日別アーカイブ: 2022年6月16日

「夕焼け売り」の声が聞こえる

「もしかしたら、自分が狂ってしまったのではないか?」と思う時がある。
 狂った社会ではマトモな人間が狂人になる。異端の中の異端とは常識にほかならない。必要なのはひっくり返された言葉をもう一度ひっくり返すことだ。歪んだ言葉を正常な言葉に戻すことだ。

 政治家の言葉が言葉として機能しているのだろうか。言葉が他者との対話や論争のためのものではなく、国民をダマし、その場をしのぐ為だけのツールにすぎない。
 安倍首相は、「女性が活躍できる社会」と言うが女性を使い捨てにし、「積極的平和主義」と言うが積極的に戦争をする国にしようとし、「沖縄のみなさんに丁寧に説明する」と言うが辺野古の新基地建設を強行し、森友改改竄隠蔽問題では改竄を強いられた現場の職員が自殺に追い込まれたにもかかわらず、「私や妻が関与していたら総理大臣も国会議員も辞める」と言いながら辞めもせず政治責任すら取らない。
 そして、場当たり的に公案された「お・も・て・な・し」という広告代理店が考えたと思しき薄っぺらな啓蒙標語で始まったIOC総会の最終プレゼンテーションでは、福島第一原発の汚染水は漏れ続けているのに「完全にコントロールされている」と嘘をついた。この国際舞台での「アンダーコントロール」発言は、IOCむけてのメッセージであり、その発言で問題になっているのは現実に福島第一原発がコントロールされているということではなく、「日本の状況」が完全にコントロールされているということだ。そして、これからもコントロールされていようが、汚染水問題がどれほど深刻であろうが、アスリートにどのような影響があろうが、それはIOCにとってはたいした問題ではない。最大の心配は、そうした問題のため東京五輪ができなくなることである。IOC総会は日本政府とIOCの「暗黙の了解」という談合の茶番劇を全世界に見せつけたものであった。
 福島第一原発は、「アンダーコントロール」どころか収束のメドさえたっていない。汚染水は海にダダ漏れし、格納容器から溶け落ちた核燃料は永遠に取り出せないといわれているのが現実だ。
 東京五輪で浮かれている社会の陰で、猛烈な放射能汚染が大地に拡がり、数十万人が故郷を追われ、生活が根こそぎ破壊されて流浪化した。原発関連死と呼ばれる数千人が死に、甲状腺がんで多くの子どもたちが苦しんでいる。そして、廃炉や除染の作業に多くの労働者が日々大量の被曝を被りながら従事している。どうして、わずか数週間ほどの五輪のために巨大な予算をつぎこんで膨大な財政赤字を抱える東京五輪を開催しなければならないのか。東京五輪に使うお金や人材あるなら東日本大震災の復興に回すべきだ。特に放射能汚染に苦しんでいる福島の人々の困難救済を優先すべきだ。

「夕焼け売り」 齋藤貢
  
この町では
もう、夕焼けを
眺めるひとは、いなくなってしまった。
ひとが住めなくなって
既に、五年余り。
あの日。
突然の恐怖に襲われて
いのちの重さが、天秤にかけられた。

ひとは首をかしげている。
ここには
見えない恐怖が、いたるところにあって
それが
ひとに不幸をもたらすのだ、と。
ひとがひとの暮らしを奪う。
誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。

だが、それからしばらくして
この町には
夕方になると、夕焼け売りが
奪われてしまった時間を行商して歩いている。
誰も住んでいない家々の軒先に立ち
「夕焼けは、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」
夕焼け売りの声がすると
誰もいないこの町の
瓦屋根の煙突からは
薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。
恐怖に身を委ねて
これから、ひとは
どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。

夕焼け売りの声を聞きながら
ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。
あの日、皆で囲むはずだった
賑やかな夕餉を、これから迎えるために。

 「夕焼け売り」は、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故によって剥ぎ取られた「文化」や「文明」の在り方を問い掛けた詩だ。この詩が収められている詩集『夕焼け売り』(思潮社)は、第37回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)を受賞した。
 粟津則雄氏は「齋藤貢さんのことばには、読む者の感情をことさらにかき立てるようなところはまったくない。彼は不思議な虚心をもって人や物や出来事をあるがままに迎え入れる。その凝視の底からある沈黙のしみとおったことばが身を起すのである」と語っている。
 齋藤貢さんは、震災後の福島の悲惨を静かに見つめてきた。そして、人としての自然を奪われた理不尽な現実に抗うためにこの詩は生まれた。
 狂った社会とは嘘付きの社会である。嘘の蔓延した社会では「自分さえよければ」と誰もが人を思いやることをしなくなる。正しく生きているからこそ正しい言葉生まれる。正しい言葉を拾い集めて正しい社会にしなければならない。
 何処からか声が聞こえる。
「正しい言葉は、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」

(2019年6月27日)

棚夏針手詩集

 段ボールに詰め込んであった詩集を整理してたら何冊かの『VOU』と『O』が出てきた。
 いつ購入したのかも覚えていないこの詩誌のページをめくると「棚夏針手(たなかはりて)」の記述があった。

―― あまり知られていない詩人であるが、といって、それはむしろ当たりまえのことで、大正末期から昭和初期にかけての数年間、同人誌に発表したまま不明になった詩人である。それを鶴岡善久氏が周年に燃えて8年間をかけてまとめたのが『棚夏針手』である。鶴岡氏によれば、「サンボリックなものが形を解体しながらにシュルレアリスティックなイメージに変形していくところに棚夏針手のオリジナルな先駆者的な価値づけが生じてくる」といい、サンボリックからシュルレアリスムへ至るきわめて独自的な秘教的餐宴、といっている。わが国における直輸入的シュルレアリスム機関誌の発刊の前に、すでに彼のシュル開眼の活動は終りかけていた。つまり輸入以前に独自的に切り開かれていた。として高く評価し、またその発展的必然性をいちはやく実証していたということになるらしい。しかしわたしのみるところでは、ボードレール、ランボー、マラメル等の象徴主義がかなり強烈に働きかけ、そこへ日本的な美意識が、ひと癖ありげにまた生真面目に加えられて、あなたの皿に盛られた。そんな果物のようにみえる。それはシュルレアリスムがサンボリスムから必然的に発展する過程の詩の実証(近藤東言)であるよりは、やはり和風サンボリスムという感じが強いのである。日本のシュルレアリスムが衣裳として心を軽くしたとみるならば、棚夏針手の和風サンボリスムは、それ以前の、心の重みにあでやかな衣裳を着せかけているようにみえる。軽快な竹馬と靴のような関係である。ともあれ、現代詩への重要な足がかりをもつものとして意義深い。

「黒支那麦の婦人帽の内部」
  
黒い夕焼は
黒支那麦の婦人帽の内部。
黄金の渡守と語る白い巡礼が
初めて罌粟畑に下りた象牙の保護鳥のやうに
午終一面に張りつめた蜃気楼の帆陰で
見知らぬ昼の都会に狂ふ牛の胸の
燕脂色の第一闘牛賞のメダルを見る
それは月だ。
お前が私に贈ると云つて桃色の半巾(ハンケチ)に包んで置いた
基督磔刑像の痛々しい御胸だ。
密培の赤い象牙の保護鳥が啄むので
双手を伸べて抱擁の美眉術をつくさうとする夢が
石垣の氈襖(かもぶすま)の上を匂のやうに歩いて来る
月の常春(きずた)が軽く
背後の花壇は行手の泉にうつる。
それは薔薇の花。
お前の置いて行つた一本の金髪のからんで居る
基督磔刑像の蒼白めた御足だ。

不日(いつか)
久しく帰つて来ないお前が帰つて来て
私の「陶然」の客間(サロン)で  
その黒い夕焼の婦人帽を脱ぐ時があらうも知れぬ。

私は 其時 
畳まれた水色の粉油が
お前の耳かくしの束髪に雪のやうに積るのを
さうして白藻はお前に
快く眠られるだけの冬を招くのを
尚、魂が蝸牛(かたつむり)のやうな瑣瑙の手燭に
麹色の果汁氷果(アイスクリーム)を盛つて推(すす)めることを知つて居る。
けれど
黒い夕焼の婦人帽の内部の月と薔薇の都会の紫の蓋をした巨大な蒼白い密瓶の側面では
白い巡礼と黄金(きん)の渡守とが乳房をあはせ
その影の弁髪の密航者は
象牙の保護鳥を捕へんものと
黄金の泊木を空に灯してゐる
  
おお それは
黒い夕焼の月の常春藤(きずた)に懸(かか)つて
透蚕(きさご)のやうに皮膚を匿さんとなしつつ
悶えてゐるお前ではないのか。

「薔薇の幽霊の詞」

これは花粉色の絶筆の集である。
「今」の二月廿九日である。そして又、
「明日」の二月廿九日である。
私であるお前達の薔薇の幽霊であるモノタイプなのだ。

私は懇願した招待は嫌いだ。
これは私自身のための招待だ。
私はこの招待を衷心から寿つて呉れる数人に限つて、
嬉んでここにある幾個かの快い椅子を使用して欲しいと依頼したい。
私の範囲にゐる数人は嬰児の背後から偶然の催芽が神の平均を失はせる「真」を、
私は怕らくは知つて居やうから。
私はこの優れ行く盛花を禁断したくはないのだ。
私は恒に背後にゐる女(ひと)の像に乱祝であることを悲しむ。

けれど、
私は彼女のために斯うして何時ともなく創くられた  
「巨大なるソロモンの櫃」の五穀の一握を、
一指づつ掌に啓いて行くことをゆえなく怕れる。

私は誰呼する。

私はこの手に
「明日」の二月廿九日の君臨を知つて居る神々の、
私であるお前達の、
EX.VOTEを支へ終はせたい、
私はアルチュール・ランボーの径に死んだ若い商人であるが。
  
これが私である薔薇の幽霊だ。

読者よ、私は直截に申します。
都(すべて)、常識を以て認識して欲しいと。

 棚夏針手とはペンネームで、彼は本名を田中真寿という。 
 また彼には田中真珠というペンネームも用いた(これは堀口大学からの言葉もあって本名の真寿に戻る意味もあったらしい。昭和二年十二月の「近代風家」第二巻第十二号に発した「寝明り」、「星」などの作品にはこの田中新珠が使用されている)。棚夏針手は、そのほか「明星」、「詩と音楽」、「白孔雀」、「君と僕」、「指紋」、「青騎士」などの諸雑誌に作品を発表した。近藤東、竹内隆二、添田英二、大河内信敬などわずかに詩的交渉があった。活動期は大正十年代で彼の十九歳から二十代前期にかけてであったと思われる。とくに当時注目されたようでもなく、わずかに北原白秋、堀口大学などの詩人が雑誌の選者あるいは編集者として注目した程度であったらしい。棚夏針手のビオグラフィについては、まったくつまびらかではないが、わずかに竹内隆二の「作家・山本周五郎の生いたち」という文章のなかに、「桜橋の『高治』という親質屋には棚夏針手というのが居て、これの詩が当時シュルレアリスムの先駆となりました。」、「そのうち、添田英二と棚夏針手が与謝野晶子の「明星」に推薦され、北原白秋の「詩と音楽」に私と添田、棚夏が推薦となりました。」という記述がみいだせる程度である。残した作品はおそらく三十篇前後ほどで、当時彼は「薔薇の幽霊」という詩集を、二十一篇ほどの詩を集めて出版する計画であったらしい。が、これはついに実現しなかった。棚夏針手は二十代後半からおそらく詩からさっぱり離れたらしく戦後いささか左傾して青年文化運動にたずさわったりして、常磐線の牛久あたりにいるのではないかという推察も存在するが実際には彼の失われた足跡はまったくたどれない。(『棚夏針手詩集』蜘蛛社)

 彷徨の青春時代はあきれるほどカラッポで、奴隷船のような部屋で小さな窓から波間の太陽を見上げるように、ダダやシュルレアリズムや幻想文学を読んでいた。妄想するとこによって現実から逃避するためである。奴隷船から海に飛び込んで何処かにたどりつくために必死で泳ぎ続けている。少しは泳ぎは上手にはなっているが・・・。

(2019年6月7日)

長沢延子の春夏秋冬

 冬は長沢延子と出逢う季節だ。

【別離】
友よ
私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ
花を供えたり涙を流したりして
私の深い眠りを動揺させないでくれ

私の墓は何の係累も無い丘の上にたてて
せめて空気だけは清浄にしておいてもらいたいのだ
旅人の訪れもまばらな
高い山の上に--

私の墓はひとつ立ち
名も知らない高山花に包まれ
触れることもない深雪におおわれる
ただ冬になったときだけ眼をさまそう

ちぎれそうに吹きすさぶ
風の平手打ちに誘われて
めざめた魂が高原を走りまわるのだ
…………

 終戦後のレッドパージの時代に、思想と哲学に生きた17歳の長沢延子は毒を喰って死んだ。
 吉田松陰は、遺書ともいえる『留魂録』に次のように書き残した。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」と。
 長沢延子の人生とは「生まれた時から死ぬ気で生まれてきた」と自らが語るように、敗戦という混乱の季節の中で、早熟で聡明な魂を「春と夏」切り捨てて「秋と冬」だけの短い時間で、すばやく自己変革し、すばやく成長させ、自己完結させた。

「折鶴」 長沢延子

紫の折鶴は
私の指の間から生れた
ボンヤリと雲った秋を背中にうけて
暗い淋しい心が折鶴をつくる

ああ秋は深く冬は近い
机の上にひろげられた真白なページに
今日もインクの青さがめぐっている

友よ何故死んだのだ
紫の折鶴は私の間から生まれた
落葉に埋れたあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう

私とあなたは折鶴など縁遠い存在だったけれど
あなたが私のもとを去った日から
何故か折鶴があなたの姿のように見えるのだ

もの言わぬあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう——紫の折鶴を
あなたと私とのはかない友情を表した
  
あの淋しい折鶴を

 歌人の福島泰樹は『悲しみのエナジー』(三一書房)に中で「「暗い淋しい心が折鶴をつくる」の声調に、萩原朔太郎の余韻を感じる。「折鶴」は詩人長澤延子の誕生を飾る詩である。そして、思うのだ、「友よ」の「友」は、自身への呼びかけではないか。墓にいる自身に、向かって「紫の折鶴」を折るという、生と死の「複合」によって成り立った詩ではないのか。長澤延子は、14歳10ヶ月にして、一気にその自身の詩の方法論を獲得してしまった。」と賞している。

「墓標」 長沢延子

うしなわれた数々の幼ない画集の中
流れながら野辺おくりの郷愁の唄が光る

朝飯にと供せられた一切れのパンに
あのキューバの砂糖をつけて口に運べば
あまりに困惑した眉根がうかぶ
——自ら訪れて年をとろうとした
 苔むした墓場のかぎ
——自ら生命をたとうとした
 あまりに底ぬけな空の青さよ

死にそこなった疲れに
むなしく窓外をみつめた時
あてどなく雪は降りつもっていた
そのゆくては見えず
充血した脳髄をひやすように
どこともなく駆けて行く
馬車のわだちを聞いたのだ
小さな風気孔から血が降ってくる

この別れに何と名をつけろと迫るのだ
私はドアを閉めて外へ出た
閉ざされた窓に風が吹きつける
雪よ あの家を埋めろ
私の墓標はこの涯ない草原に群をなす
裸体の人々の中にある
すでに家を捨てた者が
逞しく この草原を闘いを知ったのだ
打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ

雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
もうすでにおそい
私は限りない闘いの中に
私の墓標をみた

 16歳で日本青年共産党同盟「青共」に加盟した長沢延子は「激しい生存への、人間性への、社会への、歴史の希求と、底深い死への密着が私の中の共存していた。」と自ら語るように、真のコンミュニストになるために歴史的必然と自己否定、〈生〉への希求と〈死〉への傾斜を同時に共存させ、はげしく葛藤した。早熟で純粋な〈生〉は「革命」を目指すものだ。革命理論とは、資本家階級を「搾取階級」として糾弾し、革命的打倒を呼び掛ける理論のことある。この理論に忠実であろうとすると、まず自分で自分を打倒しなければならないことになる。そこに「自己矛盾」に陥り煩悶することになる。しかし、矛盾を抱えた存在と悟った人間でなければ詩は生まれない。長沢延子矛盾の中で詩を書き、思想と哲学を学び、真のコンミュニストとして死んだのだ。
 詩人の松永伍一は『荘厳なる詩祭り』(田畑書店)の中で、長沢延子の〈死〉について語っている。

◆かの女は1949年6月1日、服毒自殺をとげた。なぜ、死の淵をすべり降りていかねばならなかったのか。健康な女学生が〈生〉を放棄するのは、家庭の不和だの、知ってはならなぬものを知った絶望だの、不具の哀しさに耐えきれなかったからだの、といった理由からではない、もっと深い〈生〉そのものの意味からであった。〈生〉とは歴史と関わることだ。いや、歴史と関わる自己を発見することだとすれば、〈死〉を積極的に死んだ長沢延子は、その行為によって〈生〉の本質を胡摩化しぬきでつかみ出そうとした一個の求道者に化身していたといえよう。

◆かの女は、私が10余年近くたって具体的に気づき不満(戦後の自称コンミュニストたちによる政治運動の思想的空洞化とイデオロギーの風化)をもつにいたったそれらの事柄を、3年足らずのうちに洞察しつくしていたのである。「全てを知って青共に入った」と書くあの誇らしさがもつ悲劇の調べは、それが敗北の予感を受け取らせるものであったためにかの女の〈死〉は〈生〉そのものをきびしく裏打ちするところまで、鳴りひびいていた。暗いといったらいいのか明るすぎるといったらいいのか。足許に安定感のない若い青春が何時も死という深淵を無造作に自分の中に抱えこんでいたこと。あびやかされることもないただすべてうっとうしい感受性——おのみずみずしい暗い粘着性をもった感受性——は俗流政治主義者の内面に息づくことのなかったものだった。それためにかれらは偽装しつつ長生きしたが、思想的に妥協を許さぬかの女の真生コンミュニストへの情憬は、矛盾を多くかつ深く早目に知ってしまったために、死を急がねばならなかったのである。

◆かの女は言う。「魂が破滅をえらぶなら肉体も運命を共にしなければならぬ」と。魂は肉体であり、そして肉体は魂だからだ。このぎりぎりの地点まできたとき、かの女は唯物論者ではなく一種の運命論者に変質していたが、いんちき唯物論者の偽装よりも、人間の実存を手さぐりするウソのない運命論者の方が数等すぐれていることを自覚していたかどうか、それはわからない。「私の精神、無用者の年輪」という自嘲は、唯物論に対する観念論の敗北への自嘲と同質のものだとすれば、一応の想定はくだせよう。しかし、きみは、自嘲することもなく敗北の怖れすら予感しない思想家を賛抑できるか。そういう政治家を組織の指導者として信頼していけるか。それをかの女は沈黙することによって憎んだのである。純粋な世界を目ざす誠実さが、不純な人間を憎むのは当然であるが、罵声を浴びせるかわりに〈死〉を選んで抗議したのではなかったか。

◆かの女は1948年すでに、共産主義運動の一枚岩という固定観念の妄想を衝いていたのだ。あの組織のなかの衆愚性に目を開いた人間は、権力にこびたその衆愚性によって復讐される運命を負わねばらない。この悲劇は、有頂天になっている情勢論者たちにはとうていおとずれることのなづかぬ愚昧な生き方が組織を侵していく現実に、いち早く気づいたかの女の群を抜いた歩みは孤独この上もないものになっていたのである。唯物論の偉大さを知ったかの女が、唯物論者と自称する組織体の人間どもにあいそをつかし、そのことをかなしみ、進みすぎたものの悲劇的運命を感覚していくとき、〈死〉はもう避けがたい深淵のほとりまで誘惑の手をさしのべていたのであって、まわりの衆愚性はそれを拒むための何らの助言すらできる資格をもたなかった。かれらは、死を喰いとめさせる力を所有していなかったことを恥じるどころか、「死は敗北だ」という高慢な非難を浴びせ胡摩化すだけしか知らなかった。長沢延子の死がそういう非難への非難という意味を含んでいた事実を、一体何人が知っていただろうか。
真に思想に目覚めたものは、妥協という方法をとって後退することはできないのだ。前進をめざせば、それ敗走になってしまう。きみは、「人々は私の敗走を何の好意を持ってか“前進”の意に名づけてくれたから、私もこの栄誉になってみようかと思ったまでだ……」というかの女の言葉を、ここで反芻できるだろう。偉大さとは、こういうことを指して言うのだ。

「旅立ち」 長沢延子

光る舗装が目にまぶしい
もはやおさらばを告げてよい時節
  
喫茶店よりコーヒーの香りは失せ
悲しい玩具が飾り窓に
あれが私の生命——
母よ
静かなくろい旗で遺骸を包み
涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか

私の魂は波頭を越えて
あなた方の
知らぬ異国の旅人となろう
母よ
渚に立ちながら
私は何の幻影もなく
あなたの名をおもう
私を生んだ
あなたの生殖器に思いを走らせる

母よ
あなたはオーロラーを知っているか
あなたが幼ない恋人の胸に抱かれた時
あなたはふと北国の氷山を
燃えあがる心の内に浮かべはしなかったか

——あなたの古びたアルバムを土蔵の隅から発見して
私は捕鯨船と
そのマストに登る
しなやかなあなたの眼ざしを見た
  
母よ
私の心に暖かいざわめきが漂ってくる
あの暖かいあなたと恋人のロバタには
私の生誕を祝う余地はなかったはずなのだが——
  
私は私がおどおど立ち上った所に
あなたの遠さを道ばたに捨てたまま
かえって行こう

もし幾年かの後
あなたが小さい女の子を思い出したなら
私のベッドの固さに驚かされることだろう

私は何の夢もなく旅人を志願した
遥かな異国の街々で
とどける術のない
あなたへの贈物を買おう
珍らしい宝石や美しいヴェールや
そして
あなたに教えられなかった
無為の花々を

 思想とは正解・不正解、勝者・敗者を決めるものではなく自からを成長させるものだ。長沢延子の〈生〉と〈死〉が、わたしを孤独から救いあげてくれた。人生は孤独だし不安である。ニーチェは体調が悪いときは必ず母親の元に帰ったという。長沢延子はこの世に帰る場所はなく、季節を最初からやり直すために母の腕の中へと旅立ったにのだろう・・・。
 古代ギリシャ人は「最も良いことは、この世に生まれないこと。次善は、早く死ぬことだ」と考ていた。この苦痛ばかりである人生を耐えるためには、〈死〉の深淵と関わること。そして、終わることのないの苦痛があるからこそ、ギリシャ人は美しい神殿や彫刻を作り、思想や哲学を極め〈生〉が輝いたのだ。〈死〉から目を背けずに注視しているからこそ、今を大切に生きていける。疲れたら長沢延子という原点に帰ればいいのだから。

(2019年5月10日)

あいづち

 教育評論家の尾木直樹さんが関係している小学校で、子どもたちに好きなものを挙げさせたら、小学校高学年の子どもたちがほっとするものが、ゲームとかではなく、北村宗積さんの「あいづち」という詩だったそうだ。「子どもたちは、共感して優しくあいづちをうってくれる欲していて、現実にそういう大人が廻りにいないことの現れなのだろう」という。

「あいづち」 北原宗積
  
そうかい そうかい
そりゃあ たいへんだったねぇ

つらいはなしには 
かおをくもらせ

なるほど なるほど
そりゃあ  よかった

うれしいはなしには 
かおを ほころばせ

いまは
むかしほど ちからもない
じょうぶな はも
なびくかみも ない

あるものといえば
ふかいしわと
とりすぎたとしばかりの
おじいさん

だれがはなしにきても
やさしく あいづちをうっている

 現代社会では、子どもに限らず若者や大人たちも「他者からの承認願望」を希求しているのではないだろうか。
 ネット環境は多くの友だちを増やし、人間関係を拡大していこうとする傾向を強めるが、その一方で、できるだけ価値観の似通った人だけと確実な関係を維持していこうとする傾向も同時に強めるという。
 友だちの数が人間として価値を測る物差しとなり、出来るだけ多くの友だちを確保しようとし、遊ぶ内容によって友だちを使い分けるという。しかし、付き合う相手を勝手に選べる自由は、そのあいて相手から自分が選んでもらえないかもしれない恐怖がつきまとう。友だちに嫌われないためにお互いの内面にまで深入りすることなく、ひたすら空気を読み、自ら作ったキャラを演じ、スマホの着信にびくびくしながら生きていかなければならない。
 現代の価値観の多様化した社会では、各々が意見のぶつけあう方向にではなくむしろ対立を避け、がむしゃらに主張を押し通そうとはせず、互いに譲りあうような関係になっている。しかし裏を返せば、互いの内面にあまり深入りをしなくなったと捉えることもできる。その背後にあるのは「承認願望」の強さである。絶えまなく承認を受けつづけるためには、つねに衝突を回避しておかなければならず、互いに相手を傷つけないように慎重にならざるをえないのである。
 「予定調和」の関係とは、ひたすら相手に合わすだけの関係であり、他者を気にするあまり自分のことはわからい。必要とされる役回りだけが互いに期待され、それ以外は求められないからだ。自分の本当の姿を相手が教えてくれることはなく、本当の自分の姿と出会うこもできない。
 新聞記者の小国綾子さんは、生きづらさを抱えた若者や子どもの取材を長年にわたって積み重ねてこられた方であるが、中学時代には自分もリストカッターだったそうだ。その自身の中学時代を振り返りつつ、吉野弘さんの「生命(いのち)は」という詩を引用して、こう語っている。「長いめしべと短いおしべ。簡単に受精できない花の形。吉野さんは「生命の自己完結を阻もうとする自然の意思が感じられないだろうか」と問う。常に好ましいわけではなく、時にうとましくわずらわしい他者。しかし「そのような『他者』によって自己の欠如を埋めてもらう」のが人間なのだ、と。/好きな相手や似た者同士で固まるのは楽だけど、それでは「自己の欠如」は埋まらない。ある時は見知らぬ誰かが私のための虻となり、ある時は私が誰からのための虻となる。/確かに私の人生、そんな他者との出会いの積み重ねだったのかも」(『毎日新聞』2014年2月4日)。

「生命(いのち)は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 人間関係とは、互いの衝突を契機にそのあり方が見直され、再構築されていくもであり、そうすることで周囲の環境の変化にも柔軟に対応していける。そして、新しい自分を発見していくこともでる。しかし、あらかじめ衝突の危険性を回避し「予定調和」の関係を営んでいるかぎり、その関係は次のバージョンへとレベルアップされ、深まっていくことはありえない。自分の知らない自分に出会うこもできず、したがって環境の変化にも絶えられないことになる。キャラを演じあうことで維持される人間関係は、表面上は安定した関係のように見えるが、それは今この場かぎりのものであって、長い目で見ればじつは意外と脆いものである。
 互いの本音を理解しあっている人間関係であれば、多少の摩擦が生じたとしても、それで関係は壊れるかもしれないなどと不安に駆られることはないだろう。自律的に個人は相互に信頼して尊敬しあえる関係を築き、そこで互いに承認を与えあうことができれば、自己肯定感も揺るぎないものになるだろう。そうすれば強い他者に依存することもなく、弱い他者を気遣うこともできるだろう。
 誰だって若い時は不安定だし孤独だ。小国さんは自らを振り返り「自分探し」をするなという。
「自分から心に高い影を築き、独りぼっちで生きる理由を探しているだけで、頭の中だけで「自分探し」をして見つかる自分でなんて、ろくなもんじゃない」と。
「狭く閉じてしまわず、あきらめず、一歩踏み出そう。誰かに会って「はじめまして」と言おう。「こんにちは」と「ありがとう」を重ねていこう。そんなことから見えてくる「自分」が大事だ」と。

〈参考文献〉
『つながりを煽られる子どもたち』 土井隆義(岩波書店)

北原宗積(きたはらむねかず)
1931年 信州松本に生まれる。信州大学工学部卒業。中部日本放送勤務をへて児童文学の道へ。
第10回新美南吉文学賞 佳作受賞
第1回日本児童文学賞制作コンクール入選

(2018年12月27日)

冷たい雨とネコ

二匹の野良ネコの出会いは、冷たい雨がやんだ高円寺の遊歩道だった。
一カ月前から一匹が消えた。
「おいで おいで」
「ミャ~ ミャ~」
今は、五十センチメートルが許してくれる距離らしい。
野良ネコが野良ネコのプライドを生きるのに、五十センチメートルがいい距離なのかもしれない。

吉原幸子に「猫」というの詩がある。

「猫」 吉原幸子
〈ゐない〉

ネコが死んで 半としもたってから
セーターをつくろった
 
幼いあの子が 背中をかけのぼり
船長のオウムのやうに肩にとまって
やはらかな爪をたててから
ずっとそのまま着てゐたのに
今になって
今になって——?

でも きっと
半としたったから やっとわかったのだ
もう セーターは
ほつれないのだ と

あの子をひいたくるま
亡がらのないお墓
(抜け毛と手紙を埋めただけの)

ほつれた糸を
一針一針 裏側へ押しこんで むすぶ
弔ってゐるやうでもあり
終らせてゐるやうでもある

あの子は もう ひっかかない
いちど 死んだから
もう二度と
死なない

〈ゐる〉

死んだネコについて書いたものを
ベッドで よみかへしてゐると

ドアが小さく開いて
誰か入ってきた
足音はきこえなかったから
風か

ふしぎなことに
メモが一枚 どうしても見当らない
サイドテーブルのうしろ
椅子の足もと
をかしいわね 今しがたまであったのに

思ひついて
ベッドの下に手をさしこむ
すると あ!
わたしの指は
柔い 毛ぶかいものに
たしかに さはったのだ

のぞきこむのはよさう
そこにゐるのは あの子にきまってゐる
でものぞいたら きっと
スリッパのふりをするだろうから

青びかりの瞳で 詩をよみ終へ
わたしのしほからい指をなめ終へたら

たましひよ
今夜はその暗がりで
おやすみ

子ども頃、十年くらいネコを飼っていた。
冷たい雨の日はネコの温かさを想いだす。
明日も冷たい雨だ。

(2018年12月26日)

永瀬清子の「あけがたにくる人よ」を読む 

 永瀬清子さんは1906年2月17日に生まれ、1995年のちょうど誕生日と同じ日の朝に亡くなった。
 4人の子どもの母であり、体の弱かった夫を助け、戦後は農業もし、岡山家庭裁判所調停委員の仕事を持ち、いわば主婦、詩人、仕事の3つをやりぬいた人生であった。
「多くの女性をやっていることを詩人の名でやらずにすませ得る事はなく、それをのけて女性詩人があるものではありません」と語るように、このようなまともな考え方のできる人だったからこそ、1度読んだら忘れられない詩を残せたのである。 
 永瀬さんの残した作品は、詩集18冊(アンソロジーを含めて)とエッセー集5冊、短章集5、6冊であり、ほとんどが絶版であることを考えると、現代詩の先駆的な存在である永瀬さんの作品が広く読まれるべきだと思う。
  
「あけがたにくる人よ」 永瀬清子

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
わたしはいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

 「あけがたにくるひとよ」は、詩人永瀬清子が81歳にして第12回地球賞を受賞した詩集の中に収められた同じタイトルの作品である。
 “てってぽっぽう”という語感に残るの印象的な言葉は、山鳩の鳴き声の事であるという。たまたま上京して従姉の家に泊まったその明け方早く目がさめ、ててっぽっぽうの声を聞いて郷愁を感じ在りし日を思いこの詩を書いたという。
 あけがたに来る人とはどんな人なのか。
 永瀬さん自身の言葉によると、「あけがたに誰かがくると云えばこの「詩」が来てくれた事が一番あたっていると云えよう。何の誰それと云ってももうそれは何十年も年月がすぎて昔の事情とはちがっている。でもこの『詩』が来たのは嘘いつわりではないのだ。それは本当に「来た」のだ。(『女人随筆』(1991年1月号))」ということらしい。
 清水哲生氏によれば「若い頃に、ひそやかな恋心を抱いた人——。あるいは、すなおにそう読むべきかもしれないが、この読み方どうも通俗に流れすぎるようでおもしろくない。あくまでもこの人物はひとりなのではあるけれど、未知の人物も加えて、若き日の詩人の「こころ」に何らかの影響を与えた人々の総体なのだと、私は読んでおきたい。だからこそ作者は、「もう過ぎてしまった」というのであり、「一生は過ぎてしまったのに」と断言できるのである。昔の想い人に託した形式はとっているけれども、もっとうがった見方をしておけば、「あけがたくる人」とは、実は詩人自身にことでもあると読めないだろうか」という。
 永瀬さんの詩の根底を貫いている主題とは、「遠い日々に思いに馳せながら「人の世の生業」への情愛に自ら縛られて老いていく女たち」であり、「憧れや幻想を捨てて選びとった地上」を生きることである。
 この「あけがたにくるひとよ」という恋物語は寓意の世界である。一日のうちで夜と朝の狭間に置かれた「あけがた」という神秘な時間がごく短いように、「恋人」は一瞬のの至福として彼女の前に現れ去ってゆく。だが、この律儀な娘には生きる真実を捨ててまで夢を老い続けることはできなかった。——「恋人」とは「夢や希望」の象徴表現であり、今や晩年を迎えようとしているかつての少女は、捨てられたかに見えた若き日の「夢や希望」を、こころの奥深くにつつましく抱きしめて涙するのである。
 永瀬さんにとって詩とは基本的に己の「自我」と向き合い、それを確認するための場、そして主張してやまない自我の抑制から、より普遍的なはれやかな場所へと自己を解放するための鍛錬の場であった。したがってこの自我は芸術家らしい野放図な拡大を求めるものではなく、つねによき「女性」として在るための内省の場を求めたのである。
 『短章集』を読んだ谷川周太郎氏はこう語っている。「永瀬清子という人がひとりの日本の女でるということ、妻でもあり母であり農夫であり勤めの人であり、それらのすべてでありつづけることによって詩人でるということが、私にも分かってきたのだ。彼女は他の多くの、特に男の詩人たちのように、たつきはたつき、文学は文学と和割り切って、昼の仕事を終えたあとに書斎にこもって詩を書いたのではない。『ほしいもの』というという本集に収められた一文を読むだけでも分かる。永瀬さんは女の戦場の只中で書きつづけてきた。」(「ひとりの日本の女」より)
 永瀬さんは、女性が何かを表現するというのが許されない封建的な時代を、「女性」であることの詩と真実を求め続けてきたからこそ、現代の女性の詩人たちの存在があるのだろう。

〈参考文献〉
『近代女性詩を読む』新井豊美(思潮社)
『永瀬清子』井坂洋子(五柳書院)
『現代詩つれずれ草』清水哲生(思潮社)

(2018年12月25日)

落合恵子の「沖縄の辞書」を読む

「沖縄の辞書」 落合恵子

あなたよ
世界中でもっとも愛(いと)おしいひとを考えよう
それはわが子? いつの間にか老いた親? つれあい?
半年前からあなたの心に住みついたあのひと?
わたしよ
心の奥に降り積もった 憤り 屈辱 慟哭(どうこく)
過ぎた日々に受けた差別の記憶を掻かき集めよ
それらすべてが 沖縄のひとりびとりに
いまもなお 存在するのだ
彼女はあなたかもしれない 彼はわたしかもしれない

沖縄の辞書を開こう
2015年4月5日 ようやくやってきたひとが
何度も使った「粛々と」
沖縄の辞書に倣って 広辞苑も国語辞典も
その意味を書きかえなければならない
「民意を踏みにじって」、「痛みへの想像力を欠如させたまま」、「上から目線で」と
はじめて沖縄を訪れたのは ヒカンザクラが咲く季節
土産代わりに持ち帰ったのは
市場のおばあが教えてくれた あのことば

「なんくるないさー」

なんとかなるさーという意味だ と とびきりの笑顔
そのあと ぽつりとつぶやいた
そうとでも思わないと生きてこれなかった
何度目かの沖縄 きれいな貝がらと共に贈られたことば「ぬちどぅ たから」
官邸近くの抗議行動
名護から駆けつけた女たちは
福島への連帯を同じことばで表した

「ぬちどぅ たから、いのちこそ宝!」
「想像してごらん、ですよ」
まつげの長い 島の高校生は
レノンの歌のように静かに言った
「国土面積の0・6%しかない沖縄県に
在日米軍専用施設の74%があるんですよ
わが家が勝手に占領され 自分たちは使えないなんて
選挙の結果を踏みにじるのが 民主主義ですか?
本土にとって沖縄とは?
本土にとって わたしたちって何なんですか?」
真っ直すぐな瞳に 突然盛り上がった涙
息苦しくなって わたしは海に目を逃がす
しかし 心は逃げられない
2015年4月5日 知事は言った
「沖縄県が自ら基地を提供したことはない」
そこで 「どくん!」と本土のわたしがうめく
ひとつ屋根の下で暮らす家族のひとりに隠れて
他の家族みんなで うまいもんを食らう
その卑しさが その醜悪さが わたしをうちのめす
沖縄の辞書にはあって 
本土の辞書には載っていないことばが 他にはないか?
だからわたしは 自分と約束する
あの島の子どもたちに
若者にも おばあにもおじいにも
共に歩かせてください 祈りと抵抗の時を
平和にかかわるひとつひとつが
「粛々と」切り崩されていく現在(いま)

立ちはだかるのだ わたしよ

まっとうに抗(あらが)うことに ためらいはいらない

 沖縄と親交のある落合恵子さんは沖縄の基地問題にも関心があり「新基地はいらない」と沖縄が声を大にして訴えている。「本土との溝を共感で乗り越えたい」という思いから「沖縄の辞書」を発表したという。落合さんは、詩について「平和な日本を守るための自分との約束」と語り「共に歩かせてください」と述べている。「ただ、出会っても自分には帰れる場所が東京にあり、沖縄の人はそのまま暮らす。そこに自責の念がある。沖縄を忘れてはならないと自分に確認し、約束するしかない」と言い「傷め続けられてKちあ沖縄を防波堤にして、日本の安全や安定があるというのに」とも落合さんは話している。「沖縄の辞書」は2015年4月10日付の毎日新聞の夕刊に発表された。

 落合さんが「沖縄の辞書」を書いたきっかけは、2015年4月5日の故・翁長知事と菅官房長官に会談である。
 この会談とは、米軍普天間基地の名護市辺野古への移設問題をめぐり意見交換をしたものであり、2014年12月に辺野古移設反対の翁長知事誕生以降、政府は話し合いを避け無視をしてきたがようやく実現した対談である。
 それにしても菅官房長官が知事に語った言葉は軽すぎる。「先に移設ありき」であるし、本気で考え吟味しているとは思えない。「辺野古移設を断念することが普天間の固定化につながる」と述べ、移設作業を「粛々と進めている」と語った。辺野古移設を「唯一の解決策」と言い張ることは、県外に移設先を求めないという日本政府の怠慢でしかないことである。
 2015年11月、政府は翁長雄志知事の埋め立て承認取り消し処分は違法だとして、処分撤回け向け代執行訴訟を起こした。それにしても、一体誰が誰を訴えるべきなのか。政府が知事を訴えるとは噴飯物だ。行政不服審査法を恣意的に解釈して法の原則に反し、沖縄の選挙結果を無視して民主制にも背いたのは誰か。指弾されるべきは政府の方である。法治国家であることを自ら否定するような政府の対応は、沖縄県民の民意を踏みにじるためなら手段を選ばない、米軍基地の負担は、沖縄県だけに押しつければよいという、安倍内閣の明確で意思の表れにほかならない。
 翁長雄志知事は、県民とともに、国の横暴に真っ向から立ち向かった。沖縄の民意をまったく認めない安倍内閣は、憲法九十二条「地方自治の本旨」に違反している。国と地方自治体は対等なのだ。
 2018年8月8日、残念ながら翁長知事は膵臓がんのため亡くなった。心から哀悼の意を捧げます。

 なぜこの国では、沖縄米軍基地に対する反対の声や批判の声があろとも、民意は絶対に尊重されず政策は強行されるのか。
 沖縄でどれほど基地反対の声が高まろうとも、政府の態度は変わることがない。沖縄に限らず横田空域をはじめとして、日本全土が米軍によって好きなように使うことができる空間として規定されているという事実は、本土の人間の日常生活では滅多に意識さてないからである。基地を止められない理由はアメリカの意思と、米国に自発的に隷従することによって国内での権力基盤を強化しつつ対米追従利権をむさぼる官僚・政治家が日本の中枢部を牛耳っているという構造である。日本政府と米国の傀儡は法的に根拠づけられている。
 基地は日米安保条約と地位協定が日本の国内法の上位に位置し、この優位性は法的に確立されている。戦後憲法には、民主主義の原則や基本的人権の尊重やらが立派に書き込まれている。しかしそれらは決定的な局面では必ず空文化される。なぜなら権力の奥の院——その中心に日米合同委員会が位置する——における無数の密約によって、常にすでに骨抜きにされているからである。つまり、この国には、表向きの憲法を頂点とする法体系と、国民の目から隔離された米日密約による裏の決まりごとの体系という二重体系が存在し、真の法体系は当然後者である。言い換えれば、憲法を頂点とする日本の法体系などに、大した意味はないのである。官僚・裁判官・御用学者の仕事とは、この二重体系の存在を否認することであり、それで辻褄が合わなくなれば二重の体系があたかも矛盾しないかのように取り繕うことである。この芸当に忠実かつ巧妙に従事できる者には、汚辱に満ちた栄達の道が待っているからである。
 副島隆彦氏の『〔新版〕属国二本論を超えて』によると、日本政府は米国に対し「思いやり予算」として年間6500億円支払っているという。これ以外に国民の目の見えないところで、この10倍の7兆5000億円のお金が、いろいろな形で毎年米国に支払われているという。これらのお金はすべて日本人の税金である以上、基地問題は沖縄だけの問題ではなく日本全体の問題でもある。
 日本は、米軍によって守られている、だから発展して平和だと思っているが、実際には日本を攻撃する国などはなく、抑止力のための軍事強化は世界中に戦争の危機感を高めるだけだ。ウィキリークスの暴露にした秘密公電によると、沖縄には海兵隊が1万3000人しかいないそうだ。もはや必要もない沖縄米軍基地のために莫大なお金を使うのはやめるべきだ。
 日米開戦70年を総括するならば、戦勝国・敗戦国という米日の「主従関係」から日本がいかに抜けだし、国民の意味を基に国家政策を決定できる真の主権国家、独立国家、民主主義国家としての「日本」をどう構築するかが最大の課題といえるだろう。

(2018年12月17日)

星になった少年 —父と子の物語—

「おい居るかい。まだお前は名前をかへないのか。ずいぶんお眼も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格はちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまでも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまからくださったのです。」
「いいや。おれの名前なら、神さまから貰ったのだと言ってもよかろうが、お前のは、言はば、おれと夜から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。」
〈略〉
「だってそえはあんまり無理ぢゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」

宮沢賢治の『よだかの星』を読むと、よだかと岡真史少年のことを重ねてしまう。
岡真史少年は中学2年生のとき、東京の西北郊外にある住宅団地の屋上から突然、鳥が翔び立つように夜の空へと身を投じて命を絶った。残された詩と作文が『ぼくは12歳』(高史明・岡百合子編)という詩集になり、版を重ねて今でも読み継がれている。この詩集に収められた詩は、真史君が小学校6年生かの晩秋から、中学2年生の死の直前までに書きためた詩である。

『よだかの星』とは「かわせみの仲間であるよだかが、その名前から鷹に嫌がられ「明日までに改名しなければつかみ殺すぞ」と言われてしまい、自分が鷹に殺されることがこれほど辛いのに、その自分は毎晩たくさんの羽虫を殺して生きなくてはいけないことを悟り、そして辛すぎるこの世を捨てる決心をし、空に向かってどこまでもどこまでも飛び続け、やがて青い美しい光を放つ「よだかの星」になり、今でも夜空で燃える存在となる」という童話である。

鷹がよだかを殺そうと思えば簡単に殺せるのに、わざわざよだかの家まで行って改名を要求したというのは、殺すつもりはなく、鳥の世界のしきたりを教えようとしたためだと思う。親子の関係に置き換えると、鷹=〈父〉であり、よだか=〈子ども〉のような存在である。〈父〉がいつまでも自由奔放に遊ぶ〈子ども〉に、大人になるための通過儀礼を与えたが、残念なことによだか=よだか=〈子ども〉はすべてを拒否して自分自身であるために死を選ぶことになってしまった。
〈父〉とは「社会からの要請」を代理としてリビドーの発露を抑圧する存在である。そうした社会からの要請を代理する〈父〉の機能をジャック・ラカンは「父の名」と呼んだ。幼少時の全能感・万能感を断念させる「父の名」を通じて、初めて社会のポジシャンを得る方向に向かうという。

「ぼくはしなない」 岡真史
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

父親の高史明氏は『いま「いのち」の声を聞く』(佼成出版社)で亡き真史君のことを語っている。
彼が中学生になった時に、私は三つの言葉を贈りました。「君は今日から中学生なんだ。中学生になったからには、これからは自分のことは自分で責任をとりなさい」、そして二番目に、「他人に迷惑をかけないようにしなさい」そう言いました。そして最後に、「自分のことは自分で責任をとり、他人に迷惑をかけなければ、お父さんはこれから一切る君のやるこに干渉しない。自分の人生だから。自分で責任をとっていきなさい」こう言いました。
ちょっと考えてみると、正しい。しかしその正しさは、「十二から四つを引くと八つ残る」という正しさとあまり変わらなかったのでした。私の言葉のどこに問題があったか。具体的に言いますと、こういうことです。
「他人に迷惑をかけるな」と私は言いました。しかし「ここまでくるのにどれだけ他人の働きを頂戴してきたか」——それを言うのを忘れておりました。「他人に迷惑をかけるな」——この言葉には端的に言って「明日から迷惑をかけるな」です。それこそ、今日ここへ来るまでの十二年間に、どれだけの人の働きを頂戴しているかを見失った言葉にほかならなかったのです。しかし、着ている洋服、靴。それは自分が作ったか。歩いている道は自分が作ったか。それをお金を出して買ったのだから誰にも迷惑をかけていない。と思うなら、生きた人間の姿がお金の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それだけではない。人間が見えなくなれば、当然たくさんの生き物のいのちも見えなくなります。人間は生き物のいのちを頂戴して生きているわけです。その生き物のいのちというものが見えなくなれば、美味しいとか不味いかだけでご飯を食べるようになります。それは、生きるということから、生きている人間や他の生き物とのほんとうのつながりを見失って、そのすべてを数の知恵に置き換えてしまうことに等しいことになります。それが人生というものでしょうか。その人生は実に虚しい、砂漠のような人生です。私は子どもによかれという思いから、ほんとうの生、ほんとうの人生を見失わさせていたのでした。
私は、彼が中学生になった時、違うふうに言うべきでした。
君は今日から中学生だこ。こまで来るのにどれだけの人の生きた働きを頂戴してきたか。どりだけの生き物のいのちを頂戴してきたのか。それをしっかりもう一度肝に銘じてほしい。それが他人に迷惑かけないことの始まりであり、それがほんとうの意味のいのちに根ざした『自分』というものの始まりだ。自分のことは自分で責任をとる、とは、自分がすべてでないということ、自分がこの世に誕生せしめられてきたそのいのちの働き全体に対して、真に責任をとっていくこと、いただいたいのちを生きること、それこそが本物の責任というものだ」そのように言うべきでした。それが、言えなかった。その言えなかったことろこそが、算数の知恵、それだけを良しとする私の間違いがあったのだと思います。

「じぶん」 岡真史
じぶんじしんの
のうよりも
他人ののうの方が
わかりやすい
みんな
しんじられない
それは
じぶんが
しんじられないから

子どもという存在は社会的な衣を着ていない存在であり、社会的な地位や階級や国籍などにも囚われない、いのちそのものに近い存在である。その子どもが大人になるとは、子どもの「自分を殺して」大人としての「自分に生まれ変わる」ことであり苦難や苦痛を伴うものである。大人なら誰でも心当たりがあると思うが、心の状態が不安定になり家出をしたり家庭内暴力をしてしまった時期が、子どもから大人に変わろうとしている時期である。
この時期の子どもたちは、大人たちの世界をどのように見ているのだろうか。「いのちを大切に」といいながら過剰に繁殖させて動物を食し、自然破壊の影響で住む場所を追われた野生動物を殺し、「平和の大事さ」をいいながら世界中で戦争が行われ、「差別はいけない」といいながら弱者を平気で切り捨てるのが大人の世界の現実である。子どもたちは、大人たちの醜い姿を見抜いている。そして、この醜い世界で生きているという絶えられないほどの苦痛があり、いっそのこと「死んでしまいたい」と思っても不思議でなないだろう。

「無題」 岡真史
にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべ
してた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない

この世の中に
自由なんて
あるだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに・・・・・・

大人たちは12歳の少年に「自分を、かえしてよ」と問われたら、何ことばを返したらいいのだろうか。たいていの大人たちは返答に窮し、言い逃れをするしかないだろう。けれども真史君は「きれいごとではすまされないこともある、まるくおさまらないことがある」と大人たちが返答できないことすらわかっていたのかもしれない。それが真史君の聡明さであり、優しさなのだろう。その優しさが「心のしゅうぜん」ができなくて自ら命を絶ってしまったのかもしれない。

よだかにしても、鷹にむかって「改名するくらいなら、死んだほうがましだから今すぐ殺して下さい」と言ったことを考えると、よだかの鷹に対する甘えと理解することができる。よだかは鷹が殺せないということを知っているのだ。〈子ども〉=よだかは〈大人〉になること「共同体」に参入して生活人となることの拒否の表明なのである。いわばとだかは鳥社会の中での自由人で詩人でありたいのだ。よだかは誰にも束縛されず、自由に空を羽ばたきながら生を謳歌していたいのである。しかし、このいつまでも〈子ども〉にとどまり。自由でありたいと願うよだかも、ついに共同体社会に参入するための通過儀礼の日を迎えざるを得なかった。鷹は、最後通告の形で、よだかを説得しに訪れたのでる。
〈子ども〉であり続けようよするよだかは、罪を知らず、生活を引き受けようともしない、そしてこの自由がもはや許されないと知ったとき、よだかは生きることよりは自ら命を絶つことを選んだのだ。

この考えですら大人である自分は、真史君の死を納得させるための都合のいいように解釈しているかもしれない。そして、残された高史明氏や鷹=〈父〉の苦悩のことも考えないわけにはいかない。ただ一つだけ言えることは、大人たちの「生」は亡くなった〈子ども〉たちに問われているということだ。
『ぼくは12歳』という詩集は悲劇性だけを考えるのではなく、純真な小さな詩人そのものと、向き合うことが大事だと思う。

「夕ぐれ」 岡真史
夕ぐれ
赤い
もえたつ太ようが
くもも空も
みんな
仲間入りさせてる……
くもも空も
まっかにそまる
ぼくも
仲間だよね
ほら
全身まっ赤だよ

創造的退行という言葉がある。退行というのは、人間のこころの状態が子どもの頃に帰る状態になり、馬鹿げた空想をしたりするようなことである。これは決して悪い意味ではなく、現在の閉塞した社会を打ち破るためにも、退行することが何か新たな想像力を生み出すことに繋がるからである。
子ども頃のように夜空をながめてみよう。
2つの美しく輝いている星が「何か」 を教えてくれるから。

〈参考文献〉
『宮沢賢治の神秘的世界』清水正
『いま「いのち」の声を聞く』高史明
『大人になることのむずかしさ』河合隼雄
「岡真史「ぼくは12歳」と「山芋」」(『大関松三郎の四季』)南雲道雄

(2018年12月15日)

愛しあってるかい!

ニール・キャサディが運転する “ファーザー・マジック・トリップ・バス” がジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、オーティス・レディング、ジェリー ・ルービン、リチャード・ブローティガンたちを乗せて今でも走っている。腹が減ったらオーガスタス・スタンレーが作ったアシッドを入れたサンドイッチとエレクトリック・クール・エイドをディガーズのエメット・グローガンがタダで配ってくれる。誰もが自由で哀しいほど優しい若者たちの “旅” だ。
カーラジオがエリック・バードンの「モンタレー」を唄っている。

ある者は聴きに、ある者は唄いに、またある者は花をあげにやって来た
若い神々は観客にほほえみかけ、生まれたての愛の音楽をかなで
子どもたとは昼となく夜となく踊り続けていたよ、モンタレーで

バーズがエアプレインが空を飛び、ああ、ラヴィ・シャンカールが僕を泣かせた
ザ・フーは炎と光炸裂させ、デッドは人々の度肝をぬき
ジミ・ヘンドリックスは世界を火にくべ、燃え上がらせたんだ

観客の間を笑顔浮かべながら、プリンス・ジョーンズは動き回っていた
一万ものギターがにぎやかに高らかに、それはぎきげんに鳴っていたよ
人生の真実を知りたいのなら、いいかい、音楽を聞きのがしてはいけない

3日間みんなで一緒になって動き、体揺らしながらわかりあったのさ
おまわりたちまでが、ぼくらと一緒になって楽しんでいたなんて信じられるかい
モンタレーで、モンタレーで、あの南の町、モンタレーで
(エリック・バードン 「モンタレー」)

60年代の若者たちが共有していたのは、“高度に発達した産業社会の統制と社会組織の改造をゆだねるテクノクラシーへの徹底した嫌悪感” だ。政府や大企業の権力者たちが、武装した警察や軍隊が暴力を使って民衆を押さえこむことに、若い反逆者たちは、この頃いっせいに立ち上がり異議を申し立てたのだ。
“ラブ&ピース” の時代は同時にアンチ・オーソリティ、反権力の戦いへとつながる時代でもあったのだ。自分たちが生活する場所をもっと自由な場所にしなくてはならないと、世界中の多くの若者を社会変革、制度改革にめざめさせた。その大きな引き金となったのは、ベトナム戦争だった。世界の警察官を自任したアメリカ合衆国がアジアの片隅の小国で50万人という兵力を投入して理不尽な殺戮を続けていることに誰が無関心でいられただろうか。
60年代は、“若者文化” が世界が初めて産声を上げた時代。わけのわからない戦争に加担する国や政府、古くさい道徳、価値観を押しつける社会や学校にベロを出し、自分たちの自由と楽しみとアイデンティティを求めて、それぞれの “旅” をしていた若者たちだった。

わたしは神の子と出会ったの
彼は道ばたを歩いてた
わたしが どこへ行くの? と訊くと
彼はこう答えた
ヤスガーの農場に行くんだ
ロックンロール・バンドを観に行くんだ
向こうでキャンプをするんだよ
自分の魂を自由にしてみようと思うんだ

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

だったら 一緒に行ってもいい?
都会はもうたくさんなの
自分が歯車みたいな気がして
毎年そういう時期があるのかもね
それとも もしかして人類がそういう時期なのかも
あたしは自分自身を見失ってる
でも生きているって学ぶことだものね

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

ウッドストックに着くころには
私たちは50万人の大群になっていた
いたるところに歌があり 祝典があった
そこでわたしは爆撃機の夢をみたの
ショットガンにまたがった人が空を飛んでるのよ
そしてそれは蝶々になった
わたしたちのこの国の上空で

わたしたちは星屑
何億年という年月を経た炭素
わたしたちは黄金
悪魔との取り引きにしばられた
だからあの農場に戻って
自分自身を取り戻さなくては
(「ウッドストック」 ジョニ・ミッチェル)

1969年の熱い夏、ニューヨークの郊外で行われたウッドストックは、あまりにも多くの若者たちが集まって急遽フリーコンサートとなり、MCのジョン・モリスが主催者たちの決定を伝えると、歓声とおどろきの声が丘を包んだという。
「ただし、フリーというのは好き勝ってにしていいということじゃないんだ」モリスは続けて語った。「このイベントを企画した人々は莫大な赤字を負うんだ。それでも彼らはお金よりもきみたちが最高の状態で音楽を楽しんでもらうことがずっと重要だと考えている。だから忘れないでほしい。今夜、森の中やいまいる場所で眠りにつく時、きみたちの隣にいる人間がきみの兄妹ってことを。そうやってお互いがいたわりの気持ちで接してくれなければ、この催しの意図はオジャンだ。これから先、この祭りの成功はきみたち、ひとひとりが担うんだ」
このお祭り50万人もの若者たちが集まったが、争いがひとつもなかった。若者たちは最高の笑顔を最良の態度で、心をひとつにして愛のパワーの大切さ、おたがいを思いやるという素晴らしさを、自分たちの望む社会の姿を世界に示して見せたのだ。
主宰者のマイケル・ラングは、コンサート終了後に機材をすべて欲しい人にくれてやったという。“みんなですべてを分けあう” これがヒッピーの哲学なのである。

私は有り金もなくなってベイトン・ルージュで当てもなく列車を待ってた
心はまるで擦り切れたジーンズのよう
そんなときボビーが大雨が来る前に、ディーゼルトラックをヒッチハイクした
トラックは私たちを乗せて、ニュー・オーリンズへ向かって走り始めた

私は汚れた赤いバンダナから、ブルースハープを引っ張り出して
ボビーが歌うブルースのかたわらでやさしく吹いてたわ
フロントガラスを行き来するワイパーのリズムに合わせて
私はボビーの手を自分の手の中にしっかり握って
それで、運転手の知ってる歌をかたっぱしから歌ったの

自由っていうのは、失うものが何もないってことよね
けど自由じゃなかったら、そもそもなんにも、なんにも始まらないじゃない
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ケンタッキーの炭鉱から、カリフォルニアの太陽へ
ボビーは私の心の秘密を分かち合ってくれた
いろんな天気の中を走りぬけ、たくさんいろんな事をしてすごした
そう、ボビーが私を外の冷たい世界から守ってくれていたのよ

そしてサリナスの近くまで来た日、私は彼が去って行くままにした
彼は故郷を求めていたし、私もそれが見つかればいいと思ったの
でも、本当は、彼の体にぴったりくっついていられるんだったら
そんなたったひとつの昨日を手に入れられるなら
私の明日を全部売ってしまってもいいとまで思ったわ

自由って、失うものが何もないってことね
ボビーが私に残してくれたのは自由、でも自由だけで何もなくなっちゃった
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ねえ、私のボビー 私のボビー・マギー
ああ、 あの人は私の恋人、 私の男
あの人は私の恋人。 できるだけのことはしたんだけど
ねえ ボビー、 ねえ ボビー・マギー
(「ミー&ボビー・マギー」 ジャニス・ジョップリン)

1973年、学生運動が悲劇的なかたちで終演し “若者” は消滅した。“若者” だというだけで、何者であるか分かり合えるような、“ラブ&ピース”とか “長髪&エレキギター” というような共通感官が消え、音楽市場はギャングや大企業に乗っ取られ、自由も理想もあっという間に蝕まれていった。
リベラリズムの世界では、格差社会となり貧困が拡大し “自己責任” というスローガンによって、経済戦争に中に放り込まれ無意味な戦いをさせられている。人々はどんどん孤立し孤独になっていき、亀裂が生じ不安が蔓延した社会で、人々は拝外的や攻撃的になる。過酷な競争社会は、安定した社会基盤を失わせ、社会の流動化を加速さる。その結果、価値観を共有しうる相手だけと関係を紡ぎ、そこで世界を閉じることで、安定した拠り所を確保しようとする傾向を強めている。

私は生きたい、私はありたい
私は一人の美しい心を求める探求者でありたい。
それは私が決してあきらめないという意思表示で
私は金の心を探し続けてるんだ
そうして私は年をとって行く
私は探し続けている美しい心を
そして私は年をとって行く

私はハリウッドに行ったし、私はレッドウッドに行った
私は美しい心を求めて海を渡った
私は自身の気持ちのまま、それが良い道のりと
そうして私は美しい心を探し続けてるんだ
私は美しい心を探し続けるんだ
美しい心を探し続けてながら
そうして私は年をとって行く

私は探し続けている
美しい心をもとめて
君も探し続けている
美しい心をもとめて
そうして私は年をとって行く
私はひとりの探求者でありたい
美しい心を求める
(「ハート・オブ・ゴールド」 ニール・ヤング)

あの時代にもどることはできない。しかし、自分を変革して自由になることはできる。
あの時代のの運動家はエゴや野心につき動かされることがあったにしても、貧しい人々のことや、苦悩、不平等、不正義などについて真面目に考えていたものだった。人びとへの愛や、自分の人生を他人のために喜んで犠牲にしようという気持ちが強かったように、おたがいを思いやるという気持ちがあれば自由になれるのだ。そして、いつでも “ファーザー・マジック・トリップ・バス” に乗って、“旅” することができるのだ。
オーティス・レディングの声が聞こえる。
“愛しあっているかい?”

(2018年12月11日)

日々を慰安が吹き荒れる

近くのスーパーで、200円の海苔弁当か300円の唐揚げ弁当を買うか悩んだあげく、300円の唐揚げ弁当の欲望をレジ袋に入れて帰宅する途中、群衆が道をふさぐように集まっていた。「今日は何かのデモがあるのか?」と心躍ったが、期待もむなしく“ポケモンGO”の巣に集まった群衆だった。
吉野弘に「日々の慰安が」という詩がある。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が作る。
明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

慰安が笑い
ささやき
うたうとき
さみしい心の人が枯れる。
枯れる。
なやみが枯れる。

ねがいが枯れる。

言葉が枯れる。

ある解説によると「慰安」はテレビ番組のことで、自分の中に抱えている寂しさや悩み、それからもっと踏み込んだ精神性、プライド。それをテレビの慰安が吹き荒れて、紛らわしてしまう。何か考えなきゃならないことがあったのに、テレビを見てしまうといつのまにか時間が経ってる。心の中の淋しさや苦悩そんな精神が、人生にとって本当に大切なものかもしれないのに、それが浅いところで紛らわされてしまうということらしい。「日々の慰安が」は1952年に雑誌「現代詩」に掲載され、第一詩集『消息』に収められている。
この時代に流行した言葉で、社会評論家の大宅壮一の「一億総白痴化」ということばがある。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
適菜収は、テレビは基本的に“バカを生み出す機械”という。「テレビ番組の目的は、不特定多数の人間にCMを見せてモノを買わせるころです。スポンサーを得るためには視聴率を稼がなくてはなりません。そのためには「大多数が好む番組」を作る必要がある。だから「底辺レベル」に合わせた番組作りが行われます。「上のレベル」に合わせたら下がついて来れず、視聴率が稼げないからです。こうなると「底辺」に向かうスパイラルに陥ります。視聴者はバカな番組を見てバカになり、そのバカに合わせて番組を作るので、あさらにテレビは下劣になる。この構造が「モノを考えずに消費する人間=騙されやすい人間」が増えている要因です。」という。
現代社会はテレビに限らず、あらゆる娯楽があり「白痴化」が激化して「B層」社会化している。ネット社会は、おたくやフリーターを急増させ、世代間のギャップが目立つ。若者たちは政治から遠ざかり、目先の「お祭り騒ぎ」にしか関心が向かない。

サルトルが提唱した「アンガージュマン」という思想がある。「社会参加」という意味だ。サルトルがが1939年9月のある日、一枚の招集令状を受け取り、戦争という自らの個人的自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれ、いやおうなく「社会的状況」というものに目覚めることになったという。
「アンガージュマン」の思想は、サルトルが1947年の「文学とは何か?」において文学者「アンガージュマン」について述べている。だが「アンガージュマン」というのは文学者の「社会参加」という意味ではなく、一般の人間にも通じる思想である。
サルトルは『存在と無』において「人間は自らの“存在仕方”に関する限り全面的に責任がある」と主張した。人間は世界-内-存在として「事物や他者の存在する社会」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような社会と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような社会と関わって生きるということなのである。
サルトルは言っている。「たとえ石ころのように黙ってじっとしていても、われわれの受身の態度そのものが、すでに一つの行動である」このように、社会に背を向けて生きる場合でさえも、それは社会に対する一つの関わり方であり、一つの社会的立場をとることなのである。

安倍(アメポチ)政権は「戦争のできる国」から「戦争をしたくてたまらない国」へ、戦後の平和主義を否定し、海外で戦闘可能な体制を作りだし、軍隊を復活させ帝国主義に回帰したいようだ。そして、安全保障も外交も経済システムもすべて壊してアメリカに売り飛ばそうとしているのが安倍政権である。集団的自衛権の問題は、日本という国が対米追従国家であることを露呈した。
いつまでも経済会国でありたいという欲望は、グローバル経済秩序における教義とさえ言える新自由主義を絶対視している。何でも自己責任の“改革”が格差社会を作り、ワーキングプアや失業者を大量に増やすことによって「戦争」をしやすくしている。弱者は強い立場の者にへつらい、より弱い立場の人間を差別することで内心のバランスを保とうするからだ。そして、官僚や企業は政権からおこぼれにあやかろうと忖度し、メディアは権力に飼いな馴らされ社会は集団化し、対米従属を不可侵の大前提としとした帝国主義国家化へと進んでいる。
日本は世界から「働きバチ」といわれ、「ウサギ小屋」といわれ揶揄されてきた。しかし、精神性と勤勉さで「豊かな国」になったのではないのか。国民から搾取したカネを米国に貢ぎ、福祉を切り捨て、決して「豊かな国」になれない日本でいいのだろうか。年間3万人の自殺者は決っして「豊かな国」になりれない日本を象徴しているようだ。カネは人を殺す為に使うのではなく、人を殺さない為に使うべきだ。
トーマス・カーライル は「この国民にしてこの政府あり」というように、私たちは「B層」を生きては行けない。安倍晋三氏は、選挙の演説で反対派に対して「こんな人たち」と発言し、麻生太郎氏は、選挙演説で支援者に対して「下々(しもじも)の皆さん」と発言した。この程度の政治家を生み出しているのも私たち自身である。
自分の存在など、路傍の石ころみたいなものだろう。「右」も「左」も関係ない、自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれないために「下」から「上」を睨み続けていきたい。
ハンナ・アーレントはいう。「思考し続けろ!」と。

(2018年12月7日)