横田弘の闘い

 現在の若者たちは不平を言わない。
 ブラックバイトや非正規雇用の雇い止めに怯え、賃金の上昇の望みを絶たれ、国民年金保険料や国民健康保険税の滞納し、スマホの使用料に圧迫され、親よりも狭い家に住み、結婚や車を諦め、奨学金の返済に苦しみ、れでもなお現代の若者たちは、与党を支持しデモに集う人々に冷淡な視線を浴びせ、サービス残業に従事している。

 1970年代、「秩序や道徳なんかクソくらえ! 俺はしたいことをする!」と思想をもち、世間を騒がせた人たちがいる。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」である。
 教育、就労、など、あらゆる機会から閉め出されていた彼らは、障害者差別反対を旗印に、各地で激しい糾弾闘争を展開した。施設を占拠して立てこもり、ロッカーや引き出しを引っかき回し、そこに小便をひっかけた。バスジャックを慣行した上、道路に寝そべったりして交通をマヒさせた。しかし、警察は彼を逮捕しなかった。重度障害者が多かった青い芝のメンバーを拘束すれば、思い言語障害を持つ者が多く介護しなければならないし、事情聴取も大変だからだ。何をしても逮捕されない彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。青い芝のメンバーはよくいえば個性的、悪くいえば無軌道だった。いつでもどこでも自己中心、人の言うことは聞かない。思いついたらあとさき考えずに即実行。あとはどううなろうが知らんぷり。そんな彼らの問題解決の路を選ばない運動は、必然的に大衆から遊離し、やがて終息していった。

 その中心メンバーの横田弘さんは、1933年5月15日に横浜市鶴見区に生まれた。母親は身体が弱く出産に6、7時間かかった。結果として、脳性マヒという障害を負って生を受けた。横田さんは、1950年に母親が亡くたったときに17〜18歳で、それからしばらくして詩を書き始める。1955年に横浜の『象(かたち)』という同人誌に参加したことが詩人の始まりであった。しかし、より正確に言うならば、母親が亡くなった17歳以降、横田さんは1人で詩を作り始めている。『少女クラブ』に従妹の名前を使って入選したことなどを経て同人誌『象』への参加であった。1人で詩を創っていたのは、1950年前後、横田がまだ10代のことである。さらにその2年後、20歳の頃には、西条八十が選者を務める『講談倶楽部』という大人の雑誌に歌謡曲を書いて投稿し、3等に入選している。したがって、22歳の時点で現代詩の同人誌『象』への参加は、児童詩、歌謡詩を経てのものであったということになる。
 横田さんが詩の創作を始めたのは、母親が亡くなった後の10代後半からであり、母親を亡くしたことに伴う母性の喪失により生じた心の隙間を埋める行為としての詩作であったと考えることができる。そして雑誌に投稿し同人誌に参加することで、横田さんの中に別の世界とのつながりが芽生えたと解することが可能である。それまでは家の中にいて、そばにある本をかたっぱしから読んでいるだけであった横田さんの、外の世界との最初の接点が詩作であった。そしてこのようにして芽生えた、詩作を通した社会とのつながりが、横田さん自身のなかにゆっくりではあるが、自己の形成を促していったのである。それを裏付けるかのように、横田さんは次のように述べている。
「私は1955年から横浜の同人誌『象』で詩を書いていました。それは私にとっては家族以外との初めての「外界」との関わりだったのです。」
 就学猶予によって小学校に行くことが出来なかった横田にとって、10代後半から始めた詩作が、少しづつではあるが学校とは別の形で社会とのつながりを形成していった。

「櫛火」 横田弘

朽ちていく肉体に注ぐ
哀別の泪を
だれが
奪えるのか

二度と還ることのない
旅への調えを断ち切る
メスのきらめきは
決して 許されない
存在への 挑み

〈脳死=人の死〉

虚しさの深さを 見失い
哀しみへの愛しさを 投捨て
わななく畏れさえ 忘れて
ひとは
幻の果を盗み続けていくのか

いま
確実に
操られた頷きの微笑みに潜む群れが
増える

だが

じっと 地に蹲り
蒼黒を見据えるのは
衝動の憤りではない
遠い母達が残した
たった一つの言霊(ことだま)を呼戻す作業の筈
なのに

「見送るだけか」 横田弘

午後
初冬にしては激しすぎる雨が
フロント・ガラスを打つ
研修集会の帰り道

私の 不遜
五十九年の暮らしのなかで
無意識に育てていた 黝い驕慢が
また
サイド・ミラーから 嘲笑(わら)いかける

こんな楽しい思いをさせて貰って
本当もありがとう

たまさかの宿泊の酒に
笑顔で語り掛ける施設暮らしの友の言葉に
全身を凍らさせ
身動きさえできない自分を
そんな怯えを冷ややかに見据える
もう一人の 私と

本当にありがとう

無音のまま頷きが
自分への免罪符にしか過ぎないと
判っていたとしても
 
いま
それを責め続ける若さが
私から 去って行く
 
とっても
雨音が寒い

(『そして、いま』 横田弘 1993年 より)

 人権とは、個別具体的な個人の権利であり、今ここに生きている人間の切実な命に関わる問題である。「青い芝の会」のラディカルな運動は、多数派を形成できないために無視されてしまうマイノリティの権利を主張するための運動ある。現代の格差社会の若者たちの環境も同じようなものだ。既得権益者たちが、豊かな社会を創るという資金や時間や仕事を食べ散らかしてまい、若者に残されたものは食べカスに近くなってしまった。
 横田さんはいう。「僕たちにできることは、「脳性マヒ者でも何が悪い! 差別するな!」って叫ぶこと。叫び続けること。」だと。
 日本人の15歳から39歳までの死因のトップは自殺という。たかが貧困や障害などで死んではいけない。我慢することが強さではない。人に依存でき、助けを求められることが強さである。声をあげずに静かなままだと何も変わらない。声を上げて変化を求める力が強ければ、政治も無視することはできなくなるはずだ。残念ながら、政治が本格的に貧困世代に向き合う兆しは見えない。政策も自己責任論に終始し、突破口を示すことができていない。逆に、若者が声を上げないがゆえに、何をしても抵抗がないのをいいことに、暮らしにくさを加速させるように進んでいる。このまま静かにおとなしく待っていれば問題解決してくれる人が現れるということはない。ちっぽけで意味のない行動などひとつもない。自ら主体的に社会変革をしなければいけない。

参考文献
『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』 角岡 伸彦 (講談社)
『われらは愛と正義を否定する 脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』 横田弘 (生活書院)

(2019年6月28日)

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