五輪という「幻想」に揺れた1年だった。東京五輪は「何」を未来に語り伝えていくのか・・・
五輪が閉会して残ったものといえば、2度と国際的な陸上競技大会が行われない新国立競技場と、莫大な借金と、永遠に続きそうな増税と、メディアが作り上げた少しの感動物語だ。2人の自殺者を出し、コロナ感染者は入院もできず自宅で死に、今だに「原子力緊急事態宣言」も解除されてないのに、国民を分断させてまで五輪を開催した意味があったとは思えない。強いて言うなら、五輪利権に巣食っているグロテスクな存在を可視化したことが、五輪そのもの意味を考える上で重要なことだったかもしれない。
五輪の理念とは、国を超えたスポーツを通じて世界平和への貢献である。国別対抗戦でないことが五輪憲章に明記され、国別のメダルランキング表の作成は憲章違反になりかねない。五輪は各国の国威発揚の場とされ「ベルリン五輪のユダヤ人選手排除」、「メキシコ五輪の大量虐殺」など悲劇の歴史があり、その過ちから学んだなずなのにメディアが率先して民族主義・全体主義・排外主義を煽ってさえいるのが現状だ。
過去には「世界平和は掲げるならば国家・国旗を一切排除するべき」との声がIOCの中から発せられていた。
五輪における国家・国旗の儀礼の廃止を積極的に提起したのは、第5代IOC会長アベリー・ブランデージ氏であった。ブランデージは自らを「クーベルタンの五輪の理想の真髄の守り手」とみなし、五輪を「商業主義や政治主義」から断固として守り抜く必要がると考えてきた。なぜなら、彼はアマチュアリズムを人生哲学とし、「騎士道の精神、競技者に対する尊敬、徹底したフェアプレーと、すぐれたスポーツマンシップといった精神的価値」に重きを置き、その上で、「競技者はもとより、組織する者も役員も五輪を自らの利益のために利用してはならないという鉄則」を堅持することを信奉したからである。ブランデージはこのような自身のオリンピズム観に則り、五輪は国家間に対抗試合ではなく、あくまで個人の相争う大会であるとして、国家・国旗の廃止を提起したからである。
五輪の良心だった第5代IOC会長ジャック・ロゲ氏は国旗掲揚について、「五輪は個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と認識しながらも、「私が自由に選択できるなら、国旗を掲げる表彰式より五輪旗を掲げる方を選ぶ。ただ、残念ながら国旗掲揚をやめたら発展途上国のスポーツに対する投資の多くが消える。それが現実だ」と語っている。
「旗」 栗原貞子
日の丸の赤は じんみんの血
白地の白は じんみんの骨
いくさのたびに
骨と血の旗を押し立てて
他国の女や子どもまで
血を流させ 骨にした
いくさが終わると
平和の旗になり
オリンピックにも
アジア大会にも
高く掲げられ
競技に優勝するたびに
君が代が吹奏される
千万の血を吸い
千万の骨をさらした
犯罪の旗が
おくめんもなくひるがえっている
「君が代は千代に八千代に
苔のむすまで」と
そのためにじんみんは血を流し
骨をさらさねばならなかった
今もまだ還って来ない骨たちが
アジアの野や山にさらされている
けれども もうみんな忘れて
しまったのだろうか
中国の万人抗の骨たちのことも
南の島にさらされている
骨たちのことも
大豆粕や 蝗(いなご)をたべ
芋の葉っぱを食べてひもじかったことも
母さんと別れて集団疎開で
シラミを涌(わ)かしたことも
空襲警報の暗い夜
防空壕で 家族がじっと息を
ひそめていたことも
三十万の人間が
閃(せん)光に灼(や)かれて死んだことも
もうみんな忘れてしまったのだろうか
毎晩 テレビ番組が終わったあと
君が代が伴奏され
いつまでも いつまでも
ひるがえる 血と骨の旗
じんみんの一日は
日の丸で括(くく)めくくられるのだ
市役所の屋上や
学校の運動会にもひるがえり
平和公園の慰霊碑の空にも
なにごともなかったように
ひるがえっている
日の丸の赤はじんみんの血
白地の白はじんみんの骨
日本人は忘れても
アジアの人々は忘れはしない
「旗」 城山三郎
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
社旗も 校旗も
国々の旗も
国策なる旗も
運動という名の旗も
ひとみなひとり
ひとりには
ひとつの命
走る雲
冴える月
こぼれる星
奏でる虫
みなひとり
ひとつの輝き
花の白さ
杉の青さ
肚(はら)の黒さ
愛の軽さ
みなひとり
ひとつの光
狂い
狂え
狂わん
狂わず
みなひとり
ひとつの世界
さまざまに
果てなき世界
山ねぼけ
湖しらけ
森かげり
人は老いゆ
生きるには
旗要らず
旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため
限りある命のために
栗原さんと城山さんの言おうとしていることは同じだ。過去の侵略戦争・植民地支配において「日の丸」を国威発揚の道具としてアジア諸国の人々に対し多くの人の生活をふみにじり、死に追いやってきた組織の暴走。同調圧力によって国は正しいと信じ込ませ、人間を皆同じ色に染めようとしてきた人たち。そればかりか戦後もそのことに対して自己保身するだけで謝罪も補償もしていない。そうした日本のあり方を厳しく批判しているのだ。そして、「日の丸」を誇ったり、「日の丸」のために頑張る、というような単純で薄っぺらな発想がいかに愚かで謝ったことか教えてくれる。
戦争は「特別」だからというはなしではない。東京五輪においても、メディアは盛んに五輪は「特別」だからと繰り返してきた。戦争も五輪も基本的な構造は同じものだし、歴史は真っ直ぐにつながっている。戦後の国民主義は「特別」なことを無くすためにあるはずだ。
五輪は「日の丸」をナショナルシンボルとして利用し、メダル獲得争いを媒介にして国威発揚を促すことによってナショナリズムを生み出す。そのナショナリズムによって政治的な一体感を創り出そうとする政治界や、商業的利益を生み出だす経済界など、ありとあらゆるもによって利用される大会である。
国や組織が振る「日の丸」の道具として利用され、自らが盲目的に「日の丸」を振ってはいけない。血に染まった「日の丸」の背後には、自分が優秀であるという傲慢さ、個人の自由を侵害し、自分と異なる人間を排除し、暴力と攻撃の力が隠れている。
クーベルタンは、1926年にパリで行われた集会の演説で「100年後にもし私は生まれ変わるとしたら、こんどは自らの苦心作(オリンピック)をぶち壊す立場に回るだろう」と未来の五輪を案じるようなことばを残したという。
2024年の五輪はクーベルタンが生誕したパリの地で行われる。
あの手この手で延命させてきた現在の五輪は、政治的パフォーマンスに利用され、汚職や不正行為にまみれ、人権問題を引き起こし、自然環境を破壊し、ドーピング問題を引き起こすなど、理念とかけ離れたグロテスクな姿になってしまった。
五輪開催の有無を真剣に議論できるのは、クーベルタンの末裔のパリ市民たちなのかもれない。
(2021年12月31日)