愛と詩と死を見つめて 氷見敦子の詩

 詩との出会い方は色々あるが、氷見敦子の詩の出会いは北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』を読んだことだった。氷見敦子はすでにこの世にはいなかった。

下腹部がが張り
死児がとり憑いたように腹が腹らんでいる
胃と腸が引きしぼられるように傷み
軀をおこすこともできず
前かがみになってのろのろと移動する
——略——
「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる
地の底の深い所に立つわたしを見降ろしている井上さんの顔が
見知らぬ男のようになり
鍾乳石の間にはさまっている
ここが 
わたしにとって最終的な場所なのだ
という記憶が
静かに脳の底に横たわっている
今では記憶は黒々とした冷えた岩のようだ
見上げるもの
すべてが
はるかかなたである
(「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」氷見敦子 部分)

 死の国からの第一声のようなこの詩の出だしに、息をのんだ。力をふりしぼった執念にも似た詩行は、もはや論理とはほど遠いが、氷見敦子はこの時すでに癌を告知されていた。たじろがずに、毅然と地獄谷へ降りて行く凄みのある詩行を読みすすむうち、真夏に気温十度という、激しい照り陰りのない鍾乳洞は、まさに、氷見のかっこうの死に場所であり、食事もとれない状態でこの作品を仕上げることによって、氷見は、天に出発する自らのはなむけにしたのではないかと思えた。
 しかし、ねじ伏せるように事葉をたたみかけて、地の底まで降りながら、その先で一挙に生の高みへ飛び上がろうとする、目眩にも似た野心が詩行に見え隠れするのはなぜだろう。(北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』より)

 絶筆となった「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」という詩は食事をとることもできず点滴を打ちながら書き上げたもので、この時すでに死を覚悟していたという。そして、この十二日後に死んだ。三十歳だった。
 凡庸な日常を生きている身にとって、この「詩」と向き合うことは氷見敦子の「死」とも向き合うことであり「あなたにとって死とは何か?」とか「あなたにとって生とは何か?」ということを問いかけられている。
 氷見敦子の言葉は重い。新井豊美との会話で「今後詩はいっそう軽くなるのか」との問いに、即座に「重くなるんです」と答えたというように。近ごろの軽薄とも思える言葉があまりにも多すぎる。お世辞や社交辞令など「ソン・トク」が透けて見える言葉や、上っ面だけの不誠実な言葉の数々に辟易する自分にとって氷見敦子の言葉は、孤立や孤独や不安からすくい上げてくれる思いがする。言葉とは思考であり生き方である。

(2017年9月14日)

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