眠れない。夜をあきらめて佐藤泰志を読む。
若いころは与えるものがないから夢だけを語っていた。
孤独と迷いの中で、暗闇のなかでも手探りで進めたが、夢を見失うことのほうが怖かった。
佐藤泰志の小説を読むと、眠れなかったいくつもの夜を思いだす。
佐藤泰志の小説は、いつも時代社会的に弱い立場の人間に共感し、弱者へのいたわりがある。見せかけではなく本物の優しさや思いやりがあり、それはあらゆる権威や権力から遠く離れた貧しく地味な庶民のひたむきな人生にこそ、真実の姿あると考えていたからだろう。佐藤泰志の小説は、登場人物に寄り添える数少ない小説だ。
本来生きるとは本来切実な作業だ。詩人の福間健二は佐藤泰志とのこんな出来ごとを記している。
あるシナリオコンクールに応募しようとしていた。その脚本のクライマックスに佐藤泰志の「犬」のラスト、釘をうちつけた角材と「中野にはな、犬がいっぱいなんだよ!」を使いたいと思った。それを使わせてほしい、できたら一緒に脚本を書いて賞金を山分けしようぜと彼に電話した。これが彼のカンにさわった。「おことわりします」「どうしてさ」「福間さんこそ、どうかしてるんじゃないですか。賞金目当てに脚本を書くなんて」「映画作りたいんだよ」というケンカになった。
その言い合いのなかで私は借金のことを口にしてしまった。私の人生でやった恥すべき最大の失敗はこれだとずっと思ってきた。「賞金が入れば、きみだってラクになるじゃないか」「ちがう、ちがう、そんなことやらないためにこうしているんだ。金がないから苦しいというのじゃない」彼のふるえているのが受話器から伝わってきた。
すぐに絶交状がきた。彼は、借りていたお金を分割で返しはじめ、結局、全額、返してもらった。現金封筒が届くたびに、私はつらい気持ちになった。返さなくていい、と言わなかった。そんなふうに人にお金を貸したことは滅多にない。返してもらったことは、これ以外はまったくない。
ともに三十になる手前のところで、あせっていたのかもしれない。
数年前テレビで格差社会の弱者を取り上げた番組で村上龍が「弱者を取り上げることはネガティブであり、景気が悪くなる」ようなことを言っていた。勝ち馬に乗るのも、自ら負け戦をするのもそれぞれの生き方であるので批判はしたくないが、だからこそ実直な生き方をしていた佐藤泰志に生きて小説を書き続けてほしかった。苦悩のただ中にいる者だけが、苦悩している人間の心情が理解できるはずだからだ。
佐藤泰志が死んで27年が経つ。今の時代は出来レースの中で競わされ、負けた者たちは排除される。生きていくので精一杯で、夢や幸せを語るのも困難な時代だ。あの頃のような夢を語れた時代に戻ることは出来ないし、佐藤泰志を生き返らせることも出来ない。
しかし、ほんの小さな夢やほんの小さな幸せでも人は生きていける。だれにでも、暗闇の中でさえ「そこのみて光輝く」場所はかならずあると信じている。
【僕は書きはじめるんだ】 佐藤泰志
もし僕に真実の悲しみが書けるなら
もう僕は夜道で酔っ払って乗れない自転車を乗ろうとしたり
笑えない冗談や
僕が考えている愛の姿や
コミュニケーションさと気のきいたことを口にした僕らのセックスなんかに
うつつを抜かしたりしないだろう
美しい声で泣く赤ん坊が
生きているのはあんたばかりじゃないわ
といっている部屋で
そうだよ 僕は彼女のことを思っているさ
だからそれがどうなんだって
いう奴らがいたら
道端に吸いかけの煙草を捨てて
「そうだね」と静かな声で答えてやる
ありもしなかった革命だとか
生きたふりをしただけの時代だとかについて
夜っぴいて語りあかす時間があったら
赤ん坊の泣き声に僕は耳を傾けて
黙って彼女のことを思うだろう
それから赤ん坊が寝静まるのを待って
僕の言葉で書きはじめるんだ
世界について愛について樹木について光について
僕は書きはじめるんだ
彼女の振ったてのひらについて
【誰が悲しいだなんていった】 佐藤泰志
誰が悲しいだなんていった
馬券を踏み散らす男たちを眺めながら
清潔な店で古い女友達と新しい女友達と
映画を見たあとでちょっとビールを飲んだ
それから街路樹の陰に生えていたビワの木から
三個の実を盗んで歩きながらむしゃむしゃ食べ
磨きあげた兎の眼のようなタネを吐き散らし
まるで僕らは世の中のすべてを相手にして
戦っているんだ 三角関係を武器しにて
とでもいいたいぐらい陽気に歩いている
そんな陽気な日曜日なんて嘘だと
いっていいのは世界中でたったひとりしかいないと
知っているか
おい 誰が悲しいだなんていった
僕のひとりの子供 僕のふたりの子供 僕の無数の子供の前で
これっぽっちも心をあかしたりなんかしない
だから今日は素晴らしいお天気で
その前に本当の喧嘩をすると
トウフ屋の角で誓った
そうして僕は今だに
自分を責めることもできない
(佐藤泰志作品集より)
(2017年11月2日)