日別アーカイブ: 2022年6月16日

佐藤泰志の生きる切実

眠れない。夜をあきらめて佐藤泰志を読む。
若いころは与えるものがないから夢だけを語っていた。
孤独と迷いの中で、暗闇のなかでも手探りで進めたが、夢を見失うことのほうが怖かった。
佐藤泰志の小説を読むと、眠れなかったいくつもの夜を思いだす。

佐藤泰志の小説は、いつも時代社会的に弱い立場の人間に共感し、弱者へのいたわりがある。見せかけではなく本物の優しさや思いやりがあり、それはあらゆる権威や権力から遠く離れた貧しく地味な庶民のひたむきな人生にこそ、真実の姿あると考えていたからだろう。佐藤泰志の小説は、登場人物に寄り添える数少ない小説だ。
本来生きるとは本来切実な作業だ。詩人の福間健二は佐藤泰志とのこんな出来ごとを記している。

あるシナリオコンクールに応募しようとしていた。その脚本のクライマックスに佐藤泰志の「犬」のラスト、釘をうちつけた角材と「中野にはな、犬がいっぱいなんだよ!」を使いたいと思った。それを使わせてほしい、できたら一緒に脚本を書いて賞金を山分けしようぜと彼に電話した。これが彼のカンにさわった。「おことわりします」「どうしてさ」「福間さんこそ、どうかしてるんじゃないですか。賞金目当てに脚本を書くなんて」「映画作りたいんだよ」というケンカになった。
その言い合いのなかで私は借金のことを口にしてしまった。私の人生でやった恥すべき最大の失敗はこれだとずっと思ってきた。「賞金が入れば、きみだってラクになるじゃないか」「ちがう、ちがう、そんなことやらないためにこうしているんだ。金がないから苦しいというのじゃない」彼のふるえているのが受話器から伝わってきた。
すぐに絶交状がきた。彼は、借りていたお金を分割で返しはじめ、結局、全額、返してもらった。現金封筒が届くたびに、私はつらい気持ちになった。返さなくていい、と言わなかった。そんなふうに人にお金を貸したことは滅多にない。返してもらったことは、これ以外はまったくない。
ともに三十になる手前のところで、あせっていたのかもしれない。

数年前テレビで格差社会の弱者を取り上げた番組で村上龍が「弱者を取り上げることはネガティブであり、景気が悪くなる」ようなことを言っていた。勝ち馬に乗るのも、自ら負け戦をするのもそれぞれの生き方であるので批判はしたくないが、だからこそ実直な生き方をしていた佐藤泰志に生きて小説を書き続けてほしかった。苦悩のただ中にいる者だけが、苦悩している人間の心情が理解できるはずだからだ。
佐藤泰志が死んで27年が経つ。今の時代は出来レースの中で競わされ、負けた者たちは排除される。生きていくので精一杯で、夢や幸せを語るのも困難な時代だ。あの頃のような夢を語れた時代に戻ることは出来ないし、佐藤泰志を生き返らせることも出来ない。
しかし、ほんの小さな夢やほんの小さな幸せでも人は生きていける。だれにでも、暗闇の中でさえ「そこのみて光輝く」場所はかならずあると信じている。

【僕は書きはじめるんだ】 佐藤泰志

もし僕に真実の悲しみが書けるなら
もう僕は夜道で酔っ払って乗れない自転車を乗ろうとしたり
笑えない冗談や
僕が考えている愛の姿や
コミュニケーションさと気のきいたことを口にした僕らのセックスなんかに
うつつを抜かしたりしないだろう
美しい声で泣く赤ん坊が
生きているのはあんたばかりじゃないわ
といっている部屋で
そうだよ 僕は彼女のことを思っているさ
だからそれがどうなんだって
いう奴らがいたら
道端に吸いかけの煙草を捨てて
「そうだね」と静かな声で答えてやる
ありもしなかった革命だとか
生きたふりをしただけの時代だとかについて
夜っぴいて語りあかす時間があったら
赤ん坊の泣き声に僕は耳を傾けて
黙って彼女のことを思うだろう
それから赤ん坊が寝静まるのを待って
僕の言葉で書きはじめるんだ
世界について愛について樹木について光について
僕は書きはじめるんだ
彼女の振ったてのひらについて
  

【誰が悲しいだなんていった】 佐藤泰志

誰が悲しいだなんていった

馬券を踏み散らす男たちを眺めながら
清潔な店で古い女友達と新しい女友達と
映画を見たあとでちょっとビールを飲んだ
それから街路樹の陰に生えていたビワの木から
三個の実を盗んで歩きながらむしゃむしゃ食べ
磨きあげた兎の眼のようなタネを吐き散らし
まるで僕らは世の中のすべてを相手にして
戦っているんだ 三角関係を武器しにて
とでもいいたいぐらい陽気に歩いている

そんな陽気な日曜日なんて嘘だと
いっていいのは世界中でたったひとりしかいないと
知っているか

おい 誰が悲しいだなんていった
僕のひとりの子供 僕のふたりの子供 僕の無数の子供の前で
これっぽっちも心をあかしたりなんかしない
だから今日は素晴らしいお天気で
その前に本当の喧嘩をすると
トウフ屋の角で誓った
そうして僕は今だに
自分を責めることもできない

(佐藤泰志作品集より)

(2017年11月2日)

『Scenes Along the Road』 


 『Scenes Along the Road』はアン・チャーターという人の編集で、主としてギンズバーグの個人的アルバムから、ビート詩人、それも一九六九年に死んだジャック・ケルアックに焦点を合わせたスナップショットを集めた写真集で、ギンズバーグが写真にみじかい説明と三篇の詩をそえている。「この本をジャック・ケルアックに捧げる」とあるように、一九四四年から一九六〇年にかけての、若き日のビート詩人たち、つまり “孤独な天使たち” の生ま生ましい交わりの記録であり、これを手にしたとき、あの “書物との出逢いの戦慄” を全身に感じて、わたしは息を呑んだのであった。
 一九六九年十月二十一日、『路上』や『地下街の人びと』あるいは『ダルマ行者たち』で知られる、ジャック・ケルアックは、カリフォルニア州セント・ピータースブルクの病院で脳出血のために死んだ。
 このビートニックの旗手ケルアックの、早すぎる死。その晩年、彼は東洋的な悟りに似た静かさの中にあり、彼のそうした変容の過程は、綿密に研究してみる値いのある課題なのであるが、そのこととは別に、ケルアックの急死による彼の仲間たち、とりわけギンズバーグのかなしみは大きかったにちがいない。
 ギンズバーグの『吠える』は、かなり多くをケルアックに負っていたし、いまこの写真集を見ると、『路上』の主人公たちディーン・モリアティやサル・パラダイスそのままに、おたがいに旅の “途上” にあって、ときにめぐり合い、ときには追い求め、またときには見失う、といった状態をくりかえしながら詩や散文を書き、人生と詩に体当りしていたことがよくわかる。
 一九五三年当時のジャック・ケルアックのを写した写真がある。


 これはギンズバーグが写したものであるが、ギンズバーグの説明では、これはギンズバーグのアパートの非常階段で写した写真で、ケルアックのポケットに見える本は、ニール・キャサディがくれた『鉄道制動手ハンドブック』だという。
 当時、ケルアックは彼の『路上』を地でいっており、『路上』『地下街の人びと』『コーディの幻想』などを書いたり、あるいはさかんにそれらを構想中であったらしい。
 『路上』を地でいった。というのはほかでもない。当時ケルアックは、アメリカ各地を旅行する途中で、一時期カリフォルニアでは鉄道の制動手をして生計をたてていたからである。
 これは、ケルアックの作品を考える上での大きな手がかりのひとつとなることであるが、ギンズバーグの観察によると、ケルアックは一時期にせよ、急速に荒んでいった時期であったという。

みんな 天国へいくまえの
暗い地球でひとやすみさ
アメリカのビジョンよ
ヒッチハイクしている者たち
鉄道で働いている者たち
みんな アメリカに仕返ししているんだ

 ケルアックが本の余白に書きつけた言葉である。
 ケルアックの『路上』は一九五五年に、そしてギンズバーグの『吠える』は一九六五年それぞれ出版され、それ以後、一九六〇年にかけて脚光を浴びる彼らについては、その動きを知るための材料は比較的多い。
 だが、おそらく、彼らにとってもっとも重要な時期は『路上』以前、そして『吠える』以前にあるであろう。つまりそれは、家や教育や社会に反抗した彼らが、何かを求めて文字どおり “路上” にあった時期であったからである。
『路上』以前『吠える』以前の、彼らの意識や反抗の姿勢を十分にとらえ得るかといえばそうはいかない。
 わたしが『Scenes Along the Road』を手にして “ある種の戦慄” をおぼえたというのは、『路上』以前『吠える』以前の貴重な資料に出逢ったからばかりではなかった。
 その “ある種の戦慄” を、説明することはむずかしい。彼らビート詩人たちの、インフォーマルな写真があり、更にいってみれば、わたしが求めていた “孤独な天使たち” がまちがいなくそこにいたからである。(『ユリイカ』1971年VOL3「アメリカで出逢った書物」諏訪優より抜粋)

(2017年9月26日)

井亀あおいの「もと居た所」

♪ほかの人にはわからない
 あまりにも若すぎたと
 ただ思うだけ けれどしあわせ
  
 空に憧れて 空をかけてゆく
 あの子の命はひこうき雲♪

 これはユーミンの『ひこうき雲』の一節だ。
 ユーミンが高校生の頃、近所で実際にあった高校生の飛び降り自殺と、小学校時代の友達の死をモチーフに作られた曲といわれている。
 『ひこうき雲』がリリースされた1970年代とは、学生運動が活発化と終焉、大量生産大量消費での繁栄と交通戦争、公害問題の暗い影が混在し、学校では管理教育による校内暴力が多発し、教育諸問題が表面化した時代だ。そして、「あの子」たちの自殺が社会問題化した時代でもある。

 『ひこうき雲』を聴くたびの思い出す少女がいる。井亀あおいは1977年11月17日に17歳で自らの命を絶った。
 井亀あおいの死後に『アルゴノオト―あおいの日記』と『もと居た所』が小さな出版社から刊行された。
 井亀あおいの青春とは、彼女は学校や社会での人とのふれあいの中で生じる悩みや迷い、反発、喜怒哀楽を日記として吐き出すかたわら、創作ノートとしてトーマス・マンやジイドやモーム、カミュ、ジェームス・ジョイス、ショーペン・ハウエル、リルケ、マラルメなどの文学を語り、シベリウス、マーラー、ベルリオーズなどの音楽を語り、キリコ、キスリング、ダリなどの絵画を語り、ヴィスコンティ、トリフォー、ゴダールなどの映画を語る。
 そして、これらの過剰な思考と自己の内面の奥底に限りなく向かおうとする偏執が疎外感や孤独感を生み、現実の世界がニセモノで、自分が身を置くべき本当の世界がどこかほかにあるように思えてならなかった。現実の世界の拠りどころが何をもってしても得られない以上、空想の世界に求めるしかなかったのだろう。それを作品化したものが「もと居た所」と題したメルヘン風の短編小説である。
 小説の中の主人公の「彼」は井亀あおい自身である。
「ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ、ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものがふえてしまった。とても、邪魔なんだ。分るね。邪魔に思えるんだ」
「ずっと以前、ここではない所に『真』があったのを。そこは、ほんとうに、今のここじゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜があける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりの人なんて居ない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに『真』があっつたんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。すべての、多すぎるものをとり去ってしまえば、あの以前の、そうだね、『もと居た場所』があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ」と、語る。これが「もと居た場所」の原風景だ。

 人間は自分の意志で生まれてくるこはない。よって不安や恐怖や孤独からのがれる事はできない。
 16歳の時、井亀あおいは日記に「私は時に、誰かの上衣のすそをしっかりと握っておきたい気になる。誰かにつかまっていないと、まるで時間の過ぎ去るように人間が去ってしまうような、あるいは自分が斜面をすべり落ちてしまうような思いにかられる。昔、まだものをよく見ていなかった頃、しきりと人間は孤独だと考えていたが、こうしていくらか知ったのちにも、私は人間が孤独だと思う。そかしそれはあの頃考えていたようなものではなくもっと根源的なものだ。」と、書いている。
 根源的な孤独の中、人間が生きている意味は存在するのか。
 人間は自分で作った鎧をつけて自己を騙して生きるしかないのか。
 井亀あおいは意味を求めたのだ。「もと居た所」で自分の意思で生まれることを・・・

(2017年9月16日)

愛と詩と死を見つめて 氷見敦子の詩

 詩との出会い方は色々あるが、氷見敦子の詩の出会いは北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』を読んだことだった。氷見敦子はすでにこの世にはいなかった。

下腹部がが張り
死児がとり憑いたように腹が腹らんでいる
胃と腸が引きしぼられるように傷み
軀をおこすこともできず
前かがみになってのろのろと移動する
——略——
「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる
地の底の深い所に立つわたしを見降ろしている井上さんの顔が
見知らぬ男のようになり
鍾乳石の間にはさまっている
ここが 
わたしにとって最終的な場所なのだ
という記憶が
静かに脳の底に横たわっている
今では記憶は黒々とした冷えた岩のようだ
見上げるもの
すべてが
はるかかなたである
(「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」氷見敦子 部分)

 死の国からの第一声のようなこの詩の出だしに、息をのんだ。力をふりしぼった執念にも似た詩行は、もはや論理とはほど遠いが、氷見敦子はこの時すでに癌を告知されていた。たじろがずに、毅然と地獄谷へ降りて行く凄みのある詩行を読みすすむうち、真夏に気温十度という、激しい照り陰りのない鍾乳洞は、まさに、氷見のかっこうの死に場所であり、食事もとれない状態でこの作品を仕上げることによって、氷見は、天に出発する自らのはなむけにしたのではないかと思えた。
 しかし、ねじ伏せるように事葉をたたみかけて、地の底まで降りながら、その先で一挙に生の高みへ飛び上がろうとする、目眩にも似た野心が詩行に見え隠れするのはなぜだろう。(北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』より)

 絶筆となった「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」という詩は食事をとることもできず点滴を打ちながら書き上げたもので、この時すでに死を覚悟していたという。そして、この十二日後に死んだ。三十歳だった。
 凡庸な日常を生きている身にとって、この「詩」と向き合うことは氷見敦子の「死」とも向き合うことであり「あなたにとって死とは何か?」とか「あなたにとって生とは何か?」ということを問いかけられている。
 氷見敦子の言葉は重い。新井豊美との会話で「今後詩はいっそう軽くなるのか」との問いに、即座に「重くなるんです」と答えたというように。近ごろの軽薄とも思える言葉があまりにも多すぎる。お世辞や社交辞令など「ソン・トク」が透けて見える言葉や、上っ面だけの不誠実な言葉の数々に辟易する自分にとって氷見敦子の言葉は、孤立や孤独や不安からすくい上げてくれる思いがする。言葉とは思考であり生き方である。

(2017年9月14日)

真実を生きる 千野敏子の魂

 教師をしていた二十二歳の千野敏子の死は「真実」を追求するあまり、戦後の食糧難の時代「闇買い」を拒否して栄養失調に陥ったことによるもので、自らにきびしいその生き方を身を以って示したものといえよう。彼女の日記にはこまごま毎日の食事量が記入され、「これで生命が保てるだろうか」と書かれていたろという。そして、ついに教壇で昏倒して病院に運ばれ、昭和二十一年八月二日、腸捻転のため死亡した。すでに回復がおぼつかないほど身体が弱っていたのであろう。
 千野敏子は栗生(長野県諏訪市)という農村部に下宿して自炊生活を営み、そこから三キロメートルほどの富士見小学校まで歩いて通っていたが、彼女がいまにも倒れそうによろよろ歩いている姿を見掛けた生徒があることからも、最後にはほとんど精神力だけで教壇に立っていたものと思われる。日記には主にその日の行動を記録するだけの役割を与え、それとは別に自分自身うぃ向き合った魂の記録とも呼ぶべき「真実ノート(全四冊)」を十七歳から書き始めた。
 死後、遺稿集として『葦折れぬ——一女学生の手記』が出版され、当時十版を重ねて広く読まれ、若い読者層に多大の感銘を与えた。諏訪高女時代の旧師が、この本に寄せた序文の中で「彼女の死期を早めたのは、そのひたむきな真実の生活であった」と述べているように、一切の虚飾と妥協を排し真実のみを追求する姿勢を最後まで崩さなかった若い魂は稀有といわねばならない。

「音」 (千野敏子が十七歳の時の詩)

音がする
遠い空のほうで。
何の音だろうか。
それは木枯しが吹きすさぶような音
山の木の葉のおののきふるうような音
しかし山の木の葉はそよとも動かない。
それは時雨の通りすぎてゆくような音
板屋根の水しぶきにけぶるような音
しかし屋根の板は乾いてそりかえっている。
夕ぐれの灰色の静けさの中に
山の木の葉は身じろぎもせず灰色に暮れてゆく。
屋根の板も一日のほこりを吸いこんだまま灰色に暮れてゆく。
しかし遠い空のほうでは音がする
空には木枯しが荒れくるっているのであろうか。
時雨が激しく降りそそいでいるのであろうか。
音がする
遠い空のほうで。
虚無の音――

 自我への執着を捨てて真実を追求すればするほど、人間の本質が見えて憂鬱になるし孤独になる。死の影にも不安になり、それを越えなければ自分自身がわからなくなるものだ。

私は此の頃自分と云ふものが一向にわからない。
あらゆる人間にとって『自分』は最も不可解なものだろうと思ふが、
それにしても私と云う人間は特別そんなやうな気がする。
私の内にはあらゆる矛盾があり、あらゆる反目がある。
不可解なるものよ。汝の名は我なり。
(「真実ノート」第四冊)

 結局、千野敏子は闇買いを拒否し、栄養失調が因で死ぬのだが、明らかに彼女は死を覚悟していた。いや、すでに彼女は学窓を巣立った日から半ば死んでいたとすら言えるのであって、事実、そのことは「私の生命はあの卒業式の翌日からもはや此の世に存在すべきでなかった」(「真実ノート」第四冊)と書きつけた告白からも明らかだ。真実を求めてその涯に見つけたものは、自我とともに自己の存在も消滅させる虚無だったのだろうか・・・・

(参考:『夭折の天才群像』 山下武)

(2017年8月28日)

愛こそすべて 岡崎里美

7月30日は岡崎里美の命日だ。一日中、ビートルズを聴いていた。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

LOVE & PEACE の時代・・・・
ジミ・ヘンドリックスが死に、ジャニス・ジョップリンが死に、ジム・モリソンが死んだ。
ジャック・ケルアックが死に、ニール・キャサディが死に、アメリカン・ニューシネマの主人公など、若者たちのヒーローの多くが死んだ。
ドイツ・イタリア・日本では若い革命家が殺し合い、ベトナムの戦地では多くの若い兵士が死んだ。
こんな時代に17歳の岡崎里美も死んだ。ビートルズが解散した翌年の1971年の7月30日のことだった。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

といっても、この当時の自分は小学生でLOVE&PEACEもビートルズも学生運動も知らなかった。
1970年代後半が青春だった自分の時代は、すべてが「カネ」の時代に変わっていた。
夢中で聴いたロックもパッケージされたモノで何かが違った。
LOVE&PEACEの時代の光と影をすべてひっくるめてあこがれであり、
この時代のロックを聴くことや詩を読むことが、自分の居場所を探すことだった。
そんな中で、岡崎里美や高野悦子や奥浩平と出会い、彼らのひたむきな生き方を知った。
他人が窺い知れない胸の内に深い喪失感を抱え込んでいたからこそ純粋であり、
純粋であろうとすればするほど、ガラスのように壊れやすい。

Love, love, love, love, love, love, love, love, love.
All you need is love, all you need is love,
All you need is love, love, love is all you need.

人は誰もが「私ではない私」に自分の人生を重ね合わせることがある。
そして「私ではない私」の人生の記憶や時間、感情、経験を、共に分かち合うのだ。
いつの時代も時代を表現する死があり、分かち合うことによって私たちは生かされている。

(2017年8月23日)

共に平和を生きる

「死」 (『原爆詩集』峠三吉 より)


泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩こめた塵煙じんえんの
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている
背中から突き倒した
熱風が
袖で肩で
火になって
煙のなかにつかむ
水槽のコンクリー角
水の中に
もう頭
水をかける衣服が
焦こげ散って
ない
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵かかとがとれ
せなかに貼はりついた鉛の溶鈑ようばん
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴ふきこむ
火と煙
の渦
〈ヒロちゃん ヒロちゃん〉
抑える乳が
あ 血綿けつめんの穴
倒れたまま
――おまえおまえおまえはどこ
腹這いいざる煙の中に
どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまずき仆たおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつ癇高かんだかいさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥むけた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿のうしょう
むしこめる煙、ぶっつかる火の風
はじける火の粉の闇で
金いろの子供の瞳
燃える体
灼やける咽喉のど
どっと崩折くずおれて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

峠三吉の『原爆詩集』を高く評価している詩人のアーサー・ビナードが「死」の解説をしている。

「!」

原爆さく裂の瞬間を「ピカ」と称したのは被爆者の実感だが、それでも、後から言語化した感はある。「!」は、言語化するいと間もなく、熱線と放射線に射抜かれた感じが伝わる。そして、生き延びようと逃げる体験に読者を巻きこみながら、文は切断される。

<あ
にげら
れる>

日本語の常識では決して改行しない箇所で、なぜ切ったのか。峠はここで、「日本語をヒバクさせた」のだと思う。放射線でDNAが切断されたように、言葉が切れちゃっている。ヒバクさせた言葉で、読者を実体験の近くまで導く。
詩はこう終わる。

どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

巻きこまれた読者一人一人は、ついに逃げ切れず、死に直面する。心地よい調べではないけれど、21世紀半ばからの核時代になくてはならない詩の表現であり、内部被曝をもたらす放射能汚染が途切れない21世紀まで見通した言語的実験だ。

アメリカ生まれのアーサー・ビナードが『原爆詩集』を評価した事の意味は大きいことだ。
アメリカでは原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という考え方が主流で、学校でもそう教えられるという。
心の奥底から戦争への憤りを覚えるのは、人類の歴史で発展しきてた「文化」である。
「異文化」を理解することは、「文化」の多様性を理解することであり、それを十分に理解できれば、「異文化」の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、共感することが容易になるはずだ。
「文化」は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあり、人間は欲動から自由になれないが「文化」を獲得することで、知性の力が強くなりそうした欲動がコントロールされるようになっていく。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになる。いわゆる「オタク的」になればいいのだ。秋葉原に観光に来るアニメ好き、ゲーム好き外国人は礼儀正しくて、優しそうな顔をしているのも「異文化」を理解しているからだ。
新の平和主義者とは、「文化」の発展を受け入れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことだ。

(参考:『ひとはなぜ戦争をするのか』)

(2017年8月22日)

河島英五を聴きながら(1)

風を探しに旧東海道を歩いた。iPodに詰め込んだ河島英五の唄を聴きながら・・・。
河島英五を1975年に「何かいいことないかな」でレコードデビュー以来ながいこと聴いている。
時流に流されず、群れをつくらず、本質を見失わず生きた河島英五が2001年4月に48歳で亡くなってからもう16年が経つ。

♪ そこの角を曲がったところから 旅が始まると
何気なく歩き始めて こんなに来てしまった
振り返るなんて いじけた話しだと
からかうのはよせよ ひなげしの花よ
立ち止まっているだけさ
空には風 大地を流れる河
生きてゆくかぎり 歩き続けるだけさ
(「生きる」より)

メアリー・フライの「Do not stand at my grave and weep」の詩を日本語に訳して話題になった新井満によると「ネイティブ・アメリカンの人々は、すごくあたりまえに、死んだら風になったり、星になったり、火や雨や雪や小川や山になったりすると言う、それは、なぜだろう。彼らが太古の昔から大地(地球)とつながって、そこから決してはなれないようにして生きてきたからだ。だから彼らは、大自然に対する畏敬の念を忘れないのだ。さらに、自分たちは今たまたま人間の姿をしているけれど、そのいのちとは、無数に共生しているいのちの中のワン・オブ・ゼアに過ぎないということもよくわかっている。だから、人間だからといっていばったりすることはない。生きものとしての分をわきまえて、ひたすらひかえめに生きるマナーを知っているのだ。」という。
河島英五の曲には風という歌詞が多い。「いのちの旅人たち」「うたたね」「仁醒」「青春旅情」「泣きぬれてひとり旅」「ほろ酔いで」「伝言」「風は旅人」「十二月の風に吹かれて」「風のわすれもの」「ポプラ」などだ。河島英五もネイティブ・アメリカンのように風になったに違いない・・・。

♪ 誰もがひとつずつ持っている
心の中に風車を
風が光るのを見ましたか
風が詩うのをききましたか
風が通り過ぎたのを見ましたか
風が話すのをききましたか
僕は風になろう 君の心の風車を
くるくる回す やさしい風になろう
(「君は風になれ」より)

「合理性」と「利便性」を追求する現代社会は、古いモノを取り壊して成長していく。旧東海道のどの町にもコンビニがあり自販機がスラリと並ぶ。そんな風景の中で時代に取り残されたように何体かの道祖神との出会いがあった。「道祖神さん、人は死んだら風になるのですか?」と尋ねたが道祖神は何も語らない。風化したその顔は微笑んでいるかのようで、へばったわたしの体を何度も生き返らせてくれた。
2回の夜をくぐり、2つの山を越えて50時間歩いてムダな力を出しきったら、少しだけ心の中に風が吹いた。
「変われない人間」は「変わらないモノ」だけ信じればいい。これからも風を探しに歩くだろう。河島英五の唄を聴きながら。ウフフ・・・。

♪ 山よ河よ雲よ空よ 風よ雨よ波よ星たちよ
大いなる大地よ はるかなる海よ
時を越える ものたちよ
あなた達に囲まれて 私達は生きてゆく
たった一度きりの ささやかな人生を
くり返し くり返し ただひたすらに
くり返し くり返し 伝えられてきたもの
くり返し くり返し 伝えてゆくんだ
くり返し くり返し 心から心へ
心から心へ 心から心へ
(「心から心へ」より)

(2017年8月21日)

炎える母へ走る 

「炎える母」 宗左近 

走っている
火の海の中に炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないからはしっている
わたしが
走っているから走りやまないでいる
走っている
とまっていられないから走っている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
焼きながら
燃やしながら
走っている走っている
走っているものを追いぬいて
走っているものを突きぬけて
走っているものが走っている
走っている
走って

いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って

走って
走って
いるものが
走っていない
いない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが

いない

母よ

いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない

母よ

走っている
わたし

母よ

走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることが
できない

ずるずるずるずる
ずるずるずる
ずりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか

走っている

あれは
なにものなのか
なにものの掌の中のなにものなのか

走っている
ふりむいている
走っている
ふりむいている
走っている
たたらをふんでいる
赤い鉄板の上で跳ねている
跳ねながらうしろをふりかえっている

母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる

わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
跳ねている走っている
走っている跳ねている

一本道の炎の上

母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている

炎の一本道

走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
炎えている一本道
母よ

 1945年5月25日の山の手大空襲は、大量の焼夷弾が降り注ぎ3600人余りが亡くなった。
 宗左近は疎開先の福島から一時上京していた母を送るため、上野に向かっていたところで空襲に遭った。2人は手をつなぎ火を避けながら逃げ惑い、なんとか四谷の仮住まいに戻るものの、そこも炎に包まれてしまった。宗と母は、燃えさかる「炎の一本道」を抜けようとしますが母は転び、その手が離れてしまい母を置き去りにし、そして生き延びた。
 宗は炎の中で倒れた母をなぜ救いに行かなかったのか、母を見殺しにして自分はなぜ生きていかれるのかと自分を責め、
それから23年後、ようやく母への墓碑「炎える母」という長編詩を書くことが出来たのである。
 そして、書くことによってあがない続けた。「ぼくの生きてゆくことの中心は、書くことです。ぼくの書く力は母からのらっているにであって、書けばそこに母がふたたびよみがえってきて、ときにぼくを叱ったりしてくれるからなのです。」と語った宗は2006年6月20日、50冊に及ぶ詩集、100冊を越える著書を残し母のもとへ旅立った。

(2017年8月7日)

高村光太郎の晩年の生き方

岩手県の花巻にある小さな山荘は、冬になると雪の中にひっそりと眠ってしまう。
高村光太郎は1945年から1952年の7年間をこの小さな山荘で暮らしていた。

人間は誰しも過ちをおかすものだ。
そのつど謝ればすむこともあれば、謝っただけではすまないこともある。
先の原発事故後は謝ってすむ問題では全然ないのに、誰も責任を取っていないこの時代…。
ひとりの人間としての責任の取り方を、高村光太郎の晩年の生き方で学ぶべきだろう。
光太郎は戦争中、戦争を賛美し国民を戦争に駆り立てる詩を山ほど書いたという。
戦争が終わった時、周囲はもちろん、なにより自分が自分を強く責めた。
そのざんげと自責の念から人里離れた岩手の山に小屋を建て、そこに移り住んだ。

【わが詩をよみて人死に就きにけり】
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがった。
死はいつでもそこにあった。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になって私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かった。
その詩を毎日よみかえすと家郷へ書き送った
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

山での生活の過酷さは生半可なものではなく、
厳寒の東北の冬に、すきま風と雪が吹き込む粗末な小屋の中は零下20度にもなる。
いつも濡れたように湿気た布団の上には、吹き込んだ雪が積もり、
吐く息は布団の縁でたちまち凍ったそうだ。
また、水道もないところで野菜を食べたせいかl、
体内に寄生した虫が口から出てくるほどだったという。
そんな過酷な環境でも、村の人々から愛され、助け合って生きて行く中で、
自分を見つめ直し、人間として成長し、智恵子の思い出と共に暮らした7年間は、ともて幸せだったことだろう。

【山のともだち】
山に友だちがいっぱいいる。
友だちは季節の流れに身をまかせて
やって来たり別れたり。

カッコーも、ホトトギスも、ツツドリも
もう“さやうなら”をしてしまった。
セミはまだいる、
トンボはこれから。
変らないのはウグイス、キツツキ、
トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。

兎と狐の常連のほか、
このごろではマムシの家族。
マムシはいい匂をさせながら
小屋のまはりにわんさといて、
わたしが踏んでも怒らない。

栗がそろそろよくなると、
ドングリひろひの熊さんが
うしろの山から下りてくる。
恥かしがりやの月の輪は
つひにわたしを訪問しない。

角の小さいカモシカは
かはいさうにも毛皮となって
わたしの背中に冬はのる。

【裸形(らぎょう)】
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造形の瑪瑙質(めなうしつ)に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう。

現代は効率を求める時代であり、立ち止まって考えることを、面倒で非効率的なこととし、
出来るだけ、少ない労力で出来るだけ多くのものを手に入れることが「成功」と呼ばれる。
しかし人間が「生きる」上で、光太郎のような真剣に自分というものと向き合い、一生懸命自分だけの力で考え行動する、
頑なで不器用な生き方が、真実を求める「正しい」生き方であると思う。
「豊かさ」とは物や金が沢山ある事ではなく、自分自身の心であり、あらゆるものの中に見出し、作り出すことのできる「美」である。
混沌とした現代社会だからこそ、他者と競べるのではなく、自分の内面に目を向け豊かに生きていきたいものだ。

【牛】の一節から
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はって行く

(2017年8月5日)