吉野弘の「夕焼け」を読む

「夕焼け」 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて-。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

娘は満員電車の中で、お年寄りに2回席を譲ったが3回目は席を譲らかった。娘はやさしいだけに、下唇をギュッと噛んで身体をこわばらせて受難者となった。敗戦後の不埒な時代を、下唇を噛んでつらい気持ちで生きてきた詩人も受難者であり、娘のこころの痛みを共有する。そして、夕焼けのような美して切ない詩が生まれた。
日本経済は効率だけを重視したあまり“やさしさ”という大事なものを切り捨てきたのかもしれない。本当の豊かさを考えるためにも、この詩はいまでも多くの人に読まれてる。

吉野弘さんは『くらしとことば 吉野弘エッセイ集 』で“やさしさ”について語っている。
・・・人間の内面というのは、エゴイズムに忠実であろうとする「自然のままの自然」とエゴイズムを制禦しようとする「人間的な自然」との二つに裂かれて、その間を絶えず、往ったり来たりしているものだと思う。だから、やさしさというのは、エゴイズムの持つ自己中心性を悲しげに見つめている人間の眼差しなんじゃないかという気がするんだ。自分のエゴイズムにつらい思いをしている人ほど、生命というものに対して寛大でやさしいんじゃないかなあ。
 電車の中で少年が老人に席を譲る。よく見る光景だけれど、そういうときの少年に好ましさを感じるのは、少年が自分のエゴイズムを裏切るという不自然なことをしたからなんだ。少年だって、席に座って楽をしたいのは当然で自然なのだ。その自然な欲望に忠実でない点、つまり不自然である点に、僕は人間を感じる。少年には他者が見えていると僕は思う。必ずしも自覚的ではないかもしれないけれども、自分の、楽をしたいという気持ちを、老人の、多分楽をしたいであろう気持の中に読んで、席を譲ったわけだ。
 それは、エゴイズムに目を開いたことによって促された人間的な想像力だともいえる。やさしさは想像力だといったほうがいいかもしれない。良くも悪しくも人間であることのために免れることのできないエゴを通す想像力、そこからみちびき出されてくる人間への配慮、それがやさしさなんじゃないか。
人間は完全でないから、人にやさしくしたり、人にやさしくされてなんとか生きていける。しかし、組織の論理、集団の論理の中では“やさしさ”が欠けてしまう。他者という存在が意識の中になくなり私欲を優先するからだ。吉野弘さんは「人間を一人という単位に捉え直して日常を生活することはできないものだろうか」と問いている。
・・・せまい歩道を、こちらから一人歩いてゆく。むこうから一人歩いてくる。すれちがうとき、どちらからともなく、道をゆずりあう(いつもとは限らないが)。これが二人対一人の関係になると、二人連れは、一人に対してなんとなく強気にふるまい、対等な歩行者同士として道をゆずるという構えを失いやすい。こういう人間関係は、考えてみると社会の万般にひそんでいて、その実なかなか気付かれぬことが多い。
“やさしさ”を育むにはどうしたらいいのか。
作家の高史明さんは“やさしさ”は心の中で生まれるものだから、心の中に平和のとりでを築く事だと語る。“自分”は“自分”だけで存在し得ていると考えるのは平和とは言わない。喜びは“自分”だけの喜びであり、苦しみも“自分”だけの苦しみということではなく、共感の中でこそやさしさが生まれる。人間は完全ではないから、“自分”が弱いところを認めきれたとき、逆に“わたし”が強くなれる。それが“やさしさ”といものである。“やさしさ”は、他人を苦しめてまで“自分”の幸福になるということをしないということから始まる。
コロナ禍の中でワクチンの開発が待たれている。しかし、本当に大事な事は“やさしさ”というくすりを贈る事だと思う。

(2021年1月6日)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です