日別アーカイブ: 2022年6月16日

戦争する国になりたくない! 多喜二の時代

近代国家は、自由と平等を手に入れたのではないのか。
何故、人間同士の殺し合いを続けなければならないのか。

国家権力は戦時中、国民から自由を奪い国民を戦地に送り殺人を強要させた。
原発事故では国民を放射能被爆させ続け、人質事件では個人の正義を自己責任と切り捨てた。
格差社会は右傾化し、反権力者を排除し、金融危機・経済不安が人間のこころを荒廃させ、若い世代からも「戦争待望論」が飛び交い始め、着実に戦争のできる国家体制が整いだしている。
そんな時代の中で、小林多喜二の『蟹工船』が爆発的に読まれている。
戦前の日本人は絶対天皇制の軍国主義であり、労働者や農民は搾取され、平和を口にしただけでも拷問され命を奪われた。
そのな暗黒時代に小林多喜二も戦争反対、主権在民を主張し、労働者や農民の為に戦い虐殺された。

【秋の夜の星】(小林多喜二)
輝く星! 見なさい。
 青い水底の静寂の中で。
仰げ。瞬く鈴蘭、
 おお、無限大の宇宙の。

おお輝く星! 瞑想なさい。
 不言うの神秘!……奥深いまたゝき。
―冷たい秋の夜、独りたゝずむ。
 仰ぐ、おゝ、遠い星。
 聞きなさい、心の耳を傾けて。
 幽玄な星の囁き―神秘な。
青白い沈黙。ゾッとする冷気の厳粛。
 おゝ、超自然!!

【ある時のわれ】(小林多喜二)
わがあゆむ歩の
さくさくと
なるが悲しも
砂漠の荒野。

つトとどまり
みつむれど
澄める大空に
つきも、星も
―我が胸を
おしいだく
なにもなし。

またあゆむ
ちからなく
サクサクと
なるが悲しも
恋う女のなければ。

ゆけど、歩めど
……ただ
長くひける影
おお、こは、
わが淋しき
恋うべき女か?

小林多喜二が虐殺された前年の1932年、日本は軍国主義化を加速し、植民地支配の激しさを増す中、19歳の槇村浩は反戦詩『間島パルチザンの歌』を発表した。
槇村浩は1912年に高知市に生まれた。幼児から神童と言われ、中学入学後15歳でマルクス主義を学び、17歳で軍事教育反対の闘争を組織し、19歳でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、また高知市の共産生年同盟に加わり、その指導者として軍隊内に反戦活動を展開した。1932年に検挙され1935年の出獄したが、獄中での拷問、虐待による病をえて、ついに終生治らなかった。しかし貧困のなかに母のたすけをうけ、執筆活動をつづけた。
1936年再び検挙、重症のため一ヶ月で仮釈放されたが、1938年病院で死んだ。
「間島パルチザンの歌」は当時日本にも伝えられた朝鮮人民の英雄的な反帝闘争を歌いあげている。

【間島パルチザンの歌】(槇村浩)
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪溶けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか
雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
目暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ
(以下省略)

日韓併合以降、朝鮮半島では学者や学生が中心になって独立運動が活発化した。
小林多喜二や槇村浩は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え朝鮮人民の独立闘争を支持した。
朝鮮半島に生まれた尹東柱 は1942年に日本の大学に留学し、1944年にハングルで詩を書いたというたったそれだけの理由で逮捕され、1945年に27歳で獄死した。
尹東柱の死は人体実験として薬物を何回かにわたって注射された理由ともいわれている。
その根拠は絶命する時に、”母国語で何か叫んだ”何か叫んだという証言があるからだ。

【序詩】(尹東柱) 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳)

暗闇ほど光は輝くものだ。
「序詩」は人の生が担っている重み、その生がかかえている真実の重みが、このように清潔かつ深みがあり、その崇高な精神、平和を愛する心は暗闇に光として輝いている。
今なお社会をみわたせば、「人権、イジメ、ひきこもり、殺人、自殺…」と病んでいる。
『蟹工船』はまだまだ航海し続けているのだ。
墓を掘り起こす愚挙を冒してまでも、彼らが残した声に耳を傾け、自由と平和について考えなければならない。
『蟹工船』が安住の地にたどりつくために…

(2017年8月4日)

「潮じまい」 鈴木文子の詩

その若い漁師は年に3~4回、ホームレス支援のために、
千葉勝浦から東京上野まで自分でトラックを駆り、
毎回トロ箱30箱以上のサバやイワシをボランティアで届けていたそうだ。
「お金や米でなくて申し訳ないが、この魚を役立ててほしい」と言って。
苦しい暮らしを強いられているホームレスの人たちや、
ボランティアの人たちからは「哲」、「魚のあんちゃん」と慕われていた。
そして、「もっと大きな船を買うのが夢だ」と話していたという。
2008年2月19日、その若い漁師と父親が乗った漁船は、
イージス艦と衝突して夢とともに海の底に沈んだ。

同県の詩人、鈴木文子さんはこんな詩を綴っている。
(詩集『電車道』より)

【浦じまい】
朝はいつものようにやってきた
いつものように 家族が無事を
いつものように 父子は大漁を交し
玄関を出た
ピリッ。肌を刺す二月の寒気
午前一時 七艘の仲間と出港した
風もない 海はまだ夢の中だ
……。
船団はまぐろはえ縄の魚場八丈島の沖へ向う
エンジンは快調だった

うわっ!
衝突したのは未明
海上自衛隊イージス艦「あたご」
全長一六五m 重量七七五〇トン
撃沈された「清徳丸」
全長一二m 重量はあたごの千分の一
吉清治夫さん五八歳 長男哲大さん二三歳
海よ 風よ 二人は何処にいるのか
真っ二つに砕かれた父子船
うつ伏せで ぷかぷか ぷかぷか

親潮と黒潮のぶつかる房総沖
世界でも貴重な魚場(りょうば)にイージス
〈おまえ等 通してやるから邪魔するな〉
〈……。〉

危ないっ! 取り舵(左折)
何時ものように直感で巨大怪物から逃れる漁船

川津港に響く祈りの太鼓(たいこ)
帰ってこい帰ってこい かえってこーい
吠えているのか 狂ったのか 海
漁師は時化(しけ)に立ち向かい
二日 三日 四日 手ががかりなし
雨 みぞれ 雪 めちゃくちゃに降る
七日 これ以上皆に迷惑は……。
親族の願いで打ち切られた捜索
「浦じまい」

波間に散らした酒は父子の身体を温めたか
投げ込んだリンゴやバナナで
二人の腹は満たされたと思ったか
いいや「浦じまい」は漁村の習わし
漁師仲間の血の通った捜索はこれからだ
海底一八〇〇メートルに赤旗が立った
「清徳丸」の文字が深海に泡立つ
テレビ画面を突き抜け呼吸している
父子は生きているのだ
(海底に赤旗が立った二〇〇八年三月二日にーー)

【川津漁港にて】
新勝浦漁業協同組合川津支部
漁協前でタクシーを降りると
玄関先に取材中のカメラがあった
父子は行方不明のまま一箇月

漁協の左手 生コンを流しただけの階段
港への近道らしい
地元民の専用なのだろう両脇は不燃ごみ
痛いっ!
むきだしの砂利(カケラ)が土踏まずに当った
厳冬のあの朝一時
父子はなじんだこの石段を降り
清徳丸に向ったに違いない

小さな漁港だ 人の気配はない
防波堤が温もっているのだろう
ウミネコたちが無防備な格好で羽繕いだ
波まかせの停泊船がずらっと並んでいる
一瞬
TVの映像が生き返った
金平丸
目の前でひらめく 三角の赤旗は
あの朝 吉清父子と一緒出漁した僚船だ
船長が自衛隊に怒りをぶっつけていた漁港は
この港 岸壁なのだ

午後三時
店らしいガラス戸を覗き
〈パンはありますか?〉
〈パンは売ってません!〉
〈この辺りに食堂はありませんよ!〉
棚にはインスタントラーメン ポテトチップ
……一食くらい抜いても死にはしないか
「海は生産の場であり 生活の基ばんです」
看板をメモしていると軽トラックは止まった
老人が〈国から 金で出たんか?〉
さぁ……。

イージス艦「あたご」建造費約一四〇〇億円
命 親子の命はいくらに換算されるのか
あちこちで額を寄せ合う漁民たち
ひそひそが小さな漁村を駆け巡っているのだろう
イージス艦一四〇〇億円
太平洋から吹き上げてくる
逃げ すりかえ 隠ぺい 開き直り
そんな国の言い訳は二の次でいい
不漁続きの漁村にとって今日のおまんまが先なのだ

水深一〇m毎に一kの水圧がかかると聞く
吉清父子は未だ海底一八〇〇mなのか
親子にのしかかっている一八〇kは
イージス艦 国の水圧

2011年5月11日、この衝突事故でイージス艦側に無罪の判決が出たが、
海に投げだされた二人を捜索もせずに、見殺しにした責任は重いだろう。

「日刊ゲンダイ」によると、事故当時イージス艦の乗員たちは酒盛りをしていたという。
酒盛りの痕跡を消すために、怪我をした隊員を運ぶという理由でヘリを飛ばし、
缶ビールなどのゴミを運んでいたという。

鈴木文子
1941年  千葉県野田市に生まれる。
1977年 『鈴木文子詩集』(オリジン出版センター)
1983年 『おんなの本』(オリジン出版センター)
1991年 『女にさよなら』(オリジン出版センター)
第20回壷井繁治賞受賞
1998年 『鳳仙花』(詩人会議出版)
2005年 『夢』(詩人会議出版)
2008年 『電車道』(詩人会議出版)

(2017年8月3日)

辻征夫の「突然の別れの日に」を読む

【突然の別れの日に】 辻征夫

知らない子が
うちにきて
玄関にたっている
ははが出てきて
いまごろまでどこで遊んでいたのかと
叱っている
おかあさん
その子はぼくじゃないんだよ
ぼくはここだよといいたいけれど
こういうときは
声が出ないものなんだ
その子は
ははといっしょに奥へ行く
宿題は?
手を洗いなさい!
ごはんまだ?
いろんなことばが
いちどきにきこえる

ああ今日がその日だなんて
知らなかった
ぼくはもう
このうちを出て
思い出がみんな消えるとおい場所まで
歩いて行かなくちゃならない
そうしてある日
別の子供になって
どこかよそのうちの玄関にたっているんだ
あの子みたいに
ただいまって

 辻征夫自身の解説によれば、「突然の別れの日に」は子どもが成長して全く別の人格に変わったように感じられることがあり、その瞬間を捉えたものだという。
 優しい「ママ」からうるさい「おかあさん」に変わった時が思春期のはじまりだ。
 思春期は大きく「変化」する時期で、それまでの幼児期が終わるということで「終わる」ということは、失うことであり「死」を体験することになる。自我に目覚め世界が広がり楽しいことが増えると同時に、深い悲しみと孤独を味わう。そのため空想の世界を作り、そおっと不安を逃がしてやるように、こころのバランスを求めるようとする。
 この頃は親と気持ちが通じず「自分はこの親のほんとうの子どもではないのではないか」と感じたり、「自分このとをすべて受け入れてくれる本当の親がきっとどこかにいるはずだ」と信じていたほどだ・・・
 思春期の成長とは、いくつもの「生(現実)」と「死(空想)」の折り合いをつけて大人になっていくことである。そして、大人になった今も思春期時代のことは鮮やかに残り、忘れることはない。何かつらいことがあった時、あの頃の自分を思い出して「がんばれ! がんばれ!」と自分で自分をはげましている。
(参考文献:『好きなのにはワケがある』岩宮恵子)

(2017年8月2日)

辻征夫の「かぜのひきかた」を読む

寒い夜は膝をかかえて朝が来るのを待っている。
こころに風邪が引っぱり出される時はいつもこんな感じだ。

S.フロイトの言葉に『mourning work(喪の仕事)』というものがある。
mourning workとは、強い悲しみや寂しさ、絶望感、孤独感、抑うつなどは『自己表象に対する愛着』によって自他の同一化が進んでいるからであり、対象を失ってしまうことが自分の身体・精神の一部を失ってしまうことのように感じられるからである。失われた対象に対する執着・愛着が残っている限りは、人は悲しみと寂しさ、孤独感で苦しみ続けるが、自分の感じている悲しみ・苦しみと正面から向き合って、その悲しみを表現して思い切り涙を流したり、自分の気持ちに区切りをつけられることによって、傷ついた心を整理していくことができるという。

mourning workは辻征夫の詩に寄り添っている。
風邪薬より良く効くのだ。

【かぜのひきかた】 辻征夫

こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて

びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている

こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから

ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる

それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく

かぜです

つぶやいてしまう

すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい 
ひとのにくたいは
 
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである

(2017年8月1日)

自然との共生 宮沢賢治の教え

 日本人は古来から、自然は単なる物質的、物理的な物体ではなく命を宿し、魂を宿していると考えられてきた。風には風の命があり、水には水の命があり、火にも火の命があると。自然現象は命の営みだからこそ、恩恵を与えてくれる神として敬ってきた。
 時として襲いかかる自然災害も神々との関わりの中で捉え、信仰に基づくさまざまな叡智を生み出してきた。自然災害とは神々の怒り・祟りと考えられており、神は「地域を守護する神」であるとともに「祟り神」としての性格の両義的存在だった。
 例えば、河川が氾濫した後は豊作になり、津波が豊漁をもたらし、地滑りの地の米はうまい…。など、自然災害は豊かさと裏腹であり、津波や、崖崩れや暴風も神なのだ。
 東日本大震災のあの大津波でさえも神の業なのである。神が怒るときは、人間が対抗したり押さえこんだりすることは不可能で、なだめ、いなすことができるだけだ。
 大震災は、「自然はやさしい」とばかり考え、自然=神への畏れを忘れてきた私たちに大きな反省を迫っている。私たちは自然の中から生み出された命の一粒なのである。今、求められていることは「自然との共生」という思想であり、”自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性”を取り戻すことだ。 
 そこで、宮沢賢治の詩を読んでみよう。
    
【雲の信号】
あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
そのとき雲の信号は
もう青白い春の
禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる

【林と思想】
そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 賢治の創作の原点は、自然と人間の営みの中に「命の輝き」を見たことだ。賢治は野外を散策しながら、動物や植物・鉱物、風や雲や光、星や太陽といった森羅万象と語りあったり、交感しあったりした。賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえないと考えていた。
 私たちは、賢治のたくさんの作品群から、自然に対する近代の人間に傲慢さを知り「自然との共生」の精神を学びたい。
(参考文献:『神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる』鎌田東二)

(2017年7月31日)

火だるま槐多

結核に冒され死を間近に悟った村山槐多は、
雪まじりの雨が激しく降るある日、
房総の波打際の岩の上で喀血しながら酒をあおって死を待ったという。
「一生懸命生きて、一生懸命死んだ」これが槐多だ。

 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 耽美の風は濃く薄く
 われらが胸にせまるなり
 五月末日は赤く
 焦げてめぐれりなつかしく

 ああされば
 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 われらは武装を終へたれば。
 (四月短章)

槐多は「血染めのラッパ」を吹き鳴らして、芸術創造の道を進軍した。
天からあたえられた才能の赴くままに、詩を書き、絵を描いた。
槐多の青春時代は、幸徳秋水、管野スガたちが国家権力に殺され、
自由が弾圧された時代潮流の渦の中にあって、
たった一人で、孤独感をいだき、えいえいとして、
自身における自我の確立を目指した。
槐多は「血」のような真赤な絵の具「ガランス」を愛した。

 ためらふな、恥ぢるな
 まつすぐにゆけ
 汝のガランスのチューブをとつて
 汝のパレツトに直角に突き出し
 まつすぐに濡れ
 生(き)のみに活々と塗れ
 一本のガランスをつくせよ
 空もガランスに塗れ
 木もガランスに描け
 草もガランスにかけ
 魔羅をもガランスにて描き奉れ
 神をもガランスにて描き奉れ
 ためらふな、恥ぢるな  
 まつすぐにゆけ
 汝の貧乏を
 一本のガランスにて塗りかくせ
 (一本のガランス)

槐多にとって「赤」は「血」そのものであり、情熱の喚諭であった。
それほどまでに若くして、生命と、情熱の発散にこだわりつづけた。
その裏がわには、つめたい孤独の深淵、
内的な抑制が限りなくはたらいていた。
「赤」は同時に生命を焼結させ焼き尽くす炎の「赤」でもある。
そして槐多は二十二年と五ヶ月の短い人生を、
ほうき星のように一天の空間を駆け抜けた。

 木が風にふるへる
 死神の眼の様にくらい葉が
 ざわざわとゆらぐ
 絶えまなく葉は光る

 命がその度に輝く
 幽な紫に
 私の命が
 もどかしさうに哀しさうに
  
 空が木をみつめて居る
 絶えまなくふるへる木を
 それから私を  

 その空をふつと風が吹き消す
 私はまばたきする
 命は消えそうだ。
 (木と空に)

(参考文献:「血染めのラッパ吹きならせ」長谷川龍生『ユリイカ』)

(2017年7月30日)

石垣りんの生き方

 人間がが暮らしを営むには、水と火が不可欠だが、女の役目はいつもこの火と水の管理だった。前近代的な暮らしの中で、朝起きて重労働を担ってきたのは、いつも女たちだった。「かよわい女をたくましい男が守ってきた」と、いつの時代も男は思っていた。現実には、強い男が弱い女をいたわってきた例より、強い男が弱い女につけこんできたのである。
 石垣りんさんはフェミニストだ。
 しかし声高に叫ぶというのではなく、凛々しく立っている。「石垣りん」として生きてきた人だ。石垣りんさんは、14歳で日本興行銀行に就職し定年まで働き、亡くなるまで生涯独身だったのは、4歳でお母さんを亡くし、厳しい家庭環境で育った為だろう。
 第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は1959年、39歳の時の詩集だ。詩の題材は「生活」と「労働」で、仕事と家族を背負った彼女の戦いであり、女性の解放である。

【私の前にある鍋とお釜と燃える火と】
それは長い間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
却初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり

台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
 
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など 繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく、
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。

 第一詩集から9年後に、第二詩集『表札など』が世に出された。比喩のユーモアや、客観的に題材を見つめる余裕があり、世評も高く1969年度のH氏賞を受けた詩集で、詩人石垣りんが確率した瞬間だ。

【くらし】
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあるれる獣の涙。

 第三詩集『略歴』、第四詩集『やさしい言葉』と、生涯にたったの4冊しか詩集を出していないが多くの人に読み継がれるのは、戦い続けた石垣りんさんが「人間の生活の本質」を見抜いたからだろう。そして読者は、石垣りんさんの詩に自分たちの生き方を重ねることができた証だ。石垣りんさんは言う「私の詩を書く姿勢は、私の暮らし方の姿勢であり、文学への理想も、詩への目標も単独にはありえない、つづり方練習生にすぎまん」と…。
 石垣りんが立っている。
 凛々しく。

(2017年7月29日)

『母の碑』 きむらとおるの詩

 詩集『母の碑』とは、きむらとおる、きむらあさろう兄弟が母に捧げた詩集だ。
 「きむらとおる」とはペンネームで、詩のイメージに即した書体の創造、「書詩一体」をの境地を目指した反骨の書家・木村三山のことだ。
 
 【十字架】
 からっかぜのもと
 かかあ天下で 働きつづけ
 力尽き 挫けた 脚の
 膝頭をかすめて突っ走る装甲車
 尻を小突く 銃身
 頭蓋にめりこむ爆音
 灰かぐらの渦巻

 おっかあ!
 曲がれる限り曲がってしまった背に
 頣はしゃんとのっていようはなく
 白々と
 破れたかたびら 砂塵に舞う
 はるかな荒野
 かぎりない砲列という線のなかを
 ゆきくれている!

 ―おっかあ!
 おっかあ!
 頑なな前かがみは
 六十四年の苦闘への袂別?
 やむことのない爆音に遮られてか
 松葉杖ももたぬ隻脚で
 何処へ行こうというのです

 ―おっかあ
 右も左も
 立入禁止です
 胸板を風にぶちあててここまできた
 不肖の倅をもう一度だけふりかえって下さい!
 ああ
 目の前にいるおっかあなのに
 この手はいくらさしのべても とどかない
 この咽喉のさけるような叫びもきこえない
 ふるさとの「妙義」に
 喜びのむしろ旗 真紅の旗が
 ひるがえったのに

 おっかあ―
 ささくれ筋くれ立った十指を垂れ
 踵にざくろのようなひびをのこし
 落ち凹んだ眼窟に交錯した悲しみの溢れるまま
 いくらぐちってもぐちりすぎることのない糞働きの一生を
 いまはだれに訴えるすべもない真一文字の唇
 萎え貼りついてしまったその乳房にすがって生長したおれを
 もう一度も叱ってはくれない

 安らかに眠りようのないおっかあは
 おれの 十字架
 働く人間を田づくり細つくりを蔑みつづけ
 砲身に またこめようという
 世に生きるおれに
 動脈血のにじんだ
 その荒縄で
 おらがおっかあを
 十文字に背負わせてくれ!

 きむらとおるの母は木村センという。
 農民の子に生まれたセンさんは、働いて、働いて、ただひたすら無言で働いた。18歳で、同じ村の農家に嫁いでからも、「借金で傾きかけていた木村の家を立て直すべく、一心不乱に働く日が続くいた。
 六十歳を過ぎたある日、センさんは凍った地面に足を滑らせて、腰を打ち、動けぬようになった。大腿骨を骨折してしまったのだ。 
 その後のことだ。
「いかにも、不本意な表情で天井を眺め続けていた彼女は、ある日、手数をかけて体を起こしてコタツに向い、丸めた布団で体を支え……」
「…小学校入学を四月に控えた孫の相手をしながら文字の手習いを始めた。生涯、働きづめで、文章など書いたことがなかったセンさんはが生涯にたった一度だけ「文章」を書くためだった。

 四十五ねんのあいだわがままお
 ゆてすミませんでした
 みんなにだいじにしてもらて
 きのどくになりました
 じぶんのあしがすこしも いご
 かないので よくやく やに
 なりました ゆるして下さい
 おはかのあおきが やだ
 大きくなれば はたけの
 コサになり あたまにかぶサて
 うるさくてヤたから きてくれ
 一人できて
 一人でかいる
 しでのたび
 ハナのじょどに/
 まいる
 うれしさ
 ミナサン あとわ
 よロしくたのみます
 二月二日 二ジ

 「足が動かなくなって働けなくなったので、もう自分の役割はない。」と自宅で縊死した。享年64歳。
 この遺書は障子紙の切れっ端の両面に色鉛筆で綴られ、空の財布に小さく折りたたんで入れられていた。財布がなぜ空っぽだったかというと、少し前に、有り金をはいて末の息子の背広を新調したからだった。
 家族たちは、センさんを深く愛していた。四十五年もの長い間、センさんは働き続け、家族を養った。センさんの子どもたちは「もう、十分に働いたんだ。あとはゆっくり休みなさい」といっていた。誰も、センさんを邪魔者扱いはしなかった。それなのに、センさんは、ひとりで行ってしまったのだ。 センさんは遺書を書き残しておく事で家族が自戒しないようにと。
 センさんは、働けなくない自分を許せなかった。家族が、働かなくてもいいと考えても、センさんはそう考えなかった。センさんにとって、「家族」とは、そのために死ぬことのできる、至上の共同体だったからだ。もちろん、豊かではなかったが、働けぬセンひとりを養うことは難しいことではなかった。 センさんは働き続けた。「労働」を家族に捧げたのである。
 だが、やがて働けなくなると、彼女が持っていた最後の財産、「愛」を捧げた。

 老婆心(ろうばしん)という仏教用語がある。
 自分のことは一切考えにいれず只、相手をおもいやる心、これを老婆心といいます。姥捨て山の話をご存知でしょうか?ある地方では年老いた老婆を山に捨てるという話です。ある日村の一人の男が年老いた母を背負って山に捨てに行く途中のこと、背中に背負われた老婆が木の枝を時々捨てているではありませんか、「さては母は捨てられたあと一人で山を降りられるよう目印をつくっているんだな!」男はそう思いました。さて母をおいて帰る段になってお母さんはこういったのです「今、山を登ってくるとき、お前が帰り道を間違えないように枝をおって目印をつけておいたよ。それをたよりに気をつけて里へ帰りなさい!」自分が捨てられようとしながら、なお我が子の為に道しるべを残してやろうとする親心に男はいたく感動し、親不孝を詫びるとともに再び母を背負って山を降りたのでした。

(2017年7月28日)

生きているんだ 三角みづ紀の詩

【帆をはって】

包丁で指を切った
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
年をとった彼等
には
肯定できない
ものが

には肯定できる

(絶対がここにはある)

いつか二人で猫を飼おう
名前
何てつけようか

どうしようもないこの星

弱さが強さになる
荒波を利用
して海
へ出る
  
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
生きているんだ

 この詩は三角みづ紀の詩集『オウバアキル』に収められている。「オウバアキル(overkill)」とは過剰攻撃という意味だ。
 小中学校時代いじめにあったという三角みづ紀さんは、新聞のインタビューに「詩を書くのはいじめへの復讐です」と答えている。
 この詩集には28編収められ、ある新聞には「いじめや暴力、リスカ、クスリ、自殺願望などそれらかを凝視した作品世界から聞こえてくるのは、現代の若者がもつ不安、痛み、SOSの声です」と紹介されている。三角みづ紀さんの詩には「死」がまとわり付いている「死」が魔法であるかのように…。時として「死」の世界に足を踏み入れそうになったかもしれないが、角みづ紀さんは病気を克服しながら、「生きている/生きている/感謝しよう/全てのものに」と生への渇望っをうたい、「あとがき」の最後の言葉、「大丈夫私は元気です。」の言葉に厭世的ならずに生きぬこうとする姿勢を感じる。 
 三角みづ紀さんが生まれたのは1981年で、南条あやと同世代だ。少し上がCoccoや松崎ナオになる。彼女たりの青春はバブルとその崩壊、誰もが「勝ち組」になるための弱いものイジメが背景にあり、「メンヘル」や「カイリ」が叫ばれ、社会が壊れ始めた頃だ。
 誰もが心にぽっかり穴があき本当に自分、本当の居場所を探している。
 『ぼくを探しに』(シルヴァスタイン作、倉橋由美子訳)という絵本がある。その冒頭にこんな詩が掲げられている。

何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを
探しに行く
ころがりながら
ぼいは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを……」

 主人公の「円」が「何かが足りない」と思い、かけた部分を探して完全な「円」になりたい、ならなければと旅に出る物語だ。
 現代人は「穴があいたままじゃダメだ」と強迫観念になったり、「自分にもかけた部分がある」と悩んている。物語では、苦労してかけらを見つけるが、まるくなった「円」では歌えなくなりせっかく見つけたかけらをそっとおろし、一人ゆっくりころがりはじめる。歌いながら。
 何かがかけているからわかる事もあり、心ぽっかり穴があいているから大事なモノが見つかるのかもしれない。確かにこの世は魔法の世界ではない。ラカンのいう「想像界」で生きてもいい。詩とはそういう世界だからだ。永遠にかけら探しはつづくし…
 三角みづ紀さんはころがり続けて生きている。そして自分も生きている。それだけでいい。

(2017年7月27日)

生と死と詩 榊原淳子の詩

今日も駅に向かう途中、カギをかけたか不安になる。
「もどれ、もどれ」と心の声が叫ぶ。
日々、この様な日常を過ごしている。
私は、心配性で依存体質だ。
榊原淳子さんの詩集『世紀末オーガズム』に、
「手を清潔にしたい そして髪をかきあげたい」という詩がある。

手を洗っています
もう二十回も洗いました
今二十一回めです
夜です
とても寒い
虫の声みたいな音が聞こえます
しんしんしんしんと言っています
白いネグリジェの裾が
床に触れるのではないかと不安です
蛇口に水をかけます
いっかい、にかい、さんかい、よんかい……
十かい、十一かい、十二かい
蛇口をしめます
蛇口の飛沫が
また、ついてしまいました
もう一度やりなおしです

蛇口をひねります
蛇口についた誰かのバイキンが
指先にこびりつきます
何度も洗います
何十回も手をこすります
冷たい水です
流しをバイキンが流れてゆきます
バイキンが吸水口のところにたまります
蛇口についているバイキンを
水をかけておとします
バイキンはなかなかおちません
何度も水をかけます
やっと、おちたみたいです
蛇口をしめます

でもまだバイキンは
私の手に残っているかもしれない
私は、髪をかきあげたい
でもバイキンが残っているかもしれません
バイキンは髪にこびりつくかもしれない
私はもう一度だけ手を洗って
それから髪を耳にかけようと思います

蛇口をひねります
ほらバイキンがついた
何度もこすります
手の先が赤く、しびれてきました
ネグリジェの裾がとても気になります
涙が出てきます
どうして私は泣いているのでしょう
鼻水もでてきます
でも手はバイキンで汚れていて
鼻をぬぐうことができない
蛇口には誰かのバイキンがついています
ネグリジェの裾から
廊下のしめったバイキンが上ってきます
私はどうすればいいのだろう
そう思うと体が硬直します
蛇口に水をかけます
かけながらネグリジェの裾が気になります
もう黄ばんでいるかもしれない
手を
清潔にしなければなりません
蛇口に水をかけます 速く
もっと速く
体が硬直します 速く
速く ハヤク

脅迫性障害蛇口に水をかけます

今から30年くらい前(1983年)に出版された詩集だ。
強迫性障害や境界性パーソナリティ障害が急激に増えた頃だ。
大富豪のハワード・ヒューズは、
汚染を恐れるあまりホテルの最上階のスイートルームに閉じこもり、
人を寄せつけず、一日中手袋が欠かせなかったという。
また、ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れなかったり、
手洗い始めると血が出るまでやめられなくなったりしたため、
入浴や手の洗浄がほとんど不可能だったともいわれている。
髪や髭は伸び放題、顔中毛だらけで、
爪は伸びすぎていくつにもねじ曲がって長く伸び、
入浴もできなかったので、体から悪臭が漂っていたという。
デビッド・ベッカムも強迫性障害であることをカミングアウトしている。
カオス社会の現代、人間関係も煩雑化し、常に「不安感」はつきまとう。
「不安感」の根底には、人間の時間認識と空間認識の誤差から生まれる。
人はこの時間と空間の中で,生まれ,生活し,生きている。
この時間と空間の中で,親と過ごし,友と交わり,大切な人と別れる。
人は時間と空間の変化を味わっている存在している。
人はいずれ、時間の中に存在できず,空間の中に存在できず,
存在そのものを失うことへの不安と怖さが襲ってくる。
時間と空間は死んだ後も存在し続けるのに、
自分はいなくなるという恐怖である。
しかし、時間と空間を自分の外に意識すると,
ますます死は時間と空間の中でもがき苦しむことになる。
この時間と空間の中に自分がいるのではなく,
自分の中に時間と空間がある。
自分が生まれる前には,この時間と空間の中に自分は居らず,
自分が死んだ後にも,時間と空間の世界は自分のまわりにはない。
人は皆,自分の人生を生きる。死ぬ一瞬に永遠の時間を経験するのだ。
いつか全てが消えてなくなる。
この地球が偶然誕生したように、私たちはこの時間と空間に誕生した。
榊原淳子さんは、「人類は、もっと優しく思いやり深くもなれる、
そして、もう一つ上の動物へと、進化できる」という。
時間と空間が、私たちを存在たらしめている間に、
競べあうのではなく、貶しあうのではなく、
お互いがわかりあわなければいけない。

(2017年7月26日)