高村光太郎の晩年の生き方

岩手県の花巻にある小さな山荘は、冬になると雪の中にひっそりと眠ってしまう。
高村光太郎は1945年から1952年の7年間をこの小さな山荘で暮らしていた。

人間は誰しも過ちをおかすものだ。
そのつど謝ればすむこともあれば、謝っただけではすまないこともある。
先の原発事故後は謝ってすむ問題では全然ないのに、誰も責任を取っていないこの時代…。
ひとりの人間としての責任の取り方を、高村光太郎の晩年の生き方で学ぶべきだろう。
光太郎は戦争中、戦争を賛美し国民を戦争に駆り立てる詩を山ほど書いたという。
戦争が終わった時、周囲はもちろん、なにより自分が自分を強く責めた。
そのざんげと自責の念から人里離れた岩手の山に小屋を建て、そこに移り住んだ。

【わが詩をよみて人死に就きにけり】
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがった。
死はいつでもそこにあった。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になって私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かった。
その詩を毎日よみかえすと家郷へ書き送った
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

山での生活の過酷さは生半可なものではなく、
厳寒の東北の冬に、すきま風と雪が吹き込む粗末な小屋の中は零下20度にもなる。
いつも濡れたように湿気た布団の上には、吹き込んだ雪が積もり、
吐く息は布団の縁でたちまち凍ったそうだ。
また、水道もないところで野菜を食べたせいかl、
体内に寄生した虫が口から出てくるほどだったという。
そんな過酷な環境でも、村の人々から愛され、助け合って生きて行く中で、
自分を見つめ直し、人間として成長し、智恵子の思い出と共に暮らした7年間は、ともて幸せだったことだろう。

【山のともだち】
山に友だちがいっぱいいる。
友だちは季節の流れに身をまかせて
やって来たり別れたり。

カッコーも、ホトトギスも、ツツドリも
もう“さやうなら”をしてしまった。
セミはまだいる、
トンボはこれから。
変らないのはウグイス、キツツキ、
トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。

兎と狐の常連のほか、
このごろではマムシの家族。
マムシはいい匂をさせながら
小屋のまはりにわんさといて、
わたしが踏んでも怒らない。

栗がそろそろよくなると、
ドングリひろひの熊さんが
うしろの山から下りてくる。
恥かしがりやの月の輪は
つひにわたしを訪問しない。

角の小さいカモシカは
かはいさうにも毛皮となって
わたしの背中に冬はのる。

【裸形(らぎょう)】
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造形の瑪瑙質(めなうしつ)に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう。

現代は効率を求める時代であり、立ち止まって考えることを、面倒で非効率的なこととし、
出来るだけ、少ない労力で出来るだけ多くのものを手に入れることが「成功」と呼ばれる。
しかし人間が「生きる」上で、光太郎のような真剣に自分というものと向き合い、一生懸命自分だけの力で考え行動する、
頑なで不器用な生き方が、真実を求める「正しい」生き方であると思う。
「豊かさ」とは物や金が沢山ある事ではなく、自分自身の心であり、あらゆるものの中に見出し、作り出すことのできる「美」である。
混沌とした現代社会だからこそ、他者と競べるのではなく、自分の内面に目を向け豊かに生きていきたいものだ。

【牛】の一節から
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はって行く

(2017年8月5日)

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