【帆をはって】
包丁で指を切った
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
年をとった彼等
には
肯定できない
ものが
君
には肯定できる
(絶対がここにはある)
いつか二人で猫を飼おう
名前
何てつけようか
どうしようもないこの星
で
弱さが強さになる
荒波を利用
して海
へ出る
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
生きているんだ
この詩は三角みづ紀の詩集『オウバアキル』に収められている。「オウバアキル(overkill)」とは過剰攻撃という意味だ。
小中学校時代いじめにあったという三角みづ紀さんは、新聞のインタビューに「詩を書くのはいじめへの復讐です」と答えている。
この詩集には28編収められ、ある新聞には「いじめや暴力、リスカ、クスリ、自殺願望などそれらかを凝視した作品世界から聞こえてくるのは、現代の若者がもつ不安、痛み、SOSの声です」と紹介されている。三角みづ紀さんの詩には「死」がまとわり付いている「死」が魔法であるかのように…。時として「死」の世界に足を踏み入れそうになったかもしれないが、角みづ紀さんは病気を克服しながら、「生きている/生きている/感謝しよう/全てのものに」と生への渇望っをうたい、「あとがき」の最後の言葉、「大丈夫私は元気です。」の言葉に厭世的ならずに生きぬこうとする姿勢を感じる。
三角みづ紀さんが生まれたのは1981年で、南条あやと同世代だ。少し上がCoccoや松崎ナオになる。彼女たりの青春はバブルとその崩壊、誰もが「勝ち組」になるための弱いものイジメが背景にあり、「メンヘル」や「カイリ」が叫ばれ、社会が壊れ始めた頃だ。
誰もが心にぽっかり穴があき本当に自分、本当の居場所を探している。
『ぼくを探しに』(シルヴァスタイン作、倉橋由美子訳)という絵本がある。その冒頭にこんな詩が掲げられている。
何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを
探しに行く
ころがりながら
ぼいは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを……」
主人公の「円」が「何かが足りない」と思い、かけた部分を探して完全な「円」になりたい、ならなければと旅に出る物語だ。
現代人は「穴があいたままじゃダメだ」と強迫観念になったり、「自分にもかけた部分がある」と悩んている。物語では、苦労してかけらを見つけるが、まるくなった「円」では歌えなくなりせっかく見つけたかけらをそっとおろし、一人ゆっくりころがりはじめる。歌いながら。
何かがかけているからわかる事もあり、心ぽっかり穴があいているから大事なモノが見つかるのかもしれない。確かにこの世は魔法の世界ではない。ラカンのいう「想像界」で生きてもいい。詩とはそういう世界だからだ。永遠にかけら探しはつづくし…
三角みづ紀さんはころがり続けて生きている。そして自分も生きている。それだけでいい。
(2017年7月27日)