月別アーカイブ: 2022年6月

辻征夫の「雨」を読む

「雨」  辻征夫

耳たぶにときたま
妖精がきてぶらさがる
虻みたいなものだが 声は静かだ
(いまなにをしているの?)
街に降る雨を見ている
テレビは付けっぱなしだが
それはわざとしていることだ
だれもいない空間に
放映を続けるテレビ
好きなんだそういうものが
(それでなにをしているの?)
雨を見ている
雨って
ひとつぶひとつぶを見ようとすると
せわしなくて疲れるものだ
雨の向こうの
工場とか
突堤の先の
あれはなんだろう
流木だかひとだかわからない
たとえばああいうものを見ながら雨のぜんたいを
見ているのがいちばんいい
そういうものなんだ 雨は
(むずかしいのね ずいぶん)
何気ないことはんだってむずかしいさ
虻にはわからないだろうけれど
(妖精よ あなたの
雨の
ひとつぶくらいのわたしですけど)


 
雨は醜い自分をとかしてくれる。
こんな日は妖精が現われるものだ。
自分は自分である必要もなく言葉は言葉である必要もない。
あらゆる頸木から解放され自由になる。
雨が上がったら妖精に「さよなら」をいって、
自分という目的地に向かってどこまでも荒野を歩く。

久しぶりの雨だ。こんな日は感傷的になってしまう。
谷川俊太郎さんは詩作について「ある時期から自己表現というものを信じなくなった。自分をからっぽにして日本語の世界を歩き、その豊かさを取り入れたくなった。自分より日本語の総体の方が豊かだから。」と語った。
辻征夫さんには、辻さんが生まれる2年前に1歳で亡くなった長兄がいて「自分は長兄の生まれ変わりではないか」と感じていたという。この喪失感を埋めるために「見えない世界を見ようとする」感性が詩作の原点である。
現代社会の言葉は、真実を隠すために使われたり、人を騙すために使われる。虚妄の世界の言葉の方が真実を描くものなのかもしれない。だからこそ、喪失感を埋めるために詩人は詩を書くし、読者は詩を読むのである。
文学とは何のためにあるのか。福田恆存氏は「一匹と九十九匹と」というエッセイで、世の中いろんな問題が起きると、九十九匹を調整しながら解決するのが政治である。しかし、政治はすべてを救えない。最後の一匹の迷える羊、迷える人間の、その精神とか心の問題には、政治では救うことはできない。どんなにお金があっても、淋しさ、孤独、不安な心を政治には解決することはできない。そこで迷える一匹を救うのが文学だと語る。
普段は九十九匹側にいても、あっと言う間に一匹になってしまう事がある。そんな時に小説を読んだり、詩を読んだりして生きてきた。辻さんはきっと、その一匹のために詩を書いていたのかもしれない。
辻さんは「詩は個人にものであると同時に、共同体のものです。日本語なら日本語というひとつの言語の花です。詩人というのはある期間、ひとつの共同体の中で詩という言語の花を咲かせる機能を何故か持ってしまって、そういう役割を担っていつ人間のこと。」と語っている。
辻さんは一人ひとりの人間というもの、人間の善意というものを信じていたのではないか。具体的に若い人、世の中がどんな悪くなってもあとからあとから出てくる若い人、そういう人たちと作る未来を・・・。「テレビは付けっぱなしだが/それはわざとしていることだ/放映を続けるテレビ/好きなんだそういうものが」と物語っている事は、だれもいない空間だけど、いずれ誰かが来るであろう未来があるという事。今は孤独であるけど、いつかは繋がり合えるという事。
辻さんは、詩でたくさんの人に勇気を与えたり、不安な心を支えたりした。逆にいえば、そういう「みんな」が菅原さんを支えていたのかもしれない。
これからも、共同体の一員として辻さんの詩を読み続けたいと思う。

(2020年3月8日)

まど・みちおの戦後

 戦争に加担しないために・・・。

 まどさんが100歳で出版した『100歳詩集――逃げの一手』(小学館、2009年11月)のあとがきで、「山川草木、すべての中には、いのちがあります。木でも草でも何でもそうです。その中の、人間は一匹に過ぎないんです。私は、この中で「逃げの一手」を貫いてきたことになると思うんです。詩の中に逃げること、臆病な自分から逃げるということでもあります。むしろ、大胆とも言えるかもしれません。だから、逆に、私はそのことで私をいかしてきたというんです。有から無にはいるのと、無から有にかえるのと、その往復みたいなものなのです。逃げることによって、逆に生まれることにもなります。言葉っていうのは、いつも必ずそうなんですから。とにかく簡単なものじゃないから。100歳を目の前にして、ただ、感無量と言えば感無量ですけど、「逃げの一手」でここまで来たことに間違いはありません。それが私の生き方だったと思います。」と記している。

 戦争中に多くの詩人たちが、戦意昂揚のための愛国詩を書き戦争に協力した。
 まどさんにも、戦争協力詩と戦争協力詩文(随筆)が存在する。これらはまどさんの研究者が見つけたもので、まどさん自身は書いたことさえ忘れていたという。戦争詩については、みずから申し出て詩集に掲載し、詩を書いた経緯と忘れていたことを謝罪し、当時の子どもっちへの自責の念を表明した。この謝罪によって、まどさんの誠実な姿勢は多くの著名な詩人たちからも高く評価された。
 しかし、戦争協力詩文については一切ふれることなく公表もしなかった。その詩文の内容とは「少国民の皇民化」といい、日本が統治していた台湾の子どもたちを皇民化(同化)する目的で、日本語である「国語」習得と普及を唱えたものだ。まどさんは台湾の子どもたちに、家庭という愛情の下で小さいときから自然に習得した母国語ではなく、支配者である日本の「国語」を子どもたちに習得させようと主張したのである。
 まどさんの詩の世界とは、自然や生きものをじっと見つめた感性が創作の源泉であり、まどさんが子どもの頃から身につけた言葉によって築かれたものである。まどさんの子どもの頃と同じように台湾の子どもたちも一人ひとりが独自の世界を慣れ親しんだ言葉によって築いていることに気づかなかった。まどさんは自分で自分を裏切ったのである。だから最後まで何も語ることができずに「逃げた」のだ。
 敗戦後の日本は、まどさんに限らずほとんどにの人が、自分自身と向きあうことなく「逃げた」のだ。人は臆病だから「逃げる」のではく、権力や組織に「依存」するから「逃げる」のだ。盲目的に権力や組織に「依存」すれば何も考える必要もなく安心するし、同じ仲間といると心地いい。そういう人は個人より組織、個よりも全体を優先する「組織の論理」を進んで受け入れ、組織に忠誠を尽くそうとする。そうすると組織の傘から逃れられなくなり、意見の違う人を排除したり、強制的に「組織の論理」に従わせようとする。特に日本人は「依存」しやすい国民性である。過去を取り戻すことは不可能だ。だが、忘れてしまおうとすれば、過去はいつまでも追いかけてくる。決して「逃げる」ことはできない。そして、歴史に学ぼうとしないものは何度も同じ過ちを繰り返すのだ。
 「組織の論理」に侵されないために必要なのは、自分および他人の自由や誇り、権利を尊重する「個人主義」である。

 2019年12月4日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲さんは、同国の乾いた大地に用水路を造るため医師でありながら自ら重機を操った。その中村さんが幼少期を過ごしたのは、港湾労働者が多くいた北九州市若松区だ。「職業に貴賤はない」。人として大切なことは何かを教えた祖母の言葉と、故郷の景色に溶け込んだ労働者の姿が人生の原点だったという。
 生前、中村さんは「敵も味方も関係なく、傷ついた人がいたら助ける」といっていた。この考えが「個人主義」の本質である。中村さんは、米国に「依存」して、戦争を肯定している日本政府にとって、決して喜ばしい存在ではなかった。国会の証人喚問で「アフガニスタンへの自衛隊の派遣は有害無益」と発言したことに対して、議員からは「とんでもない奴だ」と非国民扱いし、懲罰にかけろという要求すらされたのだ。他国のために命を賭けた英雄でさえ国に逆らった者は最後まで許さないのが日本という国だ。その証拠に中村さんの葬儀には政府関係者が参列していない。(ちなみに中村さんの叔父である火野葦平は、敗戦後に戦争協力者として公職追放となった。その後、中国を訪れて戦争責任を見つめ、遺作というべき小説『革命前後』で、自らをモデルにした作家を登場させ、元兵士に「わしら、あんたに騙されて戦こうたようなもんじゃ」と、批判させた。そして、翌年53歳で自ら命を絶った。)
 戦前・戦中には多くの反戦運動家は逮捕されたり、虐殺されたりした。政権や軍部がいちばん嫌ったのが「個人主義者」だ。現在では逮捕されることはあっても、殺されることはないだろう・・・。戦争に加担しないために大事なことは「個人主義」を貫き、自らの頭で考え行動することである。個人主義とは決して他人を搾取したり、隣人を利用したり、他の人々の領域を犯すという事のない生き方である。自分という「個人」のひたすら念願することは、ただその個人が決して共同体や社会の器具になったり、社会的な仕組みの中の奴隷となって降参したくないということである。「個人主義」を貫けば戦争など起きるはずはないのだ。(参考文献:『消せなかった過去――まど・みちおと大東亜戦争』平松達夫)

「はるかな こだま」 まど・みちお

野に立って
とおく

かしわでをうちならすとき

こたえてくる
ながれてくる

はるかな はるかな こだまはなにか。

きよらかな
そぼくな

とおいむかしの日本の

神いますふるさとのよびごえか。

天の岩戸や
かぐやみめや
日のあたたかな かちかち山や
はるばる はるばる こえてきた

なつかしいふるさとのよびごえか。

「日本人よ
日本人よ

天皇陛下 をいただいた
光栄の日本人よ

君らの祖先がしてきたように

今こそ君らも
君らの敵にむかえ

石にかじりついても
その敵をうちたおせ

ー神神はいつも
君らのうえにある。」

ひびいてくる ながれてくる
そういうようにきこえてくる。

(2020年1月20日)

狼になりたい

質より量で勝負している貧乏なGデザイナーは徹夜で仕事をヤッつける。
「腹が減った・・・」
いつものように徹夜メシを食べに吉野屋へ行く。いつものように中島みゆきの「狼になりたい」を口ずさみながら。

「狼になりたい」 中島みゆき

夜明け間際の吉野屋では
化粧のはげかけたシティ・ガールと
ベイビィ・フェイスの狼たち 肘をついて眠る

なんとかしようと思ってたのに
こんな日に限って朝が早い
兄ィ、俺の分はやく作れよ
そいつよりこっちのが先だぜ

買ったばかりのアロハは
どしゃ降り雨で よれよれ
まぁ いいさ この女の化粧も同じようなもんだ

狼になりたい 狼になりたい ただ一度

向かいの席のおやじ見苦しいね
ひとりぼっちで見苦しいね
ビールをくださいビールをください 胸がやける

あんたも朝から忙しいんだろう がんばって稼ぎなよ
昼間・俺たち会ったら
お互いに「いらっしゃいませ」なんてな

人形みたいでもいいよな 笑える奴はいいよな
みんな、いいことしてやがんのにな
いいことしてやがんのにな
ビールはまだか

狼になりたい 狼になりたい ただ一度

俺のナナハンで行けるのは 町でも海でもどこでも
ねえ あんた 乗せてやろうか
どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも

狼になりたい 狼になりたい ただ一度
狼になりたい 狼になりたい ただ一度

喪失感を埋めるのは、中島みゆきと吉野屋の牛丼が自分のルーティーンだ。
高本茂は『中島みゆきの世界』で「豊かな社会において、不遇は存在し、総中流社会においても脱落組は存在する。落ちこぼれ、取り残され、排除される側の人間の抗議や怒りや悲しみを、中島みゆきは代弁し続けた。彼女の数々の作品は、この世の全ての不幸な者たちへの子守歌なのだ」と語る。
そして「戦後日本社会への根本的な否認を申し立てているのだ。なぜなら戦後日本社会とは、勝者、生者、成功者の論理で出来上がっているのであり、敗者、死者、失格者を排除することで存立しているからだ。戦後日本社会に対してこれほど強い否認を突き続けたのは、中島みゆきただ一人だ」とも語る。

テレビが宝箱だった時代の1973年12月12日、広告という虚構の世界に夢をかけたCM作家の杉山登志が、意味深な言葉を遺して自宅マンションで首を吊って死んだ。朝日新聞はその死を「オイルショックによる経済的破綻が生んだ消費最前線の戦士の自滅」と位置づけ、当時の社会を象徴する出来事だと報じた。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは……とても
嘘をついてもばれるものです

広告の仕事はわからない。死の理由もわからない。しかし、この言葉だけがいつも頭の中で呪文のように聴こえる。
「嘘はばれる。嘘はばれる。嘘はばれる・・・」
当時、杉山登志の死に関して小林亜星は「死んだ時、笑った人もいました。笑ってはいけない、気の毒だといいながら……。私と彼とは立場が違うけれど、やはり彼の死については批判的ですね。CMというのはジョークでやっていないと、やっていけない部分があるわけです。それを真面目にやりすぎてしまった」と辛辣な意見を語った。おそらくその通りだろう。しかし、中学生時代から「死」を意識していたという杉山登志のニヒリズムは、現実世界など興味がなく、ただの邪魔ものであり、唯一かつ本物の現実世界はフィルムの中で起こっていることだけであっただろう。広告を創っているというよりも夢を創っているのであり、創ることでしか生きられなかったのが杉山登志なのだ。

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ (「ファイト!」)

先日、上野で開催しているゴッホ展に行った。杉山登志と同じ37歳で自ら死んだゴッホの人生と杉山登志の人生を無理矢理に重ねる。ゴッホが現実の世界では生きられなくて、キャンバスの中でしか生きる場所は無かった。ゴッホの人生とは、才能に乏しいと自覚している人間が独学で自分の腕の足りなさを克服しようと、てんかんの発作に襲われながらもそのたびに立ち上がり悶え苦しみ努力することによって、自分で自分を創りあげ、10年間に約850点の油彩と約1000点の素描を描いた持続力がゴッホの人生だ。
杉山登志にとっても創ることが生きる証しであり、年間80本という過労死レベルの数のCMを創る持続力がるからこそ生きていけるのだ。しかし、CM作家という仕事の持続力とは、クライアントの受注を限りなく受けることであり、クライアントが求めるイメージの再現を果たし続けることである。
夢はいつかは覚めるもの。虚構の世界に立てこもった強さが想像力を掻き立て、自分で自分を創り上げたが、時代の変化は虚構の世界のリアリティへの信頼が次第に揺らぎ始めた。現実世界を捨てた杉山登志にはどこにも居場所が無くなったのだ。
杉山登志と同じ歳の横尾忠則はデザイナー時代に「デザインとは〈虚〉である。〈虚〉でしか通じない世の中でもある。本当のことをいうと通じない。またはっきりいうと損をする、しかし、私は今、損をしてもいいから、できうる限り、本当のことをいうデザインをしたい」と語り、本当のことをいうための組織を去っていった。杉山登志は、〈虚〉と格闘して組織の中で本当のことをいわずに死んだのだ。横尾忠則がいうように、現実の世界のウソは真実を隠すためのものであるが、虚構の世界のウソは真実を描くものなのである。

世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする
変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする (「世情」)

杉山登志の死んだ時代とはどういう時代なのか。
坪内祐三の定義によれば、高度成長が終焉した1972年が、ひとつの時代の「はじまりのおわり」であり、「おわりのはじまり」だという。中東戦争によるオイルショックがあり、基地負担を押し付けられた沖縄返還があり、大衆運動の敗北した浅間山荘事件があり、ロックが形遺化し、日本列島改造論があり、街にチェーンが溢れ始めた時代であり、社会全体は夢から醒め、現実化(商業化)した時代である。こんな奇妙な開放感とその裏返しの閉塞感の中で、ひとつの時代の象徴として杉山登志は死んだのだ。
夢など見られない現代社会は、時間的にも空間的にも合理化され便利になったが、人や商品は単なる「モノ」でしかなく、煽り立てられて生きなければならなくなり、人は寛容さを忘れ下品になった。大手広告代理店は社員を過労死するまで働かせ、そこから仕事を請け負っている下請けや孫請け会社にいたっては言わずもがな。
それぞれ生き方は自由である。ジョークで生きようが、楽して生きようが。しかし、こんな時代だからこそ杉山登志の愚直なまでの精神性は多くのクリエイターからリスペクトされるのだ。

めぐるめぐるよ 時代はめぐる
別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ (「時代」)

「それにしても深夜だというのに街は明るすぎる・・・」
少しでもお金を使わせようとネオンがギラギラ怪しく光る。その上を月が負けじと輝いている。
♪ 狼になりたい〜
♪ 狼になりたい〜

(2020年1月11日)

高野悦子と南条あやの青春日記

 青春期という季節の希望と絶望のはざまで読んだ本は、殺しきれなかったキズとして今でもヒリヒリと痛みが蘇ってくる。高野悦子の『二十歳の原点』はその一冊だ。『卒業まで死にません』の編集者は『二十歳の原点』を読んで、『高野の日記が与えた感動を今の若者にも再現したい」との熱意から、南条あやの日記の出版を企画したという。

 高野悦子の『二十歳の原点』(新潮社)は、1971年に出版された彼女の青春日記である。当時、全共闘世代と呼ばれた若者たちの共感を呼び、翌年にはベストセラー第二位になっている。いまだに大学の書店などではお薦めの一冊として取り上げられることも多く、今でもずっと若者に読みつがれてきた青春文学の古典の一つである。
 南条あやの『卒業まで死にません』(新潮社)は、2000年に出版された彼女の日記集である。高野ほどのベストセラーにはならなかったものの、『二十歳の原点』と同じく後に文庫され、現在も読まれつづけている。日記のオリジナルがインターネット上にウェブ日記として公開されていたのは1990年代の後半だが、当時は彼女自身も若者雑誌から取材を受けるほどの人気ぶりで、一部の若者たちからはネット・アイドルとして熱烈にもてはやされる存在であった。
 高野悦子は、1969年6月24日未明の貨物列車に飛びこみ、即死している。20歳だった。『二十歳の原点』は、彼女の遺した膨大な日記を父親が編集して出版したものである。一方の南条あやは、1990年3月30日、向精神薬を大量服用して中毒死している。18歳だった。『卒業まで死にません』も、彼女の死後にウェブ日記の存在を知った父親が編集して出版したものである。

永遠にこの時間が続けばよい
人々の中に入れば また
自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから
雲にのりたい
雲にのって遠くのしらない街にゆきたい
名も知らぬどこか遠くの小さな街に
(高野、1969年6月18日)

私が消えて
私のことを思い出す人は
何人いるのだろうか
数えてみた
・・・
問題は人数じゃなくて
思い出す深さ
そんなことも分からない
私は莫迦
鈍い痛みが
身体中を駆け巡る
(南条、1999年3月29日)

 高野も南条も、自らの死の直前に、辞世の句とでもいうべき死を遺した。
 束縛的な人間関係から開放されて浮遊することを夢みた高野悦子と、それとは逆に、浮遊常態から開放されて濃密な人間関係に包み込まれることを夢みた南条あや。どちらも孤独の悲哀にみちた詩でありながら、その感受性の向きは逆である。周囲の人びとから「自律したい」という焦燥感がもたらす高野の生きづらさは、30年という歳月を経て、周囲の人びとから「承認されたい」という焦燥感がもたらす南条の生きづらさへと変転している。
 高野の日記集の出版タイトルである『二十歳の原点』は、「「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である」(高野、1969年1月15日)という彼女の日記中の言葉に由来している。この言葉は、自己に取りこまれた他者のまなざしを経由して、自分自身へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから自己変革に励んで、つねに自分を成長させていきたいという熱っぽい意気込みが潜んでいる。
 それに対して、南条の日記集の出版タイトルである『卒業まで死にません』は、彼女が友人と約束を交わしていたという言葉に由来している。これと同じような言葉は、彼女の日記中にも何度か顔を出している。この言葉は、ウェブ日記の読者や友人へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから私をずっと見つめてほしいという切ないまでの彼女の承認欲求が潜んでいる。
 高野にせよ、南条にせよ、日記をつけることは。生きづらさにもがく自分とって、大いなる救いとなっていたにちがいない。
 高野は、「より望ましい自分」に対して愚直なまでに誠実であろうとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠情の中へおしやられば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(高野、1969年6月1日)。
 南条も、「より望ましい自分」のすがたに対して貪欲ななまでに確証を得ようとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「私はいつでも追いかけられている/この世の中の喧騒とか/義務なんてチンケなものじゃなくて/自分自身に/誰も助けてくれない/助けられない/私の現在は錯乱している/きっと未来も/ならば/終止符をうとう/解放という名の終止符を」(南条、1999年3月29日)。
 彼女たちの日記が等しく照らし出しているのは、「より望まし自分」へと駆り立てられ、いつも切羽つまった感じをどこかに抱いてしまうという青年期に共通の課題である。
 高野の生きづらさと南条の生きづらさのあいだには、30年という歳月を超えて、なお変わらない生きづらさの本質を見出すことができる。しかし、その生きづらさの根源は、「変わりゆく私」と「変わらない私」にそれぞれ対応して、限りなき自律欲求から絶えざる承認欲求へと大きく様変わりしてもいる。その意味で30年という歳月によって隔てられた大きな断絶をそこに見出すこともできる。(土井隆義『友達地獄』より)

 漠然とした社会で生きている限り、年齢に関係なく「生きづらさ」はなくなることはない。高野悦子と南条あやは「生きづらさ」の中で日記を書き、日記のなかに生きる自分自身に忠実であろうとして逝ってしまったが、「生きづらさ」がない人生が本当に幸せだとは思わない。自分が悩み苦しんだからこそ、他者の痛みが理解できるし優しくもできる。「生きづらさ」のなかにこそ本当に幸せがあり、それを少しづつ積み重ねていくしかない。

(2020年1月10日)

まど・みちおの「リンゴ」を読む

「リンゴ」 まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 まどさんはこの「リンゴ」という詩を1972年、63歳の時に発表した。まどさんは、詩を「つくる」というよりも「生まれる」という感じがするという。テーブルの上に置かれたリンゴを見て、その美しさにハッとして、まどさんの中の何かが震えた。なぜハッとしたんだろう、美しいと思ったんだろうと追求していったら、そのうち「リンゴが占めている空間は、ほかの何ものも占めることができない」ということに気がついて、またハッとしたという。まどさんにとって「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」という発見はよほど衝撃だったようだ。15年後の1987年に「リンゴ」を「ぼく」に置き換えて「ぼくが ここに」という詩を書いている。言わば「りんご」の存在を発見したことによって「個」というものの発見であったのだ。それは、この地球に自分自信が「存在」しているという「超個」の発見であったのだ。
 この詩は「存在」という普遍的なものがテーマだ。それゆえに、多くの人がこの詩について独自の評価し、多くの人が解説をしている。
 詩人の佐々木幹郎さんはこの詩について「短い詩だけれど「りんご」の存在感を浮き上がらせています。哲学としての存在論の領域にも踏み込んでいる」と語っている。
 詩人の大橋政人さんはこの詩について「リンゴは/リンゴ自身/存在していないことをしめすために存在している」と言う。「リンゴ」は風景としての「リンゴ」ではなく、すでに「在る」ことと「不在」が解け合ったような「光景」としての「リンゴ」になっている語っている。そして、この詩を最初に読んだとき、言葉の厳密な意味などわからなかったが、ものを凝視する詩人の恐ろしいほどの息づかいを感じた。そして、恐ろしいほどの凝縮した時間の中で、私が見ているリンゴの風景が「まぶしいように」一つの「光景」へと変質していくのを感じたという。

 人間が「存在」するとはどういう意味なのか。
 先人の哲学者たちは「存在」の意味を考えるとは、人間の「存在」の本質、自分が個人としてどのように存在するのか、自分の人生に意味を見出すことができるのか、ということを考えることだという。
 キルケゴールは、自分がどのような人生を送るかにについて、自分で道徳的判断を下す「自由」があり、それこそが自分の人生に意味を与えるという。しかし、この選択の「自由」は幸福だけをもたらすだけではなく、恐怖や不安を伴うものである。恐怖や不安に絶望して何もしないことを選択するか、不安から逃避せず「真正」に生きて人生に意味を与えるような選択をするか、決断しなければならない。
 人は生きていくうえで「死」の恐怖や不安から逃れることはできない。池田晶子さんが『人生のほんとう』で記すには「生きる」と「死ぬ」は対にならないという。「生」に対して「死」があるのではない。「死ぬ」という言葉で表象するものは、他人の死をごっちゃにしたもので、われわれは生きている限り自分の死のことは知りようがないし、生きている人は誰もそれを知らないから、自分が死ぬことは考えられない。なぜならそれは、どこにも「ない」から。この世界のどこにも、自分の無としての死は存在しない。無が存在したら無ではないのだから。なぜ在ることしかないのかを考えていくと、わたしたちが「生きている」といっている生存とは、存在することの部分集合にすぎず、存在するといることは、必ずしも生存していることだけをいうのではない、ということがわかってくる。自分が生きているという当たり前と思っていたことが、とんでもなく謎であり、わたしたちは「存在」と「無」とい宇宙的なからくりのようなもので、「生かされている」ということがわかる。この宇宙の中に現れて「自分が自分を生きている」こと「あなたがあなたを生きている」ことが奇蹟的なことである。
 わたしたちは毎日のように奇蹟を生きている。そして、人と出会ったり、ものと出会ったりしていることは奇蹟と奇蹟の出会いであり、とても愛おしいことである。
 この「りんご」という詩を改めて読めば、まどさんがリンゴとの奇蹟的な出会いを、微笑んでながめている姿が目に浮かんでくるようだ。

(2019年12月14日)

センス・オブ・ワンダー

 遺伝子組み換え食品と農薬野菜が大好きなニッポン。どこの国よりも多く遺伝子組み換え食品を輸入し、どこの国よりも多く農薬を使用して野菜を育てている。スーパーで売られている食品の60%は遺伝子組み換え食品で、80%の食品が遺伝子組み換え作物かかわっているという。しかも、表示に関する法律はどれもほんとんどがザル法らしい。
 レイチェル・カーソンは「人類全体を考えたときに、個人の生命よりはるかに大切な財産は、遺伝子であり、それによってわたしたちは過去と未来につながっている」と語った。

 ――この遺伝子に影響がおよぶのは「わたしたちの文明をおびやかす最後にして最大の危険」なのです。
 その遺伝子レベルで問題になるのは、たとえば、遺伝子組み換え操作により作り出した組み換え作物にように「人がある生物の『あり方』を決めることにつながってしまう」という生物論理にかかわるものです。組み換え作物とは、ある生物から取り出した有用な遺伝子えを別の生物に組み込むことによって、病気や害虫に強いなど新しい性質を加えた作物のことです。
 他方、その遺伝子レベルへの影響が問題になるのは、化学物質や放射能のように。「他人が、ある人間の『あり方』を決めることにつながってしまう」という人間倫理にかかわるものです。ここでの『他人』とはこれまでに化学物質や放射能を作り出した人間であり、『ある人間』とは将来世代の人間のことです。
 今日、人間をとりまく地球環境が深刻な危機に陥っていることについては、さまざまに論じられています。こうした問題に対して、単に技術的、プラグマティックにアプローチするのみでなく。「自然とは何か、人間とはいかなる存在か、人と自然はどのようか、自分と他人との関係はどのようか」などの究明をふまえて、そこから問題を倫理的に考察していくものでなければならない。――

 遺伝操作技術の発達は、効率的に食物を収穫するためだけのはなしではなく、人間に応用されることによって「優生学」という思想が再び危惧されている。遺伝操作によって不良な遺伝子を持つ者を排除し、優良な子孫のみを増やすという思想でる。かつてドイツのナチスにおける優生政策など、人間は過去に大きな過ちを犯してきた。伝操作技術の進歩によって私たちの健康への恩恵は多大だが、越えてはいけない境界を慎重に見極めるべきである。
 そのためには、欲を捨てて自然と向き会あい謙虚に生きなければならない。レイチェルは、「センス・オブ・ワンダー=自然や生命の神秘さや不思議さに目をみはる感性」が大事だと言う。

 ――子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒豊かな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌だ。幼い子ども時代は、この土壌を耕す時だ。美しいものを美しいと感じる感覚。新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになる。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。――

 レイチェルが生まれたのはアメリカのペンシルベニア州であり、今でも多くのアーミッシュが住んでいる場所だ。それより北がニューイングランド地方であり、グランマ・モーゼスの絵の舞台となった自然が豊かな場所でり、ターシャ・テューダーが自給自足の生活をする為に移り住んだ場所であり、レイチェルに影響を与えたた場所でもある。
 エミリ・ディキンソンという女性の詩人がいる。エミリは1830年のマサチューセッツ州の田舎町の上流家庭に生まれ育ち、50数年の生涯の後半ほとんどを家から出ることなく過ごした。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、全く無名の人として人生を終えた。ところが死後に、クローゼットに眠る数千の詩作品が妹によって発見され、編集出版された。作品は忽ち広く読まれるようになった。

「ひとつの心がこわれるのを」 エミリ・ディキンソン

ひとつの心がこわれるのを止められるなら
わたしが生きることは無駄ではない
ひとつのいのちのうずきを軽くできるなら
ひとつの痛みを鎮められるなら

弱っている一羽の駒鳥(ロビン)を
もういちど巣に戻してやれるなら
わたしが生きることは無駄ではない
(訳:川名澄)

「If I can stop one Heart from breaking」 Emily Dickinson

If I can stop one Heart from breaking
I shall not live in vain
If I can ease one Life the Aching
Or cool one Pain

Or help one fainting Robin
Unto his Nest again
I shall not live in vain

 自然風土が人を育てるというように、感性を育むには環境が大事だ。
 レイチェル・カーソン、エミリ・ディキンソン、ターシャ・テューダー、グランマ・モーゼス、が作品を生み出す感性は環境があるからこそだ。しかし、コンクリートだらけの都会で、落ちこぼれないように相手を蹴落としてでも這い上がらなければならない現代社会で、感性を育むことは容易ではないだろう。
 レイチェルとエミリ生涯独身だったし、ターシャは50歳代半ばから自給自足の一人暮らしを始めた。感性を育むには、現実と少し距離を置いたり、孤独に身を置くことも必要だと思う。そうすれば、自分自身と向き合えることが出来るし、こころの中に自然が芽生えてくるだろう。
 そして、小さな自然や、小さな命に耳を傾けたり、食べ物に気を配ったり、レイチェルの本を読み、エミリの詩を読み、ターシャの絵本を読み、グランマ・モーゼスの絵を見て感性を育んでいきたい。

(2019年12月7日)

弱者を見殺しにする国

 ネットニュースによると、埼玉県川口市内に住む高校1年の男子生徒が「教育委員会は大ウソつき」と書いたメモを残し自殺した。生徒は中学時代にいじめにあい、いじめを伝える手紙を何度も書いていたが、中学校側はそれまでSOSと受け止めていなかった。3回目の自殺未遂で後遺症で足に障害が残った。学校や市教委はようやく、いじめの重大事態として、調査委員会を設置した。ただし、生徒側にはそのことを伝えておらず、聞き取りもされていなかったという。
 彼は3回も自殺未遂をし、教育委員会にいじめを伝える手紙を何度も書いたにもかかわらず、学校や教育委員会は彼を見殺しにしたとしか思えない。すでに、学校や教育委員会は教育機関としての体をなしていない。
 いじめはいじめる人間が一番悪い。しかし、いじめ問題とは生徒を学校という強制収容所にも等しい地獄のような空間に閉じ込めて、群れて生きることを叩き込むことに原因がある。この学校制度を廃止しない限りいじめは無くなるわけがない。そして、いじめられている生徒が学校に相談しても解決するわけがない。
 学校はいじめ問題より自らの保身が大事であり、校長や教員にとって生徒は中学校・高校なら3年間でいなくなる存在であり、生徒よりも学校の校長や教員、教育委員会の「もちつもたれつ」の関係が大事なのである。市町村の教育委員会のトップでる委員長のほとんどが、校長経験者によって占められていて、学校でいじめが発生した場合、まず重要視されるのはいかにいじめを解決するかではなく、この「もちつもたれつ」の生温かい世界、居心地のいい人間関係をいかに維持するかだ。その世界が維持される限り、自分の生活も安泰ということになるからだ。
 この「教育ムラ」の人間たちは、どれだけの生徒を見殺しにしたら変わるのだろうか。

 学校のいじめ問題に限らず、今の日本社会は権力に迎合する人間や既得権者が優遇され、弱い人間が憂さを晴らすように自分より弱い立場の人間を攻撃する。
 2012年11月24日、東京・日比谷野外音楽堂で「安倍『救国』内閣樹立! 国民決起集会&国民大行進」が行われ、安倍首相もこれに参加した。そして「チャンネル桜もできたし、今、インターネットがあります。インターネットでみなさん、一緒に世論を変えていこうではありませんか。みなさん、ともに、日本のために戦っていきましょう」と聴衆に呼びかけた。この日以来、社会が右傾化への坂を転がり落ちていくように排外主義者によるヘイト・スピーチが各地で起きた。しかし、警察は排外主義者を逮捕するのではなくヘイト・スピーチを止めるカウンターたちを逮捕した。財務事務次官のパワハラ事件がを起こしても、安倍御用記者がレイプ事件を起こしても処罰されることはなかった。
 相模原障害者施設殺傷事件が起き、川崎殺傷事件が起き、電通社員過労自殺事件が起き、元自衛官によるカンボジアで強盗殺人事件が起き、いくつかの児童虐待死事件やいじめによる死亡事件起きた。数えればキリがないこのような事件のすべては弱者が被害者だ。
 安倍政権は大企業は優遇して、国民に負担を押し付けている。株式投資に失敗して国民の年金14兆円を損失させても知らん顔をしている。福祉は切り捨て、弱者を餓死や自殺へと追いやっている。日本では1日に5人が餓死し、1日に37.5人が自殺し、先進国30ヶ国中、貧困率が4番目に高い国に暮らしているのが私たちだ。
 国のリーダーが国民に間違ったメッセージを発すれば社会はどんどん病んでいく。狂っているのは、国のリーダーの頭の中だけではなく、それは「反対だ」と指摘しなかった国民の問題でもある。

「反対」 金子光晴

僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。

ぼくは第一、健康とか
正義とかがきらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無精にするものはない

むろん、やまと魂は反対だ
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻を向けてゐる。

なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
ぼくは、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、

きもの左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。
 
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。

 戦争中多くの文化人は戦争に協力する活動をした。しかし、金子光晴はたったひとり信念をつらぬいて反戦詩を書きつづけた。
 自分も金子光晴のように、反対といえる人間になりたい。ダメのものは絶対にダメなのである。
 彼ら彼女らの尊厳と名誉のためにも・・・。

(2019年10月15日)

鳳仙花と桜(봉선화와 벚꽃)

鳳仙花を見ながら  (봉선화를 보면서)
桜を見ながら  (벚꽃을 보면서)
語り合おう  (이야기를 주고 받자)

鳳仙花を見るように  (봉선화를 보도록)
桜を見るように  (벚꽃을 볼 수 보도록)
お互いを慈しもう  (서로를 사랑하자)

花が人を呼び  (꽃이 사람을 불러)
人々が笑顔を呼び  (사람들이 미소를 불러)
笑顔が平和を詠う  (미소가 평화를 노래하네)

「あの素晴しい愛をもう一度」
作詞:北山修  作曲:加藤和彦

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

「그 멋진 사랑을 다시 한번」
작사:야마 오사무  작곡:가토 가즈 히코

목숨을 걸겠다고 맹세한 날부터
멋진 추억 남겨 왔는데
그때 같은 꽃을 보며
아름답다고 말하던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

고추잠자리 노래를 불르던 하늘은
아무것도 변하지 않았지만
그때 계속 저녁노을 쫓아갔던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

넓은 황야에 외로이 있으니
나도 모르게 눈물이 흘러내렸죠
그때 바람이 불어쳐도
변하지 않겠다던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

https://www.youtube.com/watch?v=emUUAu0q6zw

( 2019年9月4日)

ツバメの巣

あの古着屋さんはきっといい人だろうと思う。
毎年、近くの古着店の軒下にツバメが巣作りをする。今年も無事に数羽の小さなツバメが巣立っていった。
ツバメは人間が危害を与えないと信用しているから、あえて人間の近くに巣をつくることで天敵から身を守っている。
しかし、近ごろでは落ちた糞が汚いといい軒下のツバメの巣を叩き落とす家もあるという。

日本人は自然が好きで、自然をよく生活に取り入れているのに、どうして今日のようにひどい自然破壊が行われるのか。
日本人は、自然というものを自分たちの対象として客観化してとれてはいないからである。
日本人は自然と一体化しているが、それは自分勝手な意思で自然を取り入れているだけで、植物や昆虫の区別、名称などということには、ほとんど興味をもっていない。
人と自然は未分化の世界を形成しているのだから、人の欲望によってどういうことにもなりうるのである。自然を家の中に取り入れることも、自然を自分の欲望実現のために破壊してしまうことも、両者は同じ観点の異なる表現にすぎない。自然破壊に対する自然保護の叫びは、自然を客体として、どう扱うべきかという発想からではなく、保守的なセンチメンタリズムに裏付けられているのが特色で、両者は相対立する格好をとっているが、同じレベルにおける保守と進歩、あるいは好み、利害の相違の問題であるために、問題解決のきめ手をいずれも出すことができず、結局、どちらか強いほうの力におされていく、ということになってしまう。

「つばめ」 金子みすゞ

つういと燕がとんだので、
つられてみたよ、夕空を。

そしてお空にみつけたよ、
くちべにほどの、夕やけを。

そしてそれから思つたよ、
町へつばめが來たことを。

かつて石牟礼道子さんは都心のビル群は「近代の卒塔婆」といった。現在の都心は卒塔婆と補助金欲しさに造られてた緑化施設が点在している。そして、駅前の風景は赤や黄色のチェーン店だらけでどこも同じ顔をしている。
自然破壊とは街を破壊することだけではなく、人間のこころも破壊することである。
また来年、優しい古着屋さんの軒下にやってくるツバメが楽しみである。

(2019年8月3日)

横田弘の闘い

 現在の若者たちは不平を言わない。
 ブラックバイトや非正規雇用の雇い止めに怯え、賃金の上昇の望みを絶たれ、国民年金保険料や国民健康保険税の滞納し、スマホの使用料に圧迫され、親よりも狭い家に住み、結婚や車を諦め、奨学金の返済に苦しみ、れでもなお現代の若者たちは、与党を支持しデモに集う人々に冷淡な視線を浴びせ、サービス残業に従事している。

 1970年代、「秩序や道徳なんかクソくらえ! 俺はしたいことをする!」と思想をもち、世間を騒がせた人たちがいる。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」である。
 教育、就労、など、あらゆる機会から閉め出されていた彼らは、障害者差別反対を旗印に、各地で激しい糾弾闘争を展開した。施設を占拠して立てこもり、ロッカーや引き出しを引っかき回し、そこに小便をひっかけた。バスジャックを慣行した上、道路に寝そべったりして交通をマヒさせた。しかし、警察は彼を逮捕しなかった。重度障害者が多かった青い芝のメンバーを拘束すれば、思い言語障害を持つ者が多く介護しなければならないし、事情聴取も大変だからだ。何をしても逮捕されない彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。青い芝のメンバーはよくいえば個性的、悪くいえば無軌道だった。いつでもどこでも自己中心、人の言うことは聞かない。思いついたらあとさき考えずに即実行。あとはどううなろうが知らんぷり。そんな彼らの問題解決の路を選ばない運動は、必然的に大衆から遊離し、やがて終息していった。

 その中心メンバーの横田弘さんは、1933年5月15日に横浜市鶴見区に生まれた。母親は身体が弱く出産に6、7時間かかった。結果として、脳性マヒという障害を負って生を受けた。横田さんは、1950年に母親が亡くたったときに17〜18歳で、それからしばらくして詩を書き始める。1955年に横浜の『象(かたち)』という同人誌に参加したことが詩人の始まりであった。しかし、より正確に言うならば、母親が亡くなった17歳以降、横田さんは1人で詩を作り始めている。『少女クラブ』に従妹の名前を使って入選したことなどを経て同人誌『象』への参加であった。1人で詩を創っていたのは、1950年前後、横田がまだ10代のことである。さらにその2年後、20歳の頃には、西条八十が選者を務める『講談倶楽部』という大人の雑誌に歌謡曲を書いて投稿し、3等に入選している。したがって、22歳の時点で現代詩の同人誌『象』への参加は、児童詩、歌謡詩を経てのものであったということになる。
 横田さんが詩の創作を始めたのは、母親が亡くなった後の10代後半からであり、母親を亡くしたことに伴う母性の喪失により生じた心の隙間を埋める行為としての詩作であったと考えることができる。そして雑誌に投稿し同人誌に参加することで、横田さんの中に別の世界とのつながりが芽生えたと解することが可能である。それまでは家の中にいて、そばにある本をかたっぱしから読んでいるだけであった横田さんの、外の世界との最初の接点が詩作であった。そしてこのようにして芽生えた、詩作を通した社会とのつながりが、横田さん自身のなかにゆっくりではあるが、自己の形成を促していったのである。それを裏付けるかのように、横田さんは次のように述べている。
「私は1955年から横浜の同人誌『象』で詩を書いていました。それは私にとっては家族以外との初めての「外界」との関わりだったのです。」
 就学猶予によって小学校に行くことが出来なかった横田にとって、10代後半から始めた詩作が、少しづつではあるが学校とは別の形で社会とのつながりを形成していった。

「櫛火」 横田弘

朽ちていく肉体に注ぐ
哀別の泪を
だれが
奪えるのか

二度と還ることのない
旅への調えを断ち切る
メスのきらめきは
決して 許されない
存在への 挑み

〈脳死=人の死〉

虚しさの深さを 見失い
哀しみへの愛しさを 投捨て
わななく畏れさえ 忘れて
ひとは
幻の果を盗み続けていくのか

いま
確実に
操られた頷きの微笑みに潜む群れが
増える

だが

じっと 地に蹲り
蒼黒を見据えるのは
衝動の憤りではない
遠い母達が残した
たった一つの言霊(ことだま)を呼戻す作業の筈
なのに

「見送るだけか」 横田弘

午後
初冬にしては激しすぎる雨が
フロント・ガラスを打つ
研修集会の帰り道

私の 不遜
五十九年の暮らしのなかで
無意識に育てていた 黝い驕慢が
また
サイド・ミラーから 嘲笑(わら)いかける

こんな楽しい思いをさせて貰って
本当もありがとう

たまさかの宿泊の酒に
笑顔で語り掛ける施設暮らしの友の言葉に
全身を凍らさせ
身動きさえできない自分を
そんな怯えを冷ややかに見据える
もう一人の 私と

本当にありがとう

無音のまま頷きが
自分への免罪符にしか過ぎないと
判っていたとしても
 
いま
それを責め続ける若さが
私から 去って行く
 
とっても
雨音が寒い

(『そして、いま』 横田弘 1993年 より)

 人権とは、個別具体的な個人の権利であり、今ここに生きている人間の切実な命に関わる問題である。「青い芝の会」のラディカルな運動は、多数派を形成できないために無視されてしまうマイノリティの権利を主張するための運動ある。現代の格差社会の若者たちの環境も同じようなものだ。既得権益者たちが、豊かな社会を創るという資金や時間や仕事を食べ散らかしてまい、若者に残されたものは食べカスに近くなってしまった。
 横田さんはいう。「僕たちにできることは、「脳性マヒ者でも何が悪い! 差別するな!」って叫ぶこと。叫び続けること。」だと。
 日本人の15歳から39歳までの死因のトップは自殺という。たかが貧困や障害などで死んではいけない。我慢することが強さではない。人に依存でき、助けを求められることが強さである。声をあげずに静かなままだと何も変わらない。声を上げて変化を求める力が強ければ、政治も無視することはできなくなるはずだ。残念ながら、政治が本格的に貧困世代に向き合う兆しは見えない。政策も自己責任論に終始し、突破口を示すことができていない。逆に、若者が声を上げないがゆえに、何をしても抵抗がないのをいいことに、暮らしにくさを加速させるように進んでいる。このまま静かにおとなしく待っていれば問題解決してくれる人が現れるということはない。ちっぽけで意味のない行動などひとつもない。自ら主体的に社会変革をしなければいけない。

参考文献
『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』 角岡 伸彦 (講談社)
『われらは愛と正義を否定する 脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』 横田弘 (生活書院)

(2019年6月28日)