自ら始めた戦争を自ら終わらせることが出来ず、ただ無責任に継続させて南方戦線では飢餓と病死、沖縄決戦と日本軍による沖縄住民への虐殺、広島と長崎への原爆投下、東京大空襲と戦争末期に死んでいった人々の数は膨大であり、その甚だしさが「天皇の詔書」というたった数分のラジオ音声で一変してしまうというとんでもない理不尽さを、日本の「戦後」は問い続けなければいけなかった。
だが、そんな問いなど気にも留めず、あっけらかんと始まった日本の戦後は戦中と同様に「無責任」な体質は変わることはなかった。
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
茨木のり子さんが、詩を公表しはじめた一九五〇年代初めは、朝鮮特需の時代。いわゆる人殺しの片棒を担いで儲けたお金で戦後復興した時代だ。
茨木さんの代表作である「私が一番きれいだったとき」(『詩文芸』一九五七年二月)は、敗戦後の心情を謳い、青春時代を思い起こすとともに、その時間が戦争に奪われた悔しさを取り戻すべく謳ったものだ。
茨木さんはこの詩を書いた心境を「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」としみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「私が一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったからかもしれない」(「はたちの敗戦」)と記している。
「わたしが一番きれいだったとき」 茨木のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
茨木さんの古くからの詩友である谷川俊太郎さんは、「「基本的に茨木さんは正しいことを書く人で、詩というものは正しいことを書くものじゃないと思っていたから、ちょっと肌に合わないところがあった。」「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩がありますよね。あれなんかでも僕は書き過ぎていると思う。この行(第五、第六、最終節)は切っちゃえばいいのになんて直接言ったりして、茨木さんは苦笑してました。」と記している。
この詩の第五節では「そんな馬鹿なことってあるものか」と、第六節では「異国の甘い音楽をむさぼった」と、最終節では「できれば長生きすることに」と謳われている。敗戦を喜べないが、解放を思う存分に謳歌する。それは「わたしの国」の敗戦にとまなう解放であり、また「異国」による占領もとでの解放であるため、矛盾と葛藤をはらんだ解放の心情が謳われている。一九四五年八月の複雑な心情を、一九五七年の時点であらためて整理し、その時期の社会にぶつけたのが、この詩である。一九三一年生まれで、茨木さんより五歳年少の谷川さんとて、敗戦に複雑な感情をもったはずだが、であるからこそ茨木さんのこの詩の第五節で敗戦の屈曲をいい、第六節で全面的な開放感を謳うという、相矛盾する心情をそのまま書き付けたことに、谷川さんは違和感を持ったのでないかと解釈できる。
文化人に限らず、誰もが戦後の生き方を問われた時代であっただろう。
茨木さんは「国のためなら死のうと思った」と語るほどの軍国少女だったという。だからこそ、敗戦と占領の負の記憶をたどることによって「正しい」ことを書き、国とは何か、大義とは何か、生きるとは何か……。内省を強いる深い「問い」を抱きつづけた。
「四海波静」 茨木のり子
戦争責任を問われて
その人は言った
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
野ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五年十月、皇居内で記者会見した際に、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。」と、質問をしたことに対して、昭和天皇が、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えた。
「四海波静」は、この昭和天皇の「無責任」な発言への直截な憤りを込めた詩だ。
茨木さんはこの詩を書いた気持ちを、「かつて戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。
しかし、ジャーナリズムの反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」という頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私は長く詩を書き続けてきたものだが、、この天皇の言葉を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった。」と、記している。
この詩は天皇だけを非難しているのではなく、「頼朝級の野次ひとつ」飛ばさないジャーナリズム、さらにその背後にある「黙々の薄気味わるい群衆」の自ら思考停止し、歴史に向きあることをしない人間を非難しているのである。
この昭和天皇の記者会見が行われたのは戦後三十年目である。さらに四十余年の月日を重ねた現在、敗戦を「終戦」、占領を「駐留」とすり替え、あったことをなかったことにせんとするばかりの糊塗、権力への忖度、萎縮、自己規制がまかり通っている。「歴史」に向きあることなしに過去が過去として精算されることはない。
茨木さんは、「私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持ちで詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っておいう思いがいつもありましてね、信じられないかもしれませんが(笑)。それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある。それが間接的に人を励ますことになっているのかもしれません。とにかく私自身は強くはない。弱い人間です。」と自ら語るように決して強い人ではなかったと思う。だからこそ、自分自身を律することにおいて強靭であり、その姿勢が詩作するというエネルギーに源であっただろう。正しく生きるとは、「歴史」にきちんとした筋を通して生きることである。
はたして戦後の日本は平和なのだろうか。「直接の銃撃戦」という意味において戦争の最前線には参加していないが、戦争そのものには「兵站」「後方支援」という形で積極的に関与している。そして、その結果、日本は数多くの国際戦争で間接的に他国の兵隊や民間人を殺している。「平和国家日本」は欺瞞であり虚構である。わたしたち日本人は両手を赤く血に染めているのである。現在も、戦中となんら変わることなく人を殺す社会であり国家である。ただその方法が巧妙で、直接的でなくなったというだけの話である。平和とは誰も殺さず、そして誰にも殺されない社会のことをいうはずだ。
茨木さんの走り続けた戦後は決して終わっていない。わたしたちが、そのバトンを受け継がなくてはならない。
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
と、自分に言い聞かせて………。
参考文献
「茨木のり子 女性にとっての敗戦と占領」 成田龍一 〈『ひとびとの精神史』〉 (岩波書店)
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治 (中央公論新社)
(2018年8月27日)
「正しいことを言うこと」が、いつから野暮になったのか。それでは「正しいこと」言わないことが、スタイリッシュで素敵なことなのか。 正しいことはシンプルだ。人を殺さぬこと。人を苦しめぬこと。わたしもあなたも、互いの自由を力で侵さず、伸びやかに生き生きと愉しくあること。正しい野暮を敢えて伝え続ける茨木のり子のありようこそ、「詩」そのものである。茨木のり子を読んで、わたしは「詩」を愛する人間だったと初めて知ったのである。
コメントありがとうございました。
マルティン・ニーメラーに「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という有名なことばがあります。
「声をあげること」は出来ないかもしれない、けれど「無関心」ではありたくないです。