未分類」カテゴリーアーカイブ

津村信夫 伝

 津村信夫(1909年1月5日〜1944年6月27日)は北欧的詩情への憧憬から出発したが、しだいに質朴な生活を志向し、さらに身辺に取材する平明な叙情へと展開した。戸隠の自然と家族を愛した津村信夫はまた、生涯の師と仰いだ室生犀星や「四季」の面々からも愛されたが、3冊の詩集を残し、アディスン氏病により35歳の生涯を閉じた。

第1詩集『愛する神の歌』
昭和10年11月25日 自費出版(限定版400部/四季出版発行)

 『愛する神の歌』所収の作品は、全64編。それらは昭和6年5月から、同10年11月まで4か年半ばかりの間に発表された作品群である。昭和2年4月に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、10年3月に同学部を卒業すると、ただちに東京海上火災保険会社に勤務した。そして昭和13年夏に同社を退くまで、3か年余りをサラリーマンとして過ごしている。従ってこれらの作品群は、慶大在学中の約4か年と、約半年のサラリーマン生活とにまたがる、4か年半程の間の所産というわけになる。しかもその全64編のうち、社会人になってから発表した詩は12編にすぎないから、大半は大学時代の作品といえるのである。
 『愛する神の歌』の題名は、集中の作品の表題によったものであるが、そもそもこれにはリルケ著『愛する神の話』の題名が投影しているのであろう。そして、津村信夫にとって〈愛する神〉とは、姉(道子、昭和8年7月15日没)であり、また恋人ちであって、津村信夫はそうした愛する神たちへのこの1巻を捧げたのであった。
 集中の作品は、すべて既発表のものである。そのうち〈馬小屋で雨を待つ間〉章に収められている初期(昭和6年~8年春)の作品群の主たる発表機関は、「三田文学」「あかでもす」「四人」さらに「文学」(「詩と詩論」改題)の4詩である。そして津村信夫はすでにこの初期に、「セルパン」(昭和7年10月)、「国民新聞」(昭和8年3月)などの商雑誌にも登場していた。次いで「四季」の創刊される昭和9年10月までの間には、「セルパン」「帝国大学新聞」「文芸」「舗道」「作品」「世紀」「苑」「鷭」などが舞台になっていた。
 「四季」には、創刊号に「生涯の歌」(〈石像の歌〉章)を携えて登場するが、以後は「四季」を拠点とし、さらに「青い花」「コギト」「芸術科」「改造」「短歌研究」なども舞台として、いっそう広範な活動を展開しようという勢いを示す。――そんな折に、処女詩集『愛する神の歌』は刊行された。つまり津村信夫は処女詩集の出現以前に、すでに詩壇・文壇の人になっていて、その刊行は津村信夫の存在を一段とめざましいものにし、然からしめたといえよう。

「小扇」 津村信夫
  ――嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に――

指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

※「ミルキイ・ウエイ」とは、津村信夫が父秀松の親友の令嬢(内池省子)に命名した渾名。昭和6年春に知り合い、その夏をともに軽井沢で過ごしたが、彼女は翌7年に他家に嫁いだ。

第2詩集『父のゐる庭』
昭和17年11月20日 臼井書房

 『父のゐる庭』所収の作品は、全33編。それらは昭和11年1月から、同17年4月まで6か年半ばかりの間に発表された作品群である。その間は津村信夫の28歳から34歳まで、――つまり青年期から壮年期への移り行きの時期に当たっている。
 津村信夫はその過程の中で、さまざまな人生経験を味わう。まず昭和11年12月に恋人昌子と結婚し、やがて1児をもうける(昭和16年5月に長女初枝誕生)。また、昭和13年夏には東京海上火災を退職し、3か年余りにわたったサラリーマン生活に終止符をうち、おのれの方途を文筆生活の一点にしぼる。そんな懸命の賭けを試みた矢先の昭和14年12月に、彼の保護者であり、また師表でもあった父の死に遭遇するのである。
 津村信夫の懸命の賭けには、当然文筆生活による自活の企図がふくまれていたであろう。とすれば、詩から散文へという道行きが、自然に求められていたと思われる。昭和15年10月刊行の『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて発行)は、そうした行程の最初の収穫とみられる。
 『戸隠の絵本』で、津村信夫はみずから〈叙情日誌〉と称する説話体のロマンの様式を創出するが、一方でまた津村信夫なりに本格的な小説の制作にはげんでもいた。とにかく津村信夫は生活者としても、文学者としても、ようやくけわしい転機を迎えつつあったのである。しかも世情は、日中戦争から太平洋戦争へと険悪の一路をひた走っていた。
 昭和16年7月、津村信夫は追われるようにして東京から鎌倉の仮寓に移ると、戦時下の徴用を忌避し、横浜市の日産自動車会社内青年学校に教師として勤務することになった。そのため、それまで指揮をとっていた「四季」の編集実務を後進にゆだねる。
 事態はもはや、美神への奉仕に専念することを津村信夫に許容しないまでに逼迫していたのである。この詩集の中で、津村信夫は〈不自由〉とか〈不器用〉とかいうことばをしばしば用いているが、それがそんな迷路にはまりこんだ津村信夫の、やり場のない嘆声とも聞きなされる。
 この詩集の詩風は、『愛する神の歌』のそれに比して、かなり変貌をとげている。津村信夫はすでに『愛する神の歌』の後期あたりから、人生派・生活派ふうな傾向を示しはじめ、表現の華麗さや感覚の鋭利さより、静かな知性・悟性を尊ぶようになっていた。その傾向はこの詩集において、はっきり表面に出る。用語・表記の上でも簡素化が目立つのであるが、それは句続点の全面的な排除という措置に最も端的に認められるのであろう。そしてこの措置は、次の第3詩集『或る遍歴から』においても、そのままひきつがれる。
 この詩集の題名は、〈その三〉の中にある「父が庭にゐる歌」という詩の表題にちなむもの。〈あとがき〉でもしるしているように、津村信夫はこの詩集を「私の心を育ぐくんでくれたもの(父)を記念」すべく編んだのだが、かたがた壮年期の展望に立ったおのれのための、一里塚ともするつもりだったのであろう。

「父が庭にゐる歌」 津村信夫
父を喪つた冬が
あの冬の寒さが
また 私に還つてくる

父の書齋を片づけて
大きな寫眞を飾つた
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあつたが
ポケツトの
紛悦(ハンカチ)は
そのまゝにして置いた

在りし日
好んで植ゑた椿の幾株が
あへなくなつた
心に空虚(うつろ)な
部分がある
いつまでも殘つている

そう云つて話す 兄の聲に
私ははつとする程だ
父の聲だ――
そつくり
父の聲が話してゐる
私が驚くと
兄も驚いて 私の顏を見る

木屑と 星と
枯葉を吹く風音がする
暖爐の中でも鳴つてゐる

燈がともる
云ひ合せたやうに
私達兄弟は庭の方に目をやる
(さうだ いつもこの時刻だつた)
あの年の冬の寒さが
今 庭の落葉を
靜かに踏んでくる

第3詩集『或る遍歴から』(「新詩叢書」の第15巻)
昭和19年2月15日 湯川弘文社

 『或る遍歴から』は、津村信夫の死に先立つ4か月前に刊行されたもので、津村信夫は「若年の日の歌に、今日の詩をまじへて」(〈あとがき〉)これを編んだ。全体は、〈その一〉〈その二〉〈その三〉3章から成り、作品の総数は77編。
 〈その一〉は、第1詩集『愛する神の歌』のアンソロジーで、原著の64編のうちから27編を抄出し、さらに当時発表された2編を新たに組み入れている。それらはまさに、津村信夫のいう「若年の日の歌」にあたる。
 〈その二〉は、いわば〈羈旅編〉で、主として津村信夫の愛した信濃路の旅の日々に取材した作品、21編から成る。そのうち5編は、『愛する神の歌』からのものであるが、他は新収録の作品で、その制作時期は『父のゐる庭』のそれとほぼ重なる。つまりこの章では、「若年の日の歌」「今日の詩」が混然と配列されているわけになる(なお、この詩集には『父のゐる庭』からの作品は、まったくとられていない。同書と雁行してこの詩集が刊行されることを顧慮してあえて抄出を見送ったのであろう)。
 〈その三〉は、新収録の作品ばかりの27編。その制作時期は前章と同じく、ほぼ『父のゐる庭』のそれ重なるが、前章に1編しかみられなかった最新の昭和17年度の作品が5編加わっていて、それらが津村信夫の精神史・生活史に即して配列されている。つまりこの章はこの詩集の最も新しい、ハイーライトをなす部分といえよう。
 津村信夫がこの詩集で編んだのは、昭和17年7、8月の炎暑下のころである。当時の津村信夫にはアディスン氏病の予兆があったらしく、そんな病患と対峙しながら選定に励んだ痛ましい心事は、〈あとがき〉の文章がよく伝えている。津村信夫はこの年の春に『父のゐる庭』をまとめているので、たてつづけに2冊の詩集を編んだわけになる。両方詩集の刊行日付には1年余の開きがあるものの、その編さんは一気にされたのだった。
 この詩集の題名には昭和13年4月に発表された「或る遍歴から」という詩の表題に基づくものであろう。ただし、その詩はこの詩集の中には採られていない。ともあれ津村信夫はこの詩集で、1人の詩人の遍歴の跡を追おうとしたのである。
 簡素・純朴な詩風は、この詩集おいてきわまったといえよう。前詩集同様に、句続点はこの詩集でもほとんど除去されていて、そのために『愛する神の歌』から抄出した作品のごときは、様相が一変した印象さえうけるほどである。

「戸かくし姫」  津村信夫
山は鋸の歯の形
冬になれば 人は往かず
峯の風に 屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ
「そんなに こうこうつて鳴りますか」
私の問ひに
娘は皓い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」
初冬の山は 不開(あけず)の間
峯吹く風をききながら
不開(あけず)の間では
坊の娘がお茶をたててゐる
二十(はたち)を越すと早いものと
娘は年齢を云はなかった
『津村信夫全集』(角川書店)より

(2020年5月9日)

岡崎里美とロックの時代

 “Happy birthday to rimi” の声が聞こえる。
 2020年3月31日、ウェブサイト「岡崎里美の世界」が更新された。岡崎里美さんとは、1971年7月30日に大好きなビートルズを聴きながら、たった一人で逝ってしまった17歳の少女の事だ。

 壊れた時計が古い時間を刻むように、1970年代を想い出す。
 1960年代半ばから1970年代に入った頃は若者の時代だった。「DON’T TRUST OVER THIRTY !(30歳を超えた人間は信じるな)」と若者は口にした。若者が創る世界が大きな力となって、世界が変わっていくと誰もが本気で思っていた。若者であることだけに意味があり、自分たちが大人になるなんて思ってもみなかった。そんな時代に、ジミ・ヘンドリックスが26歳、ジャニス・ジョップリンが27歳、ジム・モリソンが27歳で死んだ。ビートルズはジョン・レノン29歳、ポール・マッカートニー27歳、リンゴ・スターが29歳、ジョージ・ハリスンは27歳の時に解散した。そして、ロックは形遺化し、一つの若者の時代は刹那的に終わった。
 1970年代に入ると、大量生産、大量消費の時代に突入し、ロックは産業として飛躍的な成長を遂げることによってレコードが売れていった。娯楽性が強められ、テクノロジーを駆使した仕掛けが聴衆の目を奪い、華やかなコンサートが多くなっていった。そして、ミュージシャンとファンの関係から、マーケットと消費者の関係になっていった。社会の中では、男女間や家族間の関係にせよ、人間関係の在り方にせよ、様々な形で意識の変革を強いることになっていった。若者たちの誰もが「未来に対する希望」を抱く反面、「自分を消し去りたいという暗い欲望」を同時に抱えていた。地に足をつけようと思っている。でも見つめているのは遠景。遠く明るく空の彼方を純粋に見つめているばかりであった。それは、足元を見たとたんに、何も変わっていない土俗的な世界に強い絶望感を抱くからだ。美しく遠い希望と現実と自己への絶望、この落差が1970年代の空気の基調だった。里美さんは、そんな若者の一人であっただろう、あまりにも遠くの未来を見つめすぎてしまったのかもしれない。
 里美さんが最後に聴いていたのが、ビートルズが1969年にリリースした『Abbey Road』というアルバムだった。その中に「The End」という曲がある。

ビートルズ 「The End」(1969年)

Oh yeah! alright ! (ああ わかったよ )
Are you gonna be in my dreams tonight (今夜 僕の夢にやって来てくれ)
Love you, love you, love you… (君を愛してる…愛してる…愛してる… )
And in the end the love you take (結局はね 君が貰ってる愛は )
Is equal to the love you make (君がくれる愛と同じくらいなのさ)

 「人に「愛」を与えれば、人から同じだけ「愛」を貰う事が出来る」というビートルズが最後に残したメッセージだ。そして、ジミ・ヘンドリックスは「愛の力が権力愛に打ち勝ったとき、世界は平和を知る」と語り、ジャニス・ジョップリンは「あなたはあなたが妥協したものになる(自分を幸福にしないものを受け入れるべきでない)」と語った。『カッコーの巣の上で』の著者のケン・キージーは「ビートルズがいたから、僕たちは怪物になることなく、愛すること、そして、暴力に訴えない方法を学んだ」と語ったように、この時代の若者たちは、生き方をビートルズや若者の時代を創った旗手たちから学んだのだ。
 現在、世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスの為に多くの人が亡くなっている。差別や偏見が起こり、誰もが争うようにマスクや食料品を奪い合っている。ネットでは、世代間対立を表すような暴力的な言葉があふれている。今、私たちは試されているのかもしれない。そして、その答えは自分自身の中にしかない。新型コロナウイルスが終息したとしても、世界はこれまでとは大きく変わっていくと思う。今がその変遷期なのかもしれない。
 1970年代始め、誰もが自分の生き方を模索しなければならなった時代、人々の傷口を癒し、時代の架け橋としての役割を果たしたいくつかの音楽が生まれた。

キャロル・キング 「君の友だち」(1971年)

君が落ち込んで
何ごともうまくいかず
手助けが必要だったら
すべてが ああ すべてがおかしな方向に進んでいたら
目を閉じて僕のことを考えてごらん
そしたらすぐにそこに現れるから
君の一番暗い夜さえも明るくするために

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから
君には友だちがいるじゃないか

君の頭上にある空がすべて雲に覆われて暗くなりそうになったら
あの昔ながらの北風が吹き始めそうになったら
慌てなくていいからね
僕の名前を大声で言うんだ
じきに僕が君の家の扉をノックするはずだから

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから

友だちがいるってのはいいことだろ?
人間は他人にとても冷たくなれるんだ
彼らは君を傷つけ 見捨てることもあるだろう
隙を見せれば君の魂も奪いかねない
隙を見せないで

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
ああ すぐにでも現れるから
君には友だちがいるじゃないか
君には友だちがいるじゃないか

友だちがいるってのはいいことだろ?
友だちがいるってのはいいことだろ?
君には友だちがいるじゃないか

ジョン・レノン 「イマジン」(1971年)

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって…

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

 時代の変遷期は誰もが不安に襲われるものだ。しかし、どんなに時代が変わっても「僕」が「君」を思う気持ちが変わってはいけない。私たちは同じ時代を生きる「仲間」であり「世界はひとつ」になれると思う。今回の新型コロナウイルスで「私たちはどう行動するか」と問われている。自分の身に危険を感じるから誰もが必死になる。しかし、日本には年間30000人くらいが自殺し、1700人くらいが餓死している国でもある。「僕」が「君」を思う気持ちがなければこの数も決して減ることはない。たとえ新型コロナウイルスが終息したとしても「僕」が「君」を思う気持ちを持ち続けなければ決して幸せな国と言えないし、自らも幸せにはなれない。
 1969年8月15日から17日までの3日間に行われたウッドストックは、40万人もの人数が集まったにも関わらず、大きな事件は無く、誰もが自由にロックを楽しみ、お互いが助け合という理想的な姿がそこにあった。ヒッピー・コミューンの「ホッグファーム」は、LSDの幻覚に苦しんでいる参加者に食事を無料で提供し介抱した。若者たちは少ない食べ物を分けあって飢えをしのいだ。そして、主催者のマイケル・ラングはイベント終了後に「すべてを分け与えるのがヒッピーの精神」と語り、機材のすべてを恵与した。それが実現できたのは、誰もが誰かを必要としていたし、誰もが誰かを信じていたからだ。
 「こんな出来事はもう二度と起こり得ないんだろうな」と思う。だから「僕」は時間を超えて「君」と対話する。「君」の声を「僕」が代わって発し、「君」の記憶は「僕」が代わって証言する。「僕」は「君」によって生きかされているのだから。
 壊れた時計は古い時間を刻み続けるだろう・・・。
 そして「岡崎里美の世界」も更新され続けるだろう・・・。

 参考文献:『1971年の悪霊』 堀井憲一郎

(『New Music Magazine』より)

(2020年4月13日)

令和モダニズム

 立原道造といえば「美しい詩を書く人で、昭和の文学少女に愛された昭和モダニズム詩人」ということで、中原中也や金子光晴の詩が好きな僕にとって立原道造の詩に出会うことなかった。思い返すと、福永武彦も立川正秋も渡辺淳一もほとんど読んでいない。1年半ほど前から耳がほとんど聴こえなくなり、心を入れ替えるつもりで、出来るだけ美しいものに触れるようにしている。ひとり令和モダニズムといったところである。
 立原道造は、戦争の臭いが漂い始めた1939年3月29日、戦争から遠くの離れるかように結核のため24歳で没した。多くの美しい詩を残した立原道造には戦争は似合わない。幻想的な傾向が強い立原道造にとって、戦争という現実は耐えられないものであっただろう、現実と違う美しい世界を創ることによって生き抜こうとしていたのかもしれない。

「のちのおもひに」  立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
──そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 夢とか想いは、なかなか叶うものではない。この叶わなかった夢とか想いが迷子のように、しづまりかへつた山の麓のさびしい村の午さがりの林道をさまよっている。たとえ夢が叶ったとしても、人の一生とは永遠ではない。過ぎた時間は二度と戻る事もない。夢とか想いと共に、この世からさよならをしなければならない。だから、いつまでもいつまでも、日光や月光や草花や小さな生き物に語りつづける。

(2020年3月25日)

カラーズ

N・マンデラのように
キング牧師のように
M・ガンディーのように
絵を描きたい

ブンデスリーガのライプチヒで行われたイプチヒ対レーバークーゼン戦で、観戦していた日本人の団体客が球技場から追い出された。「日本人なので新型コロナウイルスに感染している可能性がある」との理由だったという。2日後、クラブ側は式ツイッター上で「間違いを謝罪し、償いたい」とのコメントを出したとのこと。
14世紀や17世紀のペストと違い、交通機関の発達した現代社会では、コロナウイルスは瞬く間に全世界に広がっていく。
ネオリベ社会は国境を越え、欲望を肥大化させ、階級格差と貧困を生み出したように、コロナウイルスは国境を越え、感染を拡大し、差別や偏見を生み出した。感染源は中国の誰よりも安いモノしか食べなければならない貧困層で、誰よりも安い交通手段を使用しなければならない出稼ぎ労働者によって中国全土に拡大した。そして、中国に依存した国々が次から次へと感染していった。日本や韓国は中国人観光客に依存し、イタリアはファッション産業を賃金の安い中国人の労働力に依存し、イランは武器や兵器の輸入に依存している為の爆発的な拡大というわけだ。欲望はカネとモノを集めるように、コロナウイルスも集めてしまう。コロナウイルスは現代社会の暗部をはっきりと炙り出したのかもしれない。

マスクがない
トイレットペーパーがない
PCR検査が受けられない
あるのは人間の欲望だけ

2019年 ラグビーワールドカップ 日本大会で優勝した南アフリカ代表のシヤ・コリシ主将のスピーチが教えてくれたもの。
We come from different backgrounds, different races and we came with one goal and wanted to achieve it. I really hope that we have done it for South Africa to show that we can pull together if we want to achieve something
(僕たちは異なるバックグラウンド、異なる人種が集まったがチームだったが、一つの目標を持ってまとまり、優勝したいと思っていた。それを南アフリカに示せていたら本当にうれしい。何かを成し遂げたいと思えば、協力し合えるということを(訳:井津川倫子))
南アフリカ代表は、環境も宗教も民族も異なっている選手が集まっているチームだ。デコボコなピースが組み合うからこそ強力なパズルが出来上がるように、最強のチームとなって優勝という最高の結果を残した。
初めて決勝トーナメントに進出した日本代表も、7カ国出身の選手たちが集まったデコボコのチームだ。彼らが教えてくれたのは「ONE TEAM」という精神。その「ONE TEAM」が最も発揮されたのが、スコットランド戦の7点差まで追い上げられたラスト25分だ。バラバラになりかけたチームが、ひとつの積極的なプレーがきっかけとなって全員が同じ絵を見れたという。後に、ピーター・ラブスカフ二選手は「バラバラではなく全員が互い必要としていた。信じること自分を信じること信じれば向かっていく姿勢に変わるものです」と語り、福岡堅樹選手は「信じきって自分の役割を果たすことをみんながやりきればそれがワンチーム。本当に強い力を生むということがみんなにも伝わった。社会で生きていく上でそれができるかどうかというのは本当にみんなが理想としているところだと思う」と語った。
そして、敗れたスコットランド代表HCのラウンセンドは「日本代表から感じたのは互いの信頼、キャプテンへの信頼、ひとつひとつのプレーへの信頼。個人だけでなくチームとしての信頼、互いを信頼する強さ。ラグビーに大事なものを思い出させてくれた」と語り、日本代表に賛辞を贈った。

白エンピツが泣いている
黒エンピツが泣いている
黄エンピツが泣いている
絵が描けないと

私たちは危機的状況に陥ったら、多面的で多重的な世界の見方を許容しない。むしろ単純化する。簡略化する。二元化する。こうして世界の矮小化が進行する。そこに現れるのは、単色で扁平な世界だ。
日本とスコットランドの選手たちは、少なくともラスト25分間は敵と戦っていたのではなく、仲間を信じる気持ちや苦しくても決して逃げない気持ちなど、自分自身と戦っていたのだと思う。両チームの選手一人ひとりの死力を尽くしたタックル数がそれを証明している。私たちは彼らのように同じ絵を見る事が出来るだろうか。
私たちは今、いったい「何」と戦っているのだろう・・・。

(2020年3月10日)

辻征夫の「雨」を読む

「雨」  辻征夫

耳たぶにときたま
妖精がきてぶらさがる
虻みたいなものだが 声は静かだ
(いまなにをしているの?)
街に降る雨を見ている
テレビは付けっぱなしだが
それはわざとしていることだ
だれもいない空間に
放映を続けるテレビ
好きなんだそういうものが
(それでなにをしているの?)
雨を見ている
雨って
ひとつぶひとつぶを見ようとすると
せわしなくて疲れるものだ
雨の向こうの
工場とか
突堤の先の
あれはなんだろう
流木だかひとだかわからない
たとえばああいうものを見ながら雨のぜんたいを
見ているのがいちばんいい
そういうものなんだ 雨は
(むずかしいのね ずいぶん)
何気ないことはんだってむずかしいさ
虻にはわからないだろうけれど
(妖精よ あなたの
雨の
ひとつぶくらいのわたしですけど)


 
雨は醜い自分をとかしてくれる。
こんな日は妖精が現われるものだ。
自分は自分である必要もなく言葉は言葉である必要もない。
あらゆる頸木から解放され自由になる。
雨が上がったら妖精に「さよなら」をいって、
自分という目的地に向かってどこまでも荒野を歩く。

久しぶりの雨だ。こんな日は感傷的になってしまう。
谷川俊太郎さんは詩作について「ある時期から自己表現というものを信じなくなった。自分をからっぽにして日本語の世界を歩き、その豊かさを取り入れたくなった。自分より日本語の総体の方が豊かだから。」と語った。
辻征夫さんには、辻さんが生まれる2年前に1歳で亡くなった長兄がいて「自分は長兄の生まれ変わりではないか」と感じていたという。この喪失感を埋めるために「見えない世界を見ようとする」感性が詩作の原点である。
現代社会の言葉は、真実を隠すために使われたり、人を騙すために使われる。虚妄の世界の言葉の方が真実を描くものなのかもしれない。だからこそ、喪失感を埋めるために詩人は詩を書くし、読者は詩を読むのである。
文学とは何のためにあるのか。福田恆存氏は「一匹と九十九匹と」というエッセイで、世の中いろんな問題が起きると、九十九匹を調整しながら解決するのが政治である。しかし、政治はすべてを救えない。最後の一匹の迷える羊、迷える人間の、その精神とか心の問題には、政治では救うことはできない。どんなにお金があっても、淋しさ、孤独、不安な心を政治には解決することはできない。そこで迷える一匹を救うのが文学だと語る。
普段は九十九匹側にいても、あっと言う間に一匹になってしまう事がある。そんな時に小説を読んだり、詩を読んだりして生きてきた。辻さんはきっと、その一匹のために詩を書いていたのかもしれない。
辻さんは「詩は個人にものであると同時に、共同体のものです。日本語なら日本語というひとつの言語の花です。詩人というのはある期間、ひとつの共同体の中で詩という言語の花を咲かせる機能を何故か持ってしまって、そういう役割を担っていつ人間のこと。」と語っている。
辻さんは一人ひとりの人間というもの、人間の善意というものを信じていたのではないか。具体的に若い人、世の中がどんな悪くなってもあとからあとから出てくる若い人、そういう人たちと作る未来を・・・。「テレビは付けっぱなしだが/それはわざとしていることだ/放映を続けるテレビ/好きなんだそういうものが」と物語っている事は、だれもいない空間だけど、いずれ誰かが来るであろう未来があるという事。今は孤独であるけど、いつかは繋がり合えるという事。
辻さんは、詩でたくさんの人に勇気を与えたり、不安な心を支えたりした。逆にいえば、そういう「みんな」が菅原さんを支えていたのかもしれない。
これからも、共同体の一員として辻さんの詩を読み続けたいと思う。

(2020年3月8日)

まど・みちおの戦後

 戦争に加担しないために・・・。

 まどさんが100歳で出版した『100歳詩集――逃げの一手』(小学館、2009年11月)のあとがきで、「山川草木、すべての中には、いのちがあります。木でも草でも何でもそうです。その中の、人間は一匹に過ぎないんです。私は、この中で「逃げの一手」を貫いてきたことになると思うんです。詩の中に逃げること、臆病な自分から逃げるということでもあります。むしろ、大胆とも言えるかもしれません。だから、逆に、私はそのことで私をいかしてきたというんです。有から無にはいるのと、無から有にかえるのと、その往復みたいなものなのです。逃げることによって、逆に生まれることにもなります。言葉っていうのは、いつも必ずそうなんですから。とにかく簡単なものじゃないから。100歳を目の前にして、ただ、感無量と言えば感無量ですけど、「逃げの一手」でここまで来たことに間違いはありません。それが私の生き方だったと思います。」と記している。

 戦争中に多くの詩人たちが、戦意昂揚のための愛国詩を書き戦争に協力した。
 まどさんにも、戦争協力詩と戦争協力詩文(随筆)が存在する。これらはまどさんの研究者が見つけたもので、まどさん自身は書いたことさえ忘れていたという。戦争詩については、みずから申し出て詩集に掲載し、詩を書いた経緯と忘れていたことを謝罪し、当時の子どもっちへの自責の念を表明した。この謝罪によって、まどさんの誠実な姿勢は多くの著名な詩人たちからも高く評価された。
 しかし、戦争協力詩文については一切ふれることなく公表もしなかった。その詩文の内容とは「少国民の皇民化」といい、日本が統治していた台湾の子どもたちを皇民化(同化)する目的で、日本語である「国語」習得と普及を唱えたものだ。まどさんは台湾の子どもたちに、家庭という愛情の下で小さいときから自然に習得した母国語ではなく、支配者である日本の「国語」を子どもたちに習得させようと主張したのである。
 まどさんの詩の世界とは、自然や生きものをじっと見つめた感性が創作の源泉であり、まどさんが子どもの頃から身につけた言葉によって築かれたものである。まどさんの子どもの頃と同じように台湾の子どもたちも一人ひとりが独自の世界を慣れ親しんだ言葉によって築いていることに気づかなかった。まどさんは自分で自分を裏切ったのである。だから最後まで何も語ることができずに「逃げた」のだ。
 敗戦後の日本は、まどさんに限らずほとんどにの人が、自分自身と向きあうことなく「逃げた」のだ。人は臆病だから「逃げる」のではく、権力や組織に「依存」するから「逃げる」のだ。盲目的に権力や組織に「依存」すれば何も考える必要もなく安心するし、同じ仲間といると心地いい。そういう人は個人より組織、個よりも全体を優先する「組織の論理」を進んで受け入れ、組織に忠誠を尽くそうとする。そうすると組織の傘から逃れられなくなり、意見の違う人を排除したり、強制的に「組織の論理」に従わせようとする。特に日本人は「依存」しやすい国民性である。過去を取り戻すことは不可能だ。だが、忘れてしまおうとすれば、過去はいつまでも追いかけてくる。決して「逃げる」ことはできない。そして、歴史に学ぼうとしないものは何度も同じ過ちを繰り返すのだ。
 「組織の論理」に侵されないために必要なのは、自分および他人の自由や誇り、権利を尊重する「個人主義」である。

 2019年12月4日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲さんは、同国の乾いた大地に用水路を造るため医師でありながら自ら重機を操った。その中村さんが幼少期を過ごしたのは、港湾労働者が多くいた北九州市若松区だ。「職業に貴賤はない」。人として大切なことは何かを教えた祖母の言葉と、故郷の景色に溶け込んだ労働者の姿が人生の原点だったという。
 生前、中村さんは「敵も味方も関係なく、傷ついた人がいたら助ける」といっていた。この考えが「個人主義」の本質である。中村さんは、米国に「依存」して、戦争を肯定している日本政府にとって、決して喜ばしい存在ではなかった。国会の証人喚問で「アフガニスタンへの自衛隊の派遣は有害無益」と発言したことに対して、議員からは「とんでもない奴だ」と非国民扱いし、懲罰にかけろという要求すらされたのだ。他国のために命を賭けた英雄でさえ国に逆らった者は最後まで許さないのが日本という国だ。その証拠に中村さんの葬儀には政府関係者が参列していない。(ちなみに中村さんの叔父である火野葦平は、敗戦後に戦争協力者として公職追放となった。その後、中国を訪れて戦争責任を見つめ、遺作というべき小説『革命前後』で、自らをモデルにした作家を登場させ、元兵士に「わしら、あんたに騙されて戦こうたようなもんじゃ」と、批判させた。そして、翌年53歳で自ら命を絶った。)
 戦前・戦中には多くの反戦運動家は逮捕されたり、虐殺されたりした。政権や軍部がいちばん嫌ったのが「個人主義者」だ。現在では逮捕されることはあっても、殺されることはないだろう・・・。戦争に加担しないために大事なことは「個人主義」を貫き、自らの頭で考え行動することである。個人主義とは決して他人を搾取したり、隣人を利用したり、他の人々の領域を犯すという事のない生き方である。自分という「個人」のひたすら念願することは、ただその個人が決して共同体や社会の器具になったり、社会的な仕組みの中の奴隷となって降参したくないということである。「個人主義」を貫けば戦争など起きるはずはないのだ。(参考文献:『消せなかった過去――まど・みちおと大東亜戦争』平松達夫)

「はるかな こだま」 まど・みちお

野に立って
とおく

かしわでをうちならすとき

こたえてくる
ながれてくる

はるかな はるかな こだまはなにか。

きよらかな
そぼくな

とおいむかしの日本の

神いますふるさとのよびごえか。

天の岩戸や
かぐやみめや
日のあたたかな かちかち山や
はるばる はるばる こえてきた

なつかしいふるさとのよびごえか。

「日本人よ
日本人よ

天皇陛下 をいただいた
光栄の日本人よ

君らの祖先がしてきたように

今こそ君らも
君らの敵にむかえ

石にかじりついても
その敵をうちたおせ

ー神神はいつも
君らのうえにある。」

ひびいてくる ながれてくる
そういうようにきこえてくる。

(2020年1月20日)

狼になりたい

質より量で勝負している貧乏なGデザイナーは徹夜で仕事をヤッつける。
「腹が減った・・・」
いつものように徹夜メシを食べに吉野屋へ行く。いつものように中島みゆきの「狼になりたい」を口ずさみながら。

「狼になりたい」 中島みゆき

夜明け間際の吉野屋では
化粧のはげかけたシティ・ガールと
ベイビィ・フェイスの狼たち 肘をついて眠る

なんとかしようと思ってたのに
こんな日に限って朝が早い
兄ィ、俺の分はやく作れよ
そいつよりこっちのが先だぜ

買ったばかりのアロハは
どしゃ降り雨で よれよれ
まぁ いいさ この女の化粧も同じようなもんだ

狼になりたい 狼になりたい ただ一度

向かいの席のおやじ見苦しいね
ひとりぼっちで見苦しいね
ビールをくださいビールをください 胸がやける

あんたも朝から忙しいんだろう がんばって稼ぎなよ
昼間・俺たち会ったら
お互いに「いらっしゃいませ」なんてな

人形みたいでもいいよな 笑える奴はいいよな
みんな、いいことしてやがんのにな
いいことしてやがんのにな
ビールはまだか

狼になりたい 狼になりたい ただ一度

俺のナナハンで行けるのは 町でも海でもどこでも
ねえ あんた 乗せてやろうか
どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも

狼になりたい 狼になりたい ただ一度
狼になりたい 狼になりたい ただ一度

喪失感を埋めるのは、中島みゆきと吉野屋の牛丼が自分のルーティーンだ。
高本茂は『中島みゆきの世界』で「豊かな社会において、不遇は存在し、総中流社会においても脱落組は存在する。落ちこぼれ、取り残され、排除される側の人間の抗議や怒りや悲しみを、中島みゆきは代弁し続けた。彼女の数々の作品は、この世の全ての不幸な者たちへの子守歌なのだ」と語る。
そして「戦後日本社会への根本的な否認を申し立てているのだ。なぜなら戦後日本社会とは、勝者、生者、成功者の論理で出来上がっているのであり、敗者、死者、失格者を排除することで存立しているからだ。戦後日本社会に対してこれほど強い否認を突き続けたのは、中島みゆきただ一人だ」とも語る。

テレビが宝箱だった時代の1973年12月12日、広告という虚構の世界に夢をかけたCM作家の杉山登志が、意味深な言葉を遺して自宅マンションで首を吊って死んだ。朝日新聞はその死を「オイルショックによる経済的破綻が生んだ消費最前線の戦士の自滅」と位置づけ、当時の社会を象徴する出来事だと報じた。

リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは……とても
嘘をついてもばれるものです

広告の仕事はわからない。死の理由もわからない。しかし、この言葉だけがいつも頭の中で呪文のように聴こえる。
「嘘はばれる。嘘はばれる。嘘はばれる・・・」
当時、杉山登志の死に関して小林亜星は「死んだ時、笑った人もいました。笑ってはいけない、気の毒だといいながら……。私と彼とは立場が違うけれど、やはり彼の死については批判的ですね。CMというのはジョークでやっていないと、やっていけない部分があるわけです。それを真面目にやりすぎてしまった」と辛辣な意見を語った。おそらくその通りだろう。しかし、中学生時代から「死」を意識していたという杉山登志のニヒリズムは、現実世界など興味がなく、ただの邪魔ものであり、唯一かつ本物の現実世界はフィルムの中で起こっていることだけであっただろう。広告を創っているというよりも夢を創っているのであり、創ることでしか生きられなかったのが杉山登志なのだ。

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ (「ファイト!」)

先日、上野で開催しているゴッホ展に行った。杉山登志と同じ37歳で自ら死んだゴッホの人生と杉山登志の人生を無理矢理に重ねる。ゴッホが現実の世界では生きられなくて、キャンバスの中でしか生きる場所は無かった。ゴッホの人生とは、才能に乏しいと自覚している人間が独学で自分の腕の足りなさを克服しようと、てんかんの発作に襲われながらもそのたびに立ち上がり悶え苦しみ努力することによって、自分で自分を創りあげ、10年間に約850点の油彩と約1000点の素描を描いた持続力がゴッホの人生だ。
杉山登志にとっても創ることが生きる証しであり、年間80本という過労死レベルの数のCMを創る持続力がるからこそ生きていけるのだ。しかし、CM作家という仕事の持続力とは、クライアントの受注を限りなく受けることであり、クライアントが求めるイメージの再現を果たし続けることである。
夢はいつかは覚めるもの。虚構の世界に立てこもった強さが想像力を掻き立て、自分で自分を創り上げたが、時代の変化は虚構の世界のリアリティへの信頼が次第に揺らぎ始めた。現実世界を捨てた杉山登志にはどこにも居場所が無くなったのだ。
杉山登志と同じ歳の横尾忠則はデザイナー時代に「デザインとは〈虚〉である。〈虚〉でしか通じない世の中でもある。本当のことをいうと通じない。またはっきりいうと損をする、しかし、私は今、損をしてもいいから、できうる限り、本当のことをいうデザインをしたい」と語り、本当のことをいうための組織を去っていった。杉山登志は、〈虚〉と格闘して組織の中で本当のことをいわずに死んだのだ。横尾忠則がいうように、現実の世界のウソは真実を隠すためのものであるが、虚構の世界のウソは真実を描くものなのである。

世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする
変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする (「世情」)

杉山登志の死んだ時代とはどういう時代なのか。
坪内祐三の定義によれば、高度成長が終焉した1972年が、ひとつの時代の「はじまりのおわり」であり、「おわりのはじまり」だという。中東戦争によるオイルショックがあり、基地負担を押し付けられた沖縄返還があり、大衆運動の敗北した浅間山荘事件があり、ロックが形遺化し、日本列島改造論があり、街にチェーンが溢れ始めた時代であり、社会全体は夢から醒め、現実化(商業化)した時代である。こんな奇妙な開放感とその裏返しの閉塞感の中で、ひとつの時代の象徴として杉山登志は死んだのだ。
夢など見られない現代社会は、時間的にも空間的にも合理化され便利になったが、人や商品は単なる「モノ」でしかなく、煽り立てられて生きなければならなくなり、人は寛容さを忘れ下品になった。大手広告代理店は社員を過労死するまで働かせ、そこから仕事を請け負っている下請けや孫請け会社にいたっては言わずもがな。
それぞれ生き方は自由である。ジョークで生きようが、楽して生きようが。しかし、こんな時代だからこそ杉山登志の愚直なまでの精神性は多くのクリエイターからリスペクトされるのだ。

めぐるめぐるよ 時代はめぐる
別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ (「時代」)

「それにしても深夜だというのに街は明るすぎる・・・」
少しでもお金を使わせようとネオンがギラギラ怪しく光る。その上を月が負けじと輝いている。
♪ 狼になりたい〜
♪ 狼になりたい〜

(2020年1月11日)

高野悦子と南条あやの青春日記

 青春期という季節の希望と絶望のはざまで読んだ本は、殺しきれなかったキズとして今でもヒリヒリと痛みが蘇ってくる。高野悦子の『二十歳の原点』はその一冊だ。『卒業まで死にません』の編集者は『二十歳の原点』を読んで、『高野の日記が与えた感動を今の若者にも再現したい」との熱意から、南条あやの日記の出版を企画したという。

 高野悦子の『二十歳の原点』(新潮社)は、1971年に出版された彼女の青春日記である。当時、全共闘世代と呼ばれた若者たちの共感を呼び、翌年にはベストセラー第二位になっている。いまだに大学の書店などではお薦めの一冊として取り上げられることも多く、今でもずっと若者に読みつがれてきた青春文学の古典の一つである。
 南条あやの『卒業まで死にません』(新潮社)は、2000年に出版された彼女の日記集である。高野ほどのベストセラーにはならなかったものの、『二十歳の原点』と同じく後に文庫され、現在も読まれつづけている。日記のオリジナルがインターネット上にウェブ日記として公開されていたのは1990年代の後半だが、当時は彼女自身も若者雑誌から取材を受けるほどの人気ぶりで、一部の若者たちからはネット・アイドルとして熱烈にもてはやされる存在であった。
 高野悦子は、1969年6月24日未明の貨物列車に飛びこみ、即死している。20歳だった。『二十歳の原点』は、彼女の遺した膨大な日記を父親が編集して出版したものである。一方の南条あやは、1990年3月30日、向精神薬を大量服用して中毒死している。18歳だった。『卒業まで死にません』も、彼女の死後にウェブ日記の存在を知った父親が編集して出版したものである。

永遠にこの時間が続けばよい
人々の中に入れば また
自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから
雲にのりたい
雲にのって遠くのしらない街にゆきたい
名も知らぬどこか遠くの小さな街に
(高野、1969年6月18日)

私が消えて
私のことを思い出す人は
何人いるのだろうか
数えてみた
・・・
問題は人数じゃなくて
思い出す深さ
そんなことも分からない
私は莫迦
鈍い痛みが
身体中を駆け巡る
(南条、1999年3月29日)

 高野も南条も、自らの死の直前に、辞世の句とでもいうべき死を遺した。
 束縛的な人間関係から開放されて浮遊することを夢みた高野悦子と、それとは逆に、浮遊常態から開放されて濃密な人間関係に包み込まれることを夢みた南条あや。どちらも孤独の悲哀にみちた詩でありながら、その感受性の向きは逆である。周囲の人びとから「自律したい」という焦燥感がもたらす高野の生きづらさは、30年という歳月を経て、周囲の人びとから「承認されたい」という焦燥感がもたらす南条の生きづらさへと変転している。
 高野の日記集の出版タイトルである『二十歳の原点』は、「「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である」(高野、1969年1月15日)という彼女の日記中の言葉に由来している。この言葉は、自己に取りこまれた他者のまなざしを経由して、自分自身へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから自己変革に励んで、つねに自分を成長させていきたいという熱っぽい意気込みが潜んでいる。
 それに対して、南条の日記集の出版タイトルである『卒業まで死にません』は、彼女が友人と約束を交わしていたという言葉に由来している。これと同じような言葉は、彼女の日記中にも何度か顔を出している。この言葉は、ウェブ日記の読者や友人へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから私をずっと見つめてほしいという切ないまでの彼女の承認欲求が潜んでいる。
 高野にせよ、南条にせよ、日記をつけることは。生きづらさにもがく自分とって、大いなる救いとなっていたにちがいない。
 高野は、「より望ましい自分」に対して愚直なまでに誠実であろうとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠情の中へおしやられば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(高野、1969年6月1日)。
 南条も、「より望ましい自分」のすがたに対して貪欲ななまでに確証を得ようとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「私はいつでも追いかけられている/この世の中の喧騒とか/義務なんてチンケなものじゃなくて/自分自身に/誰も助けてくれない/助けられない/私の現在は錯乱している/きっと未来も/ならば/終止符をうとう/解放という名の終止符を」(南条、1999年3月29日)。
 彼女たちの日記が等しく照らし出しているのは、「より望まし自分」へと駆り立てられ、いつも切羽つまった感じをどこかに抱いてしまうという青年期に共通の課題である。
 高野の生きづらさと南条の生きづらさのあいだには、30年という歳月を超えて、なお変わらない生きづらさの本質を見出すことができる。しかし、その生きづらさの根源は、「変わりゆく私」と「変わらない私」にそれぞれ対応して、限りなき自律欲求から絶えざる承認欲求へと大きく様変わりしてもいる。その意味で30年という歳月によって隔てられた大きな断絶をそこに見出すこともできる。(土井隆義『友達地獄』より)

 漠然とした社会で生きている限り、年齢に関係なく「生きづらさ」はなくなることはない。高野悦子と南条あやは「生きづらさ」の中で日記を書き、日記のなかに生きる自分自身に忠実であろうとして逝ってしまったが、「生きづらさ」がない人生が本当に幸せだとは思わない。自分が悩み苦しんだからこそ、他者の痛みが理解できるし優しくもできる。「生きづらさ」のなかにこそ本当に幸せがあり、それを少しづつ積み重ねていくしかない。

(2020年1月10日)

まど・みちおの「リンゴ」を読む

「リンゴ」 まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 まどさんはこの「リンゴ」という詩を1972年、63歳の時に発表した。まどさんは、詩を「つくる」というよりも「生まれる」という感じがするという。テーブルの上に置かれたリンゴを見て、その美しさにハッとして、まどさんの中の何かが震えた。なぜハッとしたんだろう、美しいと思ったんだろうと追求していったら、そのうち「リンゴが占めている空間は、ほかの何ものも占めることができない」ということに気がついて、またハッとしたという。まどさんにとって「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」という発見はよほど衝撃だったようだ。15年後の1987年に「リンゴ」を「ぼく」に置き換えて「ぼくが ここに」という詩を書いている。言わば「りんご」の存在を発見したことによって「個」というものの発見であったのだ。それは、この地球に自分自信が「存在」しているという「超個」の発見であったのだ。
 この詩は「存在」という普遍的なものがテーマだ。それゆえに、多くの人がこの詩について独自の評価し、多くの人が解説をしている。
 詩人の佐々木幹郎さんはこの詩について「短い詩だけれど「りんご」の存在感を浮き上がらせています。哲学としての存在論の領域にも踏み込んでいる」と語っている。
 詩人の大橋政人さんはこの詩について「リンゴは/リンゴ自身/存在していないことをしめすために存在している」と言う。「リンゴ」は風景としての「リンゴ」ではなく、すでに「在る」ことと「不在」が解け合ったような「光景」としての「リンゴ」になっている語っている。そして、この詩を最初に読んだとき、言葉の厳密な意味などわからなかったが、ものを凝視する詩人の恐ろしいほどの息づかいを感じた。そして、恐ろしいほどの凝縮した時間の中で、私が見ているリンゴの風景が「まぶしいように」一つの「光景」へと変質していくのを感じたという。

 人間が「存在」するとはどういう意味なのか。
 先人の哲学者たちは「存在」の意味を考えるとは、人間の「存在」の本質、自分が個人としてどのように存在するのか、自分の人生に意味を見出すことができるのか、ということを考えることだという。
 キルケゴールは、自分がどのような人生を送るかにについて、自分で道徳的判断を下す「自由」があり、それこそが自分の人生に意味を与えるという。しかし、この選択の「自由」は幸福だけをもたらすだけではなく、恐怖や不安を伴うものである。恐怖や不安に絶望して何もしないことを選択するか、不安から逃避せず「真正」に生きて人生に意味を与えるような選択をするか、決断しなければならない。
 人は生きていくうえで「死」の恐怖や不安から逃れることはできない。池田晶子さんが『人生のほんとう』で記すには「生きる」と「死ぬ」は対にならないという。「生」に対して「死」があるのではない。「死ぬ」という言葉で表象するものは、他人の死をごっちゃにしたもので、われわれは生きている限り自分の死のことは知りようがないし、生きている人は誰もそれを知らないから、自分が死ぬことは考えられない。なぜならそれは、どこにも「ない」から。この世界のどこにも、自分の無としての死は存在しない。無が存在したら無ではないのだから。なぜ在ることしかないのかを考えていくと、わたしたちが「生きている」といっている生存とは、存在することの部分集合にすぎず、存在するといることは、必ずしも生存していることだけをいうのではない、ということがわかってくる。自分が生きているという当たり前と思っていたことが、とんでもなく謎であり、わたしたちは「存在」と「無」とい宇宙的なからくりのようなもので、「生かされている」ということがわかる。この宇宙の中に現れて「自分が自分を生きている」こと「あなたがあなたを生きている」ことが奇蹟的なことである。
 わたしたちは毎日のように奇蹟を生きている。そして、人と出会ったり、ものと出会ったりしていることは奇蹟と奇蹟の出会いであり、とても愛おしいことである。
 この「りんご」という詩を改めて読めば、まどさんがリンゴとの奇蹟的な出会いを、微笑んでながめている姿が目に浮かんでくるようだ。

(2019年12月14日)

センス・オブ・ワンダー

 遺伝子組み換え食品と農薬野菜が大好きなニッポン。どこの国よりも多く遺伝子組み換え食品を輸入し、どこの国よりも多く農薬を使用して野菜を育てている。スーパーで売られている食品の60%は遺伝子組み換え食品で、80%の食品が遺伝子組み換え作物かかわっているという。しかも、表示に関する法律はどれもほんとんどがザル法らしい。
 レイチェル・カーソンは「人類全体を考えたときに、個人の生命よりはるかに大切な財産は、遺伝子であり、それによってわたしたちは過去と未来につながっている」と語った。

 ――この遺伝子に影響がおよぶのは「わたしたちの文明をおびやかす最後にして最大の危険」なのです。
 その遺伝子レベルで問題になるのは、たとえば、遺伝子組み換え操作により作り出した組み換え作物にように「人がある生物の『あり方』を決めることにつながってしまう」という生物論理にかかわるものです。組み換え作物とは、ある生物から取り出した有用な遺伝子えを別の生物に組み込むことによって、病気や害虫に強いなど新しい性質を加えた作物のことです。
 他方、その遺伝子レベルへの影響が問題になるのは、化学物質や放射能のように。「他人が、ある人間の『あり方』を決めることにつながってしまう」という人間倫理にかかわるものです。ここでの『他人』とはこれまでに化学物質や放射能を作り出した人間であり、『ある人間』とは将来世代の人間のことです。
 今日、人間をとりまく地球環境が深刻な危機に陥っていることについては、さまざまに論じられています。こうした問題に対して、単に技術的、プラグマティックにアプローチするのみでなく。「自然とは何か、人間とはいかなる存在か、人と自然はどのようか、自分と他人との関係はどのようか」などの究明をふまえて、そこから問題を倫理的に考察していくものでなければならない。――

 遺伝操作技術の発達は、効率的に食物を収穫するためだけのはなしではなく、人間に応用されることによって「優生学」という思想が再び危惧されている。遺伝操作によって不良な遺伝子を持つ者を排除し、優良な子孫のみを増やすという思想でる。かつてドイツのナチスにおける優生政策など、人間は過去に大きな過ちを犯してきた。伝操作技術の進歩によって私たちの健康への恩恵は多大だが、越えてはいけない境界を慎重に見極めるべきである。
 そのためには、欲を捨てて自然と向き会あい謙虚に生きなければならない。レイチェルは、「センス・オブ・ワンダー=自然や生命の神秘さや不思議さに目をみはる感性」が大事だと言う。

 ――子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒豊かな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌だ。幼い子ども時代は、この土壌を耕す時だ。美しいものを美しいと感じる感覚。新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになる。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。――

 レイチェルが生まれたのはアメリカのペンシルベニア州であり、今でも多くのアーミッシュが住んでいる場所だ。それより北がニューイングランド地方であり、グランマ・モーゼスの絵の舞台となった自然が豊かな場所でり、ターシャ・テューダーが自給自足の生活をする為に移り住んだ場所であり、レイチェルに影響を与えたた場所でもある。
 エミリ・ディキンソンという女性の詩人がいる。エミリは1830年のマサチューセッツ州の田舎町の上流家庭に生まれ育ち、50数年の生涯の後半ほとんどを家から出ることなく過ごした。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、全く無名の人として人生を終えた。ところが死後に、クローゼットに眠る数千の詩作品が妹によって発見され、編集出版された。作品は忽ち広く読まれるようになった。

「ひとつの心がこわれるのを」 エミリ・ディキンソン

ひとつの心がこわれるのを止められるなら
わたしが生きることは無駄ではない
ひとつのいのちのうずきを軽くできるなら
ひとつの痛みを鎮められるなら

弱っている一羽の駒鳥(ロビン)を
もういちど巣に戻してやれるなら
わたしが生きることは無駄ではない
(訳:川名澄)

「If I can stop one Heart from breaking」 Emily Dickinson

If I can stop one Heart from breaking
I shall not live in vain
If I can ease one Life the Aching
Or cool one Pain

Or help one fainting Robin
Unto his Nest again
I shall not live in vain

 自然風土が人を育てるというように、感性を育むには環境が大事だ。
 レイチェル・カーソン、エミリ・ディキンソン、ターシャ・テューダー、グランマ・モーゼス、が作品を生み出す感性は環境があるからこそだ。しかし、コンクリートだらけの都会で、落ちこぼれないように相手を蹴落としてでも這い上がらなければならない現代社会で、感性を育むことは容易ではないだろう。
 レイチェルとエミリ生涯独身だったし、ターシャは50歳代半ばから自給自足の一人暮らしを始めた。感性を育むには、現実と少し距離を置いたり、孤独に身を置くことも必要だと思う。そうすれば、自分自身と向き合えることが出来るし、こころの中に自然が芽生えてくるだろう。
 そして、小さな自然や、小さな命に耳を傾けたり、食べ物に気を配ったり、レイチェルの本を読み、エミリの詩を読み、ターシャの絵本を読み、グランマ・モーゼスの絵を見て感性を育んでいきたい。

(2019年12月7日)