中の1935年頃から詩作を始め、詩誌『若草』に投稿。明治学院高等商業部に進学して上京し、鮎川信夫らとともに『荒地』の前身である『LUNA』の創刊に参加。以後『ル・バル』『詩集』『荒地』に作品を発表。50歳まで郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して活動していたが、退職後は詩作・翻訳活動に専念した。
東京での学生生活は、中桐雅夫の「ルナクラブ」に所属し、森川義信、牧野虚太郎、田村隆一、鮎川信夫、北村太郎、三好豊一郎など、現代の一流詩人たちと交流を深めた。1968年に第1詩集『衣更着信詩集』を思潮社から出版、1976年に第2詩集『庚申その他の詩』を季節社から出版、1987年に第3詩集『孤独な泳ぎて』を書肆季節社から出版、1994年に第4詩集『モダニズムの絵』を思潮社より出版、詩集以外にも、詩や小説の翻訳も手がけている。
2004年9月18日午前1時、多臓器不全により高松市内の病院で死去。享年84歳。

 この年譜は「香川県詩史」笹本正樹著のテキストを参照しています。
 笹本氏は取材で衣更着信邸を訪れた際に、年譜を作るのに衣更着氏にいろいろ尋ねたところ「年譜なく生きることこそ、詩人らしいことである」と言われたそうだ。謙虚な詩人らしさに好感が持てたと記しています。

「左の肩ごしに新月を見た 勤労は夕べにまでいたる 詩篇」 衣更着信

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
光のない 色だけのかたむいた弧にさえ
ぼくは祈る さいわいはぼくぼくらの上にあれ
一条の幸運なと ぼくらの前に射せ

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
その目は あるいは似ていたかもしれぬ
弱い動物のもつ かなしい被害者の目に
一条の幸運なと この目び前に射せ

紺の海の上に落ちかかる雲の不吉なかたち
皮膚の熱をうばって吹く風のながれ
ぼくらを捉えた無言の威しよ 去れ

ぼくらの胸の ぼくらのかなしみをいとおしめ
とおい国の歌もおもい出してうたおう
勤労は夕べぶまでいたる 旅は冬に終わる

 敗戦後に衣更着氏は、郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して詩を書いた。この詩は、1952年「荒地詩集第2巻」に寄せたものであり、第1詩集『衣更着信詩集』の巻頭に収められた。
 この詩について三好豊一郎氏は語っている。

・・・「左の肩ごしに新月を見た」が『衣更着信詩集』の巻頭に置かれたのは、彼の詩の特質である節度と落ちつきと比喩の巧妙を語ってふさわしい。添え書きに「勤労は夕べにまでいたる 詩篇」とあるのも、またこれが詩句に援用されてあるのも、戦後の労働観からみれば、至って古典的でゆかしい、いやゆかしすぎるといえるかもしれなぬ。
この詩に込められた作者の労働に対する思いとは、労働とは神から与えられた人間生活の基本行為であり、近代の工業を主とする労働意識とは異なり、ひたすら人間の生存への労働の希いとなっている。
夕べに早々と空に浮かぶ新月に「さいわいぼくらの上にあれ、と祈る」思想的根拠が彼の生活の周囲にはまだ生きていたのだろう。「弱い動物のもつ、かなしい被害者の目」とは、燔祭の羊、あるいは狩りの獲物、犠牲に供される動物への、祈りの心から見られた目だ。「紺の海の上に落ちかかる雲」「皮膚の熱をうばって吹く風」とは荒々しい自然の現象そのものだが、思考の飛躍も用意されている。終わりの2節、「とおい国の歌」のとおい国とは他国か自国か、また「旅は冬に終わる」の旅の意味するところも、不意に差し出されたカードにように一瞬視線を立ちどまらせる。旅が単に旅行にとどまらぬことは明らかだ。

「とびうおの歌」 衣更着信

うねりの下にうねりよりも青く生きていた
線条のような柔らかな骨は
プランクトンと潮が作るしなやかな肉ぐるみしなった
撃ちこまれた鉛のようにはやく沈んだ

しぶきをあげて悲しいかもめの啼き声を拒否した
胸びれにはげしく風をはらんで

危険な空気のなかにしばらくとどまった
星にはつづかぬ旅 紡錘形のけなげな不幸

白いぬれた胸に叫びをつめて
燃えつきる蠟燭のように横腹にきらめく太陽

追われ追われて追われることに
つきとおされた嘘のように慣れっこになっていた
死んだとき血も脂肪もなかった

 僕が一番好きな衣更着氏の詩は、同じく『衣更着信詩集』に収められている「とびうおの歌」だ。
 とびうおは大型魚に食べられないために、羽根という武器を身につけ大海原を休む事なく飛び回る。衣更着氏は、全身全霊で詩作に励む自分をとびうおに重ねた。死んだときは「血も脂肪」も残らず、全てを詩に捧げるという切迫した想いが込められている詩だ。
 敗戦で〈荒地〉だった街は、華やかにビルが建ち並らびインフラも整備されているが、そこで生きる人間たちは豊かなのだろうか。1921年度の日本のGDPは世界3位だ。しかし、1人当たりのGDPでは世界24位で、世界幸福度ランキングにいたっては56位である。もはや先進国ではない。敗戦当時は貧しかったが未来や希望を描く事が出来た。犯罪は多かったし、ならず者も多かったが、弱い者をいじめる社会ではなかったはずだ。「荒地」のメンバーたちや多くの表現者たちはファシズムの本質である差別主義に抗うために命を賭けて闘った。
 現代社会は、他者を論破したり、他者にマウントをとる事がカッコいいとされている。若き有識者たちは「勝ち馬に乗る」ために、権力に迎合してファシズムの渦の中に身を置いている。ファシズムからは何も生まれないし、「ことば」の世界が必然とされない。社会の不正や矛盾をカタチにするのが表現者ならば、こんな時代だからこそ、先人たちの様に多くの「ことば」を発しなければならない。
 僕のこころの中は〈荒地〉のようだ。血はドロドロに澱み、腹は脂肪の塊りだ。あの頃の「荒地」に吹いていた風の声を聞きに行きたい。

(2022年1月31日)

五輪と日の丸

 五輪という「幻想」に揺れた1年だった。東京五輪は「何」を未来に語り伝えていくのか・・・
 五輪が閉会して残ったものといえば、2度と国際的な陸上競技大会が行われない新国立競技場と、莫大な借金と、永遠に続きそうな増税と、メディアが作り上げた少しの感動物語だ。2人の自殺者を出し、コロナ感染者は入院もできず自宅で死に、今だに「原子力緊急事態宣言」も解除されてないのに、国民を分断させてまで五輪を開催した意味があったとは思えない。強いて言うなら、五輪利権に巣食っているグロテスクな存在を可視化したことが、五輪そのもの意味を考える上で重要なことだったかもしれない。
 五輪の理念とは、国を超えたスポーツを通じて世界平和への貢献である。国別対抗戦でないことが五輪憲章に明記され、国別のメダルランキング表の作成は憲章違反になりかねない。五輪は各国の国威発揚の場とされ「ベルリン五輪のユダヤ人選手排除」、「メキシコ五輪の大量虐殺」など悲劇の歴史があり、その過ちから学んだなずなのにメディアが率先して民族主義・全体主義・排外主義を煽ってさえいるのが現状だ。
 過去には「世界平和は掲げるならば国家・国旗を一切排除するべき」との声がIOCの中から発せられていた。
 五輪における国家・国旗の儀礼の廃止を積極的に提起したのは、第5代IOC会長アベリー・ブランデージ氏であった。ブランデージは自らを「クーベルタンの五輪の理想の真髄の守り手」とみなし、五輪を「商業主義や政治主義」から断固として守り抜く必要がると考えてきた。なぜなら、彼はアマチュアリズムを人生哲学とし、「騎士道の精神、競技者に対する尊敬、徹底したフェアプレーと、すぐれたスポーツマンシップといった精神的価値」に重きを置き、その上で、「競技者はもとより、組織する者も役員も五輪を自らの利益のために利用してはならないという鉄則」を堅持することを信奉したからである。ブランデージはこのような自身のオリンピズム観に則り、五輪は国家間に対抗試合ではなく、あくまで個人の相争う大会であるとして、国家・国旗の廃止を提起したからである。
 五輪の良心だった第5代IOC会長ジャック・ロゲ氏は国旗掲揚について、「五輪は個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と認識しながらも、「私が自由に選択できるなら、国旗を掲げる表彰式より五輪旗を掲げる方を選ぶ。ただ、残念ながら国旗掲揚をやめたら発展途上国のスポーツに対する投資の多くが消える。それが現実だ」と語っている。

「旗」 栗原貞子

日の丸の赤は じんみんの血
白地の白は じんみんの骨

いくさのたびに
骨と血の旗を押し立てて
他国の女や子どもまで
血を流させ 骨にした

いくさが終わると
平和の旗になり
オリンピックにも
アジア大会にも
高く掲げられ
競技に優勝するたびに
君が代が吹奏される

千万の血を吸い
千万の骨をさらした
犯罪の旗が
おくめんもなくひるがえっている

「君が代は千代に八千代に
苔のむすまで」と
そのためにじんみんは血を流し
骨をさらさねばならなかった
今もまだ還って来ない骨たちが
アジアの野や山にさらされている

けれども もうみんな忘れて
しまったのだろうか
中国の万人抗の骨たちのことも
南の島にさらされている
骨たちのことも

大豆粕や 蝗(いなご)をたべ
芋の葉っぱを食べてひもじかったことも
母さんと別れて集団疎開で
シラミを涌(わ)かしたことも
空襲警報の暗い夜
防空壕で 家族がじっと息を
ひそめていたことも
三十万の人間が
閃(せん)光に灼(や)かれて死んだことも
もうみんな忘れてしまったのだろうか

毎晩 テレビ番組が終わったあと
君が代が伴奏され
いつまでも いつまでも
ひるがえる 血と骨の旗

じんみんの一日は
日の丸で括(くく)めくくられるのだ

市役所の屋上や
学校の運動会にもひるがえり
平和公園の慰霊碑の空にも
なにごともなかったように
ひるがえっている
日の丸の赤はじんみんの血
白地の白はじんみんの骨
日本人は忘れても
アジアの人々は忘れはしない

「旗」 城山三郎

旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
社旗も 校旗も
国々の旗も
国策なる旗も
運動という名の旗も
ひとみなひとり
ひとりには
ひとつの命
走る雲
冴える月
こぼれる星
奏でる虫
みなひとり
ひとつの輝き
花の白さ
杉の青さ
肚(はら)の黒さ
愛の軽さ
みなひとり
ひとつの光
狂い
狂え
狂わん
狂わず
みなひとり
ひとつの世界
さまざまに
果てなき世界
山ねぼけ
湖しらけ
森かげり
人は老いゆ
生きるには
旗要らず
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
限りある命のために

 栗原さんと城山さんの言おうとしていることは同じだ。過去の侵略戦争・植民地支配において「日の丸」を国威発揚の道具としてアジア諸国の人々に対し多くの人の生活をふみにじり、死に追いやってきた組織の暴走。同調圧力によって国は正しいと信じ込ませ、人間を皆同じ色に染めようとしてきた人たち。そればかりか戦後もそのことに対して自己保身するだけで謝罪も補償もしていない。そうした日本のあり方を厳しく批判しているのだ。そして、「日の丸」を誇ったり、「日の丸」のために頑張る、というような単純で薄っぺらな発想がいかに愚かで謝ったことか教えてくれる。
 戦争は「特別」だからというはなしではない。東京五輪においても、メディアは盛んに五輪は「特別」だからと繰り返してきた。戦争も五輪も基本的な構造は同じものだし、歴史は真っ直ぐにつながっている。戦後の国民主義は「特別」なことを無くすためにあるはずだ。
 五輪は「日の丸」をナショナルシンボルとして利用し、メダル獲得争いを媒介にして国威発揚を促すことによってナショナリズムを生み出す。そのナショナリズムによって政治的な一体感を創り出そうとする政治界や、商業的利益を生み出だす経済界など、ありとあらゆるもによって利用される大会である。
 国や組織が振る「日の丸」の道具として利用され、自らが盲目的に「日の丸」を振ってはいけない。血に染まった「日の丸」の背後には、自分が優秀であるという傲慢さ、個人の自由を侵害し、自分と異なる人間を排除し、暴力と攻撃の力が隠れている。
 クーベルタンは、1926年にパリで行われた集会の演説で「100年後にもし私は生まれ変わるとしたら、こんどは自らの苦心作(オリンピック)をぶち壊す立場に回るだろう」と未来の五輪を案じるようなことばを残したという。
 2024年の五輪はクーベルタンが生誕したパリの地で行われる。
 あの手この手で延命させてきた現在の五輪は、政治的パフォーマンスに利用され、汚職や不正行為にまみれ、人権問題を引き起こし、自然環境を破壊し、ドーピング問題を引き起こすなど、理念とかけ離れたグロテスクな姿になってしまった。
 五輪開催の有無を真剣に議論できるのは、クーベルタンの末裔のパリ市民たちなのかもれない。

(2021年12月31日)

ハチのムサシは死んだのさ

 1972年に平田隆夫とセルスターズによって歌われた「ハチのムサシは死んだのさ」 という異彩を放った曲がヒットした。
♪ ハチのムサシは 死んだのさ
♪ 夢を見ながら 死んだのさ
♪ 遠い昔の 恋の夢
♪ ひとりぼっちで 死んだのさ
 この曲の原詩は、多くの悪役を演じた俳優であり、小さないきものや自然を紡ぐ詩人でもある内田良平さん(1924-1984年)が、1974年に上梓した第一詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』に収められた「ハチのムサシ」という詩だ。

「ハチのムサシ」 内田良平
ハチの
ミヤモトムサシは死んだんだ
とおい
山の奥の畑で
お日様と果し合いをあいをして
死んだんだ
彼の死骸は
真っ赤な夕日に照らされて
麦の穂から
ポトリと落ちて
やっぱり 確かに死んだんだ
勝てなかったお日様や
やさしく抱いてくれた土の上で
真っ直ぐな顔で
静かに
空を
むいていた

 内田さんは詩作について『おれは石川五右衛門が好きなんだ』のあとがきで語っている。
 「わたしは多少、やけっぱちで書いた。子供が叱られて、カベ板に落書でもするように、詩なんてものはどうせ役に立たないシロモノであるから、自分で楽しけりゃそれでいい、と思って書いた。
 だいたい、昔から文学者が政治家や官僚よりもえらい勲章を貰ったためしはない。少なくとも生きてるうちは、である。だからわたしもその点、勲章つまりこの国の政治から与えられる名誉への情熱ははじめから持たないことにした。
 だから必然的に、その反動として勲章をくれない階層を相手にするべく努力しなければならないと思ったのである。わたしに勲章をくれない相手は子供である。わたしが童謡をそれも、もっとメチャクチャに書こうと思ったのは、そのためである。
 子供はメチャクチャだし、わたしの性格も多少その傾向を帯びている。
(略)
 わたしが虫の詩を書くのは、彼らの方が、ずっとはっきりした顔付をしているからである。ゴキブリなんかは四億年も、たった一つの顔で生きている。日本刀が、斬るという一つの機能をどこまでも追求することによって、あのような美しさを保ちつづけているように、数億年を生きのびてきやヤツの顔をつくづく眺めると、まるで精密機械のように無駄がない。わたしたち人間の顔付ほどアイマイではないのである。
 わたしの想いを託すには、人間たちの行為や姿態よりも、彼らのほうが、ずっと、たしかであろう。それに虫たちは、子供のころからの仲間で気心が知れている。虫たちは、人間よりも、もっとぜい肉を削りとった人間の姿をして、わたしの前に現われてくれる。虫を前にして、またしても私はメチャクチャになることができたのである」

 「ハチのムサシは死んだのさ」 がヒットした理由として、当時の学生運動を示唆した楽曲で、〈ハチのムサシ〉という一人の青年が国を変えようと国家という〈太陽〉に挑戦して焼かれて死んで落ちたという内容が大衆の共感を呼んだことだという。現在は学生運動の時代も過ぎ去り〈ハチのムサシ〉は、革命的マルキストではなく、戦闘的エコロジストとしてこの曲を聴くことができる。
 資本主義社会の欲望は、自然環境を取り返しのつかない事態にまで破壊し続けている。
 世界食料の90%を受給する100種の作物のうち70種以上がミツバチによって受粉しており、昆虫や他の動物による花粉交配は世界の食料生産にとって必要不可欠なものである。しかし、ネオニコチノイド系の農薬のために多くのミツバチが殺されている。2017年にヨーロッパ連合では「フィプロニル」が全面禁止されたが、日本では今でもあちこちの田畑でネオニコチノイド系の農薬が使われている。
 2018年5月15日の農林水産委員会で、農水省の消費・安全局長は、野党議員から、ネオニコチノイド農薬とミツバチ大量死の関係や、世界で規制が進んでいるのに日本が逆行する理由を聞かれ、こう答えている。
 「大丈夫です。日本ではミツバチの大量死は、まだ年間50件程度しか出ておりません」
 農水省農薬対策室は、「国内で使用できる農薬は安全性が確認されたもので使用基準を守っていれば問題ない」という見解だ。ネオニコチノイド生産メーカーである住友化学も同様に、科学的根拠はないとして、その危険性を否定した。
 因果関係が証明されてからでは問い返しがつかないと、食と環境と国民の命を守ることを優先して予防的措置を取っているのが世界の国々であり、50軒もの農家でミツバチが大量死しても、農家のために農薬は必要だと言い続けているのが日本政府である。
 農薬使用大国ニッポンに生まれた「農薬ムラ」の主要な構成員は、農薬にお墨つきを与える農水省と、農薬を製造するメーカー、それを販売する農協などであり、これを農林族議員が支えている。
 農協は、農水省にとって行政の窓口となり、政治家にとっては集票マシーンとなる。見返りとして農水省と農林族議員は農協や農薬メーカーに有利な行政をし補助金を流す。農協とメーカーは天下り官僚を受け入れる。ムラの住人たちはこのような関係で結びついている。
 2021年5月12日に農林水産省は、持続可能な日本の農林水産業を目指して「みどりの食料システム戦略」を策定した。2050年までに化学農薬を半減するなど「低農薬への転換」を掲げたが、2050年ではあまりにも遅い対応である。
 ミツバチがいなくなれば農業そのものができなくなることを、農薬ムラの人間たちは気づいているのだろうか?
 この先、どれだけの〈ハチのムサシ〉が殺されるのだろうか?

 内田さんの詩作において〈海〉も大事なテーマのひとつである。
 没後、友人たちの手で編まれた『朱いかもめ 内田良平遺稿詩集』から4遍の詩を・・・

「かもめ」 内田良平
何があるだろう、だが、
行かねばならぬ、なお、
おれもかもめも。
母と、あしたと望郷を
口にくわえて、
ひと目見知らぬ今日を
飛び交う。
空の向こうは空、
海の向こうも海……なのに。

「たった一つ……」 内田良平
たった一つしかない。
海はかけがえがない。
誰が何と言ってもたった一つだ。
おれは叫ぶ
だがそれも
誰にも届かないひとりごとだろう。
手をひろげて 海は切り刻まれてた体を
投げ出して笑っている。

「海」 内田良平
小さく生きよう
小さなことは恥ではない

渚や 海水の中の生きものたちのように

ただ自然を信じる
いっさい海に向かって
小さく生きて終わろう
無と同じもの か……
打ち続く この波や 風や雲
草や光と同じはるかに流れ行く
それなら同じ
魚たち
おれのゆくえも知ることはない

「傷ついて……」 内田良平
傷について、ひざつき 首をたれれば
死は近く。
海のとおく
さらに とおいものを 見ようとしよう。
いける場所はありはしない。
ねがうは 荒れ立つ波の向こうに
すべてを超えるもののあるを。
風強いふるさとにたどりついて、
波をみて、死近く、首はたれ、
海はおれを生んでまた
おれを むかえてくれる。

 内田さんにとって〈海〉とは、母であり、故郷であり、生命を生み出す根源的なものでもある。今の自分を生かしている存在が〈海〉ということばで表現されている。
 「海はいいよ……海は」「こいつだけは変わらない。こいつだけは変わっちゃいけないんだ」と日ごろ友人に語っていたという内田さんは、故郷の銚子の自然破壊を憂えて、銚子市長選へ出馬を考えたこともあるという。

 海はゴミや生活排水で汚染され海洋生物が死に、大気は車の排気ガスや工場から排出される有害物質で汚染され鳥が死に、大地は農薬や森林伐採で汚染され動植物が死んでいる。そして、福島第一原子力発電所事故により排出された放射性物質が、海・大気・大地の汚染をさらに加速させている。
 地球上の生物、海、大気、大地などは相互に連携し、密接に関係し合いながらそれぞれの地域で生態系を構成し、そのバランスを保っている。生態系の一員である人間にとっても同じことがいえる。生態系から独立しているかに錯覚しがちな現代の人間社会も、多様な生物の働きから成る生態系という地球の営みの中でしか生きられない。
 内田良平という詩人が殺される側の小さな生き物の視点に立って世界を見ていたように、私たちも少しだけ立ち止まって、小さな生き物を追いかけ回していた子どもの頃を想いだし、小さな生き物の声、海や大地の声に耳を傾けなければいけない。

(2021年12月13日)