荒地に吹いた風

 戦争の爪痕が色濃く残る1947年、詩誌「荒地」の創刊のために戦後日本の現代詩運動の中心となる詩人たちが集まった。「荒地」は戦前から詩を書き続けていた青年たちが、戦後の状況を絶望と死の影にみちた〈荒地〉と認識し、「破滅からの脱出、滅びへの抗議は僕達にとって自己の運命に対する反逆的意志であり、生存証明でもある」と主張した。それは、時代の様相への批評と人間の実存を核とする詩の出発という意味でもあった。
 敗戦から77年経過し「荒地」のメンバーたちは既に鬼籍の人になってしまった。敗戦後の〈荒地〉は実り豊かな大地になったのだろうか。

「浜で」 衣更着信
水際からほんの少し引き上げられただけで
砂のうえで舟はすっかり元気を失う
だが心配することはないんだろよ、魚のように
おまえは乾いて死にはしない

 この詩は、「荒地」のメンバーのひとりである衣更着氏が1983年に発表した『孤独な泳ぎ手』という詩集に収められている。
 敗戦復興した日本経済は、大量生産、大量販売、大量消費で、1983年頃はバブルに向かう手前の時代だった。若い女性の詩人たちの活躍があったものの、戦争を経験してきた詩人たちは、潮が引くように元気がなくなっていった。平和ボケした不毛な時代にあって、誰もが戦争や敗戦後にリアリティを感じ無くなったと同時に、小難しい詩を書く詩人たちが活躍する場が無くなってしまったのだ。
 日本の現状を憂いた衣更着氏の不安や苛立ちの根底には「水際からほんの少し引き上げられた」舟のような気持ちがあったのではないか。そして、「浜辺に打ち上げられた魚のように乾くもんか」と自分に檄文を発していたんじゃないかと思う。表現者とは何かを伝えると同時に、自分の大事な部分が変わらないための闘いでもある。

衣更着信(きさらぎしん)
1920年2月22日、香川県大川郡白鳥村(現・東かがわ市)生まれ。
本名は鎌田進。最初、如月信のペンネームを使ったのが、のちに衣更着信とした。これは平家物語に「きさらぎ」を、「衣更着」としてあったにので、改名したということである。大川郡三本松中学校在学中の1935年頃から詩作を始め、詩誌『若草』に投稿。明治学院高等商業部に進学して上京し、鮎川信夫らとともに『荒地』の前身である『LUNA』の創刊に参加。以後『ル・バル』『詩集』『荒地』に作品を発表。50歳まで郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して活動していたが、退職後は詩作・翻訳活動に専念した。
東京での学生生活は、中桐雅夫の「ルナクラブ」に所属し、森川義信、牧野虚太郎、田村隆一、鮎川信夫、北村太郎、三好豊一郎など、現代の一流詩人たちと交流を深めた。1968年に第1詩集『衣更着信詩集』を思潮社から出版、1976年に第2詩集『庚申その他の詩』を季節社から出版、1987年に第3詩集『孤独な泳ぎて』を書肆季節社から出版、1994年に第4詩集『モダニズムの絵』を思潮社より出版、詩集以外にも、詩や小説の翻訳も手がけている。
2004年9月18日午前1時、多臓器不全により高松市内の病院で死去。享年84歳。

 この年譜は「香川県詩史」笹本正樹著のテキストを参照しています。
 笹本氏は取材で衣更着信邸を訪れた際に、年譜を作るのに衣更着氏にいろいろ尋ねたところ「年譜なく生きることこそ、詩人らしいことである」と言われたそうだ。謙虚な詩人らしさに好感が持てたと記しています。

「左の肩ごしに新月を見た 勤労は夕べにまでいたる 詩篇」 衣更着信

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
光のない 色だけのかたむいた弧にさえ
ぼくは祈る さいわいはぼくぼくらの上にあれ
一条の幸運なと ぼくらの前に射せ

ふり返って左の肩ごしに新月を見た
その目は あるいは似ていたかもしれぬ
弱い動物のもつ かなしい被害者の目に
一条の幸運なと この目び前に射せ

紺の海の上に落ちかかる雲の不吉なかたち
皮膚の熱をうばって吹く風のながれ
ぼくらを捉えた無言の威しよ 去れ

ぼくらの胸の ぼくらのかなしみをいとおしめ
とおい国の歌もおもい出してうたおう
勤労は夕べぶまでいたる 旅は冬に終わる

 敗戦後に衣更着氏は、郷里の香川県の三本松高等学校で英語の教師としての職務と並立して詩を書いた。この詩は、1952年「荒地詩集第2巻」に寄せたものであり、第1詩集『衣更着信詩集』の巻頭に収められた。
 この詩について三好豊一郎氏は語っている。

・・・「左の肩ごしに新月を見た」が『衣更着信詩集』の巻頭に置かれたのは、彼の詩の特質である節度と落ちつきと比喩の巧妙を語ってふさわしい。添え書きに「勤労は夕べにまでいたる 詩篇」とあるのも、またこれが詩句に援用されてあるのも、戦後の労働観からみれば、至って古典的でゆかしい、いやゆかしすぎるといえるかもしれなぬ。
この詩に込められた作者の労働に対する思いとは、労働とは神から与えられた人間生活の基本行為であり、近代の工業を主とする労働意識とは異なり、ひたすら人間の生存への労働の希いとなっている。
夕べに早々と空に浮かぶ新月に「さいわいぼくらの上にあれ、と祈る」思想的根拠が彼の生活の周囲にはまだ生きていたのだろう。「弱い動物のもつ、かなしい被害者の目」とは、燔祭の羊、あるいは狩りの獲物、犠牲に供される動物への、祈りの心から見られた目だ。「紺の海の上に落ちかかる雲」「皮膚の熱をうばって吹く風」とは荒々しい自然の現象そのものだが、思考の飛躍も用意されている。終わりの2節、「とおい国の歌」のとおい国とは他国か自国か、また「旅は冬に終わる」の旅の意味するところも、不意に差し出されたカードにように一瞬視線を立ちどまらせる。旅が単に旅行にとどまらぬことは明らかだ。

「とびうおの歌」 衣更着信

うねりの下にうねりよりも青く生きていた
線条のような柔らかな骨は
プランクトンと潮が作るしなやかな肉ぐるみしなった
撃ちこまれた鉛のようにはやく沈んだ

しぶきをあげて悲しいかもめの啼き声を拒否した
胸びれにはげしく風をはらんで

危険な空気のなかにしばらくとどまった
星にはつづかぬ旅 紡錘形のけなげな不幸

白いぬれた胸に叫びをつめて
燃えつきる蠟燭のように横腹にきらめく太陽

追われ追われて追われることに
つきとおされた嘘のように慣れっこになっていた
死んだとき血も脂肪もなかった

 僕が一番好きな衣更着氏の詩は、同じく『衣更着信詩集』に収められている「とびうおの歌」だ。
 とびうおは大型魚に食べられないために、羽根という武器を身につけ大海原を休む事なく飛び回る。衣更着氏は、全身全霊で詩作に励む自分をとびうおに重ねた。死んだときは「血も脂肪」も残らず、全てを詩に捧げるという切迫した想いが込められている詩だ。
 敗戦で〈荒地〉だった街は、華やかにビルが建ち並らびインフラも整備されているが、そこで生きる人間たちは豊かなのだろうか。1921年度の日本のGDPは世界3位だ。しかし、1人当たりのGDPでは世界24位で、世界幸福度ランキングにいたっては56位である。もはや先進国ではない。敗戦当時は貧しかったが未来や希望を描く事が出来た。犯罪は多かったし、ならず者も多かったが、弱い者をいじめる社会ではなかったはずだ。「荒地」のメンバーたちや多くの表現者たちはファシズムの本質である差別主義に抗うために命を賭けて闘った。
 現代社会は、他者を論破したり、他者にマウントをとる事がカッコいいとされている。若き有識者たちは「勝ち馬に乗る」ために、権力に迎合してファシズムの渦の中に身を置いている。ファシズムからは何も生まれないし、「ことば」の世界が必然とされない。社会の不正や矛盾をカタチにするのが表現者ならば、こんな時代だからこそ、先人たちの様に多くの「ことば」を発しなければならない。
 僕のこころの中は〈荒地〉のようだ。血はドロドロに澱み、腹は脂肪の塊りだ。あの頃の「荒地」に吹いていた風の声を聞きに行きたい。

(2022年1月31日)

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