中国で2015年の冬、「穿过大半个中国去睡你」(中国のほとんどを横切ってあなたと寝にゆく)という詩が大変ブームになった。
湖北省鐘祥市校外の農村で、細々と畑を耕しながら暮らしている余秀華(ユイシウホウ)さんがという女性が、中国版LINEの「微博」で発信した一篇の詩が瞬く間に大量転送され、余さんは一夜にして現代中国で最も有名な詩人のひとりとなった。初の詩集『月光落在左手上―余秀華詩選』(月光は左手の上に落ちる―余秀華詩集)は版を重ね10万部を売り上げて、この20年来の中国における詩集のベストセラーを記録している。
余さんは分娩時の酸欠により脳性麻痺を発症し、四肢の麻痺と語音がはっきりしない構音の障害が残り、見合い結婚で一緒になった夫とその母と暮らしていた。
この作品は、夫が妻と一夜を共にするために中国全土を通り抜けて行かざるを得ないような生活を送る「農民工」の悲しみや辛さを表している。
かつては性生活は農民にとって日常生活の一部であり、特別なことではなかったが、都市と農村部の収入の格差がどんどん広がっている中国では、妻に会うために何千キロも移動しなければならない出稼ぎ労働者たちが何万人もいる。
この詩は現代の中国の歪んだ社会を素直に描写したものとして大変衝撃を与えた。中国では政治的な抑圧を恐れて、多くの人はネットやメディアで自分の正直な気持ちを表現したり社会の歪みを批判することは避けるので、余さんの単刀直入かつ美しい表現は多くの人の心を動かした。それだけ今の中国では悲痛な現実を実感している人が多いということなのかもしれない。
「中国のほとんどを横切ってあなたと寝にゆく」 余秀華
ほんとうは、あなたと寝ることとあなたに寝られることはさして変わらない、それはふたつの肉体がぶつかり合う力というだけで、その力が急ぎたてて開かせた花というだけで、その花びらが仮想した春が私たちに命がふたたびよみがえりつつあると錯覚させているにすぎないだけ
ほとんどの中国では、どんなことだって起きている
火山が噴火し、川は枯れている
話のタネにもならないどこかの政治犯と流民たち
銃口にさらされているどこかの四不像と丹頂鶴
私は銃弾の雨を潜り抜けてあなたと寝にゆく
私は無数の暗い夜を一つの黎明に押し込めてあなたと寝にゆく
私はどこまでも駆けながら、無数にいる私を一人の私に変えてあなたと寝にゆく
もちろん、どこかの蝶に分かれ道へと誘われることだってあるだろう
だれかの褒め言葉を春と見なしてしまうこともあるだろう
横店とよく似た村を故郷と見なしてしまうこともあるだろう
でもされらはみな
私があなたと寝にゆくためになくてはならない理由のようなもの
余さんは「中国のエミリー・ディキンソン」と呼ばれている。余さんの人気の火付け役となった米国在住の詩人沈睿さんが、自身のブログに掲載した文章がある。
「このような強烈で美しさが極限に達した愛情の詩、情愛の詩を、女性の立場から誰も書くことができなかった。私は彼女は中国の中国のエミリー・ディキンソンだと感じた。奇抜な想像力、言葉のもつ衝撃の力強さがある。中国のほとんどの女性詩人の詩と比べて、余秀華の詩は純粋な詩であり、命の詩である。せいいっぱい飾りつけられた盛宴でもホームパーティでもんなく、それは言葉の流星雨であり、その輝きに思わずじっと見とれてしまう。感情の深さが人の心を打ち、胸を苦しくさせる。」 (沈睿)
エミリー・ディキンソとは、1830年12月10日生まれの米国の詩人である。生前はわずか七編の詩を地方紙に発表しただけで、世間的にはまったく知られることが無く終わった。生前制作した詩の数は1700篇に上るが、それらが日の目を見るのは彼女の死後のことであった。56歳の生涯のほとんどを、自分の生まれた家で過ごし、国内を旅行することもなかった。自分を狭い世界に閉じ込めたわけであるが、そうした孤立の影は彼女の詩にも及んでいる。彼女の詩は、彼女だけの内密な世界を、内密なタッチで歌い上げたものが多い。
世界中が格差社会だ。中間層が没落して、富める者はより富み貧しい者はより貧しく、この差は縮まることはなく更に拡がるばかりだ。クレディ・スイス(銀行)によると、世界の上位10%の富裕層が世界の富の82%を独占している。そして、世界のトップ10%の富裕層で最も多いのが中国人だという。
中間層が分厚くて対人ネットワークが豊な社会では人々は仲間意識を抱くが、中間層が没落すると人々は疑心暗鬼に襲われ仲間意識が消えて人と人との関係をバラバラにする。格差社会の時代を豊かに生きるとは自らのアイデンティティを生きることであり、人種や性別や年齢も関係なく文化によってつながることである。日本ではアニメやゲームなどのサブカルチャーが世界中で人気であり、テクノロジー・コミュニケーンとしてネットがツールとなっている。それは、ただ単にアニメやゲームが好きというよりも誰もがコミュニケーンできる「仲間」求めているからだろう。
余さんの言葉もバラバラに分断された人々をつなげているのかもしれない。
参考文献:「詩に浄化される身体」 小笠原淳
(2020年8月31日)