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生きるに希望なし、自我あるのみ

 DADAウイルス(ダダイスム)の感染力は強い・・・。
 DADAウイルスの感染源は、第一次大戦中(1916年)のスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテール。フーゴ・バルとエミー・ヘニングスはドイツからトリスタン・ツァラはルーマニアからハンス・アルプはフランスから、自由と独立を求めてヴォルテールに集まってきた。彼ら若者たちは社会への嫌悪感、未来への不安を共有しつつ、新たな生を模索しようとした。そんな中からウイルスは生まれ、感染は瞬く間に世界中に広まっていった。
 日本で最初に感染が確認されたのは、1920年8月15日付けの『萬朝報』紙に載った「享楽主義の最新芸術」と「ダダイズムー面観」という2本の記事。感激した高橋新吉はすぐさま感染した。1921年4月に詩誌『シムーン』創刊号に発表した「倦怠」が、日本文学史上の最初のDADAの文学作品といわれている。

「皿」 高橋新吉

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
 額に蚯蚓(みみず)匍う情熱
白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処(そこ)にも諧謔が燻すぶつてゐる
 人生を水に溶かせ
 冷めたシチユウの鍋に
退屈が浮く
 皿を割れ
 皿を割れば
 倦怠の響が出る

 この「皿」という詩は、貧乏な新吉が食堂の皿洗いのバイトをしていた時の心境が綴られている。最後の3行の「皿を割れ/皿を割れば/倦怠の響きが出る」は、社会の底辺でもがき苦しむ労働者の心情の吐露である。
 第一詩集『ダダイスト新吉の詩』の巻頭にあたるマニフェスト的散文詩「断言はダダイスト」は、「一切のものがDADAの敵だ。/一切を呪ひ殺し、啖ひ尽くて、尚も飽き足らない舌を、彼は永遠の無産者の様にベロベロさしてゐる」という言葉で締めくくられているように、DADAの本質とは社会的権力に対する反逆精神なのだ。

 人は誰でも思春期に自我に目覚める。自分が世界の中で「かけがえのないひとり」であり、同時に「その他大勢の中のひとり」でしかないという二重性を生きなければならない。何者でもない僕が青年期にDADAに感染した理由として、辻潤を通してステイルネルの〈唯一者〉の概念と出会った事が大きい。「いかなる人間的共通性にも解消できない〈私〉という自我を目指す」と内意して生きてきた。
 いまだにDADAウイルスに感染している・・・。

小さな一歩

(『PEANUTS 』1993.4.24)

「私とは誰か」「何のためにここにいるのか」。心の中でさまざまなに問いかけてくる。「お前は誰だ」「何のためにそこにいるのか」。自分が「ここにいる」というのは自明のことだと信じて疑わなかったチャーリー・ブラウンは、「ここってどこ?」という内なる声に問い返されて、言葉を失う。改めて考えてみれば、ぼくが「チャーリー・ブラウンという名前の人間である」ことも、「あの両親の子ども」だということも、「20世紀のアメリカのここにいる」ことも、すべて当たり前ではない、謎なのである。内なる声の主は、手を振ってみせろと言うけれど、いったいどこから「ぼく」を見ているのか。そこから「ぼく」は、どんなふうに見えるのか。そもそも、「手を振ってみせろ」と話しかけてくる相手も「ぼく」のはずではないか。
このようにして人は人生のどこかで、私に語りかけるところの〈私〉と初めて出会う体験をすることがあるのではなかろうか。眠れぬ独りの夜、鏡を見た朝、親友に裏切られた日、深い山で空を見上げた瞬間―さまざまなきっかけで、人は、自分自身を対象化してとらえる「主体としての私」のはたらきに気づく。それは、私でありながら未だ私ではない誰かと出会うということでもあり、突然に自分と世界が変容する体験でもなり得る。
そう考えと、〈私〉と出会う体験というのは、「やっと出会えた」という喜びの場面になるとは限らないことがわかる。「ああ、私は〈私〉だったんだ」と最初から納得される、幸運な出会い方をする人がいないわけではないと思うが、漠然とした違和感や不安だけを残したり、見えていなかったものが突然目の前に姿を現し、その存在を認めようと迫ってくる、圧倒される不可思議な体験として意識たりする人のほうが多いのではないか。そして、そのような出会いの体験は、一度きりで終わるとは限らず、時を変え、形を変えて、人生の経過の中でふいに訪れるものなのではないかと考えられる。(『自我体験とはなにか』高石恭子)

「自我」とは何とも煩わしいものだろうか。
人間が人間らしくなる前の恐竜の餌だった太古から、植物連鎖の頂点に立ち、科学技術が発達した近代において「自我」は進化の副産物でもある。デカルトやパスカルを罵倒する訳にもいかず、毎夜のように「自我」格闘し続けなければならないのが人生というものだ。
人間は誰でも不安の中で自分の明日を創るために、「小さな一歩」を踏み出さなければばらならない。眠れない夜は「小さな一歩」の証でもある。
それでも安心さ、隣にスヌーピーがいるからね。