地球の寝床

 反差別、反偏見、反貧困、反戦争、反原発・・・。
 悪夢を喰いながら詩を書き続けたのが、山之口貘(1903~1963)という貧乏詩人のポエジーだ。

「座蒲団」  山之口貘
土の上には床(ゆか)がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

 貘さんの詩法の最も優れた特徴は「反転」の鮮やかさにある。ユーモア、アイロニー、ペーソスといったような貘さんの詩について述べられる評価のすべてはこの「反転」によって生まれてきたものだと言っていい。この「反転」はどこから出てきたかというと、それは「ない」ことの認識をめぐって生まれてきたものだ。「ない」状態を際立たせるための最大の戦略としてそれはあったし、「ない」ことをめぐる「思辨」が生み出した方法であったのである。
 ペーソスやペシミスティックに「ない」ことを語るのは誰にでも出来るだろう。しかし、生き様が反映されていない言葉はウソっぽいものである。貘さんの言葉とは、すべて身体を通して出てきたものであり、生き様そのものである。
 19歳で沖縄から東京に出てきた貘さんは、定職を得られず、昼間は喫茶店に入りびたり、夜は土管にもぐって寝たり、公園や駅のベンチ、キャバレーのボイラー室等折り折りの仮住まいの生活で、初上京の日から16年間、畳の上に寝たことはなかった。こうした放浪生活の中で詩を書き続けたのだ。

「生活の柄」 山之口貘
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねれむれない

 貘さんは40年間の詩人生活で『思辨の苑』『山之口貘詩集』『定本 山之口貘詩集』のわずか3冊の詩集しか刊行していない。短い詩一篇を生み出すために、200枚、300枚の原稿用紙を書きつぶしてしまうほどの「推敲の鬼」と言われるほどだ。こんな逸話もあるという。苦労して書きためた詩も相当数になり、それらをまとめて処女詩集を刊行する運びになった。そこで貘さんは佐藤春夫氏に序文を書いてもらった。佐藤氏はその序文の末尾に「1933年12月28日夜」と日付を記した。ところが、実際に詩集が刊行されたのは1938年。序文をもらったあと、なお推敲に推敲を重ねるうち、5年の歳月が流れてしまったのである。
 獏さんを知っていた人たちは、みんな声をそろえて、獏さんのことを「精神の貴族」だといい、貧乏だったからこそ「よい詩」が書けたのだという。中野孝次氏は『清貧の思想』という著書で、金銭欲と所有欲が支配する現代社会に対して、芭蕉、良寛など日本の文化人たちが追求した文化の伝統を「清貧」を尊ぶ思想として論じた。その思想は、脱金銭、脱所有の生活態度に徹することによって、精神の自由を確保し、富裕や権勢や栄達以外に重要なものがあることを発見しようとするものであって、宇宙と自然の中に人間の魂や生命そのものの充足を図るというものであるという。獏さんは「地球市民」として「清貧」を生きたからこそ詩が生まれたのだ。
 「地球市民」とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、誰もが地球社会の一員であり、人として尊重される社会の実現を目指そうとする思想の事である。

「僕の詩」 山之口貘
僕の詩をみて
女が言つた

ずゐぶん地球がお好きとみえる

なるほど
僕の詩 ながめてゐると
五つも六つも地球がころんでくる

さうして女に
僕は言つた

世間はひとつの地球で間に合つても
ひとつばかりの地球では
僕の世界が広すぎる。

 「地球市民」である獏さんの詩には「地球」という言葉が多く使われている。
 見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いている 「襤褸は寝てゐる」、地球の頭にばかりすがつている 「思弁」、ほんの地球のあるその一寸の間 「数学」、地球を食つても足りなくなるなつたらそのときは 「食ひそこなつた僕」、地球の上でマンネリズムがもんどりうつている 「マンネリズムの原因」、死んだら最後だ地球が崩れても 「生きてゐる位置」、まるい地球をながめてゐるのである 「夜」、まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら 僕の足首が痛み出した みると、地球がぶらさがつてゐる 「夜景」、次第に地球を傾けてゐるのをかんじるのである 「立ち往生」、青みかかつたまるい地球を 「頭をかかえる宇宙人」、地球の上を生きているのだ 「羊」、地球の上はみんな鮪なのだ 「鮪に鰯」、地球の上で生きるのとおなじみたいで 「告別式」、ぼくのうまれは地球なのだが 「がじまるの木」、地球をどこかへ さらって行きたいじゃないか 「船」、九月一日の 地球がゆれていた 「その日その時」、琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ 「沖縄よどこへいく」、まっすぐに地球を踏みしめたのだ 「親子」
 一昨年の夏、東海道を180KM歩いたが都市空間に限らずローカルな空間にも自販機やコンビニは至る所にあるのに、ところ構わず寝られる場所など一つもなく「○○禁止」の標識だらけだった。公園や空き地は徹底的に管理され、寝ればすぐに警察に通報された事だろう。むしろ人間は管理されたがっているようも感じた。近代化は何を豊かにしたのだろう。ところ構わず寝られる場所を奪い、人間の寛容さを奪い、多くの動植物が絶滅させ、山之口貘的詩人も絶滅危惧種である。ホーキング博士は、人類がこのまま二酸化炭素を排出し続けるならば温暖化により、あと100年で地球は終了すると警告したが、もうすぐ人間も絶滅危惧種の仲間入りするかもしれない。

「雲の上」 山之口貘
たった一つの地球なのに
いろんな文明がひしめき合い
寄ってたかって血染めにしては
つまらぬ灰などをふりまいているのだが
自然の意志に逆らってまでも
自滅を企てるのが文明なのか
なにしろ数ある国なので
もしも一つの地球に異議があるならば
国の数でもなくする仕組みの
はだかみたいな普遍の思想を発明し
あめりかでもなければ
それんでもない
にっぽんでもなければどこでもなくて
どこの国もが互に肌をすり寄せて
地球を抱いて生きるのだ
なにしろ地球がたった一つなのだ
もしも生きるには邪魔なほど
数ある国に異議があるならば
生きる道を拓くのが文明で
地球に替るそれぞれの自然を発明し
夜ともなれば月や星みたいに
あれがにっぽん
それがそれん
こっちがあめりかという風にだ
宇宙のどこからでも指さされては
まばたきしたり
照ったりするのだ
いかにも宇宙の主みたいなことを云い
かれはそこで腰をあげたのだが
もういちど下をのぞいてから
かぶった灰をはたきながら
雲を踏んで行ったのだ

(2020年6月24日)

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