親分はつらいよ

——生まれはミナミの国、灰郷(はいごう)と発します。肥後熊本・銀杏城下がります。白河の片ほとり、21歳のとき郷里熊本を飛び出し、一天地六の賽(さい)の目に振り出されたる刹那主義、純情もセンチメンタルも空吹く風に吹き飛ばして、晒の木綿を胸高に巻き、雪駄履き、ただ今では、大東京の屋根の下、都の西北、早稲田の森は片ほとりに仮の住まいをまかりおります。縁持ちまして片親と発しますは、会津家四代目松葉式、従います若い者にございます。姓名と発します。失礼さんでございます。姓は坂田、名は浩一郎、通称〈わがりやの浩ちゃん〉と発します。今日向面態(きょうこうめんてい)お見知りおかれまして昵懇(じっこん)に願います。

 この「メンツウ」の主は詩人親分と知られる会津家本家五代目・坂田浩一郎氏のこと。
 会津家とは靖国神社や高田馬場の穴八幡を庭に露天商を営んできた香具師(テキ屋)である。メンツウとは初対面のときの挨拶であり、俗にいう「仁義」と同じ意味である。
 坂田氏は熊本の郷里にいたころは同人誌『詩火線』『亜細亜詩風』などに所属した詩人である。21歳で上京後は小さな出版社に勤めたが倒産し、円本や同人誌を仕入れて牛込の山吹町に露店を出した。ただ、並べて置いただけではでは能がなさ過ぎるので〈全国同人誌即売会〉の看板を掲げて売った。界隈には複数の大学がありよく売れた。但しその一帯は会津家の庭場で、兄貴分の口利きで同一家に入門した。最初の3年間は「稼ぎ込み」と呼ばれる見習い期間、正式に盃を受けたのは5年後くらいだった。伝統的な修業の後、実子分(親分候補)に選ばれ、跡目実子(次期親分)になったのは戦後のこと。
 詩界では日本歌謡芸術協会、日本詩人連盟に所属し、詩集『火の国の恋』を出している。

「孤独と貧乏」 坂田浩一郎

男ひとり
酒を飲んでいる
生活に疲れている
男は孤独に泣きながら
酒を飲んでいる

貧乏の苦しさの中に
思考も散漫としていて
絶望の底に沈む

こんなとき
うしろに女の声がする
ひからびた女の声がする
——あんたに意気地がないんだ——
という

 野村克也氏は「リーダーは孤独なくらいでちょうどいい」という。南海のプレーイングマネージャー時代から楽天に至るまで、一度たりとも選手と食事に行くことはなくグラウンド以外で親睦を深めることはまったくしないことを信条としていた。その理由は、「監督が持つべき厳しさがゆるむからだ。「かわいがっているから多少打てなくてもいい」。仲良くなれば、こうした人情が働くのは当然のことだ。ならば、最初から互いの距離を近づける必要などない。むしろ近づくことで、いうべきことがいえない関係性を築いてしまうことになるわけだ」とのこと。
 坂田親分は一家の頂点である。だから周囲者に苦悩や愚痴をこぼすことはできない、そんなことをすれば自分の弱みをさらすことになるからだ。親分は孤独であり、心の中は常に無常観や虚無感に包まれている。うしろから女性にハッパをかけられ自分を奮い立たせて生きていたのかもしれない。親分もつらいのだ。

参考資料
『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』猪野健治(筑摩書房)
『やくざ・右翼取材事始め』猪野健治(平凡社)

(2021年5月14日)

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