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谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~

 杉並区中央図書館で開催している「谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~」を観てきた。

 「どこに行っても谷川さんに会える」をコンセプトに、中央図書館全てをキャンバスとして谷川さんの詩や写真などを展示します。読書に疲れてふと見上げると谷川さんの詩や写真がある。図書館全てが谷川さんの「ことば」(メッセージ)で溢れています。
 また、谷川さんの詩に感動したら谷川さんへの「メッセージカード」にあなたの思いを書いてみよう!特別展示コーナー(1階CDコーナー横)にあるとのこと。(杉並中央図書館HPより)

 谷川さんが詩人としデビューするきっけとなった手書きの2冊の詩集ノートがあるという。
 谷川さんのお父さんが知人であった三好達治氏に、この2冊のノート見てもらい評価されたことによって、出版社に推薦され第1詩集『二十億光年の孤独』の出版に至ったものである。
三好達治氏は『二十億光年の孤独』の「序にかえて」で書いている。

 この若者は
 意外に遠くからやつてきた
 してその遠いどこやらから
 彼は昨日発つてきた 
 十年よりもさらにながい
 一日を彼は旅してきた
 千年の靴を借りもぜず
 彼の踵で踏んできた路のりを何ではかろう
 またその暦を何ではかろう
 (略)
 一九五一年
 穴ぼこだらけの東京に
 若者らしく哀切に
 悲哀に於て快活に
 ——げに快活に思ひあまつた嘆息に
 ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は
 ああこの若者は
 冬のさなかに永らく待たれたものとして
 突忽とはるかな国からやつてきた
 (『二十億光年の孤独』 序にかえて 三好達治より)

 この2冊のノートが現代詩の出発点といっていいかもしれない。そして、穴ぼこだらけの心を解放と安心で満たされた人も多いことだろう。
 この展示でこの2冊のノートと、三好達治氏の「序にかえて」の生原稿が見ることができます。ガラスケースに入っているので実際に手にとることはできないが、「二十億光年の孤独」「新緑」と「雲」「ある世界」が載っているページがそれぞれ開かれている。
 平成30年11月3日(土曜日)から平成31年3月31日(日曜日)まで開催しています。無料ですので、お近くの方は観にいかれたらよいかと思います。

■2冊のノートとは
 ノートは全部で4冊(谷川さんは2冊だと思い込んでいた)あるという。1冊目のノートは「傲岸ナル略歴Ⅰ」には60篇(1949年10月12日〜1950年3月4日)、2冊目のノート「電車での素朴な演説Ⅱ」には56篇(1950年3月6日〜5月9日)、3冊目のノートには80篇(1950年5月10日〜1952年2月23日)の詩が収められている。3冊のノートの詩を合わせると、196篇となる。年度別に見ると、1949年8篇、1950年には、150篇1951年には、35篇、1952年には3篇と、詩の数は高校を卒業した年の1950年が圧倒的に多い。
 この時期の詩で活字になったものは、『二十億光年の孤独』(創元社、1952年)に50篇、「二十億光年の孤独 拾遺」(『日本の詩集17 谷川俊太郎詩集』(角川書店、1972年))21篇、「〈62のソネット〉以前」(『愛について』(東京創元社、1955年))に11篇、『十八歳』(東京書籍、1993年)に62篇、合わせて144篇の詩を私たちは目にすることができる。
 詩には、書いた日が添えられている。制作された日の順に詩を読んでいくと、作品が多い17歳後半から19歳半ばくらいまでの時期は、若い詩人の詩の変化がたどれるように思えるという。
 4冊目のノートはデビュー後の作品が大半で、詩の性格も『62のソネット』につながるもので、谷川さんの運命を変えたノートとして、3冊と考えるのが自然だろう。(『ぼくはこうやつて詩を書いてきた』山田馨より)

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。(『徒然草』)

 詩でなければ伝わらないことがある・・・。
 それを探し続ければたとえ孤独であっても豊かになれる・・・。

(2018年12月2日)

詩人であったテロリスト

 石川啄木は「ココアのひと匙」で、大逆事件で処刑された幸徳秋水たちテロリストの悲しい心情を詠った。

「ココアのひと匙」  石川啄木
われは知る、テロリストの
かなしき心を──
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
奪われたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を──
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

 大逆事件から12年後の大正12年に起きた関東大震災のどさくさに紛れて、社会主義者の虐殺が軍・警察の手で実行され、故意に流されたデマに踊らされて多数の朝鮮人・中国人が犠牲になった。
 アナキストたちがもっとも激昂したのは、大杉栄・伊藤野枝夫妻の虐殺だけでなく、思想的には何も関係ない大杉の甥の橘宗一少年(6歳)が、一緒にいたというだけで締殺された事だ。しかも反抗がバレないように遺体は大杉夫妻とともに古井戸に投げ込まれた。これはおそるべき犯罪行為である。
 その復讐に起ち上がったのがアナキスト中浜哲と古田大次郎が率いるギロチン社と、大杉直系の労働運動社の和田久太郎たちだった。

 人は「この社会を変えよう」と思いつめた時、自分の肉体のみを武器としてテロリストを目指す。自分の目の前で人が苦しんでいて、政府や富豪やら、だれが悪いのかもはっきりしている時、どうしようもなく義憤に駆り立てられる。たいていは弾圧されて、ぶっ殺されるだけだろう。いまの自分の利益を考えたら損するだけだ。でも、それでもいい。ただ一撃でいいから、悪いやつらに鉄槌をくだしたい。そうやって、世のため人のため、身を捨てておのずから動くのだ。

「詩人であったテロリスト」 辺見吉三 (『墓標なきアナキスト像』より)

 アナキズムが、今もなおダイナマイトやピストル、そして暗殺者の黒い恐怖として、人の胸裏に伝説となっているとしたら、それはただアナキストのみのゆえんであろうか。
 明治43年夏、幸徳秋水らは明治天皇暗殺をはかったとしてつぎつぎに逮捕され、翌年1月12名は死刑、12名は無期となった。
 そのとき幸徳らは誰をも殺さず、また傷つけたのではない。さかさまに彼らこそが、天皇制にくびり殺されたのにある。

 大正12年から13年にかけて、違いわゆるアナキストのテロルとよばれる一連の事件が連続しておこった。
 そのテロルとは、合計した結果でも、あやまって1人の老人をころし、わずかに2人にかすかな負傷をおわせただけのものにすぎない。しかも天皇制政府は、それへの見返りとして数十人をとらえ、数十人を獄死させ、あるいは死刑に処したのである。
 そして政府はそれらの内容の漏洩をまず記事差し止めで防ぎ、ついで理不尽な処刑にふさわしくデッチあげ、全く一方的に潤色して発表したのにあった。
 このようにして、アナキズムの歴史がテロルの血によって書かれている、と人々というならば、その血は、天皇制政府によって流されたアナキストのものであること、テロルの黒い伝説は、アナキストに対しての天皇制そのものにこそ、与えられねばならぬことが明らかだろう。
 だが、それはもちろん、アナキストが、他の誰よりも目立って、天皇制への反逆者であったことを意味している。
 しかしまた天皇制絶対状況のもとでの、ことに〈大逆〉は、それ自体として存在しえないもの、または〈死〉にほかならなかった。
 それゆえにアナキストたちが——日々の〈生〉が〈生そのものとして死化している〉日常において、自己の〈生の死化〉を認めつつなお闘おうとするとき、おのれの内面を今まで支えた確たるもの——〈志〉あるいはアナキズムの喪失をしらなければならなかった。
 またその〈志〉の喪失感の深さは、その深刻さに比例した自己処罰のニヒリズムとして、彼らをはげしく衝ききゆるがすものであった。
 それゆえ彼らが、〈大逆人〉の位置にみずからを捉え、自己を律することでおのれの〈生〉を絶対化しようとしたとき、うかびあがってきた〈死〉は、〈生〉そのものとしての〈志〉の復活であった。
 しかしそれは古田の手記にある「死と結婚した」人間の「死と握手している寂寥やる方なき心をば、深く胸中に蔵した時のみ得られる」という——〈生〉のアナキズムから転生した〈死〉テロリズムへの——〈志〉にほかならなかった。
 このようにみるとき中浜鉄、古田大次郎、後藤廉太郎、和田久太郎、村木源次郎……と彼らのほとんどが詩人であったことは、また偶然ではない。
 彼らにとって、〈死〉はまた〈詩〉の極致でもあった。
 そしてテロルが〈詩〉とむすびつくのは、生の跳躍としての自己投企において、〈死〉を貫徹させること、その〈死〉的燃焼の完結性——完璧性としてである(その故に、中浜や和田は無期をでなく、裁判でも死刑をあのように望んだのでだった)。
 このようにして彼らが、その最後の〈死〉において表現したものは、それそのものとしての〈志〉であり、また〈詩〉であった。
 いいかえれば〈死〉によってしかあらわすことのできない、それは〈志〉であり、〈詩〉なのであった。
 もはやそれそのものが目的となった〈詩〉あることによって〈志〉の、はげしくうつくしい〈死〉であった。

 チェ・ゲバラが語ったなかで好きな言葉がある。
ラテンアメリカ革命のための山岳ゲリラ戦で、山の中を追われて逃げている時、撃たれてもう動けなくなってしまった仲間が「足手まといだから自分をここに置いていってくれ」と言ったら、ゲバラは「お前さんを釣連れて一緒に行くのが革命のポエムだ」と言ったという。ただ足でまといだからというのでどこかに収容するのではなく、それを一緒に背負っていくことが人間的な社会を象徴する、革命というのはそういうことだと思う。

 大杉栄は喝破した。「国家がやっていることは、暴力をつかって人びとを生きのびさせることである。ただ生存のために生きさせること、それ以上の生きかたを認めないこと。キーワードは奴隷根性であり生の負債化だ。人びとは、負い目をせおわされることによって、特定の尺度をうけいれ、こうやって生きるべきだと思わされる。まわりの評価を気にして生きること。もっと評価されようとして、他人と競い合うこと。それは、奴隷が主人によろこんでもらおうと、四つんばいになってしまう」というようなものだと。

「むだ花」 大杉栄
生は永久の闘いである
自然との闘い、社会との闘い、
他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社会力に屈服した生のあきらめ、
かくして生の闘いを回避した
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
芸術がそれだ。

 闘うとは「ポエム」なのだ。
 生きるとは「ポエム」なのだ。

(2018年12月1日)

石牟礼道子さんへ② 「問い」

 想像してみよう。
 「自分の住む町に大きな工場があり、もくもく煙を吐いている。ある日突然猫がよだれをたらし、激しく痙攣して海へ飛び込み、鳥が空から落ち、近所に住んでいる人たちが狂ったようになり奇声を発して次々に死にはじめる。両親も、子どもも狂死する。何とか生き残った住民たちはその侵害された身体を引きずりながらも、工場に排煙を止めるよう要求し国や県に訴える。工場は因果関係の証明がないとして訴えを拒否し、国も県も何の対策もとらない。むろん、住民たちの抗議の暴動が起こる。だが、警察は被害者を逮捕する。被害者は周辺の住民たちから徹底的に差別され続ける」ということを。
 これが映画でも小説の世界ではなく、今から60年前に日本の水俣で起きた現実の出来事である。

水俣病とは何だったのか?

 水俣病事件とはジェノサイド(大量殺害)だ。アウシュヴィッツが陸のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空のジェノサイドだったとすれば、ミナマタは海のジェノサイドである。ジェノサイドの本質とは、国家と産業の発展を優先させ、生命の尊重や人間の尊厳を二の次とする倒錯した政治にほかならない。
 戦後日本の急速な高度成長は、チッソ(当時は新日本窒素肥料)の生産したアセドアルデヒドなしでは達成できず高度成長のためには、つまり「豊かさ」を追求するには、有機水銀を海にたれ流してもアセドアルデヒドの増産を中断することなく続ける必要があり、政府もそれを黙認した。それは一部の人間を犠牲にしてでも「豊か」になる社会システムだった。

「豊かさ」とは何なのか?

 現代社会の支配的な価値観である効率主義や物質主義は、家族やコミュニティーをバラバラにひき離し、友情を忘れさせ、人びとが共有する未来について、あるいは自然とともに生きる人間の生き方について、考える時間を奪い去ってしまった。
 もともと経済活動は、人間を飢えや病苦や長時間労働から解放するためのものであった。経済が発展すればするほど、ゆとりある福祉社会が実現されるはずであった。しかし、日本は金持ちになればなるほど逆である。人びとはさらに追い立てられ、自然はなおも破壊されていく。
 効率を競う社会制度は、個人の行動と連鎖的に反応しあっているから、やがて生活も教育も福祉も経済価値を求める効率社会の歯車に巻き込まれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るため利己的にならざるを得ないから、人間は意地悪になったり欲張りになり、弱者をかばうこともなくなり、万人は万人の敵となり、自分を守る力はカネとモノだけになる。

自らの「問い」を生きていきたい。

 「豊か」になる社会システムでは、政治家が寄生している企業があり、その企業は人権や自然を破壊してまで利益を追求する。企業には従業員がいて、消費者が存在する。自分自身やあなたがその従業員であり、消費者の一人なのである。水俣病事件は利己的な醜い自分自身を深々と映し出した。「豊かさ」の影で弱者が犠牲になるシステムに加担しないために、体現者たちの声を聞き、この時代に生まれた者として自らの「問い」を生きていきたい。

■緒方正人の「問い」
 水俣病被害者で水俣病患者運動のリーダーだった緒方正人さんは「チッソは私であった」と語った。
「チッソとは何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり便利なモノであったり、いわば「豊かさ」に駆り立てられた時代であるわけですけれども、私たち自分の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。
 この40年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスティックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にたくさんあるわけです。水道のパイぷに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけど、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」と求めたこの社会は、私たち自身ではなかったか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかというころが、大きな問いとしてあるように思います。」と自ら「問い」て、人として生きたい。一人の「個」に帰りたいという。

■原田正純の「問い」
 水俣病に一生をかけて向き合った原田正純医師は、「水俣病の臨床的な研究をすることとなり、水俣を訪れたのが水俣病との出会いであったと。その最初の経験では、東京の豊かさと水俣の悲劇と貧しさの落差に愕然とした、治らない病気を前にして医者に何ができるか、何をすべきか」という患者からの深い問いかけに直面することとなった。医師と患者の関係は単に「治してあげる、治してくださいでしかないのか」と自らを「問い」た。無力である自分を突きつけられ、逃げず水俣病につきあうことを選択したという。そして「人類は、自然界には存在しない科学物質を開発し、気がついてみれば、私たちの周りには化学物質によって取り囲まれてしまっている。人間はどんでもない過ちを犯そうとしているのではないか。人類はもうこれ以上、何をどう便利に、豊かにしようというのだろうか。しかも、その恩恵に浴しているのは一部の人間だけである」と世界各地で公害病の調査研修をした、第一人者が強く批判している。

■山内豊德の「問い」
 環境庁企画調整局長だった山内豊德さんは、水俣病認定訴訟において、国側の担当者となり、被害者側との和解を拒否し続ける立場にあったが、人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み、1990年12月5日に自殺した。
 山内豊德さんは、東京大学法学部を卒業して厚生省に入省した。中学生の時に骨髄炎にかかり身体はあまり丈夫でなかった。経済的には恵まれており、成績も抜群で、まさにエリート中のエリートではあった。しかし、生い立ちもふくめ、家庭的な愛情にはあまり恵まれて育たなかったため、社会的な弱者救済を設けられた厚生省を選んだという。
 厚生省で福祉課長をしていた時代には、「人間はね、人を愛するという気持ちがなかったら人間じゃないよ・・・・。これは福祉に限ったことじゃない。行政に携わるすべての人間の基本は人を愛するという気持ちを持つことだよ」、「相手の心を汲み取って人に対処するようにしないといけない。自分の立場だけで判断していちゃ福祉の仕事は駄目だよ」と部下に語っていたという。
 文学志向でもあったという山内豊德さんの15歳の時の詩がある。

【しかし】 山内豊德
しかし‥‥‥と
この言葉は
絶えず私の胸の中でつぶやかれて
今まで、私の心のたった一つの拠り所だった
私の生命は、情熱は
このことばがあったらこそ‥‥‥
私の自信はこのことばだった
けれども、
この頃この古葉が聞こえない

胸の中で大木が倒れたように
この言葉はいつの間にか消え去った
しかし‥‥‥と

もうこの言葉は聞こえない
しかし‥‥‥
しかし‥‥‥
何度もつぶやいてみるが
あのかがやかしい意欲、
あのはれやかな情熱は
もう消えてしまった

「しかし‥‥‥」と
人々にむかって
たゞ一人佇んでいながら
夕陽がまさに落ちようとしていても
力強く叫べたあの自信を
そうだ
私にもう一度返してくれ。

 人は年齢を重ねていくにつれ、人は「しかし」という言葉を自分の中から失っていく。そして、その言葉を「だけど‥‥‥」という言い訳の言葉に変えながら生きていく。山内さんはそれが許せなかったのかも知れない。「しかし」と言えなくなった53歳の自分を、15歳の自分によって裁いてしまったのでないか。“もう一度返してくれ”という山内の叫びは、自分に向けてのものだったのか。「だけど」という時代へ向けてのものだったのか。
 山内豊德さんは、加害者なのか被害者なのか。
 福祉にとっての理想主義が経済優先の現実主義に圧倒されていく、その下降線の時代を山内さんは必死で生きようとしたのだと思う。高級官僚としてその下降に立ち会ったと責任においては彼はやはり加害者側の人間だったと言わざるを得ないし、又同時に時代の被害者だったとも言えるような気がする。彼はそのふたつのベクトルに引き裂かれながらアイデンティティの「二重性」を生きたのだろうと思う。少なくとも彼は自らの加害者性というものを痛みとともに鋭く認識していたはずである。それは彼が出した結論からも推測できる。しかし、これは彼に限ったことではなく、今という時代にこの日本という国で生きていくということは否応なくこの「二重性」を背負わざるを得ないということを意味している。ただ多くの人はこの内なる加害者性と向き合うことが辛くて、眼をそらしているに過ぎない。
 この「二重性」を生きているという自覚こそが、そして開き直るのではなく、そこから出発する覚悟が私たちに求められている。そして、その辛い自己認識から眼をそらすことなく、私たちはその「二重性」と向き合う態度を身につけ、覚悟を持って生きなければならない。

 被害者は苦しみながらも日本の未来に向かって自らを「問い」た。そして、多くの人間たちが水俣病から逃げずに寄り添い続けた。
 しかし、加害者側の人間たちは自らの「問い」を生きていたのだろうか。チッソや行政の多くの人間たちは、有機水銀を海にたれ流していたことは知っていたはずだ。ジェノサイドとはナチスのアウシュヴィッツがそうだったように、決して悪魔のような人間が行うのではなく、普通の人間が自己保身のために行うものだ。アンブロース・ピアスの『悪魔の辞典』によれば、「会社」とは「個人が利益を得ながらも、個人的にいかなる責任も負わないで済むための巧妙な仕組み」というが、チッソや行政の人間が一人でも見てみぬフリをせずに早い段階で反対の声を発していたなら、ここまで被害が拡大することはなかっただろう。

水俣病は終わっていない

 企業の責任は法的には明らかにされたが、企業の裏にある国や行政の責任が今なお明確にされていない。今までに一度も不知火海一帯の人たちへの健康調査すら実施しておらず、健康破壊の実態はわからないままだ。いじめが怖くて隠している人、チッソに気をつかってきた人、病気を我慢している人など、さまざま理由で取り残され苦しんでいる人たちがたくさんいいて、被害者救済は決してうまくいっていないのが現状だ。そうしたなかで、すでに多くの人が亡くなってしまった。
 国や行政の責任が明確になり、すべての被害者が救済され、人間が差別されず自然と共生する地域社会を創造するまで、水俣病事件は終わることはない。
 日本人は歴史に学ばない、歴史の教訓を生かさない。振り返らない。検証しない。後悔しない。反省しない。悩まない。やっぱり3.11の福島原発事故でも同じ過ちをくりかえした。不誠実な情報提供、責任の不追求、なし崩しの政策回帰、すべての生き物と自然の破壊。そして東電の経営者は現状の体制を維持すると決め、株主もたま原発の維持を承認した。これらすべてはこの国が水俣病事件から本質的に何も学んでいないという事実を突きつけている。歴史は繰り返す、という言葉をこれほどに再現した例は稀有だろう。
 何よりも深刻なのは、子どもたちの健康被害だ。水俣病事件では、チッソが有機水銀をたれ流していた当時の子どもたちが今苦しんでいる。子どもたちの人権が守られなかったのが水俣病事件であり、国の論理では個人は守られないと証明されたのが水俣病事件である。
 どうして、この国は「人を人と思わなくなってしまった」のだろう。子どもたちを守れないこの国に未来はない。そして、壊した自然は二度と元には戻ることはない。この国が辿り着く先には「豊かさ」という言葉だけが虚しく響くだけだろう。

 決して忘れてはいけない言葉がある。
 原田正純医師の「公害が起こって差別が生まれるのではなく、差別のあるところに公害が起きる」という言葉である。そして、「差別は必ず強い者から弱い者へと向けられていく」ということも。
 水俣病は1956年4月、総合病院に狂躁状態を呈した5歳の少女、田中静子さんがかつぎこまれたことが始まりだ。そして、8日後には3歳下の妹、実子さんも同じ症状で入院した。
 この姉妹の姉の下田綾子さんの手記によると「私の家は、チッソの排水口に近い水俣湾の坪谷にあって、すぐ下が海になっているんです。潮が満ちてきたら家から魚が釣れるぐらいです。上の妹の静子は当時5歳で、下の実子は3歳でした。静子はうちの中でも一番明るい子でした。近所の人が通れば、お茶も沸いていないのに「おじさん、お茶が沸いとるから飲んで行かんな」なんていうて人を寄らせていたんです。実子はいっつも「静子ねえちゃん、静子ねえちゃん」ちいって静子のあとをついてまわっていました。2人には海岸が遊び場、運動場だったんですよ。貝とかビナ(巻き貝)を採るのが好きで、船をつなぐ波止場に小さなカキがいっぱいつくんですけど、潮が引くと、すぐ二人で弁当箱とカキ打ちを持って行くんです。静子は上手だったから、2人分ぐらいはすぐ採って、実子にも食べさせていました。カキとかカラス貝なんかも毎日、味噌汁にして食べてました。いま考えれば、毒が入ったのを「美味しい、美味しい」ちいうて食べていたんですね。静子も実子もやっぱり魚は一番好きでしたから、たくさん食べていたんです。
(途中略)
 熊大の病院に3年間入院してたんですが、脊髄から水を採ったときの怖さが頭にこびりついとったんでしょうか、ずっと目も見えないままで、ものもいえないし、手も足も曲がってしまって、身体もエビが曲がったようにしとったんです。そして昼も夜もずっと泣いて、泣きつづけて亡くなったんです。話せば淡々としてしまうんですけど、静子は本当に苦しんで死んだんです。口ではいえないくらしです。今日、熊本大学に保存してあった静子の脳の標本を初めて見ましてね、ひどく小さくなっていましたから無理もなかったんだなと思って、残念でたまりません」と無念さを語った。
 静子さんは、病院にかつぎこまれてから3年後の1959年1月2日に亡くなった。実子さんは24時間、ヘルパーの介助を受けながら、水俣病の症状のある姉の綾子さん夫婦と一緒に暮らしている。

 想像してみよう。
 大人たちが有機水銀をたれ流した海で、何もしらない3歳と5歳の幼い姉妹が貝を採ってる姿を・・・。

参考文献
『証言水俣病』栗原彬 岩波新書
『水俣病は終わっていない』原田正純 岩波新書
『チッソは私であった』緒方正人 葦書房
『雲は答えなかった』是枝裕和 PHP研究所

(2018年11月24日)

辻征夫の「電車と霙の雑木林」を読む

「電車と霙の雑木林」 辻征夫

霙の雑木林のはずれを
電車が通過して行きました
いくたりかの乗客がいましたが
窓に顔をおしつけて
霙の雑木林を眺めていたのは
子供のときのわたくしです

子供は
冬枯れの景色を覚えていて
作文を書きました―
霙の
雑木林に
背の高いひとがいて
ぼくを見ていた
くぬぎ
けやき
いぬしで
うつぎ
こぶし
やまざくら
霙の雑木林で
そのひとは
電車の中のぼくを見ていた
傘をさして
黒いコートで

霙の雑木林のはずれを
電車がガタビシ通過して行きましたが
あの小さな乗客が
ここに来るまで
およそ四十年かかるというのは
気のとおくなるはなしです
いくつかの都市と
学校と
いくつかのこころの地獄を
なんとか通過してくるのですが


 
静かな夜だ。
小さな灯りに映った自分の影を視ていると、時空を超えて古い時間の自分と出会えるようだ。
私たちは、私ちのまわりの世界と対話することはできない。
すべての物の存在には意味はないからだ。
そもそも、私ちがそれぞれ「この私」であることにすら何の意味もないのである。
だからこそ、日常を超えて時空も超えて、古い時間の自分と対話するのである。
それでも生きていけるのは、くぬぎ、けやきの繁る暗い森に、こぼれ日が射す明日があるからだ。
自分の中の何かだけが時空を超えて、ただここに存在している。
静かな夜だ。

(2018年9月25日)

茨木のり子の戦後

 自ら始めた戦争を自ら終わらせることが出来ず、ただ無責任に継続させて南方戦線では飢餓と病死、沖縄決戦と日本軍による沖縄住民への虐殺、広島と長崎への原爆投下、東京大空襲と戦争末期に死んでいった人々の数は膨大であり、その甚だしさが「天皇の詔書」というたった数分のラジオ音声で一変してしまうというとんでもない理不尽さを、日本の「戦後」は問い続けなければいけなかった。
 だが、そんな問いなど気にも留めず、あっけらかんと始まった日本の戦後は戦中と同様に「無責任」な体質は変わることはなかった。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 茨木のり子さんが、詩を公表しはじめた一九五〇年代初めは、朝鮮特需の時代。いわゆる人殺しの片棒を担いで儲けたお金で戦後復興した時代だ。
 茨木さんの代表作である「私が一番きれいだったとき」(『詩文芸』一九五七年二月)は、敗戦後の心情を謳い、青春時代を思い起こすとともに、その時間が戦争に奪われた悔しさを取り戻すべく謳ったものだ。
 茨木さんはこの詩を書いた心境を「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」としみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「私が一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったからかもしれない」(「はたちの敗戦」)と記している。

「わたしが一番きれいだったとき」 茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

 茨木さんの古くからの詩友である谷川俊太郎さんは、「「基本的に茨木さんは正しいことを書く人で、詩というものは正しいことを書くものじゃないと思っていたから、ちょっと肌に合わないところがあった。」「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩がありますよね。あれなんかでも僕は書き過ぎていると思う。この行(第五、第六、最終節)は切っちゃえばいいのになんて直接言ったりして、茨木さんは苦笑してました。」と記している。
 この詩の第五節では「そんな馬鹿なことってあるものか」と、第六節では「異国の甘い音楽をむさぼった」と、最終節では「できれば長生きすることに」と謳われている。敗戦を喜べないが、解放を思う存分に謳歌する。それは「わたしの国」の敗戦にとまなう解放であり、また「異国」による占領もとでの解放であるため、矛盾と葛藤をはらんだ解放の心情が謳われている。一九四五年八月の複雑な心情を、一九五七年の時点であらためて整理し、その時期の社会にぶつけたのが、この詩である。一九三一年生まれで、茨木さんより五歳年少の谷川さんとて、敗戦に複雑な感情をもったはずだが、であるからこそ茨木さんのこの詩の第五節で敗戦の屈曲をいい、第六節で全面的な開放感を謳うという、相矛盾する心情をそのまま書き付けたことに、谷川さんは違和感を持ったのでないかと解釈できる。
 文化人に限らず、誰もが戦後の生き方を問われた時代であっただろう。
 茨木さんは「国のためなら死のうと思った」と語るほどの軍国少女だったという。だからこそ、敗戦と占領の負の記憶をたどることによって「正しい」ことを書き、国とは何か、大義とは何か、生きるとは何か……。内省を強いる深い「問い」を抱きつづけた。

 「四海波静」 茨木のり子

 戦争責任を問われて
 その人は言った
 そういう言葉のアヤについて
 文学方面はあまり研究していないので
 お答えできかねます
 思わず笑いが込みあげて
 どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘

 昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五年十月、皇居内で記者会見した際に、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。」と、質問をしたことに対して、昭和天皇が、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えた。
 「四海波静」は、この昭和天皇の「無責任」な発言への直截な憤りを込めた詩だ。
 茨木さんはこの詩を書いた気持ちを、「かつて戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。
 しかし、ジャーナリズムの反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」という頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私は長く詩を書き続けてきたものだが、、この天皇の言葉を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった。」と、記している。
 この詩は天皇だけを非難しているのではなく、「頼朝級の野次ひとつ」飛ばさないジャーナリズム、さらにその背後にある「黙々の薄気味わるい群衆」の自ら思考停止し、歴史に向きあることをしない人間を非難しているのである。
 この昭和天皇の記者会見が行われたのは戦後三十年目である。さらに四十余年の月日を重ねた現在、敗戦を「終戦」、占領を「駐留」とすり替え、あったことをなかったことにせんとするばかりの糊塗、権力への忖度、萎縮、自己規制がまかり通っている。「歴史」に向きあることなしに過去が過去として精算されることはない。
 茨木さんは、「私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持ちで詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っておいう思いがいつもありましてね、信じられないかもしれませんが(笑)。それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある。それが間接的に人を励ますことになっているのかもしれません。とにかく私自身は強くはない。弱い人間です。」と自ら語るように決して強い人ではなかったと思う。だからこそ、自分自身を律することにおいて強靭であり、その姿勢が詩作するというエネルギーに源であっただろう。正しく生きるとは、「歴史」にきちんとした筋を通して生きることである。
 はたして戦後の日本は平和なのだろうか。「直接の銃撃戦」という意味において戦争の最前線には参加していないが、戦争そのものには「兵站」「後方支援」という形で積極的に関与している。そして、その結果、日本は数多くの国際戦争で間接的に他国の兵隊や民間人を殺している。「平和国家日本」は欺瞞であり虚構である。わたしたち日本人は両手を赤く血に染めているのである。現在も、戦中となんら変わることなく人を殺す社会であり国家である。ただその方法が巧妙で、直接的でなくなったというだけの話である。平和とは誰も殺さず、そして誰にも殺されない社会のことをいうはずだ。
 茨木さんの走り続けた戦後は決して終わっていない。わたしたちが、そのバトンを受け継がなくてはならない。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

と、自分に言い聞かせて………。

参考文献
「茨木のり子 女性にとっての敗戦と占領」 成田龍一 〈『ひとびとの精神史』〉 (岩波書店)
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治 (中央公論新社)

(2018年8月27日)

最後の放浪(されく)詩人 高木護

子どものころ森に入ると、風にも、川にも、木にも、草にも、魚にも、声があった。
自然こそが最高の教師だった。

「童謡」  高木護

海を買いにゆく
がったんごっとん
むかしの少年は
むかしの唄を
口笛にのせて
いそいそ
青い海を買いにゆく
ここらには
涙を溜めた貝がいて
ここらには
法螺吹き魚がいたそうな
恋をして
あの、あの
そっと指切りして
たったそれだけ
忘れられない人は
海の瞳

「こんな詩は、いまの時代になかなか生まれなくなった。それほそ人間は知らず知らず詩を生み出せぬような、乾いた世界にとりかこまれて、心の荒廃限りもないということだろうか。それを排除して、高木さんは生きている」と評したのは永畑道子だ。
 高木さんは昭和二年に熊本県山鹿市に生まれたが、生まれつき体が弱く、戦時中は軍属としてシンガポールへ送られときにマラリアに罹ってしまった。奇跡的に一命を取り留めたものの、復員してからマラリアの後遺症に悩まされながら、残された五人の兄弟姉妹を食べさせるために仕事を探した。しかし、どこの会社の面接を受けても採用されなかった。それならばせめて自分尾食い扶持くらいは減らそうと、自然の山道を孤独に歩きだした。脳裏には自然の中での「野垂れ死」という言葉を描き、宗不早のような行く着く先での自然死を心のどこかでは願っていた。高木さんのいう「野垂れ死」とは、人が何かに失敗して死んでいくのではなく、生きていくうえで垢のように身につけてしまってきた物を捨てて生まれたままになって死んでゆくことであり、いかにして裸の自分になるかという努力することだという。

「返す」  高木護

むずかしいことは判らない
この世にうまれてきた理由も
判らない
なぜ、といわれても判らない
すみません
あなたに骨を返します。

 辛いことばかりが続くと、「なんのためにこの世に生まれてきたのか」「何故生きているのか」「これからどうすればいいのかわからない」と、人生を深く考えやすくなる。
 高木さんは、逃げているわけでもなく、居直っているわけでもなく、まるで子どものように「判らない」という。そして、「人間は自然の一部であり自然に生かされているといる」、「ここまで生かしてもらったことにともて感謝している」ともいう。
 高木さんの心の中には今でも森があり、川が流れ、雲が流れ、緑の木が揺れていて自然と一体なのだ。欲望を捨てて「無」になれるから自然の声が聞こえるのだろう。歩いて「無」になることが大切である。「無」とは生と死が同じであり、等価である。生は死へつらなり、死があるからこそ生が生まれる。その無限に巨大な「無」、あるいは自然を高木さんは表現しつづけてきた。
 だから、高木さんは急がない。求めない。ぶらぶらとただ歩く。自分をたのしませることによって、人をたのしくさせるのだ。

「夕御飯です」  高木護

灯りがゆれると 私の胸に想いがいる
想いを 箸でつゝくと
お前らの瞳の中に
遠い湖があり
青い魚が跳ねている

呼ぼうよ 遠い日を
こゝには 父が坐っていたね
そこには 母が坐っていたね
いまその暗い影に
私が 坐り
お前らが 坐っているね
時に流れ
それは 哀しみのぎつしり
敷詰められた小径だった

「足こそは私の思想であり、私の哲学である」と語る高木さんは、「足は、歩くだけにあるのではなく、歩くおれらの心の道をみつけるにもある」、「人間は他の生き者たちの心と比べたら、使い方によっては大きくもなるし、小さくもなるし、豊かにもなるし、乏しくにもなるし、広くもなるし、狭くもなるし、善くもなるし、悪くもなるし、楽にもなるし、苦しくもなるし、明るくもなるし、暗くもなるし、しあわせにもなるし、ふしあわせにもなる」という。
 「歩く」とは自分の心の道を探すことである。ただ、足で歩くだけではせいぜい歩いたというだけの自己満足しか得られないが、自分の心の道を探し出して歩いたら、よい人間になる修業になるのである。

 高木さんの「足の思想」は、老子の思想と通じるものがある。老子のいう「道」とは普段歩くために使う道路のことではなく、人間社会からはるか宇宙に至るまでの根本的な原理であり、人間が生きる上で手本とするべき最高の理想、すなわち道徳のことだ。その「道」からあらゆるものが生まれてくると老子はいう。また「道」とは本来、言葉にできるものではなく「名無し」の状態を指し、なにもない天地の始まりのようなものであるそうだ。そこから万物が生まれることで、はじめて「名有り」の状態になり、無から有が生まれるという構図ができるという。その後に、「道」に内在している「徳」の働きが、万物を養い育てるという。

石牟礼道子さんへ① 「還る」

 大寒に降った雪がすっかり溶けて、もうすぐ小さな命たちが芽吹こうとしている二月十日、石牟礼道子さんが亡くなった。
 森羅万象、何かが始まるということは、何かが終わることでもある。
 人間が、動物が、鳥が、虫が、植物が、そして魂石が泣いている。
 魂石とは、石牟礼さんが中心となって、水俣病の患者さんたちの「自分たちは死なんぞ。死なんのじゃと。死ねないのではなく、死なんぞ」との想いをこの世に伝えたいと、自分たちでつくった野仏のことである。

 石牟礼さんの最後の声を聴いたのは、『アナザーストリーズ』というテレビ番組みの中だった。亡くなる数ヶ月前のことだ。
 石牟礼さんはインタビューに答えて、「人類だけでなくて 行きているもの全て草木を含めて 人間は思い上がってはいけないと思いました」と語った。
 それ以来、この言葉は自分のこころの一番大事なトコロに突き刺さっている。そして、謙虚に丁寧に人生を生きなければならいと改めて感じた。
 石牟礼さんは、亡くなるその日まで水俣病の患者さんに寄りそった。「石牟礼さん、どうしてあなたはそれほどまでに強くて優しいのですか?」と自問しながら、「自分が何をしなければいけないか?」と自答している。

 石牟礼さんは『苦海浄土』を出版し、水俣病問題、チッソの告発のジャンヌ・ダルクとして社会的に有名になった。石牟礼さんの肩書きにルポルタージュ作家と銘うたれる場合も多く、純粋な文学者、詩人というより水俣病患者の代弁者、あるいは公害や環境破壊の告発者といった世間の評価が強いかもしれない。
 しかし、石牟礼文学とは大地に立つ自分をとりまく家族や交友の絆、建物や町並、そして吹く風、香る花々、とりわけ樹木たち、遠くに望む山脈、空にきらめく星々、そのような森羅万象の世界を、私たちは自分の生きる世界と感受し、森羅万象の世界に戻るのではなく、森羅万象の世界から乖離する自分の意識が生む孤独感を、近代と遭遇するこちによってあてどない魂の流浪に旅立った間近代の民の嘆きと重ね合わせたのが石牟礼さんの文学である。

 水俣地方に「もだえ神」という言葉がある。
 他人のことなのに、自分のことのように身をもんで嘆き苦しむことをいうらしい。
 人間と人間は媒介するものがないとつながらない。自分をとりまいている山や川や空や小さい命たち、そういった森羅万象の畏敬の念を持ち、それに媒介されて、人間の畏敬の念が生まれるのである。
 石牟礼さんは、あくなき企業の利潤追求、人間の欲望により森羅万象の世界が壊されていくことに絶望したのか三度の自殺未遂をしている。小さな命にも共鳴した石牟礼さんにとって、水俣病の患者さんたちに寄りそったことは必然のことだし、絶対の孤独を水俣病の患者さんたちの孤独と重ね合わせることで、一日一日を生きていたのかもしれない。

「花を奉る」  石牟礼道子

春風萠(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏(くら)し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに 何に誘(いざな)わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世なる仄明りを 花その懐に抱けリ
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾(つぼみ)のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日(こんにち)の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいづるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然(しか)して空しとは云わず
現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す

辻潤という意味とは何だ!

多くの者が辻潤という底なし沼にハマるという。
辻潤という意味とは何だ!
近代社会は金太郎飴のように、どこを切っても同じようなものだ。
政治は無策で腐敗し、企業は資本を独占し庶民との格差は広がる。
社会は閉塞し不安は広がり、誰もが救世主を待望する。
若者たちは煩悶し、弱者は切り捨てられる。
変革を求めた革命家は権力に圧殺される。
権力は暴力だ。ならば、革命も正義も権力なのか。
幸徳秋水、大杉栄、和田久太郎、金子文子が好きだ。
自由と平等、弱者の味方だからだ。
石川啄木、種田山頭火、尾崎放哉、金子光晴が好きだ。
自由と放浪、自ら死ななかったからだ。
中原中也、野村吉哉、陀田勘助、ドン・ザッキーが好きだ。
自由とダダ、時代を笑ったからだ。
辻潤という意味とは何だ!
貧しい社会を変えるのではなく、貧しい社会に変えられないために。
奥歯が潰れるまで絶望し、底を掘り進め。
そして、ホレーショを超えて行け。
自由を生きろ! 自分を生きろ! 絶対死ぬな!
辻潤という意味とは何だ!
さあ、辻潤という底なし沼の探検に出発だ!

 「タンカ」 辻潤
 雲を喰らい、霞を呑むんでいるとでも
 大方思っていやがるだろう
 ゴミのような雑誌に
 ロハで原稿を書かせやがって
 往復ハガキさえよこせば
 キット返事をよこすものだと
 思っていやがる ヒョットコメ!!

 おれは毎日水をガブガブと呑んで
 その辺の野原から雑草をひきぬいて
 ナマでムシャムシャ食っているのだが
 ——別段クタバリもしない
 一度や二度飯が食えないと
 もうふるえあがりやがって
 黄色いシナビタ声を張りあげやがって
 ナンダカンダと抜かしやがる
 スットコドッコイのトンチキ野郎の
 ヒョットコメ!!
 (以下一節略)

(2018年1月10日)

花の居場所 征矢泰子の詩

 コンクリートだらけの地べたのほんのわずかな砂地の隙間から、風か生き物が種を運んだのか、もともとその場所が花畑だったのか知らないけれど、居場所を見つけたかのように一本の小さな花が咲いていた。数日後、その花は誰かに摘まれたのか自ら消えたのか無くなっていた。
 宇宙が誕生しておよそ138億年。銀河が2兆個あり、そのうちの1つが私たちが存在する天の川銀河で、天の川銀河には惑星を持つ恒星系がおよそ1000億個。その一つの太陽系に地球がある。今から46億年前に地球が誕生し、600万年前にアフリカの森林で人類が誕生した。同じように誕生した花の美しさは奇跡的であり、人間が人間になったのは花の美しさに癒されてきおかげかもしれない。
 花の美しさとは儚い命を無防備に宇宙に向かって、自分を開いてただ「愛」を待っているからだろう同じ命である人間が美しく生きるとは「古代から永遠と繫いできたであろう小さな命たちと心を寄り添えられるか」ということだと思う。

その思い出は中空の時間の先端で
ようやくおもいきってさききろうとしている
みるたびにどきっとしていまうのは
花のうしろにまだあなたがいる証拠だ
いいからはやくしんそこまで花になっておしまい
(「アマリリス」征矢泰子 より)

 征矢泰子は花になろうとしてもなれない人間の苦しみを書きながら、もう人であることに耐えきれず花になれと自分に叫び、1992年11月28日の夜に手首を切って自殺した。
 友人の新川和江は、「ここ1、2年の征矢の詩にはほとんど各行の末尾に句点が打たれ、それが強く気になっていた」と回想し、「しきりに句点をうちながら、征矢泰子は、とめどなく流出し落下しようとするものを、必死でせき止めようとしたのではないか。あらゆる問題をこえて、征矢自身の生命の中で、おびただしい流出と落下がはじまったのではないか」と、死に向かう征矢の痛ましいさに触れたと語る。

さがされて、いたい。
うまれて、しまった以上。
いやされるなどのぞむべくもなく。
せめてただ、だれかに
さがされていたい。
うみおとされたときからささっていた。
ささやかなめいめいの死の棘。  
(中略)
さがされていたいとそんなにも執拗にねがいながら。
さがすものでしかありようもないひとたちがさまよう。
皓々とあかるい故里の春の夜。
めいめいの死の棘がじりじりとのびていく。
(「死の棘」征矢泰子 より)

「わたしは人と花のあいだをゆれうごきながら、そのどちら側にも落ちつけない自分のもどかしさを詩というかたちでかきつづけてきたような気がする」と語っていた征矢泰子を想うとき、美しさとは孤独や儚さを内包するものであるからには死を悲しむよりも、どんなに小さな命の傷さえも自分の命の傷として寄り添った妥協の無い誠実で美しい征矢泰子の詩を心にきざめばよい。
 人生は地球が瞬きするくらいにあまりにも短いが、だからこそ美しいものだけを見て生きていきたい。
 いつか地球も消えて無くなる日がやってくる。その日まで花の居場所があれば人間は人間として生きていけるだろう。

いちばんうつくしいのはこわれたものたち。
廃船・廃屋・廃園・廃校・廃村・エトセトラエトセトラ。
こわれたものはもういつまでもうつくしいこわれたために。
つくられて・つかわれて・つかわれつかわれてクライマックス。
それからすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつわすれられて。
しずかにゆっくりとこわれていったもののなかにだけ
つかうことで生きていた日々の記憶はのこっている。
死んでしまうと生きていた日々の記憶はのこっている。
(中略)
死んでしまうと生きていたことはちらばっていく。
くうきにはじまりみずにとけやがて大地や海にかえる。
でもいちばんすきなのはこわれたものたち。
宇宙(そら)いっぱいにとびたっていくまえの一刻(いっとき)生きていたことは
こわれたものたちのかげでそっとやすんでいる。
いつもいちばんうつくしくてやさしいのはこわれたものだから。
生きているのにまるで死んでしまいたいときは
こわれたものたちのところへいきたい。
そしてまっぴるまどうどうとゆめ みたい。
ゆめのなかからだけかえってこれる
うつつへのみちも あるはず だから。
(「生き死にのうた」征矢泰子 より)

(2017年12月20日)

辻征夫の「まつおかさんの家」を読む

【まつおかさんの家】 辻征夫

ランドセルしょった
六歳のぼく
学校へ行くとき
いつもまつおかさんちの前で
泣きたくなった
うちから 四軒さきの
小さな小さな家だったが
いつも そこから
ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで
学校へは行ったのだが

ランドセルしょった
六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって
学校へ行くのを
窓から見ていた
ぼくは中学生だった
弟は
うつむいてのろのろ
歩いていたが
いきなり 大声で
泣き出した
まつおかさんちの前だった

ときどき
未知の場所へ
行こうとするとき
いまでも ぼくに
まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが
いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって
かまわないのだが
叫んだって いっこうに
かまわないのだがと
かんがえながら 黙って
とおりすぎる


 人は不安に襲われるとき、その気分のなかに「死」を感じ取っている。
 『不安と存在』のなかで、ハイデガーは「自分もいつかは必ず死ぬことを自覚したとき、本来の生き方に立ち戻ることができる」と言う。
 自由を求めるとは不安の中に身をおき葛藤することでもある。不安は自己への反省意識のなかでしか生まれず、自己の弱さを自覚して克服することによって自由を手に入れるものだ。
 しかし、正しい判断だと思った行動でも、うまくいかない場合もある。自分が納得して決めた行動であれば、不安の意味も理解できてるし、自由の意識が維持されているので決して後悔することはない。
 二十歳代は外国を放浪し、三十歳でフリーランスの道を選んだ。「まつおかさんの家」は今でも弱い自分を越えるために存在している。

(2017年11月16日)