長沢延子の春夏秋冬

 冬は長沢延子と出逢う季節だ。

【別離】
友よ
私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ
花を供えたり涙を流したりして
私の深い眠りを動揺させないでくれ

私の墓は何の係累も無い丘の上にたてて
せめて空気だけは清浄にしておいてもらいたいのだ
旅人の訪れもまばらな
高い山の上に--

私の墓はひとつ立ち
名も知らない高山花に包まれ
触れることもない深雪におおわれる
ただ冬になったときだけ眼をさまそう

ちぎれそうに吹きすさぶ
風の平手打ちに誘われて
めざめた魂が高原を走りまわるのだ
…………

 終戦後のレッドパージの時代に、思想と哲学に生きた17歳の長沢延子は毒を喰って死んだ。
 吉田松陰は、遺書ともいえる『留魂録』に次のように書き残した。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」と。
 長沢延子の人生とは「生まれた時から死ぬ気で生まれてきた」と自らが語るように、敗戦という混乱の季節の中で、早熟で聡明な魂を「春と夏」切り捨てて「秋と冬」だけの短い時間で、すばやく自己変革し、すばやく成長させ、自己完結させた。

「折鶴」 長沢延子

紫の折鶴は
私の指の間から生れた
ボンヤリと雲った秋を背中にうけて
暗い淋しい心が折鶴をつくる

ああ秋は深く冬は近い
机の上にひろげられた真白なページに
今日もインクの青さがめぐっている

友よ何故死んだのだ
紫の折鶴は私の間から生まれた
落葉に埋れたあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう

私とあなたは折鶴など縁遠い存在だったけれど
あなたが私のもとを去った日から
何故か折鶴があなたの姿のように見えるのだ

もの言わぬあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう——紫の折鶴を
あなたと私とのはかない友情を表した
  
あの淋しい折鶴を

 歌人の福島泰樹は『悲しみのエナジー』(三一書房)に中で「「暗い淋しい心が折鶴をつくる」の声調に、萩原朔太郎の余韻を感じる。「折鶴」は詩人長澤延子の誕生を飾る詩である。そして、思うのだ、「友よ」の「友」は、自身への呼びかけではないか。墓にいる自身に、向かって「紫の折鶴」を折るという、生と死の「複合」によって成り立った詩ではないのか。長澤延子は、14歳10ヶ月にして、一気にその自身の詩の方法論を獲得してしまった。」と賞している。

「墓標」 長沢延子

うしなわれた数々の幼ない画集の中
流れながら野辺おくりの郷愁の唄が光る

朝飯にと供せられた一切れのパンに
あのキューバの砂糖をつけて口に運べば
あまりに困惑した眉根がうかぶ
——自ら訪れて年をとろうとした
 苔むした墓場のかぎ
——自ら生命をたとうとした
 あまりに底ぬけな空の青さよ

死にそこなった疲れに
むなしく窓外をみつめた時
あてどなく雪は降りつもっていた
そのゆくては見えず
充血した脳髄をひやすように
どこともなく駆けて行く
馬車のわだちを聞いたのだ
小さな風気孔から血が降ってくる

この別れに何と名をつけろと迫るのだ
私はドアを閉めて外へ出た
閉ざされた窓に風が吹きつける
雪よ あの家を埋めろ
私の墓標はこの涯ない草原に群をなす
裸体の人々の中にある
すでに家を捨てた者が
逞しく この草原を闘いを知ったのだ
打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ

雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
もうすでにおそい
私は限りない闘いの中に
私の墓標をみた

 16歳で日本青年共産党同盟「青共」に加盟した長沢延子は「激しい生存への、人間性への、社会への、歴史の希求と、底深い死への密着が私の中の共存していた。」と自ら語るように、真のコンミュニストになるために歴史的必然と自己否定、〈生〉への希求と〈死〉への傾斜を同時に共存させ、はげしく葛藤した。早熟で純粋な〈生〉は「革命」を目指すものだ。革命理論とは、資本家階級を「搾取階級」として糾弾し、革命的打倒を呼び掛ける理論のことある。この理論に忠実であろうとすると、まず自分で自分を打倒しなければならないことになる。そこに「自己矛盾」に陥り煩悶することになる。しかし、矛盾を抱えた存在と悟った人間でなければ詩は生まれない。長沢延子矛盾の中で詩を書き、思想と哲学を学び、真のコンミュニストとして死んだのだ。
 詩人の松永伍一は『荘厳なる詩祭り』(田畑書店)の中で、長沢延子の〈死〉について語っている。

◆かの女は1949年6月1日、服毒自殺をとげた。なぜ、死の淵をすべり降りていかねばならなかったのか。健康な女学生が〈生〉を放棄するのは、家庭の不和だの、知ってはならなぬものを知った絶望だの、不具の哀しさに耐えきれなかったからだの、といった理由からではない、もっと深い〈生〉そのものの意味からであった。〈生〉とは歴史と関わることだ。いや、歴史と関わる自己を発見することだとすれば、〈死〉を積極的に死んだ長沢延子は、その行為によって〈生〉の本質を胡摩化しぬきでつかみ出そうとした一個の求道者に化身していたといえよう。

◆かの女は、私が10余年近くたって具体的に気づき不満(戦後の自称コンミュニストたちによる政治運動の思想的空洞化とイデオロギーの風化)をもつにいたったそれらの事柄を、3年足らずのうちに洞察しつくしていたのである。「全てを知って青共に入った」と書くあの誇らしさがもつ悲劇の調べは、それが敗北の予感を受け取らせるものであったためにかの女の〈死〉は〈生〉そのものをきびしく裏打ちするところまで、鳴りひびいていた。暗いといったらいいのか明るすぎるといったらいいのか。足許に安定感のない若い青春が何時も死という深淵を無造作に自分の中に抱えこんでいたこと。あびやかされることもないただすべてうっとうしい感受性——おのみずみずしい暗い粘着性をもった感受性——は俗流政治主義者の内面に息づくことのなかったものだった。それためにかれらは偽装しつつ長生きしたが、思想的に妥協を許さぬかの女の真生コンミュニストへの情憬は、矛盾を多くかつ深く早目に知ってしまったために、死を急がねばならなかったのである。

◆かの女は言う。「魂が破滅をえらぶなら肉体も運命を共にしなければならぬ」と。魂は肉体であり、そして肉体は魂だからだ。このぎりぎりの地点まできたとき、かの女は唯物論者ではなく一種の運命論者に変質していたが、いんちき唯物論者の偽装よりも、人間の実存を手さぐりするウソのない運命論者の方が数等すぐれていることを自覚していたかどうか、それはわからない。「私の精神、無用者の年輪」という自嘲は、唯物論に対する観念論の敗北への自嘲と同質のものだとすれば、一応の想定はくだせよう。しかし、きみは、自嘲することもなく敗北の怖れすら予感しない思想家を賛抑できるか。そういう政治家を組織の指導者として信頼していけるか。それをかの女は沈黙することによって憎んだのである。純粋な世界を目ざす誠実さが、不純な人間を憎むのは当然であるが、罵声を浴びせるかわりに〈死〉を選んで抗議したのではなかったか。

◆かの女は1948年すでに、共産主義運動の一枚岩という固定観念の妄想を衝いていたのだ。あの組織のなかの衆愚性に目を開いた人間は、権力にこびたその衆愚性によって復讐される運命を負わねばらない。この悲劇は、有頂天になっている情勢論者たちにはとうていおとずれることのなづかぬ愚昧な生き方が組織を侵していく現実に、いち早く気づいたかの女の群を抜いた歩みは孤独この上もないものになっていたのである。唯物論の偉大さを知ったかの女が、唯物論者と自称する組織体の人間どもにあいそをつかし、そのことをかなしみ、進みすぎたものの悲劇的運命を感覚していくとき、〈死〉はもう避けがたい深淵のほとりまで誘惑の手をさしのべていたのであって、まわりの衆愚性はそれを拒むための何らの助言すらできる資格をもたなかった。かれらは、死を喰いとめさせる力を所有していなかったことを恥じるどころか、「死は敗北だ」という高慢な非難を浴びせ胡摩化すだけしか知らなかった。長沢延子の死がそういう非難への非難という意味を含んでいた事実を、一体何人が知っていただろうか。
真に思想に目覚めたものは、妥協という方法をとって後退することはできないのだ。前進をめざせば、それ敗走になってしまう。きみは、「人々は私の敗走を何の好意を持ってか“前進”の意に名づけてくれたから、私もこの栄誉になってみようかと思ったまでだ……」というかの女の言葉を、ここで反芻できるだろう。偉大さとは、こういうことを指して言うのだ。

「旅立ち」 長沢延子

光る舗装が目にまぶしい
もはやおさらばを告げてよい時節
  
喫茶店よりコーヒーの香りは失せ
悲しい玩具が飾り窓に
あれが私の生命——
母よ
静かなくろい旗で遺骸を包み
涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか

私の魂は波頭を越えて
あなた方の
知らぬ異国の旅人となろう
母よ
渚に立ちながら
私は何の幻影もなく
あなたの名をおもう
私を生んだ
あなたの生殖器に思いを走らせる

母よ
あなたはオーロラーを知っているか
あなたが幼ない恋人の胸に抱かれた時
あなたはふと北国の氷山を
燃えあがる心の内に浮かべはしなかったか

——あなたの古びたアルバムを土蔵の隅から発見して
私は捕鯨船と
そのマストに登る
しなやかなあなたの眼ざしを見た
  
母よ
私の心に暖かいざわめきが漂ってくる
あの暖かいあなたと恋人のロバタには
私の生誕を祝う余地はなかったはずなのだが——
  
私は私がおどおど立ち上った所に
あなたの遠さを道ばたに捨てたまま
かえって行こう

もし幾年かの後
あなたが小さい女の子を思い出したなら
私のベッドの固さに驚かされることだろう

私は何の夢もなく旅人を志願した
遥かな異国の街々で
とどける術のない
あなたへの贈物を買おう
珍らしい宝石や美しいヴェールや
そして
あなたに教えられなかった
無為の花々を

 思想とは正解・不正解、勝者・敗者を決めるものではなく自からを成長させるものだ。長沢延子の〈生〉と〈死〉が、わたしを孤独から救いあげてくれた。人生は孤独だし不安である。ニーチェは体調が悪いときは必ず母親の元に帰ったという。長沢延子はこの世に帰る場所はなく、季節を最初からやり直すために母の腕の中へと旅立ったにのだろう・・・。
 古代ギリシャ人は「最も良いことは、この世に生まれないこと。次善は、早く死ぬことだ」と考ていた。この苦痛ばかりである人生を耐えるためには、〈死〉の深淵と関わること。そして、終わることのないの苦痛があるからこそ、ギリシャ人は美しい神殿や彫刻を作り、思想や哲学を極め〈生〉が輝いたのだ。〈死〉から目を背けずに注視しているからこそ、今を大切に生きていける。疲れたら長沢延子という原点に帰ればいいのだから。

(2019年5月10日)

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