日々を慰安が吹き荒れる

近くのスーパーで、200円の海苔弁当か300円の唐揚げ弁当を買うか悩んだあげく、300円の唐揚げ弁当の欲望をレジ袋に入れて帰宅する途中、群衆が道をふさぐように集まっていた。「今日は何かのデモがあるのか?」と心躍ったが、期待もむなしく“ポケモンGO”の巣に集まった群衆だった。
吉野弘に「日々の慰安が」という詩がある。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が作る。
明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

慰安が笑い
ささやき
うたうとき
さみしい心の人が枯れる。
枯れる。
なやみが枯れる。

ねがいが枯れる。

言葉が枯れる。

ある解説によると「慰安」はテレビ番組のことで、自分の中に抱えている寂しさや悩み、それからもっと踏み込んだ精神性、プライド。それをテレビの慰安が吹き荒れて、紛らわしてしまう。何か考えなきゃならないことがあったのに、テレビを見てしまうといつのまにか時間が経ってる。心の中の淋しさや苦悩そんな精神が、人生にとって本当に大切なものかもしれないのに、それが浅いところで紛らわされてしまうということらしい。「日々の慰安が」は1952年に雑誌「現代詩」に掲載され、第一詩集『消息』に収められている。
この時代に流行した言葉で、社会評論家の大宅壮一の「一億総白痴化」ということばがある。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
適菜収は、テレビは基本的に“バカを生み出す機械”という。「テレビ番組の目的は、不特定多数の人間にCMを見せてモノを買わせるころです。スポンサーを得るためには視聴率を稼がなくてはなりません。そのためには「大多数が好む番組」を作る必要がある。だから「底辺レベル」に合わせた番組作りが行われます。「上のレベル」に合わせたら下がついて来れず、視聴率が稼げないからです。こうなると「底辺」に向かうスパイラルに陥ります。視聴者はバカな番組を見てバカになり、そのバカに合わせて番組を作るので、あさらにテレビは下劣になる。この構造が「モノを考えずに消費する人間=騙されやすい人間」が増えている要因です。」という。
現代社会はテレビに限らず、あらゆる娯楽があり「白痴化」が激化して「B層」社会化している。ネット社会は、おたくやフリーターを急増させ、世代間のギャップが目立つ。若者たちは政治から遠ざかり、目先の「お祭り騒ぎ」にしか関心が向かない。

サルトルが提唱した「アンガージュマン」という思想がある。「社会参加」という意味だ。サルトルがが1939年9月のある日、一枚の招集令状を受け取り、戦争という自らの個人的自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれ、いやおうなく「社会的状況」というものに目覚めることになったという。
「アンガージュマン」の思想は、サルトルが1947年の「文学とは何か?」において文学者「アンガージュマン」について述べている。だが「アンガージュマン」というのは文学者の「社会参加」という意味ではなく、一般の人間にも通じる思想である。
サルトルは『存在と無』において「人間は自らの“存在仕方”に関する限り全面的に責任がある」と主張した。人間は世界-内-存在として「事物や他者の存在する社会」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような社会と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような社会と関わって生きるということなのである。
サルトルは言っている。「たとえ石ころのように黙ってじっとしていても、われわれの受身の態度そのものが、すでに一つの行動である」このように、社会に背を向けて生きる場合でさえも、それは社会に対する一つの関わり方であり、一つの社会的立場をとることなのである。

安倍(アメポチ)政権は「戦争のできる国」から「戦争をしたくてたまらない国」へ、戦後の平和主義を否定し、海外で戦闘可能な体制を作りだし、軍隊を復活させ帝国主義に回帰したいようだ。そして、安全保障も外交も経済システムもすべて壊してアメリカに売り飛ばそうとしているのが安倍政権である。集団的自衛権の問題は、日本という国が対米追従国家であることを露呈した。
いつまでも経済会国でありたいという欲望は、グローバル経済秩序における教義とさえ言える新自由主義を絶対視している。何でも自己責任の“改革”が格差社会を作り、ワーキングプアや失業者を大量に増やすことによって「戦争」をしやすくしている。弱者は強い立場の者にへつらい、より弱い立場の人間を差別することで内心のバランスを保とうするからだ。そして、官僚や企業は政権からおこぼれにあやかろうと忖度し、メディアは権力に飼いな馴らされ社会は集団化し、対米従属を不可侵の大前提としとした帝国主義国家化へと進んでいる。
日本は世界から「働きバチ」といわれ、「ウサギ小屋」といわれ揶揄されてきた。しかし、精神性と勤勉さで「豊かな国」になったのではないのか。国民から搾取したカネを米国に貢ぎ、福祉を切り捨て、決して「豊かな国」になれない日本でいいのだろうか。年間3万人の自殺者は決っして「豊かな国」になりれない日本を象徴しているようだ。カネは人を殺す為に使うのではなく、人を殺さない為に使うべきだ。
トーマス・カーライル は「この国民にしてこの政府あり」というように、私たちは「B層」を生きては行けない。安倍晋三氏は、選挙の演説で反対派に対して「こんな人たち」と発言し、麻生太郎氏は、選挙演説で支援者に対して「下々(しもじも)の皆さん」と発言した。この程度の政治家を生み出しているのも私たち自身である。
自分の存在など、路傍の石ころみたいなものだろう。「右」も「左」も関係ない、自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれないために「下」から「上」を睨み続けていきたい。
ハンナ・アーレントはいう。「思考し続けろ!」と。

(2018年12月7日)

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