さよなら1975年(立中潤 ’S)

 1975年—— 。色なき風が漂うゲバルトの街に、森田童子のデビューシングル「さよならぼくのともだち」が流れていた。

♪  長い髪をかきあげて
 ひげをはやした やさしい君は
 ひとりぼっちで ひとごみを 歩いていたネ
 さよなら ぼくの ともだち
 
 粛清で終わった若者たちの革命闘争。多くの大学生たちは「就職が決まって髪を切り、若くないさといいわけ」をして社会に逃げ込んで行った。この時代に流行った歌といえば「あの頃~」や「あの時~」や「あの時代~」など、こころに傷を負った全共闘世代が少し前の世代を愁える歌が多く、若者たち誰もが前に進むことが出来ない後ろ向きな時代だった。
 早稲田大学の革マル系の活動家だった立中潤は、1975年5月20日に23歳の若さで自死した。同年3月に大学を卒業し、地元愛知県の信用金庫に就職してわずか2ヶ月後のことだった。

「十月」 立中潤

腐るために動く必要はない。ただ そこに居ればひとりで腐ってゆける。きみは死の中を流れているのだから もう死ぬことからでさえつき離されている。恐れるものは何もない。つらい時間のながれの他には。きみはきみの腐敗を生きてゆくのだ。日々のうすぐらい沼で醒めているきみの眼球のみが きみの行き先を決めてくれるだろう。肉は眼球を囲繞する重圧の衣だ。きみの抱いてきた女の身体にように いつまでやわらかな触首を伸ばしてくる。帰らない日々を思い出すようにきみは肉の柵を見る。そのとき きみに視えてくるのは滅びの懸崖をうろついている魂 であり 死者たちの無言のざわめき だ。もしきみのめが光ったとすれば
 彼らの物事はぬ眼液がきみのほてった眼球を冷たく潤したのだ。おお 帰らないものらよ。帰らない日々よ。きみは苦い後悔の燃焼のなかで刻々と進んでゆく時間を生きる。地獄のような時間! ただ 流れていることのうちに きみはどれほどのものを喪なわねばならなかったのか? 健康に甦えることも腐敗。病気の殻にうずくまることも腐敗。そこ に居さえすればとどこうりなく腐ってゆける。もう死ぬことにさえ意味はないのだから きみの生の意味も口を閉ざしたまま遠くまでつづいている。忍従の生液のみが朝から夜へと鉛のように体内(からだ)を巡っている。きみが生きている故に。


御茶の臭いでさえ生の香りがする。畑に拡がっている作物たちも生きる臭いを強烈に発散している。十月の寂しい夜にひとり発散しているきみ!は 枯れてゆくものからも生きてゆくものからも遠くつき離されている。(きみ自身からも?)。日々は圧迫ばかりを積み加え きみは身いっぱいでそれを受けとめている。理由もなにもありはしない。敵たちのにぎやかな生存がみじめに氾濫しているだけだ。きみと同じように理由をもたぬものたち。(否! きみが理由を細々に打ち砕かれたのだ。) 彼らはきみのみじめさを最大限増幅してきみに見せてくれる。世界はこんなにも明るくて…。砕けたきみの型 を一枚の衣粧で隠蔽することはできぬ。病んだきみの魂はどれでもひかることをやめてはいない。それだけけが日々の指標となる。ほのぐらく寂しいひかりにきみは全霊をこめればよい。そて以外にきみの機会はきみから放逐されているのだ。うそ寒い時間の底にはきみの自死させた欲望たちが精虫のように動めいており きみのうすぐらい底辺を徐々にけずりおとしている。〈さよならだけが人生さ!〉 うそぶく声は日々のものではに きみのものでない 何か。


きみの絶望はきみだけのものだ。安価に売却できぬきみの生存そのものだ。抑圧と圧政のみがあったきみの少年の日々からきみの生存は地続きになっている。胸の襞のうづきでしか答えられぬ幼い屈辱の数々。怒ることもなく笑うこともなく現場を立ち去ることしかできなかったきみ が遺留しつづけたものは何だ。膨らみきっていたきみの悲哀。つめたい悲哀の吹きっ晒しにはいつでもふりつもっているものだ。まるでそれのみが救いの堆積でもあるかにように。だが、うずくまっている自我像を撫でつけたとしても きみの顔はひきつっていた。そのときからきは死の中へ押し出されていった……拒絶の生きた幻。ああ 画然たる死の形相! そこにしかきみの生存をながしこむ場処がない。日々のたたかいは重い生理学の下を過ぎていく。行く先も目的地もありはしない。きみはきみの貧しい生存をただながれてゆくのだ。死の幻を実存させるきみの黴臭い脳味噲 の線に沿って。街燈によりそっているのはつめたい亡霊のようなきみの陰だ。きみを一瞬も離さないきみの重い陰。十月の冷雨がきみの足元を湿らせてゆく。爽やかさを感ずる皮膚にきみは鋭い眼光を注いでいる。そうだ。いつのまにかそうなっているのだ。ひえてゆく季節・十月 も過敏な繊細できみをつつみこむ。うすぼやけた繊維の霧のなかからはきみの様々な陰たちがあらわれ きみの体内をだまって通りすぎてゆく。台地を踏みしめる悲哀 が同時に一陣の風となってきみの身体を横切っていった。美しい現世たちはこの地上に足をつけるときはなやかな一瞬の栄華を誇る。ながれてゆくことの虚しい一瞬。にぎやかな少女たちが可憐さを背一杯ふりまいて通りすぎぎてゆくときのようにそこにすべてがある一瞬。ひび割れた時間も空間もそこからは視えてこない。アスファルトを蔽った死臭もすでにきみのなかにしか生きていない。自らを地下の方まげこんでいる道路 がどこまでもどこまでもつづいているだけだ。たたかいの血糊はけれどもきみのかぐらい襞の奥にべっとりと付着している。……きみはきみの目前の一切を信じないためにきみの陰をひきづってゆくのだ。露骨な島流しには誰もがあわねばならない! ひりひりときりもみしてくる痛覚にこそ 時代へとはせるきみの反逆の根拠がある。みじめさの方へ身を寄せるな。うずくまることの一秒の長さをこそ思え。決して浮上してゆかぬために。(『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』)

 1969年1月18日、ゲバヘルを被り火炎瓶を抱えて東大安田講堂に集まった全共闘の学生たちの叛乱は、機動隊の催涙弾と放水によって傷だらけで敗北した。
 立中潤が早稲田大学に入学するために上京したのは1970年だった。高校時代に書き記していた「読書リスト」を見みると、左翼的偏向が強く社会科学系の本を熱心に読み込んでいたということが伺われる。大学闘争に参加するために大学進学したようなものだ。しかし、入学して直ぐに革マルの活動に参加したものの、たったの1年で革マルの活動から離れることになった。
 彼が大学に入学してから死に至る5年間という時代は、分裂した全共闘が殺し合いの状態になり、全国の大学構内や路上で内ゲバが繰り返された。その中心だったのが革マルと中核の抗争であり、1974年から1975年の2年間だけでも、31人が死亡し、1,150人が負傷者したほどだ。大学の外の世界では新左翼系の武装組織が、よど号ハイジャック事件(1970年)、あさま山荘事件(1972年)、三菱重工爆破事件(1974年)などの暴力事件を引き起こし、若者たちの革命闘争が大衆や知識人たちの支持を失なっていった時代だった。
 彼は大学闘争に見切りを付けて、詩や文学で主体の再生をはかろうとした。毎日のようにして書かれたおびただしい量の詩的表現は、彼の自死した前日まで続いている。大学闘争において喪失した主体の飢餓感の激しさと、その熱量を表している。74年に書いたエッセイ「契機としての七十年」からは当時の心境が緊々と伝わってくる。

〈七十年安保闘争をひとつのメルクマークとする「政治」体験に、必ず行きつくはずである。ぼくは機あるごとに、この「政治」体験に触れてきたつもりだが、少しも納得できる型で組織できず、増々混乱している。直接的にたどっても何も出て来ないとも言ったが、「七十年」を「完敗」として受けとり、それを「感受性」の深みにおいてとらえた(とらざるを得なかった)ぼくたちの現在が、窮屈、自閉を深めてゆかざるを得ないということはどういうことなのだろう。それを時代的な契機との絡みの中で、どう把握したらいいのかという問をたてざるを得なくなっている〉
〈七十年」からすでに四年余の歳月が流れている。その間に喪ったもの、あるいは新たに所有せざるを得なかったもののことを思えば、目もくらむような思いにかられるが、そのような地点に居残っている余裕はぼくたちにはない。敗退機の困難さ——苦渋は現在的に増々深まり、ぼくたちの日々に侵攻してくる。ぼくはオノレの現在をそのようにみる。七十年反安保闘争に於ける敗北の後のいま、その敗退期に生様を晒しつづけることの意味が、その故、ぼくたちに日常的に問われているわけであり、この最も触れたくない部分との交錯点において、ぼくたちは自らの生を把握し、根拠づけてゆく作業に耐えてゆかねばならない。そこにしか自らの意味は有り得ないはずだし、意味づけてゆく主体はあくまでもオノレであり、オノレの醒めつづける営為としてしかそれは為せないはずである。むきだしの個を基盤にして、何がなんでもやってゆくしかない!〉
〈七十年反安保闘争とはオノレにとって何だったんだろうという問をたてるとき、勿論、ぼくはぼくのいまある姿が、良きにつけ悪しきにつけ、「七十年」に充分よく規定されていることを了解している。からっぽな「革命」の視角からする党派的な総括でもなく、あるいは「青春」論的な意識からでもなく、オノレの現在を、最も重い「むごん」で支え、拮抗しているそれとして、現存との深い緊張の中で、オノレに向きあっている「七十年」を視つめてゆきたいと考えている〉

 北川透氏は立中潤の思想的精神を「断念」という言葉で論じている。
「彼の精神の表情を一言で言おうとすればどうなるだろうか。わたしはそれを、断念という病巣にの中に立ちつくした生とでも、ひとまず名づけておきたい。断念は巨きな時代的契機をもって全面的だったが、彼はそこに何の防御もなく立とうとしたのである。むろん、ある意味で、現在、断念は一つの時代病となっている。時代病の中に安住しうれば、それは容易に美意識にも、自然にも、そして、諦観にも小さな幸福の意識にも移行しうる、しかし、立中にはそのどこへ行く通路もふさがっていた。いや、その通路に虚偽が彼にはよく視えていたのである。彼は断念を病ませられ、その病ませられている自分を、想像力への源泉として引き受けるしかほかなかった。」
「わたしは、先に立中潤に断念という病巣は、巨きな時代的契機をもっていると書いたが、その中心を占めるものの一つに、彼の政治的思想の問題があるだろう。一九七〇年に早稲田大学(革マル)に入学したことが、彼にとっては決定的に意味を持った。彼にとって大学は、世界を知り自己を開放する場所であって、それを何よりも学生運動の機能のなかに求められていたのである。世界を知ることと、それを変えることが緊密に一体化して思想する場所というのが、彼の大学=学生運動に見出したものではなかっただろうか。」
「この幻想はすぐに破れる。党派的に系列化された学生運動の中では、その思想する場所は、はじめから一定の固い枠がはめられ、自由に思想するのではなく、信仰する場所になってしまっているからである。その断念を、詩や文学における全体性の回復という形で、乗り切ろうとしていった。この断念は、現実的な場所の喪失をもらたしたということである。」
「多くは自分の意志と関係なく、いやな職業を押し付けられるというのが、分業の社会というものである。立中は、この問題に直面して、職業選択にかかわる自分の意志をすべて放棄した。そこには社会的な位階に対する上昇志向を断ち切るという彼の断念が働いているわけだが、しかし、同時に彼のどうしようもない甘さ、甘えが会ったように思う。なぜなら、息子の断念のために両親は、風土の中の地縁、血縁を頼って、息子の就職口を見つけることになるからである。」
「自己放棄とという形で、両親に、そしてその家が取り結んでいる濃密な血の風土に、彼自身は甘えかかっているのだから、この関係が緊張していけば、相手を殺害するよりは、自分を殺害する方向へ行くのは、ああるいは自然な勢いだったかも知れない。三月になって自分の間違いに気づき、根本的な反省を下記つ付けている。しかし、すでに時は遅かった。彼がやり方を根本から変えようとすれば、彼を迎え入れた濃密な風土的な関係と全面戦争は避けられなかったかも知れない。それをしなかったのは、あるいはできなかったのは、彼の存在の根幹をおかしている断念という病いのなかで、死の想念がもはやどのような生活的意力をもくじいてしまうほど、成熟していたからであろうか。」

 辛辣な意見だが、北川氏は自分と関わった若き詩人の死が無念と感じた上でのことなのだろう。
 北川氏は立中の「断念」という病のことを「甘え」があると語っている。つまり、主体の弱さということだと思う。若者が父権的封建制度から自立するために、煩悶することが通過儀礼みたいなものだ。立中はそれを政治的なもので乗り越えようとして失敗した、その敗北感を糧に詩作で自分の居場所を求めようとしたが、その壁を突破できなかった。就職の際に両親のコネで決まったのが資本主義の権化のような金融機関であり、父権的封建制度からに抜き出せないまま自己矛盾に陥り行き場を失った……。主体が弱いと書いたが、主体の弱さに忠実という方が正しいかもしれない。主体が強く、主体と客体のバランスよければしたたかに生きれたかもしれない。しかし、若き詩人の魂は主体の不完全燃焼の爆発が詩作の源泉でもあるし、詩人にとっては死も1つの創造であり敗北ではないと理解したい。

♪  河岸の向うにぼくたちがいる
 風の中にぼくたちがいる
 みんな夢でありました
 みんな夢でありました
 もう一度やりなおすなら
 どんな生き方が
 あるだろうか


 森田童子は「みんな夢でありました」で〈もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか〉と問いかける。
 立中潤と森田童子は1952年生まれだ。彼らの世代は、全共闘運動の最後の最後に関わったものの正確には全共闘世代ではない。したたかな全共闘世代が暴れまわった「お祭り」の後片付けをさせられ、全共闘世代が就職して社会に逃げていくのを眺め、組織全体についても知らされず、使い捨ての一駒として上層部の命令に服従し、内ゲバによる殺し合いに加担しなければいけなかった「内ゲバ世代」であり、若者たちの革命闘争の「名もなき世代」なのかもしれない。70年代前半は特別な時代だったと思う。1960年代生まれの僕にはよくわからない。各党派による大学闘争と大学紛争といっても多少のニュアンスが違う。ノンセクトによる自治会の学生運動を含めると、それぞれの「正義」が何なのかよくわからない。各党派のヒエラルキーが崩壊していく中で、自己否定を突き詰め純化(原理主義化)し、イデオロギーの違いで殺し合い、一般学生(一般人)をも巻き添えにした時代である。若者の生き方は時代精神を象徴していると言われるように、運動に関わらなかった若者たちの中にも、こころに深い傷を負って自ら命を絶った者も多かったという。
 しかし、時代がどうであろうと人間の理念の中心にあるものは変わるものではない。社会の矛盾に対しては声を上げなければならないし、権利を主張すれば「政治的」なものと闘わなければならない。結果はどうであれ、革命共闘世代が人生を棒に振る覚悟で闘った純粋な正義感だけは忘れないでいたいと思う。
 さよなら、1975年—— 。自己を否定の否定=肯定的な形で乗り越えていくことこそが革命の「ロマン」である! 主体はあくまでもオノレである!
 
参考文献:『叛乱する夢 立中潤遺稿 詩・試論』、『闇の産卵 立中潤遺稿 日記・書簡』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です