山下千江さんの詩集に『ものいわぬ人』という非売品の詩集がある。
『ものいわぬ人』は山下千江さんの母様が昭和三十八年一月十三日、掘りごたつから出ようとして倒れ、そのまま脳血栓の後の脳軟化症のため、すべての運動神経がマヒし、物も言えず、手足も不自由なまま、病床にあって、昭和四十年一月十七日早暁、満二年と四日目に亡くなり、亡き母様に捧げるために綴られた詩集です。
【わかれ】 山下千江
ふくらみかけた紅梅に姿よく雪がつもった朝
ベットの母に一枝折ってかざしてみせた
母の口がきけなくなってから
母娘はお互の眼の奥をのぞきこんで
言葉よりも重い会話を交しあった
娘がなぜわらいながら蕾(つぼみ)の枝をかざし
つもった雪をみせようとしたかを
母は深く受取ってこくりとうなずいた。
涙よりもつづきのない
つめたい「その日」がもう遠くはないことを
紅梅の紅は娘にかわって母に語りかけた
母はなぜ娘が「わらって」いたかを理解して 小さく泣いた
その泣声を娘は終生忘れ得ないであろう
深く 重く そしてあわれにも浅い縁(えにし)
そういうものであった
(母と子というものは)
野路の紅梅が一輪
ふっくり開いた朝
母の頬は白く冷たくなって
閉じた眼は
もう花の色をみることが出来なかった
娘はまだぬくもりのさらぬ母の懐に一枝の紅梅を抱かせ
声をのんで泣いた
そして今度は自分で
「さようなら お母さん」 といった
【綾とり】 山下千江
とおい日に
あなたのたもとに
重くすがって
曲らせなかったいくつかの路
その中には
若い日のあなたが
心を残してすぎた路地もあったでしょうに
お母さん
ゆるして。
あたしの一番大きな罪は
まだ子供だったということ
あなたを今重く背負って
私が曲り角に佇(た)っていても
私が涙をこらえてそこを通りすぎたとしても
あなたの罪はたった一つ
老いて病人であるということだけ
明治生まれの母と大正生まれの娘は
こんなところで綾とりをして
お互いの生涯の帳尻を塡めあっていくのでしょうか
【添書】 山下千江
謹んで拝します。 あみださま
十七日早暁お手許に伺いました旅人の列に
藍大島の対の着物
緑の市松模様の帯をしめ
紫檀と珊瑚のじゅずをかけ
かぼそい竹の杖をついて
トボトボと歩く小柄の老女をおみうけでしたら
それがわたくしの母でございます
冥府へ行列は足音もきこえず
三角の旗なびかせた鬼に守られて
母はおびえていなかったでしょうか
連れがあるような ないような
たよりないあの世とやらの道々で
ひとり歩きをしたことのない年寄りが
もしや迷っては居りませんか
(略)
はじめまして あみださま
日頃は無信心のわたくしが
勝手についてのおすがりを
どうぞおわらい下さいまし
おわらいの上のお慈悲には
母をよろしく願います
馬鹿正直で辛抱強く
気弱なくせに強情っ張り
世間知らずのお人よし
もしや言葉の行きちがいで
地獄へ行ったら恨みます
どんな片すみでも日あたりよく
静かなやさしい空気のあるところなら
母はくるくる働いて
針仕事や居眠りをして過ごしましょう
はじめまして あみださま
おしゃかさまに かんのんさま
おじぞうさまに おえんまさま
もしもあなたが本当においでなら
紙銭もたきます 藁の馬も作ります
毎日清水も供えます
あなたの悪口もつつしみます
お母さん
今度は気儘に暮らしてね
山下千江さんは「あとがき」で、
「母を見送って一年たった時、母のことを何か書くどころか、苦しかったことは皆忘れて、とにかく一生懸命に生きてきた母の姿ばかりが目に浮かび唯々悲しく、可哀想で、はずかしいことですが、以前の意気込みはどこへや、何も手につかないままボンヤリとした一年を過してまいりました。満二年その不甲斐なさに愛想をつきた形です。
しかし、考えてみれば、私の母は決して学識が深いとか、賢母とか慈母とかいうよりは、むしろ、やみくもに娘を愛し、老いては全身の重みでもたれかかってきた、ごく普通の愚母でありました。
愚母を弔うにが豚女こそふさわしいかもしれません。私は身の程も忘れておこがましくも考えつづけてきたいろいろの問題を、今はもうこだわりがなく一時おあずけにして、愚かな母の愚かな娘としてごくそのままの形で、この「詩集」というにはあまりに幼稚な一本を編み、不人情な娘心のお詫びのしるしに亡母に捧げたいと思います。」
と詩集を編んだ苦悩を綴っている。
そして、「序文」を依頼された矢野峰人氏は、
「山下さんが、女性の身を以て、時としては自分も傷つき倒れながら、二個年の長きに亘る悪戦苦闘の後に達し得た心境は、自我愛と人類愛との葛藤とも言えよう。欺くて、この闘いに能く堪え得る者は、その間も、いつかしら、一層高い立場から、博大な愛を以て、一切を眺め得る力を体得する。
これは、人間としてのみならず、芸術家としても亦、最も尊い体験である。山下さんの詩が、上述のような忍耐の生活からにじみ出た結晶であるにもかかわらず、その孰れとして、決して生々しい素材を以て生の人間的感情に訴える事なく、能く純粋な芸術として人をつよく動かす事に成功しているのは、苦い体験を重ねた後、一定の距離を置いて対象を見得る境地に達したからである。
われわれが此処に聞くものは、絶望のどん底から響いて来る厭世呪詛の声ではなく、涙を以て洗い清められた魂の、静かな独語、または亡き人の霊との対話であり、血涙を以て綴られているにもかかわらず、一切が静かなる涙の光につつまれて、さながらに縷々として立ちのぼる香煙にうちまじる読経の声のように、耳傾ける人々の胸の奥に沁み入る力を有って居り、彼等もふとわれに返れば自分も亦涙に濡れているのに気づくのである。亡き人の霊前に献げるにまことにふさわしい詩集といえよう。」
と賛辞を贈った。
『ものいわぬ人』は、一九六七年一月二十三日の発行です。子どもを愛する母の想い、母をいたわる子どもの想いは五十年前も現在も、そして未来も変わることなないでしょう。まして、高齢化社会の現在にあって介護の問題は避けては通れない問題です。介護する側のこころの葛藤から解放までを考える上でも貴重な一冊です。
どれだけ「おかあさん」という響きに助けられてきたことだろう。
おかあさんを想う詩を読めば、見えないへその緒をたぐり寄せるようにおかあさんとの思春期の愚かしい情景がまなうらに蘇る。
おかあさんの詩が数多いサトウハチローは、「ぼくは不良少年だったからね、おふくろを嘆かせることが多かったので、いっぱい書くことがあった」と語り。おかあさんの死を悼むにしても、詩で泣いたり、詩でわびしたり、おかあさんお想い出を詩で綴っている。
おかあさんの存在とは“原風景”であり、見えないへその緒をたぐり寄せて“還る家”である。人は“還る家”があるから、人生という旅の中でめぐりあう困難や悲しみも堪えていけるのであると思う。思春期に逃げないで激しくおかあさんと感情をぶつけ合いながら向きあってきたからこそ“還る家”はつくられたはずだ。そして心の底から感謝しているよ。
おかあさん・・・。
(2017年7月23日)