教育評論家の尾木直樹さんが関係している小学校で、子どもたちに好きなものを挙げさせたら、小学校高学年の子どもたちがほっとするものが、ゲームとかではなく、北村宗積さんの「あいづち」という詩だったそうだ。「子どもたちは、共感して優しくあいづちをうってくれる欲していて、現実にそういう大人が廻りにいないことの現れなのだろう」という。
「あいづち」 北原宗積
そうかい そうかい
そりゃあ たいへんだったねぇ
つらいはなしには
かおをくもらせ
なるほど なるほど
そりゃあ よかった
うれしいはなしには
かおを ほころばせ
いまは
むかしほど ちからもない
じょうぶな はも
なびくかみも ない
あるものといえば
ふかいしわと
とりすぎたとしばかりの
おじいさん
だれがはなしにきても
やさしく あいづちをうっている
現代社会では、子どもに限らず若者や大人たちも「他者からの承認願望」を希求しているのではないだろうか。
ネット環境は多くの友だちを増やし、人間関係を拡大していこうとする傾向を強めるが、その一方で、できるだけ価値観の似通った人だけと確実な関係を維持していこうとする傾向も同時に強めるという。
友だちの数が人間として価値を測る物差しとなり、出来るだけ多くの友だちを確保しようとし、遊ぶ内容によって友だちを使い分けるという。しかし、付き合う相手を勝手に選べる自由は、そのあいて相手から自分が選んでもらえないかもしれない恐怖がつきまとう。友だちに嫌われないためにお互いの内面にまで深入りすることなく、ひたすら空気を読み、自ら作ったキャラを演じ、スマホの着信にびくびくしながら生きていかなければならない。
現代の価値観の多様化した社会では、各々が意見のぶつけあう方向にではなくむしろ対立を避け、がむしゃらに主張を押し通そうとはせず、互いに譲りあうような関係になっている。しかし裏を返せば、互いの内面にあまり深入りをしなくなったと捉えることもできる。その背後にあるのは「承認願望」の強さである。絶えまなく承認を受けつづけるためには、つねに衝突を回避しておかなければならず、互いに相手を傷つけないように慎重にならざるをえないのである。
「予定調和」の関係とは、ひたすら相手に合わすだけの関係であり、他者を気にするあまり自分のことはわからい。必要とされる役回りだけが互いに期待され、それ以外は求められないからだ。自分の本当の姿を相手が教えてくれることはなく、本当の自分の姿と出会うこもできない。
新聞記者の小国綾子さんは、生きづらさを抱えた若者や子どもの取材を長年にわたって積み重ねてこられた方であるが、中学時代には自分もリストカッターだったそうだ。その自身の中学時代を振り返りつつ、吉野弘さんの「生命(いのち)は」という詩を引用して、こう語っている。「長いめしべと短いおしべ。簡単に受精できない花の形。吉野さんは「生命の自己完結を阻もうとする自然の意思が感じられないだろうか」と問う。常に好ましいわけではなく、時にうとましくわずらわしい他者。しかし「そのような『他者』によって自己の欠如を埋めてもらう」のが人間なのだ、と。/好きな相手や似た者同士で固まるのは楽だけど、それでは「自己の欠如」は埋まらない。ある時は見知らぬ誰かが私のための虻となり、ある時は私が誰からのための虻となる。/確かに私の人生、そんな他者との出会いの積み重ねだったのかも」(『毎日新聞』2014年2月4日)。
「生命(いのち)は」 吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
人間関係とは、互いの衝突を契機にそのあり方が見直され、再構築されていくもであり、そうすることで周囲の環境の変化にも柔軟に対応していける。そして、新しい自分を発見していくこともでる。しかし、あらかじめ衝突の危険性を回避し「予定調和」の関係を営んでいるかぎり、その関係は次のバージョンへとレベルアップされ、深まっていくことはありえない。自分の知らない自分に出会うこもできず、したがって環境の変化にも絶えられないことになる。キャラを演じあうことで維持される人間関係は、表面上は安定した関係のように見えるが、それは今この場かぎりのものであって、長い目で見ればじつは意外と脆いものである。
互いの本音を理解しあっている人間関係であれば、多少の摩擦が生じたとしても、それで関係は壊れるかもしれないなどと不安に駆られることはないだろう。自律的に個人は相互に信頼して尊敬しあえる関係を築き、そこで互いに承認を与えあうことができれば、自己肯定感も揺るぎないものになるだろう。そうすれば強い他者に依存することもなく、弱い他者を気遣うこともできるだろう。
誰だって若い時は不安定だし孤独だ。小国さんは自らを振り返り「自分探し」をするなという。
「自分から心に高い影を築き、独りぼっちで生きる理由を探しているだけで、頭の中だけで「自分探し」をして見つかる自分でなんて、ろくなもんじゃない」と。
「狭く閉じてしまわず、あきらめず、一歩踏み出そう。誰かに会って「はじめまして」と言おう。「こんにちは」と「ありがとう」を重ねていこう。そんなことから見えてくる「自分」が大事だ」と。
〈参考文献〉
『つながりを煽られる子どもたち』 土井隆義(岩波書店)
北原宗積(きたはらむねかず)
1931年 信州松本に生まれる。信州大学工学部卒業。中部日本放送勤務をへて児童文学の道へ。
第10回新美南吉文学賞 佳作受賞
第1回日本児童文学賞制作コンクール入選
(2018年12月27日)