まど・みちおの「リンゴ」を読む

「リンゴ」 まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 まどさんはこの「リンゴ」という詩を1972年、63歳の時に発表した。まどさんは、詩を「つくる」というよりも「生まれる」という感じがするという。テーブルの上に置かれたリンゴを見て、その美しさにハッとして、まどさんの中の何かが震えた。なぜハッとしたんだろう、美しいと思ったんだろうと追求していったら、そのうち「リンゴが占めている空間は、ほかの何ものも占めることができない」ということに気がついて、またハッとしたという。まどさんにとって「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」という発見はよほど衝撃だったようだ。15年後の1987年に「リンゴ」を「ぼく」に置き換えて「ぼくが ここに」という詩を書いている。言わば「りんご」の存在を発見したことによって「個」というものの発見であったのだ。それは、この地球に自分自信が「存在」しているという「超個」の発見であったのだ。
 この詩は「存在」という普遍的なものがテーマだ。それゆえに、多くの人がこの詩について独自の評価し、多くの人が解説をしている。
 詩人の佐々木幹郎さんはこの詩について「短い詩だけれど「りんご」の存在感を浮き上がらせています。哲学としての存在論の領域にも踏み込んでいる」と語っている。
 詩人の大橋政人さんはこの詩について「リンゴは/リンゴ自身/存在していないことをしめすために存在している」と言う。「リンゴ」は風景としての「リンゴ」ではなく、すでに「在る」ことと「不在」が解け合ったような「光景」としての「リンゴ」になっている語っている。そして、この詩を最初に読んだとき、言葉の厳密な意味などわからなかったが、ものを凝視する詩人の恐ろしいほどの息づかいを感じた。そして、恐ろしいほどの凝縮した時間の中で、私が見ているリンゴの風景が「まぶしいように」一つの「光景」へと変質していくのを感じたという。

 人間が「存在」するとはどういう意味なのか。
 先人の哲学者たちは「存在」の意味を考えるとは、人間の「存在」の本質、自分が個人としてどのように存在するのか、自分の人生に意味を見出すことができるのか、ということを考えることだという。
 キルケゴールは、自分がどのような人生を送るかにについて、自分で道徳的判断を下す「自由」があり、それこそが自分の人生に意味を与えるという。しかし、この選択の「自由」は幸福だけをもたらすだけではなく、恐怖や不安を伴うものである。恐怖や不安に絶望して何もしないことを選択するか、不安から逃避せず「真正」に生きて人生に意味を与えるような選択をするか、決断しなければならない。
 人は生きていくうえで「死」の恐怖や不安から逃れることはできない。池田晶子さんが『人生のほんとう』で記すには「生きる」と「死ぬ」は対にならないという。「生」に対して「死」があるのではない。「死ぬ」という言葉で表象するものは、他人の死をごっちゃにしたもので、われわれは生きている限り自分の死のことは知りようがないし、生きている人は誰もそれを知らないから、自分が死ぬことは考えられない。なぜならそれは、どこにも「ない」から。この世界のどこにも、自分の無としての死は存在しない。無が存在したら無ではないのだから。なぜ在ることしかないのかを考えていくと、わたしたちが「生きている」といっている生存とは、存在することの部分集合にすぎず、存在するといることは、必ずしも生存していることだけをいうのではない、ということがわかってくる。自分が生きているという当たり前と思っていたことが、とんでもなく謎であり、わたしたちは「存在」と「無」とい宇宙的なからくりのようなもので、「生かされている」ということがわかる。この宇宙の中に現れて「自分が自分を生きている」こと「あなたがあなたを生きている」ことが奇蹟的なことである。
 わたしたちは毎日のように奇蹟を生きている。そして、人と出会ったり、ものと出会ったりしていることは奇蹟と奇蹟の出会いであり、とても愛おしいことである。
 この「りんご」という詩を改めて読めば、まどさんがリンゴとの奇蹟的な出会いを、微笑んでながめている姿が目に浮かんでくるようだ。

(2019年12月14日)

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