井田真木子という情景

 本質は事後的に気付かされる。
 井田真木子さんの『プロレス少女伝説』は読過していたが「井田真木子」 という名前はひとつの活字として僕の頭の中で眠っているだけだった。
 四方田犬彦氏の著書を読んで再び「井田真木子」という名前と出会った時は、彼女が亡くなってから20年以上も経っていた。そして、彼女が詩人であった事も知った。

「食べるべきものもロクに食べず、極度の栄養失調に陥り、救急車で運ばれた先の病院で息を引き取った。井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた。そして、死ぬとたちまち忘れられた。彼女のことをなんとか記憶しておきたいという編集者が、死後13年目に、ようやく絶版本を探し出し復刊させた。『井田真木子著作撰集』である」(四方田犬彦)

「気息 Ⅰ」 井田真木子 (『雙神の日課 詩』 無限 1975年より)

火山弾が冷える
七月
原人の
眠りが 途絶えた
彼は
どなりながら
大陸棚に 降り立ち
途端に
遠い雨を もとめて
立ち去る
僕の王国を ごらん!

アカメガシクの葉影で
〈闇のエルフ〉が
呼ぶ
毛深い塊が
華やかな 闘いの空に
勃起している

ベネディクティンを 飲み干す
〈闇のエルフ〉の背に
祭儀の 棘 は
刺さった
〈闇のエルフ〉を
不意に訪問する
始祖鳥の
病の 記憶!
僕の中の
原人が
一人
青銅の 眠りから
起きあがる
彼の名に 誰かが 触れた

彼は 思っている

線状β 文字の
輝きが
彼 を
襲った

※闇のエルフ:いたずらを好み、傷痕を残さずに不意に痛みを残さずに不意に痛みをおこさせる小さな鉄の矢を射る闇の妖精。

 神の日課という題は、インド最古の文学であるといわれるリグ・ヴェーダからヒントを得てつけたものです。リグ・ヴェーダの神々にはそれぞれに捧げられた歌があり、その歌によって各々の神の姿は歴史を一瞬にしてとびこえる力を得るといえるでしょう。
 リグ・ヴェーダに限らず種々の神話や、日常に密着してつくられた儀式に付随する辞や歌は、前述の様な歴史を透徹させる力をもつと同時に、ある同じ強い情感によって貫ぬかれていると思われます。二年ほど前から、その情感が何であるかという疑問は私をとらえて離しませんでした。その情感は古代の辞にだけではなく、極く最近の詩人の詩や小説にさえみつける事が出来ました。それは日常、自分が経験し慣れている喜怒哀楽の四つの感情と根本を同じくしながらも、はるかにそれを超越し、強いていえば怒り以上の怒り、喜びの感知され得る領域を脱した喜びということが出来、これを換言すれば、未だ人間の中で発掘し尽されていない未知の感情ともいえると思います。私は無数の散乱した言葉や物を、この情感を焦点にして一つのたちあがった情景にするという事を処女詩集を編むにあたって試みてみました。 (「あとがき」1975年 井田真木子より)

「街には人がいたか」 井田真木子 (『街』 無限 1977年より)

A・Dは1950年代にうまれている

しばらくして
同じ子宮から
似た名をもったヒトがうまれた
彼の兄弟は
1960年代のある日
彼の手から最初のものを奪った
彼は1960年代の始めの2・3年間
オモチャの機関車と悪戯心
シャツの二番目のボタン
などは奪われたが
その次の2・3年間よりはまだ多くをもっていた

その次の2・3年で
彼は
英字絵本
興奮して眠れぬ夜
我儘に透きとおった心
虫をとじこめて爆死させる遊び
そして嫉妬心を奪い去られた
それらのものは
だいたい彼が気付かぬうちに盗みとられたものばかりだが
が この2・3年のうちで
彼が 略奪に気付いたことがひとつだけあった
それは
彼の兄弟が朝食の卓の下で彼の貧乏ゆすりを盗みとった時のことだった
それが盗まれた瞬間
彼は急に足先が失神したのを感じ方をみたのだった
弟は
マーマレードだらけの口を小さくあけて
奪いとった 貧乏ゆすりの幸せに目を固く閉じていた
彼は弟にとびかかり
肩をつかんで揺さぶった
弟はそれでも返すとはいわなかった
それどころか細い足を彼に前に突き出して
今奪った貧乏ゆすりを
彼にみせびらかした
彼は弟を部屋の隅に吐息とばした
弟は
口のまわりのマーマレードをなめなめ
足を小刻みに動かしていた

(中略)

1970年代の何年間か
彼は略奪に慣れたのかあるいはもう完全に諦めたのか弟とその盗みの手に何の興味も示さなかった
彼はもう暗がりの中でクモの遊びをすることもなかったし外の世界に色調に気を取られているようだった
彼は気の利いたことをしばしばいい
陽気で
親切で
辛抱強く
過不足なくて
取柄もなかった
彼は黒点を知った太陽だった
彼の内部の熱感はさまされることがなかった
彼の恋人達は
彼が眩しくて血のように重いと思った
その中で最も不幸な一人は
彼の重く熱い血の感触の中に失われた不安の記憶がただよっているのを探りあてた
彼女は
世界のカギを目前にして崩れ落ちた
彼の血管の奥深くひそむその記憶がなければ
彼の重い血の一滴はすべての人にのぞまれるものだったのだ

1970年代のある日
彼は
目の前を横ぎったブヨをみていた

    (彼は自分が何であるかを知った)

彼は
春のブヨを素手でつかまえた

    (彼は手の中のブヨよりも更に小さいのだった)

彼の恋人達は
彼をまだ眩しいと思った

彼は何者でもなかった
彼は数年ぶりに弟の寝床にいきそこに自分の残骸を眺めた
そして掌を開いた
手にはブヨがいた
ブヨはあと数秒で
飛んでいくだろう

 「夢的」であるとはどのようなことだろうと考え、あらためて「夢」という言葉を眺めてみると、それは「夢想」「夢みがちな」「夢に逃げこむ」等といったファンタジックで非現実的な語感をもっています。しかし実のところ実際に私達がみる「夢」はファンタジーとは程遠いものでむしろ多くの人間のきれぎれの訴えや、途切れがちな実生活の記憶からなっていると私は思います。
 そして、その実生活の記憶とは、満員電車の吊り皮と雑踏の絡まりあう風景、「てのひらにのるこのテープでなんと120分の録音が可能です。」
といった吊り広告の文句、隣りの席の乗客の誰にいうともない不満、といったこの上なく日常的なものではないでしょうか。又、「夢」は幼児期をしばしばみごとに再現してくれますが、同時に現実の精緻な描き手でもあります。
 私はこの詩集で現実がより現実へむかう姿としての「夢」の一性格に似せた一夜にして半生の作品をつくれないだろうかと試みてみました。 (「あとがき」1977年 井田真木子より)

 井田真木子さんは大学時代に2冊の詩集を刊行した。フリーランスのノンフィクションライターになったのは出版社勤務を経た25歳(1981年)の時だ。バブル期を挟んで日本経済が、天国から地獄に落ちた時代をフリーのライターとして仕事をしていた事になる。僕も同じ時代をフリーのGデザイナーとして仕事をし、現在に至っている。四方田犬彦氏が語る「井田真木子はいつも捨て身だった。誰かに庇護されたり、安全地帯に身を置いたりして書くことを拒んできた・・・」という言葉には心が痛む。
 コネが無い人間がフリーランスで生きていこうとすれば向上心が全てだ。生活を犠牲にしてまで頑張らなければ生き残る事ができない。井田さんがライターとして評価さたのがバブル崩壊後の出版不況に向う時代であり、減少する仕事を奪い合うのが当たり前だった時代ならなおさらの事である。

 僕ら世代の若い頃は「日常」における「非日常」が文学や演劇などの文化活動のテーマだった。死ぬほど退屈で孤独な「日常」に、井田さんの詩集のテーマでもある「夢」や「神話」などの「非日常」を内面化する事で、現実の世界の中でも「自分だけの世界」を生きる事ができた。しかし、バルブが崩壊し、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件が起きた時代とは「日常」が壊れて残酷な「非日常」が始まった時代であり「夢」を見る事も「自分だけの世界」を創る事もできない時代だ。努力しても報われない若者たちの「引きこもり」や「漂流化」が社会問題として表面化したのがこの時代だった。
 井田さんのノンフィクションライターとしての取材対象はマイノリティ達が殆どだ。「日常」が壊れ、社会が壊れ、人間が壊れ、居場所を失うストレンジャー達を、寝食も忘れ寄り添い、ペンを持って社会と戦う姿はセカイ系のヒロインのようだ。誰かを救おうと思えば「自分だけの世界」から出て、壊れた現実の日常の中で戦わなければならない。それは、自分の中に苦しんんきた同時者性があり、引き裂かれていく自分を言語化しようとする詩人の感性の戦いでもあったのだと思う。

 無駄話になるが、衆議院総選挙で某大物2世政治家が落選した。敗戦のコメントが「勝負は時の運」という事らしい。その1ヶ月後には首相の「お友達人事」で救済ポストが与えられた。その時のコメントが「まだ私も十分に体力・能力ともにあると思っている」という事らしい。しかし、数日後には「過去のズル賢い行為」がネットで炎上してあえなく辞任した。
 本質は事後的に気付かされる。

(2022年2月11日)

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