ちいさい秋

♪ 誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
♪ ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

今年はコロナ禍で小さな秋を想える日々だった。
もずの声 秋の風 入日色・・・。
リュックの中にはいつも少し甘い紅茶と八木重吉の詩集を入れている。
八木重吉はその詩のように、寂しく、儚く29歳に生を終えた。第一詩集『秋の瞳』の序文に書いている。「私は友がなくて耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください」と。
その詩集から。

「咲く心」
うれしきは
こころ咲きいずる日なり
秋 山にむかいて うれいあれば
わがこころ 花となり

「ひびくたましい」
ことさら
かつぜんとして 秋がゆうぐれをひろげるころ
たましいは 街をひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく

「花と咲け」
鳴く 虫よ 花と 咲け
地 に おつる
この 秋陽 花と 咲け
ああ さやかにも
この こころ 咲けよ 花と 咲けよ

「秋の なかしみ」
わがこころ
そこの そこより
わらいたき
あきの かなしみ

あきくれば
かなしみの
みなも おかしく
かくも なやまし

みみと めと
はなと くち
いちめんに
くすぐる あきのかなしみ

「秋」
秋が くると いうのか
なにものとも しれぬけれど
すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
わたしのこころが
それよりも もっとひろいもののなかへ くずれてゆくのか

「秋の日の こころ」
花が 咲いた
秋の日
こころのなかに 花が咲いた

「秋の壁」
白き
秋の 壁に
かれ枝もて
えがけば

かれ枝より
しずかなる
ひびき ながるるなり

病弱な八木重吉は限られた生だからこそ見える世界があった。
「人のきもちがわかりすぎる
だから 気がくじけてしまう
たとえそうであっても
つよければいいのだが
よわいから すすんでゆけない」(「ことば」より)
他人の気持ちがわかると、できるかぎり傷つけないようにするし、また、その醜いところもわかってしまう。そして、自分にしても、いけないところが多いと敏感にとらえてしまう。「いい人間になるのはむずかしい」(「赤つちの土手」より)と書いた八木重吉がもっていた感受性の鋭さは、孤独になるしかないところへ自分自身をもっていったのかもしれない。その苦しみのなかから、八木重吉にしか書けない純真で澄んだ詩が生まれた。
文壇から遠いところでたったひとりで詩を書いていた八木重吉は、文学的に決して評価が高かったわけではない。しかし、佐藤惣之助や草野心平と交遊し、愛する妻と子どもたちに囲まれて、神に祈りを捧げ、花と笑顔のある明るい生活を送った。八木重吉にとって本当に大切なものを手に入れたのだ。
1927年秋、八木重吉は妻の名を呼びながら29歳で昇天したが、死後3か月経って、生前編んでいた『貧しき信徒』が出版され少しずつ読者が増えた。戦争中に未定稿を入れた選詩集が出たことから、その本を見た小林秀雄により創元社より選集・文庫が出て爆発的な人気を得た。日本人のこころの中に詩があるかぎり、こころの友は生まれ、八木重吉は生き続ける。

コロナ禍の日々、多くのことに制約がある。今まで「出来ていたこと」が出来なくなって気付く。
本当に大事なことはなにげない日常だったと。
八木重吉に「雲」という詩がある。
「雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるとおうにしづかに死んでゆこう」
クリスチャンの八木重吉は信仰の人でもあった。
中世ヨーロッパでは、何度もペストやコレラなどの疫病のため、大都市の市民が大勢死亡した。このような疫病にいつ発症するかもしれないと覚悟したカトリックの神父や修道女たちは〈メメント・モリ(死を想え)〉という死を日常的に意識する言葉が挨拶のように使われた。
医学者でありカトリックの日野原重明先生はこの〈メメント・モリ〉を語り続けた。
「現代社会に生きる私たちも事故に遭ったり、がんになったり、何かの感染症にかかっていのちを失うかもしれない。そのようなとき、自分の人生の終末を静かに覚悟して備えることが大切なこと。今までに与えられたいのちに感謝することができれば、その人こそ本当に幸福な人です」
コロナ禍の中で〈メメント・モリ〉が求められているのかもしれない。「死」を見つめて「今」を大切に生きるということ。
雨のおとのようにそっと。
雨があがるようにしづかに。

(2020年12月31日)

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