今日も駅に向かう途中、カギをかけたか不安になる。
「もどれ、もどれ」と心の声が叫ぶ。
日々、この様な日常を過ごしている。
私は、心配性で依存体質だ。
榊原淳子さんの詩集『世紀末オーガズム』に、
「手を清潔にしたい そして髪をかきあげたい」という詩がある。
手を洗っています
もう二十回も洗いました
今二十一回めです
夜です
とても寒い
虫の声みたいな音が聞こえます
しんしんしんしんと言っています
白いネグリジェの裾が
床に触れるのではないかと不安です
蛇口に水をかけます
いっかい、にかい、さんかい、よんかい……
十かい、十一かい、十二かい
蛇口をしめます
蛇口の飛沫が
また、ついてしまいました
もう一度やりなおしです
蛇口をひねります
蛇口についた誰かのバイキンが
指先にこびりつきます
何度も洗います
何十回も手をこすります
冷たい水です
流しをバイキンが流れてゆきます
バイキンが吸水口のところにたまります
蛇口についているバイキンを
水をかけておとします
バイキンはなかなかおちません
何度も水をかけます
やっと、おちたみたいです
蛇口をしめます
でもまだバイキンは
私の手に残っているかもしれない
私は、髪をかきあげたい
でもバイキンが残っているかもしれません
バイキンは髪にこびりつくかもしれない
私はもう一度だけ手を洗って
それから髪を耳にかけようと思います
蛇口をひねります
ほらバイキンがついた
何度もこすります
手の先が赤く、しびれてきました
ネグリジェの裾がとても気になります
涙が出てきます
どうして私は泣いているのでしょう
鼻水もでてきます
でも手はバイキンで汚れていて
鼻をぬぐうことができない
蛇口には誰かのバイキンがついています
ネグリジェの裾から
廊下のしめったバイキンが上ってきます
私はどうすればいいのだろう
そう思うと体が硬直します
蛇口に水をかけます
かけながらネグリジェの裾が気になります
もう黄ばんでいるかもしれない
手を
清潔にしなければなりません
蛇口に水をかけます 速く
もっと速く
体が硬直します 速く
速く ハヤク
脅迫性障害蛇口に水をかけます
今から30年くらい前(1983年)に出版された詩集だ。
強迫性障害や境界性パーソナリティ障害が急激に増えた頃だ。
大富豪のハワード・ヒューズは、
汚染を恐れるあまりホテルの最上階のスイートルームに閉じこもり、
人を寄せつけず、一日中手袋が欠かせなかったという。
また、ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れなかったり、
手洗い始めると血が出るまでやめられなくなったりしたため、
入浴や手の洗浄がほとんど不可能だったともいわれている。
髪や髭は伸び放題、顔中毛だらけで、
爪は伸びすぎていくつにもねじ曲がって長く伸び、
入浴もできなかったので、体から悪臭が漂っていたという。
デビッド・ベッカムも強迫性障害であることをカミングアウトしている。
カオス社会の現代、人間関係も煩雑化し、常に「不安感」はつきまとう。
「不安感」の根底には、人間の時間認識と空間認識の誤差から生まれる。
人はこの時間と空間の中で,生まれ,生活し,生きている。
この時間と空間の中で,親と過ごし,友と交わり,大切な人と別れる。
人は時間と空間の変化を味わっている存在している。
人はいずれ、時間の中に存在できず,空間の中に存在できず,
存在そのものを失うことへの不安と怖さが襲ってくる。
時間と空間は死んだ後も存在し続けるのに、
自分はいなくなるという恐怖である。
しかし、時間と空間を自分の外に意識すると,
ますます死は時間と空間の中でもがき苦しむことになる。
この時間と空間の中に自分がいるのではなく,
自分の中に時間と空間がある。
自分が生まれる前には,この時間と空間の中に自分は居らず,
自分が死んだ後にも,時間と空間の世界は自分のまわりにはない。
人は皆,自分の人生を生きる。死ぬ一瞬に永遠の時間を経験するのだ。
いつか全てが消えてなくなる。
この地球が偶然誕生したように、私たちはこの時間と空間に誕生した。
榊原淳子さんは、「人類は、もっと優しく思いやり深くもなれる、
そして、もう一つ上の動物へと、進化できる」という。
時間と空間が、私たちを存在たらしめている間に、
競べあうのではなく、貶しあうのではなく、
お互いがわかりあわなければいけない。
(2017年7月26日)