「炎える母」 宗左近
走っている
火の海の中に炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないからはしっている
わたしが
走っているから走りやまないでいる
走っている
とまっていられないから走っている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
焼きながら
燃やしながら
走っている走っている
走っているものを追いぬいて
走っているものを突きぬけて
走っているものが走っている
走っている
走って
いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って
走って
走って
いるものが
走っていない
いない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが
いない
母よ
いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない
母よ
走っている
わたし
母よ
走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることが
できない
ずるずるずるずる
ずるずるずる
ずりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか
走っている
あれは
なにものなのか
なにものの掌の中のなにものなのか
走っている
ふりむいている
走っている
ふりむいている
走っている
たたらをふんでいる
赤い鉄板の上で跳ねている
跳ねながらうしろをふりかえっている
母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる
わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
跳ねている走っている
走っている跳ねている
一本道の炎の上
母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている
炎の一本道
走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
炎えている一本道
母よ
1945年5月25日の山の手大空襲は、大量の焼夷弾が降り注ぎ3600人余りが亡くなった。
宗左近は疎開先の福島から一時上京していた母を送るため、上野に向かっていたところで空襲に遭った。2人は手をつなぎ火を避けながら逃げ惑い、なんとか四谷の仮住まいに戻るものの、そこも炎に包まれてしまった。宗と母は、燃えさかる「炎の一本道」を抜けようとしますが母は転び、その手が離れてしまい母を置き去りにし、そして生き延びた。
宗は炎の中で倒れた母をなぜ救いに行かなかったのか、母を見殺しにして自分はなぜ生きていかれるのかと自分を責め、
それから23年後、ようやく母への墓碑「炎える母」という長編詩を書くことが出来たのである。
そして、書くことによってあがない続けた。「ぼくの生きてゆくことの中心は、書くことです。ぼくの書く力は母からのらっているにであって、書けばそこに母がふたたびよみがえってきて、ときにぼくを叱ったりしてくれるからなのです。」と語った宗は2006年6月20日、50冊に及ぶ詩集、100冊を越える著書を残し母のもとへ旅立った。
(2017年8月7日)