星になった少年 —父と子の物語—

「おい居るかい。まだお前は名前をかへないのか。ずいぶんお眼も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格はちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまでも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまからくださったのです。」
「いいや。おれの名前なら、神さまから貰ったのだと言ってもよかろうが、お前のは、言はば、おれと夜から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。」
〈略〉
「だってそえはあんまり無理ぢゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」

宮沢賢治の『よだかの星』を読むと、よだかと岡真史少年のことを重ねてしまう。
岡真史少年は中学2年生のとき、東京の西北郊外にある住宅団地の屋上から突然、鳥が翔び立つように夜の空へと身を投じて命を絶った。残された詩と作文が『ぼくは12歳』(高史明・岡百合子編)という詩集になり、版を重ねて今でも読み継がれている。この詩集に収められた詩は、真史君が小学校6年生かの晩秋から、中学2年生の死の直前までに書きためた詩である。

『よだかの星』とは「かわせみの仲間であるよだかが、その名前から鷹に嫌がられ「明日までに改名しなければつかみ殺すぞ」と言われてしまい、自分が鷹に殺されることがこれほど辛いのに、その自分は毎晩たくさんの羽虫を殺して生きなくてはいけないことを悟り、そして辛すぎるこの世を捨てる決心をし、空に向かってどこまでもどこまでも飛び続け、やがて青い美しい光を放つ「よだかの星」になり、今でも夜空で燃える存在となる」という童話である。

鷹がよだかを殺そうと思えば簡単に殺せるのに、わざわざよだかの家まで行って改名を要求したというのは、殺すつもりはなく、鳥の世界のしきたりを教えようとしたためだと思う。親子の関係に置き換えると、鷹=〈父〉であり、よだか=〈子ども〉のような存在である。〈父〉がいつまでも自由奔放に遊ぶ〈子ども〉に、大人になるための通過儀礼を与えたが、残念なことによだか=よだか=〈子ども〉はすべてを拒否して自分自身であるために死を選ぶことになってしまった。
〈父〉とは「社会からの要請」を代理としてリビドーの発露を抑圧する存在である。そうした社会からの要請を代理する〈父〉の機能をジャック・ラカンは「父の名」と呼んだ。幼少時の全能感・万能感を断念させる「父の名」を通じて、初めて社会のポジシャンを得る方向に向かうという。

「ぼくはしなない」 岡真史
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

父親の高史明氏は『いま「いのち」の声を聞く』(佼成出版社)で亡き真史君のことを語っている。
彼が中学生になった時に、私は三つの言葉を贈りました。「君は今日から中学生なんだ。中学生になったからには、これからは自分のことは自分で責任をとりなさい」、そして二番目に、「他人に迷惑をかけないようにしなさい」そう言いました。そして最後に、「自分のことは自分で責任をとり、他人に迷惑をかけなければ、お父さんはこれから一切る君のやるこに干渉しない。自分の人生だから。自分で責任をとっていきなさい」こう言いました。
ちょっと考えてみると、正しい。しかしその正しさは、「十二から四つを引くと八つ残る」という正しさとあまり変わらなかったのでした。私の言葉のどこに問題があったか。具体的に言いますと、こういうことです。
「他人に迷惑をかけるな」と私は言いました。しかし「ここまでくるのにどれだけ他人の働きを頂戴してきたか」——それを言うのを忘れておりました。「他人に迷惑をかけるな」——この言葉には端的に言って「明日から迷惑をかけるな」です。それこそ、今日ここへ来るまでの十二年間に、どれだけの人の働きを頂戴しているかを見失った言葉にほかならなかったのです。しかし、着ている洋服、靴。それは自分が作ったか。歩いている道は自分が作ったか。それをお金を出して買ったのだから誰にも迷惑をかけていない。と思うなら、生きた人間の姿がお金の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それだけではない。人間が見えなくなれば、当然たくさんの生き物のいのちも見えなくなります。人間は生き物のいのちを頂戴して生きているわけです。その生き物のいのちというものが見えなくなれば、美味しいとか不味いかだけでご飯を食べるようになります。それは、生きるということから、生きている人間や他の生き物とのほんとうのつながりを見失って、そのすべてを数の知恵に置き換えてしまうことに等しいことになります。それが人生というものでしょうか。その人生は実に虚しい、砂漠のような人生です。私は子どもによかれという思いから、ほんとうの生、ほんとうの人生を見失わさせていたのでした。
私は、彼が中学生になった時、違うふうに言うべきでした。
君は今日から中学生だこ。こまで来るのにどれだけの人の生きた働きを頂戴してきたか。どりだけの生き物のいのちを頂戴してきたのか。それをしっかりもう一度肝に銘じてほしい。それが他人に迷惑かけないことの始まりであり、それがほんとうの意味のいのちに根ざした『自分』というものの始まりだ。自分のことは自分で責任をとる、とは、自分がすべてでないということ、自分がこの世に誕生せしめられてきたそのいのちの働き全体に対して、真に責任をとっていくこと、いただいたいのちを生きること、それこそが本物の責任というものだ」そのように言うべきでした。それが、言えなかった。その言えなかったことろこそが、算数の知恵、それだけを良しとする私の間違いがあったのだと思います。

「じぶん」 岡真史
じぶんじしんの
のうよりも
他人ののうの方が
わかりやすい
みんな
しんじられない
それは
じぶんが
しんじられないから

子どもという存在は社会的な衣を着ていない存在であり、社会的な地位や階級や国籍などにも囚われない、いのちそのものに近い存在である。その子どもが大人になるとは、子どもの「自分を殺して」大人としての「自分に生まれ変わる」ことであり苦難や苦痛を伴うものである。大人なら誰でも心当たりがあると思うが、心の状態が不安定になり家出をしたり家庭内暴力をしてしまった時期が、子どもから大人に変わろうとしている時期である。
この時期の子どもたちは、大人たちの世界をどのように見ているのだろうか。「いのちを大切に」といいながら過剰に繁殖させて動物を食し、自然破壊の影響で住む場所を追われた野生動物を殺し、「平和の大事さ」をいいながら世界中で戦争が行われ、「差別はいけない」といいながら弱者を平気で切り捨てるのが大人の世界の現実である。子どもたちは、大人たちの醜い姿を見抜いている。そして、この醜い世界で生きているという絶えられないほどの苦痛があり、いっそのこと「死んでしまいたい」と思っても不思議でなないだろう。

「無題」 岡真史
にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべ
してた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない

この世の中に
自由なんて
あるだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに・・・・・・

大人たちは12歳の少年に「自分を、かえしてよ」と問われたら、何ことばを返したらいいのだろうか。たいていの大人たちは返答に窮し、言い逃れをするしかないだろう。けれども真史君は「きれいごとではすまされないこともある、まるくおさまらないことがある」と大人たちが返答できないことすらわかっていたのかもしれない。それが真史君の聡明さであり、優しさなのだろう。その優しさが「心のしゅうぜん」ができなくて自ら命を絶ってしまったのかもしれない。

よだかにしても、鷹にむかって「改名するくらいなら、死んだほうがましだから今すぐ殺して下さい」と言ったことを考えると、よだかの鷹に対する甘えと理解することができる。よだかは鷹が殺せないということを知っているのだ。〈子ども〉=よだかは〈大人〉になること「共同体」に参入して生活人となることの拒否の表明なのである。いわばとだかは鳥社会の中での自由人で詩人でありたいのだ。よだかは誰にも束縛されず、自由に空を羽ばたきながら生を謳歌していたいのである。しかし、このいつまでも〈子ども〉にとどまり。自由でありたいと願うよだかも、ついに共同体社会に参入するための通過儀礼の日を迎えざるを得なかった。鷹は、最後通告の形で、よだかを説得しに訪れたのでる。
〈子ども〉であり続けようよするよだかは、罪を知らず、生活を引き受けようともしない、そしてこの自由がもはや許されないと知ったとき、よだかは生きることよりは自ら命を絶つことを選んだのだ。

この考えですら大人である自分は、真史君の死を納得させるための都合のいいように解釈しているかもしれない。そして、残された高史明氏や鷹=〈父〉の苦悩のことも考えないわけにはいかない。ただ一つだけ言えることは、大人たちの「生」は亡くなった〈子ども〉たちに問われているということだ。
『ぼくは12歳』という詩集は悲劇性だけを考えるのではなく、純真な小さな詩人そのものと、向き合うことが大事だと思う。

「夕ぐれ」 岡真史
夕ぐれ
赤い
もえたつ太ようが
くもも空も
みんな
仲間入りさせてる……
くもも空も
まっかにそまる
ぼくも
仲間だよね
ほら
全身まっ赤だよ

創造的退行という言葉がある。退行というのは、人間のこころの状態が子どもの頃に帰る状態になり、馬鹿げた空想をしたりするようなことである。これは決して悪い意味ではなく、現在の閉塞した社会を打ち破るためにも、退行することが何か新たな想像力を生み出すことに繋がるからである。
子ども頃のように夜空をながめてみよう。
2つの美しく輝いている星が「何か」 を教えてくれるから。

〈参考文献〉
『宮沢賢治の神秘的世界』清水正
『いま「いのち」の声を聞く』高史明
『大人になることのむずかしさ』河合隼雄
「岡真史「ぼくは12歳」と「山芋」」(『大関松三郎の四季』)南雲道雄

(2018年12月15日)

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