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雨にもまけず

「雨にもまけず」
変詩/桝川濁(原詩/宮澤賢治)

雨にもまけず
風にもまけず
帝国主義にも軍国主義にもまけぬ
強い思想と意志をもち
私有欲はなく
決してヒヨらず
いつも何かの本を読んでいる

一日にハイライト一箱と
学園食堂にうどんを食い
あらゆる事を自分の問題として受けとめ
よく見聞きし判り
そして忘れず

体育館の二階の
小さな部屋にいて
東にデモあれば行って機動隊に石を投げ
西(西門)に検問体制あればヘイを乗り越えて学内に入り
北(梅田)でクラブの忘年会あれば野球ケンでパンツ一枚になり
南に合同読書会あれば行ってカッコイイことを言う

封鎖解除の時は涙を流し反革命者には正当な暴力をふるう
後期試験もどこ吹く風でせっせと「正午」の原稿を書き
パチンコもマージャンもせずいつも文芸部の仕事をし
女の子から「すてき」と言われる
そういう人間に私はなりたい

(『日本反政治詩集』 立風書房刊 1973年 より)

 安保闘争や全共闘運動は、身体的記憶はまったく無く遠い昔の寓話のようだ。しかし、団塊の世代からひとまわり離れ、彼らが残した「管理教育」という負の遺産を背負わされた世代にとっては、この種の詩を読むと胸のすく思いになる。
 現在は「デモをしても何も変わらない」とか「世の中そんなものだ」と考え、政府や社会に対して抗議運動をしている人を横目に冷笑したり、勝ち馬に乗って羽振りよく生きていこうとする風潮が強い。しかし、デモで社会は確実に変わる。なぜなら、デモをすれば日本人はデモをする社会に変わるからだ。それよりも大事なのは、自分がシニシズム(冷笑主義)に陥らないようにする事だ。
 シニシズムというのは希望を失ったときに傾倒する。現在の若い人たちが、希望を持つことがリスクになるくらい先行きに失望し、安易に権力に迎合して「権利」を頂戴する姿は悲しい事だ。民主主義において権力に対する「抗議」は、市民に許された「表現の自由」であり、「市民の権利」というよりも「市民の義務」だと思う。