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さらばロシナンテ 好川誠一の青春

 『石原吉郎全詩集』を読まなければ、好川誠一のことを知らなかったと思う。
 好川誠一は石原吉郎と出会わなければ死ななかったかもしれない。2人は共に「文章倶楽部」の投稿仲間であり、他の投稿仲間たちと同人誌「ロシナンテ」を創刊したのが1955年であり、1959年の終刊までの4年間で好川の残した詩作品はわずかな数でしかなかった。
 同人だった小柳玲子が、好川の残した詩について語った言葉がある。「詩人好川誠一を語ることは、私にはとうてい不可能である。この詩をもって彼を詩人と呼んでよいものかどうかも私には現在判断がつかない。常識的な見解からいえば、彼は詩人の列に加わってはいないのだろう。なぜなら彼は詩人が当然越えなければならない苦しいと峠を越え得なかったのであるから。表面をどのようにつくろっていようと、詩人と呼ばれる人々はみんなこの峠を越えるのであって、自発発生的な言語だけをもって詩人になれることはない。努力が嫌い、我慢ということができない、悪ガキがそのまま大人になったような好川誠一は峠なんか越える辛さは真平であったのだ。」と、同時に「わたしは「すっぱだか」のまま30歳になってしまい、「ロシナンテ」の面々にもてあまされていたらしき、不運な詩人を、大変愛しているのである。」と語った。
 子どもは少なからず誰でも天才性をもっている。しかし、多くの人間は天才性を自ら殺しながら大人になり、普通の存在と気がつく。
 詩の投稿を始めた頃の好川も、確かに才能があり評価された。石原と始めた「ロシナンテ」だったが、仲間からライバルとなる。あまりにも大きなライバルであり、石原は戦後詩を代表する詩人になっていった。大人になった好川の詩は輝きを失い、「詩なんか書く奴はバカだ」、「30をすぎたら詩なんか書かない」と毒づくしか出来なかった。
 1964年、石原がH氏賞を受賞し祝賀会を最後に、好川はみんなの前から消えた。詩を書くことができずに悩み、詩なんか書けなくたっていいじゃないかと開き直ることもできなかった。どうしても詩をあきらめきれず、遺書と思えるような詩を出版社に送り、好川は詩人として死んだ。享年30歳であった。(参考文献:現代詩手帖 1992年8月号(若く眠れし―小柳玲子))

(2017年7月17日)