日別アーカイブ: 2022年6月16日

吉野弘の「夕焼け」を読む

「夕焼け」 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて-。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

娘は満員電車の中で、お年寄りに2回席を譲ったが3回目は席を譲らかった。娘はやさしいだけに、下唇をギュッと噛んで身体をこわばらせて受難者となった。敗戦後の不埒な時代を、下唇を噛んでつらい気持ちで生きてきた詩人も受難者であり、娘のこころの痛みを共有する。そして、夕焼けのような美して切ない詩が生まれた。
日本経済は効率だけを重視したあまり“やさしさ”という大事なものを切り捨てきたのかもしれない。本当の豊かさを考えるためにも、この詩はいまでも多くの人に読まれてる。

吉野弘さんは『くらしとことば 吉野弘エッセイ集 』で“やさしさ”について語っている。
・・・人間の内面というのは、エゴイズムに忠実であろうとする「自然のままの自然」とエゴイズムを制禦しようとする「人間的な自然」との二つに裂かれて、その間を絶えず、往ったり来たりしているものだと思う。だから、やさしさというのは、エゴイズムの持つ自己中心性を悲しげに見つめている人間の眼差しなんじゃないかという気がするんだ。自分のエゴイズムにつらい思いをしている人ほど、生命というものに対して寛大でやさしいんじゃないかなあ。
 電車の中で少年が老人に席を譲る。よく見る光景だけれど、そういうときの少年に好ましさを感じるのは、少年が自分のエゴイズムを裏切るという不自然なことをしたからなんだ。少年だって、席に座って楽をしたいのは当然で自然なのだ。その自然な欲望に忠実でない点、つまり不自然である点に、僕は人間を感じる。少年には他者が見えていると僕は思う。必ずしも自覚的ではないかもしれないけれども、自分の、楽をしたいという気持ちを、老人の、多分楽をしたいであろう気持の中に読んで、席を譲ったわけだ。
 それは、エゴイズムに目を開いたことによって促された人間的な想像力だともいえる。やさしさは想像力だといったほうがいいかもしれない。良くも悪しくも人間であることのために免れることのできないエゴを通す想像力、そこからみちびき出されてくる人間への配慮、それがやさしさなんじゃないか。
人間は完全でないから、人にやさしくしたり、人にやさしくされてなんとか生きていける。しかし、組織の論理、集団の論理の中では“やさしさ”が欠けてしまう。他者という存在が意識の中になくなり私欲を優先するからだ。吉野弘さんは「人間を一人という単位に捉え直して日常を生活することはできないものだろうか」と問いている。
・・・せまい歩道を、こちらから一人歩いてゆく。むこうから一人歩いてくる。すれちがうとき、どちらからともなく、道をゆずりあう(いつもとは限らないが)。これが二人対一人の関係になると、二人連れは、一人に対してなんとなく強気にふるまい、対等な歩行者同士として道をゆずるという構えを失いやすい。こういう人間関係は、考えてみると社会の万般にひそんでいて、その実なかなか気付かれぬことが多い。
“やさしさ”を育むにはどうしたらいいのか。
作家の高史明さんは“やさしさ”は心の中で生まれるものだから、心の中に平和のとりでを築く事だと語る。“自分”は“自分”だけで存在し得ていると考えるのは平和とは言わない。喜びは“自分”だけの喜びであり、苦しみも“自分”だけの苦しみということではなく、共感の中でこそやさしさが生まれる。人間は完全ではないから、“自分”が弱いところを認めきれたとき、逆に“わたし”が強くなれる。それが“やさしさ”といものである。“やさしさ”は、他人を苦しめてまで“自分”の幸福になるということをしないということから始まる。
コロナ禍の中でワクチンの開発が待たれている。しかし、本当に大事な事は“やさしさ”というくすりを贈る事だと思う。

(2021年1月6日)

ちいさい秋

♪ 誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
♪ ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

今年はコロナ禍で小さな秋を想える日々だった。
もずの声 秋の風 入日色・・・。
リュックの中にはいつも少し甘い紅茶と八木重吉の詩集を入れている。
八木重吉はその詩のように、寂しく、儚く29歳に生を終えた。第一詩集『秋の瞳』の序文に書いている。「私は友がなくて耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください」と。
その詩集から。

「咲く心」
うれしきは
こころ咲きいずる日なり
秋 山にむかいて うれいあれば
わがこころ 花となり

「ひびくたましい」
ことさら
かつぜんとして 秋がゆうぐれをひろげるころ
たましいは 街をひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく

「花と咲け」
鳴く 虫よ 花と 咲け
地 に おつる
この 秋陽 花と 咲け
ああ さやかにも
この こころ 咲けよ 花と 咲けよ

「秋の なかしみ」
わがこころ
そこの そこより
わらいたき
あきの かなしみ

あきくれば
かなしみの
みなも おかしく
かくも なやまし

みみと めと
はなと くち
いちめんに
くすぐる あきのかなしみ

「秋」
秋が くると いうのか
なにものとも しれぬけれど
すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
わたしのこころが
それよりも もっとひろいもののなかへ くずれてゆくのか

「秋の日の こころ」
花が 咲いた
秋の日
こころのなかに 花が咲いた

「秋の壁」
白き
秋の 壁に
かれ枝もて
えがけば

かれ枝より
しずかなる
ひびき ながるるなり

病弱な八木重吉は限られた生だからこそ見える世界があった。
「人のきもちがわかりすぎる
だから 気がくじけてしまう
たとえそうであっても
つよければいいのだが
よわいから すすんでゆけない」(「ことば」より)
他人の気持ちがわかると、できるかぎり傷つけないようにするし、また、その醜いところもわかってしまう。そして、自分にしても、いけないところが多いと敏感にとらえてしまう。「いい人間になるのはむずかしい」(「赤つちの土手」より)と書いた八木重吉がもっていた感受性の鋭さは、孤独になるしかないところへ自分自身をもっていったのかもしれない。その苦しみのなかから、八木重吉にしか書けない純真で澄んだ詩が生まれた。
文壇から遠いところでたったひとりで詩を書いていた八木重吉は、文学的に決して評価が高かったわけではない。しかし、佐藤惣之助や草野心平と交遊し、愛する妻と子どもたちに囲まれて、神に祈りを捧げ、花と笑顔のある明るい生活を送った。八木重吉にとって本当に大切なものを手に入れたのだ。
1927年秋、八木重吉は妻の名を呼びながら29歳で昇天したが、死後3か月経って、生前編んでいた『貧しき信徒』が出版され少しずつ読者が増えた。戦争中に未定稿を入れた選詩集が出たことから、その本を見た小林秀雄により創元社より選集・文庫が出て爆発的な人気を得た。日本人のこころの中に詩があるかぎり、こころの友は生まれ、八木重吉は生き続ける。

コロナ禍の日々、多くのことに制約がある。今まで「出来ていたこと」が出来なくなって気付く。
本当に大事なことはなにげない日常だったと。
八木重吉に「雲」という詩がある。
「雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるとおうにしづかに死んでゆこう」
クリスチャンの八木重吉は信仰の人でもあった。
中世ヨーロッパでは、何度もペストやコレラなどの疫病のため、大都市の市民が大勢死亡した。このような疫病にいつ発症するかもしれないと覚悟したカトリックの神父や修道女たちは〈メメント・モリ(死を想え)〉という死を日常的に意識する言葉が挨拶のように使われた。
医学者でありカトリックの日野原重明先生はこの〈メメント・モリ〉を語り続けた。
「現代社会に生きる私たちも事故に遭ったり、がんになったり、何かの感染症にかかっていのちを失うかもしれない。そのようなとき、自分の人生の終末を静かに覚悟して備えることが大切なこと。今までに与えられたいのちに感謝することができれば、その人こそ本当に幸福な人です」
コロナ禍の中で〈メメント・モリ〉が求められているのかもしれない。「死」を見つめて「今」を大切に生きるということ。
雨のおとのようにそっと。
雨があがるようにしづかに。

(2020年12月31日)

落ち葉のころ

木枯らしが吹く空き地の日だまりで野良猫といっしょに暖まる。
谷郁雄さんは日だまりのような詩人だろうと密かに思っている。

「日だまり」 谷郁雄

人は空には
暮らせない
水の中にも
暮らせない

空を見上げ
水を恐れ
人はやっぱり
地上で生きてゆく

花にもなれず
木にもなれず
鳥にもなれず
歩き疲れてうずくまる

そこはガードの下の
小さな日だまり
人に生まれたことの喜びを
しみじみとかみしめる場所

「ゴーイング・ホーム」 谷郁雄

ぼくは多くを
望まない

持っていたいものは
ごくわずか

風に鳴る
電線や

小さな
日だまり

世界はそんな
細部から
作られてある
それさえも
ポケットに入れて
持ち帰れない

今日も
小さな家へと
帰ってゆく

小さな家の
小さなベッドの上で
楽しかった一日
思い出す

谷郁雄(たに・いくお)さんは1955年三重県生まれ。同志社大学文学部英文学科中退。大学在学中より詩作を始める。90年『死の色も少しだけ』(思潮社)で詩人デビュー。93年『マンハッタンの夕焼け』(思潮社)がBunkamuraドゥマゴ文学賞最終候補作に。ホンマタカシやリリー・フランキーなど、さまざまな写真家や表現者とのコラボで多数の詩集を刊行。著書は30冊を超える。
作家は「処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する」とは文芸評論家の亀井勝一郎さんの言葉。谷郁雄さんは年齢が増すにつれて純度が増している。作家に限らず誰でも初めて抱いた夢に回帰できるだろう。俗世に染まった自分でも黒い欲望をひとつずつ捨て純化していくのだ。

「真っ白な未来」 谷郁雄

子供たちには
何も残さなくてもいい
きれいな空気と水と緑
高い青空を残したい

子供たちには
何も残さなくてもいい
夢みる自由と
真っ白な未来を残したい

子供たちには
何も残さなくてもいい
大人たちと共に生きた
楽しい思いでを残したい

子供たちには
何も残さなくてもいい
人を信じる心と
自分を信じる力を残したい

年端を重ねて老境にさしかかると欲しいモノも無くなってくる。近代社会の大人たちは「子供たちには何も残さなくてもいい」どころか、未来人たちの空気と水と緑と夢を搾取して生きている。
かつて共同体で生きていた人間は有限な世界の中に自足していた。近代社会はこの有限を解体し欲望を無限に追及する病に憑かれた時代だ。
レオ・バスカーリ著の『葉っぱのフレディー』のように、古い葉っぱは風に乗って大地に帰り、若い葉っぱの栄養分にならなけらばならない。それが命のバトンを繋ぐことであり自然の法則である。
現実社会では、古い葉っぱは利権を使い屍のようになっても自ら落葉しないどころか、若い葉っぱを殺してまでしがみついている。そして、若い葉っぱたちは「私たちの未来を奪うな!」と叫び始めている。
16歳のグレタ・トゥーンベリさんはたったひとりで、気候変動に対する政府の無策に抗議するためにストライキを始めた。
2019年9月23日、ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットに出席し、地球温暖化に本気で取り組んでいない大人たちを叱責した。

〈スピーチ全文(和訳)〉
あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。
それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。
30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。
あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。
だから私は、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。
人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。
しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、そして公平性や「気候正義」という側面が含まれていません。この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で吸収することをあてにしているのです。
私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は67%とされています。
しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。
今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。
今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。
あなた方は私たちを裏切っています。しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。未来の世代の目は、あなた方に向けられています。
もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。「あなたたちを絶対に許さない」と。
私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。ありがとうございました。

環境破壊が原因で毎年900万人が死んでいる。
何度も終わりが迫っていることを告げられてきた資本主義は、延命のために「人間」という概念を捨て地球の生態系の破壊し続けている。
現代社会は岐路に立っている。
人生は小説のようなもの。どんなエピローグは書くかは自分次第である。

(2020年12月31日)

岩田宏の「住所とギョウザ」を読む

 小池都知事は今年も朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送らなかった。思想や信念があるとも思えないし、何かよほどの利権に差し障ることがあるのだろう。
 9月1日の「防災の日」は、1923年に発生した関東大震災を教訓として防災への心構えを準備するという意味で創設された日である。
 関東大震災後の混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人が強盗、強姦、殺人を犯している」といったデマが流れ、軍隊、警察だけでなく、在郷軍人会や、消防団、青年団が中心となって組織した民間人による自警団が各地で6000人以上の朝鮮人、700人以上の中国人を無差別に虐殺した。このようなことを二度と起こさないために、歴代の東京都知事は毎年9月1日に、朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文の送付を行なってきた。しかし、小池都知事は追悼文の送付を拒否し続けている。

「住所とギョウザ」  岩田宏

大森区馬込町東四ノ三〇
大森区馬込町東四ノ三〇
二度でも三度でも
腕章はめたおとなに答えた
迷子のおれ
ちっちゃなつぶ
夕日が消える少し前に
坂の下からななめに
リイ君がのぼってきた
おれは上から降りていった
ほそい目で
はずかしそうに笑うから
おれはリイ君が好きだった
リイ君おれが好きだったか
夕日が消えたたそがれのなかで
おれたちは風や紙風船や
雪のふらない南洋のはなしした
そしたらみんなが走ってきて
綿あめのように集まって
飛行機みたいにみんなが叫んだ くさい
くさい 朝鮮 くさい
おれすぐリイ君から離れて
口ぱくぱくさせて叫ぶふりした くさい
くさい 朝鮮 くさい
今それを思い出すたびに
おれは一皿五十円の
よなかのギョウザ屋に駆けこんで
なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
たべちまうんだ
二皿でも三皿でも
二皿でも三皿でも!

 この詩は岩田宏さんが自身の少年時代のエピソードをもとに書いたものだ。
 岩田さんの少年時代とは1930年代であり、日中戦争がすでに始まっていて朝鮮は日本の植民地だった時代である。日本の敵は中国であり、朝鮮半島は日中戦争のための日本軍の侵出拠点として、その統治は強化された。1940年代の戦争の時期になると、日本は朝鮮に対する皇民化政策を推進し、国内の労働力を補うための朝鮮人の強制連行や慰安婦の徴発が行われ、朝鮮から日本に強制徴用された労働者は推定72万に達していたとされている。
 当時の多くの日本人たちは彼らを支配者目線で見下していた。日本は東南アジアの国々に対して「アジア民族の独立を助けた」と言う人がいるが、言葉も宗教も押し付け、創氏改名を進めて植民化した事実は消すことができない。彼らに対する優等意識は日本人全体にぬぐいがたい偏見として伏流しており、現代にまで続いていると言わざるを得ない。
 集団の中で異質なものを排除しようとすることを「黒い羊効果」といい、人間の集団心理であり人間の本質である。大震災のような危機的状況に陥れば人間の本質があぶり出される。そして、排除がいったん動き出すと誰にもそれを制止することはできなくなってしまう。しかし、もっと厄介なのは、自分たちの行動に疑いを持ったとしても、集団がヒステリー的な行動をとっているときに、それに異を唱えれば自分が仲間の標的になりかねないという恐怖が伏流していたことだ。そうした二重の恐怖から、岩田さんの詩のように、仲間の背後から口をパクパクさせて犯罪的行為に加担してしまうということが日常的に繰り返えされるのだ。
 岩田さんの詩からは、自己の弱さゆえに、意図しない加担者になってしまったことに対する気持ちを持ち続けていた作者が、己を振り返って、自己処罰をしないではいられない切迫した気持ちが切々と伝わってくる。自分の中に内面化された複雑な感情に向き合うことでしか、他者と友好的で対等な関係を築くことはできない。
 小池都知事は、朝鮮人差別と自ら向き合おうとはせずに歴史修正主義に加担することで、自分たちの過去の犯罪的な行為を正当化しようとしているようにしか見えない。歴史を否定する事は排外主義へと繋がり、歴史に無関心になる事は無意識の加害者になる事である。日本にとってどんなに都合の悪いことでも事実として認め、反省するとこが同じことを二度と繰り返さないことである。

(2020年12月23日)

余秀華という詩人

 中国で2015年の冬、「穿过大半个中国去睡你」(中国のほとんどを横切ってあなたと寝にゆく)という詩が大変ブームになった。
 湖北省鐘祥市校外の農村で、細々と畑を耕しながら暮らしている余秀華(ユイシウホウ)さんがという女性が、中国版LINEの「微博」で発信した一篇の詩が瞬く間に大量転送され、余さんは一夜にして現代中国で最も有名な詩人のひとりとなった。初の詩集『月光落在左手上―余秀華詩選』(月光は左手の上に落ちる―余秀華詩集)は版を重ね10万部を売り上げて、この20年来の中国における詩集のベストセラーを記録している。
 余さんは分娩時の酸欠により脳性麻痺を発症し、四肢の麻痺と語音がはっきりしない構音の障害が残り、見合い結婚で一緒になった夫とその母と暮らしていた。
 この作品は、夫が妻と一夜を共にするために中国全土を通り抜けて行かざるを得ないような生活を送る「農民工」の悲しみや辛さを表している。
 かつては性生活は農民にとって日常生活の一部であり、特別なことではなかったが、都市と農村部の収入の格差がどんどん広がっている中国では、妻に会うために何千キロも移動しなければならない出稼ぎ労働者たちが何万人もいる。
 この詩は現代の中国の歪んだ社会を素直に描写したものとして大変衝撃を与えた。中国では政治的な抑圧を恐れて、多くの人はネットやメディアで自分の正直な気持ちを表現したり社会の歪みを批判することは避けるので、余さんの単刀直入かつ美しい表現は多くの人の心を動かした。それだけ今の中国では悲痛な現実を実感している人が多いということなのかもしれない。

「中国のほとんどを横切ってあなたと寝にゆく」 余秀華

ほんとうは、あなたと寝ることとあなたに寝られることはさして変わらない、それはふたつの肉体がぶつかり合う力というだけで、その力が急ぎたてて開かせた花というだけで、その花びらが仮想した春が私たちに命がふたたびよみがえりつつあると錯覚させているにすぎないだけ
ほとんどの中国では、どんなことだって起きている
火山が噴火し、川は枯れている
話のタネにもならないどこかの政治犯と流民たち
銃口にさらされているどこかの四不像と丹頂鶴
私は銃弾の雨を潜り抜けてあなたと寝にゆく
私は無数の暗い夜を一つの黎明に押し込めてあなたと寝にゆく
私はどこまでも駆けながら、無数にいる私を一人の私に変えてあなたと寝にゆく
もちろん、どこかの蝶に分かれ道へと誘われることだってあるだろう
だれかの褒め言葉を春と見なしてしまうこともあるだろう
横店とよく似た村を故郷と見なしてしまうこともあるだろう
でもされらはみな
私があなたと寝にゆくためになくてはならない理由のようなもの

 余さんは「中国のエミリー・ディキンソン」と呼ばれている。余さんの人気の火付け役となった米国在住の詩人沈睿さんが、自身のブログに掲載した文章がある。

 「このような強烈で美しさが極限に達した愛情の詩、情愛の詩を、女性の立場から誰も書くことができなかった。私は彼女は中国の中国のエミリー・ディキンソンだと感じた。奇抜な想像力、言葉のもつ衝撃の力強さがある。中国のほとんどの女性詩人の詩と比べて、余秀華の詩は純粋な詩であり、命の詩である。せいいっぱい飾りつけられた盛宴でもホームパーティでもんなく、それは言葉の流星雨であり、その輝きに思わずじっと見とれてしまう。感情の深さが人の心を打ち、胸を苦しくさせる。」 (沈睿)

 エミリー・ディキンソとは、1830年12月10日生まれの米国の詩人である。生前はわずか七編の詩を地方紙に発表しただけで、世間的にはまったく知られることが無く終わった。生前制作した詩の数は1700篇に上るが、それらが日の目を見るのは彼女の死後のことであった。56歳の生涯のほとんどを、自分の生まれた家で過ごし、国内を旅行することもなかった。自分を狭い世界に閉じ込めたわけであるが、そうした孤立の影は彼女の詩にも及んでいる。彼女の詩は、彼女だけの内密な世界を、内密なタッチで歌い上げたものが多い。
 世界中が格差社会だ。中間層が没落して、富める者はより富み貧しい者はより貧しく、この差は縮まることはなく更に拡がるばかりだ。クレディ・スイス(銀行)によると、世界の上位10%の富裕層が世界の富の82%を独占している。そして、世界のトップ10%の富裕層で最も多いのが中国人だという。
 中間層が分厚くて対人ネットワークが豊な社会では人々は仲間意識を抱くが、中間層が没落すると人々は疑心暗鬼に襲われ仲間意識が消えて人と人との関係をバラバラにする。格差社会の時代を豊かに生きるとは自らのアイデンティティを生きることであり、人種や性別や年齢も関係なく文化によってつながることである。日本ではアニメやゲームなどのサブカルチャーが世界中で人気であり、テクノロジー・コミュニケーンとしてネットがツールとなっている。それは、ただ単にアニメやゲームが好きというよりも誰もがコミュニケーンできる「仲間」求めているからだろう。
 余さんの言葉もバラバラに分断された人々をつなげているのかもしれない。

参考文献:「詩に浄化される身体」 小笠原淳

(2020年8月31日)

地球の寝床

 反差別、反偏見、反貧困、反戦争、反原発・・・。
 悪夢を喰いながら詩を書き続けたのが、山之口貘(1903~1963)という貧乏詩人のポエジーだ。

「座蒲団」  山之口貘
土の上には床(ゆか)がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

 貘さんの詩法の最も優れた特徴は「反転」の鮮やかさにある。ユーモア、アイロニー、ペーソスといったような貘さんの詩について述べられる評価のすべてはこの「反転」によって生まれてきたものだと言っていい。この「反転」はどこから出てきたかというと、それは「ない」ことの認識をめぐって生まれてきたものだ。「ない」状態を際立たせるための最大の戦略としてそれはあったし、「ない」ことをめぐる「思辨」が生み出した方法であったのである。
 ペーソスやペシミスティックに「ない」ことを語るのは誰にでも出来るだろう。しかし、生き様が反映されていない言葉はウソっぽいものである。貘さんの言葉とは、すべて身体を通して出てきたものであり、生き様そのものである。
 19歳で沖縄から東京に出てきた貘さんは、定職を得られず、昼間は喫茶店に入りびたり、夜は土管にもぐって寝たり、公園や駅のベンチ、キャバレーのボイラー室等折り折りの仮住まいの生活で、初上京の日から16年間、畳の上に寝たことはなかった。こうした放浪生活の中で詩を書き続けたのだ。

「生活の柄」 山之口貘
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねれむれない

 貘さんは40年間の詩人生活で『思辨の苑』『山之口貘詩集』『定本 山之口貘詩集』のわずか3冊の詩集しか刊行していない。短い詩一篇を生み出すために、200枚、300枚の原稿用紙を書きつぶしてしまうほどの「推敲の鬼」と言われるほどだ。こんな逸話もあるという。苦労して書きためた詩も相当数になり、それらをまとめて処女詩集を刊行する運びになった。そこで貘さんは佐藤春夫氏に序文を書いてもらった。佐藤氏はその序文の末尾に「1933年12月28日夜」と日付を記した。ところが、実際に詩集が刊行されたのは1938年。序文をもらったあと、なお推敲に推敲を重ねるうち、5年の歳月が流れてしまったのである。
 獏さんを知っていた人たちは、みんな声をそろえて、獏さんのことを「精神の貴族」だといい、貧乏だったからこそ「よい詩」が書けたのだという。中野孝次氏は『清貧の思想』という著書で、金銭欲と所有欲が支配する現代社会に対して、芭蕉、良寛など日本の文化人たちが追求した文化の伝統を「清貧」を尊ぶ思想として論じた。その思想は、脱金銭、脱所有の生活態度に徹することによって、精神の自由を確保し、富裕や権勢や栄達以外に重要なものがあることを発見しようとするものであって、宇宙と自然の中に人間の魂や生命そのものの充足を図るというものであるという。獏さんは「地球市民」として「清貧」を生きたからこそ詩が生まれたのだ。
 「地球市民」とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、誰もが地球社会の一員であり、人として尊重される社会の実現を目指そうとする思想の事である。

「僕の詩」 山之口貘
僕の詩をみて
女が言つた

ずゐぶん地球がお好きとみえる

なるほど
僕の詩 ながめてゐると
五つも六つも地球がころんでくる

さうして女に
僕は言つた

世間はひとつの地球で間に合つても
ひとつばかりの地球では
僕の世界が広すぎる。

 「地球市民」である獏さんの詩には「地球」という言葉が多く使われている。
 見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いている 「襤褸は寝てゐる」、地球の頭にばかりすがつている 「思弁」、ほんの地球のあるその一寸の間 「数学」、地球を食つても足りなくなるなつたらそのときは 「食ひそこなつた僕」、地球の上でマンネリズムがもんどりうつている 「マンネリズムの原因」、死んだら最後だ地球が崩れても 「生きてゐる位置」、まるい地球をながめてゐるのである 「夜」、まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら 僕の足首が痛み出した みると、地球がぶらさがつてゐる 「夜景」、次第に地球を傾けてゐるのをかんじるのである 「立ち往生」、青みかかつたまるい地球を 「頭をかかえる宇宙人」、地球の上を生きているのだ 「羊」、地球の上はみんな鮪なのだ 「鮪に鰯」、地球の上で生きるのとおなじみたいで 「告別式」、ぼくのうまれは地球なのだが 「がじまるの木」、地球をどこかへ さらって行きたいじゃないか 「船」、九月一日の 地球がゆれていた 「その日その時」、琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ 「沖縄よどこへいく」、まっすぐに地球を踏みしめたのだ 「親子」
 一昨年の夏、東海道を180KM歩いたが都市空間に限らずローカルな空間にも自販機やコンビニは至る所にあるのに、ところ構わず寝られる場所など一つもなく「○○禁止」の標識だらけだった。公園や空き地は徹底的に管理され、寝ればすぐに警察に通報された事だろう。むしろ人間は管理されたがっているようも感じた。近代化は何を豊かにしたのだろう。ところ構わず寝られる場所を奪い、人間の寛容さを奪い、多くの動植物が絶滅させ、山之口貘的詩人も絶滅危惧種である。ホーキング博士は、人類がこのまま二酸化炭素を排出し続けるならば温暖化により、あと100年で地球は終了すると警告したが、もうすぐ人間も絶滅危惧種の仲間入りするかもしれない。

「雲の上」 山之口貘
たった一つの地球なのに
いろんな文明がひしめき合い
寄ってたかって血染めにしては
つまらぬ灰などをふりまいているのだが
自然の意志に逆らってまでも
自滅を企てるのが文明なのか
なにしろ数ある国なので
もしも一つの地球に異議があるならば
国の数でもなくする仕組みの
はだかみたいな普遍の思想を発明し
あめりかでもなければ
それんでもない
にっぽんでもなければどこでもなくて
どこの国もが互に肌をすり寄せて
地球を抱いて生きるのだ
なにしろ地球がたった一つなのだ
もしも生きるには邪魔なほど
数ある国に異議があるならば
生きる道を拓くのが文明で
地球に替るそれぞれの自然を発明し
夜ともなれば月や星みたいに
あれがにっぽん
それがそれん
こっちがあめりかという風にだ
宇宙のどこからでも指さされては
まばたきしたり
照ったりするのだ
いかにも宇宙の主みたいなことを云い
かれはそこで腰をあげたのだが
もういちど下をのぞいてから
かぶった灰をはたきながら
雲を踏んで行ったのだ

(2020年6月24日)

津村信夫 伝

 津村信夫(1909年1月5日〜1944年6月27日)は北欧的詩情への憧憬から出発したが、しだいに質朴な生活を志向し、さらに身辺に取材する平明な叙情へと展開した。戸隠の自然と家族を愛した津村信夫はまた、生涯の師と仰いだ室生犀星や「四季」の面々からも愛されたが、3冊の詩集を残し、アディスン氏病により35歳の生涯を閉じた。

第1詩集『愛する神の歌』
昭和10年11月25日 自費出版(限定版400部/四季出版発行)

 『愛する神の歌』所収の作品は、全64編。それらは昭和6年5月から、同10年11月まで4か年半ばかりの間に発表された作品群である。昭和2年4月に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、10年3月に同学部を卒業すると、ただちに東京海上火災保険会社に勤務した。そして昭和13年夏に同社を退くまで、3か年余りをサラリーマンとして過ごしている。従ってこれらの作品群は、慶大在学中の約4か年と、約半年のサラリーマン生活とにまたがる、4か年半程の間の所産というわけになる。しかもその全64編のうち、社会人になってから発表した詩は12編にすぎないから、大半は大学時代の作品といえるのである。
 『愛する神の歌』の題名は、集中の作品の表題によったものであるが、そもそもこれにはリルケ著『愛する神の話』の題名が投影しているのであろう。そして、津村信夫にとって〈愛する神〉とは、姉(道子、昭和8年7月15日没)であり、また恋人ちであって、津村信夫はそうした愛する神たちへのこの1巻を捧げたのであった。
 集中の作品は、すべて既発表のものである。そのうち〈馬小屋で雨を待つ間〉章に収められている初期(昭和6年~8年春)の作品群の主たる発表機関は、「三田文学」「あかでもす」「四人」さらに「文学」(「詩と詩論」改題)の4詩である。そして津村信夫はすでにこの初期に、「セルパン」(昭和7年10月)、「国民新聞」(昭和8年3月)などの商雑誌にも登場していた。次いで「四季」の創刊される昭和9年10月までの間には、「セルパン」「帝国大学新聞」「文芸」「舗道」「作品」「世紀」「苑」「鷭」などが舞台になっていた。
 「四季」には、創刊号に「生涯の歌」(〈石像の歌〉章)を携えて登場するが、以後は「四季」を拠点とし、さらに「青い花」「コギト」「芸術科」「改造」「短歌研究」なども舞台として、いっそう広範な活動を展開しようという勢いを示す。――そんな折に、処女詩集『愛する神の歌』は刊行された。つまり津村信夫は処女詩集の出現以前に、すでに詩壇・文壇の人になっていて、その刊行は津村信夫の存在を一段とめざましいものにし、然からしめたといえよう。

「小扇」 津村信夫
  ――嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に――

指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

※「ミルキイ・ウエイ」とは、津村信夫が父秀松の親友の令嬢(内池省子)に命名した渾名。昭和6年春に知り合い、その夏をともに軽井沢で過ごしたが、彼女は翌7年に他家に嫁いだ。

第2詩集『父のゐる庭』
昭和17年11月20日 臼井書房

 『父のゐる庭』所収の作品は、全33編。それらは昭和11年1月から、同17年4月まで6か年半ばかりの間に発表された作品群である。その間は津村信夫の28歳から34歳まで、――つまり青年期から壮年期への移り行きの時期に当たっている。
 津村信夫はその過程の中で、さまざまな人生経験を味わう。まず昭和11年12月に恋人昌子と結婚し、やがて1児をもうける(昭和16年5月に長女初枝誕生)。また、昭和13年夏には東京海上火災を退職し、3か年余りにわたったサラリーマン生活に終止符をうち、おのれの方途を文筆生活の一点にしぼる。そんな懸命の賭けを試みた矢先の昭和14年12月に、彼の保護者であり、また師表でもあった父の死に遭遇するのである。
 津村信夫の懸命の賭けには、当然文筆生活による自活の企図がふくまれていたであろう。とすれば、詩から散文へという道行きが、自然に求められていたと思われる。昭和15年10月刊行の『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて発行)は、そうした行程の最初の収穫とみられる。
 『戸隠の絵本』で、津村信夫はみずから〈叙情日誌〉と称する説話体のロマンの様式を創出するが、一方でまた津村信夫なりに本格的な小説の制作にはげんでもいた。とにかく津村信夫は生活者としても、文学者としても、ようやくけわしい転機を迎えつつあったのである。しかも世情は、日中戦争から太平洋戦争へと険悪の一路をひた走っていた。
 昭和16年7月、津村信夫は追われるようにして東京から鎌倉の仮寓に移ると、戦時下の徴用を忌避し、横浜市の日産自動車会社内青年学校に教師として勤務することになった。そのため、それまで指揮をとっていた「四季」の編集実務を後進にゆだねる。
 事態はもはや、美神への奉仕に専念することを津村信夫に許容しないまでに逼迫していたのである。この詩集の中で、津村信夫は〈不自由〉とか〈不器用〉とかいうことばをしばしば用いているが、それがそんな迷路にはまりこんだ津村信夫の、やり場のない嘆声とも聞きなされる。
 この詩集の詩風は、『愛する神の歌』のそれに比して、かなり変貌をとげている。津村信夫はすでに『愛する神の歌』の後期あたりから、人生派・生活派ふうな傾向を示しはじめ、表現の華麗さや感覚の鋭利さより、静かな知性・悟性を尊ぶようになっていた。その傾向はこの詩集において、はっきり表面に出る。用語・表記の上でも簡素化が目立つのであるが、それは句続点の全面的な排除という措置に最も端的に認められるのであろう。そしてこの措置は、次の第3詩集『或る遍歴から』においても、そのままひきつがれる。
 この詩集の題名は、〈その三〉の中にある「父が庭にゐる歌」という詩の表題にちなむもの。〈あとがき〉でもしるしているように、津村信夫はこの詩集を「私の心を育ぐくんでくれたもの(父)を記念」すべく編んだのだが、かたがた壮年期の展望に立ったおのれのための、一里塚ともするつもりだったのであろう。

「父が庭にゐる歌」 津村信夫
父を喪つた冬が
あの冬の寒さが
また 私に還つてくる

父の書齋を片づけて
大きな寫眞を飾つた
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあつたが
ポケツトの
紛悦(ハンカチ)は
そのまゝにして置いた

在りし日
好んで植ゑた椿の幾株が
あへなくなつた
心に空虚(うつろ)な
部分がある
いつまでも殘つている

そう云つて話す 兄の聲に
私ははつとする程だ
父の聲だ――
そつくり
父の聲が話してゐる
私が驚くと
兄も驚いて 私の顏を見る

木屑と 星と
枯葉を吹く風音がする
暖爐の中でも鳴つてゐる

燈がともる
云ひ合せたやうに
私達兄弟は庭の方に目をやる
(さうだ いつもこの時刻だつた)
あの年の冬の寒さが
今 庭の落葉を
靜かに踏んでくる

第3詩集『或る遍歴から』(「新詩叢書」の第15巻)
昭和19年2月15日 湯川弘文社

 『或る遍歴から』は、津村信夫の死に先立つ4か月前に刊行されたもので、津村信夫は「若年の日の歌に、今日の詩をまじへて」(〈あとがき〉)これを編んだ。全体は、〈その一〉〈その二〉〈その三〉3章から成り、作品の総数は77編。
 〈その一〉は、第1詩集『愛する神の歌』のアンソロジーで、原著の64編のうちから27編を抄出し、さらに当時発表された2編を新たに組み入れている。それらはまさに、津村信夫のいう「若年の日の歌」にあたる。
 〈その二〉は、いわば〈羈旅編〉で、主として津村信夫の愛した信濃路の旅の日々に取材した作品、21編から成る。そのうち5編は、『愛する神の歌』からのものであるが、他は新収録の作品で、その制作時期は『父のゐる庭』のそれとほぼ重なる。つまりこの章では、「若年の日の歌」「今日の詩」が混然と配列されているわけになる(なお、この詩集には『父のゐる庭』からの作品は、まったくとられていない。同書と雁行してこの詩集が刊行されることを顧慮してあえて抄出を見送ったのであろう)。
 〈その三〉は、新収録の作品ばかりの27編。その制作時期は前章と同じく、ほぼ『父のゐる庭』のそれ重なるが、前章に1編しかみられなかった最新の昭和17年度の作品が5編加わっていて、それらが津村信夫の精神史・生活史に即して配列されている。つまりこの章はこの詩集の最も新しい、ハイーライトをなす部分といえよう。
 津村信夫がこの詩集で編んだのは、昭和17年7、8月の炎暑下のころである。当時の津村信夫にはアディスン氏病の予兆があったらしく、そんな病患と対峙しながら選定に励んだ痛ましい心事は、〈あとがき〉の文章がよく伝えている。津村信夫はこの年の春に『父のゐる庭』をまとめているので、たてつづけに2冊の詩集を編んだわけになる。両方詩集の刊行日付には1年余の開きがあるものの、その編さんは一気にされたのだった。
 この詩集の題名には昭和13年4月に発表された「或る遍歴から」という詩の表題に基づくものであろう。ただし、その詩はこの詩集の中には採られていない。ともあれ津村信夫はこの詩集で、1人の詩人の遍歴の跡を追おうとしたのである。
 簡素・純朴な詩風は、この詩集おいてきわまったといえよう。前詩集同様に、句続点はこの詩集でもほとんど除去されていて、そのために『愛する神の歌』から抄出した作品のごときは、様相が一変した印象さえうけるほどである。

「戸かくし姫」  津村信夫
山は鋸の歯の形
冬になれば 人は往かず
峯の風に 屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ
「そんなに こうこうつて鳴りますか」
私の問ひに
娘は皓い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」
初冬の山は 不開(あけず)の間
峯吹く風をききながら
不開(あけず)の間では
坊の娘がお茶をたててゐる
二十(はたち)を越すと早いものと
娘は年齢を云はなかった
『津村信夫全集』(角川書店)より

(2020年5月9日)

岡崎里美とロックの時代

 “Happy birthday to rimi” の声が聞こえる。
 2020年3月31日、ウェブサイト「岡崎里美の世界」が更新された。岡崎里美さんとは、1971年7月30日に大好きなビートルズを聴きながら、たった一人で逝ってしまった17歳の少女の事だ。

 壊れた時計が古い時間を刻むように、1970年代を想い出す。
 1960年代半ばから1970年代に入った頃は若者の時代だった。「DON’T TRUST OVER THIRTY !(30歳を超えた人間は信じるな)」と若者は口にした。若者が創る世界が大きな力となって、世界が変わっていくと誰もが本気で思っていた。若者であることだけに意味があり、自分たちが大人になるなんて思ってもみなかった。そんな時代に、ジミ・ヘンドリックスが26歳、ジャニス・ジョップリンが27歳、ジム・モリソンが27歳で死んだ。ビートルズはジョン・レノン29歳、ポール・マッカートニー27歳、リンゴ・スターが29歳、ジョージ・ハリスンは27歳の時に解散した。そして、ロックは形遺化し、一つの若者の時代は刹那的に終わった。
 1970年代に入ると、大量生産、大量消費の時代に突入し、ロックは産業として飛躍的な成長を遂げることによってレコードが売れていった。娯楽性が強められ、テクノロジーを駆使した仕掛けが聴衆の目を奪い、華やかなコンサートが多くなっていった。そして、ミュージシャンとファンの関係から、マーケットと消費者の関係になっていった。社会の中では、男女間や家族間の関係にせよ、人間関係の在り方にせよ、様々な形で意識の変革を強いることになっていった。若者たちの誰もが「未来に対する希望」を抱く反面、「自分を消し去りたいという暗い欲望」を同時に抱えていた。地に足をつけようと思っている。でも見つめているのは遠景。遠く明るく空の彼方を純粋に見つめているばかりであった。それは、足元を見たとたんに、何も変わっていない土俗的な世界に強い絶望感を抱くからだ。美しく遠い希望と現実と自己への絶望、この落差が1970年代の空気の基調だった。里美さんは、そんな若者の一人であっただろう、あまりにも遠くの未来を見つめすぎてしまったのかもしれない。
 里美さんが最後に聴いていたのが、ビートルズが1969年にリリースした『Abbey Road』というアルバムだった。その中に「The End」という曲がある。

ビートルズ 「The End」(1969年)

Oh yeah! alright ! (ああ わかったよ )
Are you gonna be in my dreams tonight (今夜 僕の夢にやって来てくれ)
Love you, love you, love you… (君を愛してる…愛してる…愛してる… )
And in the end the love you take (結局はね 君が貰ってる愛は )
Is equal to the love you make (君がくれる愛と同じくらいなのさ)

 「人に「愛」を与えれば、人から同じだけ「愛」を貰う事が出来る」というビートルズが最後に残したメッセージだ。そして、ジミ・ヘンドリックスは「愛の力が権力愛に打ち勝ったとき、世界は平和を知る」と語り、ジャニス・ジョップリンは「あなたはあなたが妥協したものになる(自分を幸福にしないものを受け入れるべきでない)」と語った。『カッコーの巣の上で』の著者のケン・キージーは「ビートルズがいたから、僕たちは怪物になることなく、愛すること、そして、暴力に訴えない方法を学んだ」と語ったように、この時代の若者たちは、生き方をビートルズや若者の時代を創った旗手たちから学んだのだ。
 現在、世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスの為に多くの人が亡くなっている。差別や偏見が起こり、誰もが争うようにマスクや食料品を奪い合っている。ネットでは、世代間対立を表すような暴力的な言葉があふれている。今、私たちは試されているのかもしれない。そして、その答えは自分自身の中にしかない。新型コロナウイルスが終息したとしても、世界はこれまでとは大きく変わっていくと思う。今がその変遷期なのかもしれない。
 1970年代始め、誰もが自分の生き方を模索しなければならなった時代、人々の傷口を癒し、時代の架け橋としての役割を果たしたいくつかの音楽が生まれた。

キャロル・キング 「君の友だち」(1971年)

君が落ち込んで
何ごともうまくいかず
手助けが必要だったら
すべてが ああ すべてがおかしな方向に進んでいたら
目を閉じて僕のことを考えてごらん
そしたらすぐにそこに現れるから
君の一番暗い夜さえも明るくするために

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから
君には友だちがいるじゃないか

君の頭上にある空がすべて雲に覆われて暗くなりそうになったら
あの昔ながらの北風が吹き始めそうになったら
慌てなくていいからね
僕の名前を大声で言うんだ
じきに僕が君の家の扉をノックするはずだから

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから

友だちがいるってのはいいことだろ?
人間は他人にとても冷たくなれるんだ
彼らは君を傷つけ 見捨てることもあるだろう
隙を見せれば君の魂も奪いかねない
隙を見せないで

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
ああ すぐにでも現れるから
君には友だちがいるじゃないか
君には友だちがいるじゃないか

友だちがいるってのはいいことだろ?
友だちがいるってのはいいことだろ?
君には友だちがいるじゃないか

ジョン・レノン 「イマジン」(1971年)

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって…

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

 時代の変遷期は誰もが不安に襲われるものだ。しかし、どんなに時代が変わっても「僕」が「君」を思う気持ちが変わってはいけない。私たちは同じ時代を生きる「仲間」であり「世界はひとつ」になれると思う。今回の新型コロナウイルスで「私たちはどう行動するか」と問われている。自分の身に危険を感じるから誰もが必死になる。しかし、日本には年間30000人くらいが自殺し、1700人くらいが餓死している国でもある。「僕」が「君」を思う気持ちがなければこの数も決して減ることはない。たとえ新型コロナウイルスが終息したとしても「僕」が「君」を思う気持ちを持ち続けなければ決して幸せな国と言えないし、自らも幸せにはなれない。
 1969年8月15日から17日までの3日間に行われたウッドストックは、40万人もの人数が集まったにも関わらず、大きな事件は無く、誰もが自由にロックを楽しみ、お互いが助け合という理想的な姿がそこにあった。ヒッピー・コミューンの「ホッグファーム」は、LSDの幻覚に苦しんでいる参加者に食事を無料で提供し介抱した。若者たちは少ない食べ物を分けあって飢えをしのいだ。そして、主催者のマイケル・ラングはイベント終了後に「すべてを分け与えるのがヒッピーの精神」と語り、機材のすべてを恵与した。それが実現できたのは、誰もが誰かを必要としていたし、誰もが誰かを信じていたからだ。
 「こんな出来事はもう二度と起こり得ないんだろうな」と思う。だから「僕」は時間を超えて「君」と対話する。「君」の声を「僕」が代わって発し、「君」の記憶は「僕」が代わって証言する。「僕」は「君」によって生きかされているのだから。
 壊れた時計は古い時間を刻み続けるだろう・・・。
 そして「岡崎里美の世界」も更新され続けるだろう・・・。

 参考文献:『1971年の悪霊』 堀井憲一郎

(『New Music Magazine』より)

(2020年4月13日)

令和モダニズム

 立原道造といえば「美しい詩を書く人で、昭和の文学少女に愛された昭和モダニズム詩人」ということで、中原中也や金子光晴の詩が好きな僕にとって立原道造の詩に出会うことなかった。思い返すと、福永武彦も立川正秋も渡辺淳一もほとんど読んでいない。1年半ほど前から耳がほとんど聴こえなくなり、心を入れ替えるつもりで、出来るだけ美しいものに触れるようにしている。ひとり令和モダニズムといったところである。
 立原道造は、戦争の臭いが漂い始めた1939年3月29日、戦争から遠くの離れるかように結核のため24歳で没した。多くの美しい詩を残した立原道造には戦争は似合わない。幻想的な傾向が強い立原道造にとって、戦争という現実は耐えられないものであっただろう、現実と違う美しい世界を創ることによって生き抜こうとしていたのかもしれない。

「のちのおもひに」  立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
──そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 夢とか想いは、なかなか叶うものではない。この叶わなかった夢とか想いが迷子のように、しづまりかへつた山の麓のさびしい村の午さがりの林道をさまよっている。たとえ夢が叶ったとしても、人の一生とは永遠ではない。過ぎた時間は二度と戻る事もない。夢とか想いと共に、この世からさよならをしなければならない。だから、いつまでもいつまでも、日光や月光や草花や小さな生き物に語りつづける。

(2020年3月25日)

カラーズ

N・マンデラのように
キング牧師のように
M・ガンディーのように
絵を描きたい

ブンデスリーガのライプチヒで行われたイプチヒ対レーバークーゼン戦で、観戦していた日本人の団体客が球技場から追い出された。「日本人なので新型コロナウイルスに感染している可能性がある」との理由だったという。2日後、クラブ側は式ツイッター上で「間違いを謝罪し、償いたい」とのコメントを出したとのこと。
14世紀や17世紀のペストと違い、交通機関の発達した現代社会では、コロナウイルスは瞬く間に全世界に広がっていく。
ネオリベ社会は国境を越え、欲望を肥大化させ、階級格差と貧困を生み出したように、コロナウイルスは国境を越え、感染を拡大し、差別や偏見を生み出した。感染源は中国の誰よりも安いモノしか食べなければならない貧困層で、誰よりも安い交通手段を使用しなければならない出稼ぎ労働者によって中国全土に拡大した。そして、中国に依存した国々が次から次へと感染していった。日本や韓国は中国人観光客に依存し、イタリアはファッション産業を賃金の安い中国人の労働力に依存し、イランは武器や兵器の輸入に依存している為の爆発的な拡大というわけだ。欲望はカネとモノを集めるように、コロナウイルスも集めてしまう。コロナウイルスは現代社会の暗部をはっきりと炙り出したのかもしれない。

マスクがない
トイレットペーパーがない
PCR検査が受けられない
あるのは人間の欲望だけ

2019年 ラグビーワールドカップ 日本大会で優勝した南アフリカ代表のシヤ・コリシ主将のスピーチが教えてくれたもの。
We come from different backgrounds, different races and we came with one goal and wanted to achieve it. I really hope that we have done it for South Africa to show that we can pull together if we want to achieve something
(僕たちは異なるバックグラウンド、異なる人種が集まったがチームだったが、一つの目標を持ってまとまり、優勝したいと思っていた。それを南アフリカに示せていたら本当にうれしい。何かを成し遂げたいと思えば、協力し合えるということを(訳:井津川倫子))
南アフリカ代表は、環境も宗教も民族も異なっている選手が集まっているチームだ。デコボコなピースが組み合うからこそ強力なパズルが出来上がるように、最強のチームとなって優勝という最高の結果を残した。
初めて決勝トーナメントに進出した日本代表も、7カ国出身の選手たちが集まったデコボコのチームだ。彼らが教えてくれたのは「ONE TEAM」という精神。その「ONE TEAM」が最も発揮されたのが、スコットランド戦の7点差まで追い上げられたラスト25分だ。バラバラになりかけたチームが、ひとつの積極的なプレーがきっかけとなって全員が同じ絵を見れたという。後に、ピーター・ラブスカフ二選手は「バラバラではなく全員が互い必要としていた。信じること自分を信じること信じれば向かっていく姿勢に変わるものです」と語り、福岡堅樹選手は「信じきって自分の役割を果たすことをみんながやりきればそれがワンチーム。本当に強い力を生むということがみんなにも伝わった。社会で生きていく上でそれができるかどうかというのは本当にみんなが理想としているところだと思う」と語った。
そして、敗れたスコットランド代表HCのラウンセンドは「日本代表から感じたのは互いの信頼、キャプテンへの信頼、ひとつひとつのプレーへの信頼。個人だけでなくチームとしての信頼、互いを信頼する強さ。ラグビーに大事なものを思い出させてくれた」と語り、日本代表に賛辞を贈った。

白エンピツが泣いている
黒エンピツが泣いている
黄エンピツが泣いている
絵が描けないと

私たちは危機的状況に陥ったら、多面的で多重的な世界の見方を許容しない。むしろ単純化する。簡略化する。二元化する。こうして世界の矮小化が進行する。そこに現れるのは、単色で扁平な世界だ。
日本とスコットランドの選手たちは、少なくともラスト25分間は敵と戦っていたのではなく、仲間を信じる気持ちや苦しくても決して逃げない気持ちなど、自分自身と戦っていたのだと思う。両チームの選手一人ひとりの死力を尽くしたタックル数がそれを証明している。私たちは彼らのように同じ絵を見る事が出来るだろうか。
私たちは今、いったい「何」と戦っているのだろう・・・。

(2020年3月10日)