花の居場所 征矢泰子の詩

 コンクリートだらけの地べたのほんのわずかな砂地の隙間から、風か生き物が種を運んだのか、もともとその場所が花畑だったのか知らないけれど、居場所を見つけたかのように一本の小さな花が咲いていた。数日後、その花は誰かに摘まれたのか自ら消えたのか無くなっていた。
 宇宙が誕生しておよそ138億年。銀河が2兆個あり、そのうちの1つが私たちが存在する天の川銀河で、天の川銀河には惑星を持つ恒星系がおよそ1000億個。その一つの太陽系に地球がある。今から46億年前に地球が誕生し、600万年前にアフリカの森林で人類が誕生した。同じように誕生した花の美しさは奇跡的であり、人間が人間になったのは花の美しさに癒されてきおかげかもしれない。
 花の美しさとは儚い命を無防備に宇宙に向かって、自分を開いてただ「愛」を待っているからだろう同じ命である人間が美しく生きるとは「古代から永遠と繫いできたであろう小さな命たちと心を寄り添えられるか」ということだと思う。

その思い出は中空の時間の先端で
ようやくおもいきってさききろうとしている
みるたびにどきっとしていまうのは
花のうしろにまだあなたがいる証拠だ
いいからはやくしんそこまで花になっておしまい
(「アマリリス」征矢泰子 より)

 征矢泰子は花になろうとしてもなれない人間の苦しみを書きながら、もう人であることに耐えきれず花になれと自分に叫び、1992年11月28日の夜に手首を切って自殺した。
 友人の新川和江は、「ここ1、2年の征矢の詩にはほとんど各行の末尾に句点が打たれ、それが強く気になっていた」と回想し、「しきりに句点をうちながら、征矢泰子は、とめどなく流出し落下しようとするものを、必死でせき止めようとしたのではないか。あらゆる問題をこえて、征矢自身の生命の中で、おびただしい流出と落下がはじまったのではないか」と、死に向かう征矢の痛ましいさに触れたと語る。

さがされて、いたい。
うまれて、しまった以上。
いやされるなどのぞむべくもなく。
せめてただ、だれかに
さがされていたい。
うみおとされたときからささっていた。
ささやかなめいめいの死の棘。  
(中略)
さがされていたいとそんなにも執拗にねがいながら。
さがすものでしかありようもないひとたちがさまよう。
皓々とあかるい故里の春の夜。
めいめいの死の棘がじりじりとのびていく。
(「死の棘」征矢泰子 より)

「わたしは人と花のあいだをゆれうごきながら、そのどちら側にも落ちつけない自分のもどかしさを詩というかたちでかきつづけてきたような気がする」と語っていた征矢泰子を想うとき、美しさとは孤独や儚さを内包するものであるからには死を悲しむよりも、どんなに小さな命の傷さえも自分の命の傷として寄り添った妥協の無い誠実で美しい征矢泰子の詩を心にきざめばよい。
 人生は地球が瞬きするくらいにあまりにも短いが、だからこそ美しいものだけを見て生きていきたい。
 いつか地球も消えて無くなる日がやってくる。その日まで花の居場所があれば人間は人間として生きていけるだろう。

いちばんうつくしいのはこわれたものたち。
廃船・廃屋・廃園・廃校・廃村・エトセトラエトセトラ。
こわれたものはもういつまでもうつくしいこわれたために。
つくられて・つかわれて・つかわれつかわれてクライマックス。
それからすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつわすれられて。
しずかにゆっくりとこわれていったもののなかにだけ
つかうことで生きていた日々の記憶はのこっている。
死んでしまうと生きていた日々の記憶はのこっている。
(中略)
死んでしまうと生きていたことはちらばっていく。
くうきにはじまりみずにとけやがて大地や海にかえる。
でもいちばんすきなのはこわれたものたち。
宇宙(そら)いっぱいにとびたっていくまえの一刻(いっとき)生きていたことは
こわれたものたちのかげでそっとやすんでいる。
いつもいちばんうつくしくてやさしいのはこわれたものだから。
生きているのにまるで死んでしまいたいときは
こわれたものたちのところへいきたい。
そしてまっぴるまどうどうとゆめ みたい。
ゆめのなかからだけかえってこれる
うつつへのみちも あるはず だから。
(「生き死にのうた」征矢泰子 より)

(2017年12月20日)

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