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石垣りんの生き方

 人間がが暮らしを営むには、水と火が不可欠だが、女の役目はいつもこの火と水の管理だった。前近代的な暮らしの中で、朝起きて重労働を担ってきたのは、いつも女たちだった。「かよわい女をたくましい男が守ってきた」と、いつの時代も男は思っていた。現実には、強い男が弱い女をいたわってきた例より、強い男が弱い女につけこんできたのである。
 石垣りんさんはフェミニストだ。
 しかし声高に叫ぶというのではなく、凛々しく立っている。「石垣りん」として生きてきた人だ。石垣りんさんは、14歳で日本興行銀行に就職し定年まで働き、亡くなるまで生涯独身だったのは、4歳でお母さんを亡くし、厳しい家庭環境で育った為だろう。
 第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は1959年、39歳の時の詩集だ。詩の題材は「生活」と「労働」で、仕事と家族を背負った彼女の戦いであり、女性の解放である。

【私の前にある鍋とお釜と燃える火と】
それは長い間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
却初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり

台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
 
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など 繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく、
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。

 第一詩集から9年後に、第二詩集『表札など』が世に出された。比喩のユーモアや、客観的に題材を見つめる余裕があり、世評も高く1969年度のH氏賞を受けた詩集で、詩人石垣りんが確率した瞬間だ。

【くらし】
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあるれる獣の涙。

 第三詩集『略歴』、第四詩集『やさしい言葉』と、生涯にたったの4冊しか詩集を出していないが多くの人に読み継がれるのは、戦い続けた石垣りんさんが「人間の生活の本質」を見抜いたからだろう。そして読者は、石垣りんさんの詩に自分たちの生き方を重ねることができた証だ。石垣りんさんは言う「私の詩を書く姿勢は、私の暮らし方の姿勢であり、文学への理想も、詩への目標も単独にはありえない、つづり方練習生にすぎまん」と…。
 石垣りんが立っている。
 凛々しく。

(2017年7月29日)

『母の碑』 きむらとおるの詩

 詩集『母の碑』とは、きむらとおる、きむらあさろう兄弟が母に捧げた詩集だ。
 「きむらとおる」とはペンネームで、詩のイメージに即した書体の創造、「書詩一体」をの境地を目指した反骨の書家・木村三山のことだ。
 
 【十字架】
 からっかぜのもと
 かかあ天下で 働きつづけ
 力尽き 挫けた 脚の
 膝頭をかすめて突っ走る装甲車
 尻を小突く 銃身
 頭蓋にめりこむ爆音
 灰かぐらの渦巻

 おっかあ!
 曲がれる限り曲がってしまった背に
 頣はしゃんとのっていようはなく
 白々と
 破れたかたびら 砂塵に舞う
 はるかな荒野
 かぎりない砲列という線のなかを
 ゆきくれている!

 ―おっかあ!
 おっかあ!
 頑なな前かがみは
 六十四年の苦闘への袂別?
 やむことのない爆音に遮られてか
 松葉杖ももたぬ隻脚で
 何処へ行こうというのです

 ―おっかあ
 右も左も
 立入禁止です
 胸板を風にぶちあててここまできた
 不肖の倅をもう一度だけふりかえって下さい!
 ああ
 目の前にいるおっかあなのに
 この手はいくらさしのべても とどかない
 この咽喉のさけるような叫びもきこえない
 ふるさとの「妙義」に
 喜びのむしろ旗 真紅の旗が
 ひるがえったのに

 おっかあ―
 ささくれ筋くれ立った十指を垂れ
 踵にざくろのようなひびをのこし
 落ち凹んだ眼窟に交錯した悲しみの溢れるまま
 いくらぐちってもぐちりすぎることのない糞働きの一生を
 いまはだれに訴えるすべもない真一文字の唇
 萎え貼りついてしまったその乳房にすがって生長したおれを
 もう一度も叱ってはくれない

 安らかに眠りようのないおっかあは
 おれの 十字架
 働く人間を田づくり細つくりを蔑みつづけ
 砲身に またこめようという
 世に生きるおれに
 動脈血のにじんだ
 その荒縄で
 おらがおっかあを
 十文字に背負わせてくれ!

 きむらとおるの母は木村センという。
 農民の子に生まれたセンさんは、働いて、働いて、ただひたすら無言で働いた。18歳で、同じ村の農家に嫁いでからも、「借金で傾きかけていた木村の家を立て直すべく、一心不乱に働く日が続くいた。
 六十歳を過ぎたある日、センさんは凍った地面に足を滑らせて、腰を打ち、動けぬようになった。大腿骨を骨折してしまったのだ。 
 その後のことだ。
「いかにも、不本意な表情で天井を眺め続けていた彼女は、ある日、手数をかけて体を起こしてコタツに向い、丸めた布団で体を支え……」
「…小学校入学を四月に控えた孫の相手をしながら文字の手習いを始めた。生涯、働きづめで、文章など書いたことがなかったセンさんはが生涯にたった一度だけ「文章」を書くためだった。

 四十五ねんのあいだわがままお
 ゆてすミませんでした
 みんなにだいじにしてもらて
 きのどくになりました
 じぶんのあしがすこしも いご
 かないので よくやく やに
 なりました ゆるして下さい
 おはかのあおきが やだ
 大きくなれば はたけの
 コサになり あたまにかぶサて
 うるさくてヤたから きてくれ
 一人できて
 一人でかいる
 しでのたび
 ハナのじょどに/
 まいる
 うれしさ
 ミナサン あとわ
 よロしくたのみます
 二月二日 二ジ

 「足が動かなくなって働けなくなったので、もう自分の役割はない。」と自宅で縊死した。享年64歳。
 この遺書は障子紙の切れっ端の両面に色鉛筆で綴られ、空の財布に小さく折りたたんで入れられていた。財布がなぜ空っぽだったかというと、少し前に、有り金をはいて末の息子の背広を新調したからだった。
 家族たちは、センさんを深く愛していた。四十五年もの長い間、センさんは働き続け、家族を養った。センさんの子どもたちは「もう、十分に働いたんだ。あとはゆっくり休みなさい」といっていた。誰も、センさんを邪魔者扱いはしなかった。それなのに、センさんは、ひとりで行ってしまったのだ。 センさんは遺書を書き残しておく事で家族が自戒しないようにと。
 センさんは、働けなくない自分を許せなかった。家族が、働かなくてもいいと考えても、センさんはそう考えなかった。センさんにとって、「家族」とは、そのために死ぬことのできる、至上の共同体だったからだ。もちろん、豊かではなかったが、働けぬセンひとりを養うことは難しいことではなかった。 センさんは働き続けた。「労働」を家族に捧げたのである。
 だが、やがて働けなくなると、彼女が持っていた最後の財産、「愛」を捧げた。

 老婆心(ろうばしん)という仏教用語がある。
 自分のことは一切考えにいれず只、相手をおもいやる心、これを老婆心といいます。姥捨て山の話をご存知でしょうか?ある地方では年老いた老婆を山に捨てるという話です。ある日村の一人の男が年老いた母を背負って山に捨てに行く途中のこと、背中に背負われた老婆が木の枝を時々捨てているではありませんか、「さては母は捨てられたあと一人で山を降りられるよう目印をつくっているんだな!」男はそう思いました。さて母をおいて帰る段になってお母さんはこういったのです「今、山を登ってくるとき、お前が帰り道を間違えないように枝をおって目印をつけておいたよ。それをたよりに気をつけて里へ帰りなさい!」自分が捨てられようとしながら、なお我が子の為に道しるべを残してやろうとする親心に男はいたく感動し、親不孝を詫びるとともに再び母を背負って山を降りたのでした。

(2017年7月28日)

生きているんだ 三角みづ紀の詩

【帆をはって】

包丁で指を切った
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
年をとった彼等
には
肯定できない
ものが

には肯定できる

(絶対がここにはある)

いつか二人で猫を飼おう
名前
何てつけようか

どうしようもないこの星

弱さが強さになる
荒波を利用
して海
へ出る
  
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた
生きているんだ

 この詩は三角みづ紀の詩集『オウバアキル』に収められている。「オウバアキル(overkill)」とは過剰攻撃という意味だ。
 小中学校時代いじめにあったという三角みづ紀さんは、新聞のインタビューに「詩を書くのはいじめへの復讐です」と答えている。
 この詩集には28編収められ、ある新聞には「いじめや暴力、リスカ、クスリ、自殺願望などそれらかを凝視した作品世界から聞こえてくるのは、現代の若者がもつ不安、痛み、SOSの声です」と紹介されている。三角みづ紀さんの詩には「死」がまとわり付いている「死」が魔法であるかのように…。時として「死」の世界に足を踏み入れそうになったかもしれないが、角みづ紀さんは病気を克服しながら、「生きている/生きている/感謝しよう/全てのものに」と生への渇望っをうたい、「あとがき」の最後の言葉、「大丈夫私は元気です。」の言葉に厭世的ならずに生きぬこうとする姿勢を感じる。 
 三角みづ紀さんが生まれたのは1981年で、南条あやと同世代だ。少し上がCoccoや松崎ナオになる。彼女たりの青春はバブルとその崩壊、誰もが「勝ち組」になるための弱いものイジメが背景にあり、「メンヘル」や「カイリ」が叫ばれ、社会が壊れ始めた頃だ。
 誰もが心にぽっかり穴があき本当に自分、本当の居場所を探している。
 『ぼくを探しに』(シルヴァスタイン作、倉橋由美子訳)という絵本がある。その冒頭にこんな詩が掲げられている。

何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを
探しに行く
ころがりながら
ぼいは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを……」

 主人公の「円」が「何かが足りない」と思い、かけた部分を探して完全な「円」になりたい、ならなければと旅に出る物語だ。
 現代人は「穴があいたままじゃダメだ」と強迫観念になったり、「自分にもかけた部分がある」と悩んている。物語では、苦労してかけらを見つけるが、まるくなった「円」では歌えなくなりせっかく見つけたかけらをそっとおろし、一人ゆっくりころがりはじめる。歌いながら。
 何かがかけているからわかる事もあり、心ぽっかり穴があいているから大事なモノが見つかるのかもしれない。確かにこの世は魔法の世界ではない。ラカンのいう「想像界」で生きてもいい。詩とはそういう世界だからだ。永遠にかけら探しはつづくし…
 三角みづ紀さんはころがり続けて生きている。そして自分も生きている。それだけでいい。

(2017年7月27日)

生と死と詩 榊原淳子の詩

今日も駅に向かう途中、カギをかけたか不安になる。
「もどれ、もどれ」と心の声が叫ぶ。
日々、この様な日常を過ごしている。
私は、心配性で依存体質だ。
榊原淳子さんの詩集『世紀末オーガズム』に、
「手を清潔にしたい そして髪をかきあげたい」という詩がある。

手を洗っています
もう二十回も洗いました
今二十一回めです
夜です
とても寒い
虫の声みたいな音が聞こえます
しんしんしんしんと言っています
白いネグリジェの裾が
床に触れるのではないかと不安です
蛇口に水をかけます
いっかい、にかい、さんかい、よんかい……
十かい、十一かい、十二かい
蛇口をしめます
蛇口の飛沫が
また、ついてしまいました
もう一度やりなおしです

蛇口をひねります
蛇口についた誰かのバイキンが
指先にこびりつきます
何度も洗います
何十回も手をこすります
冷たい水です
流しをバイキンが流れてゆきます
バイキンが吸水口のところにたまります
蛇口についているバイキンを
水をかけておとします
バイキンはなかなかおちません
何度も水をかけます
やっと、おちたみたいです
蛇口をしめます

でもまだバイキンは
私の手に残っているかもしれない
私は、髪をかきあげたい
でもバイキンが残っているかもしれません
バイキンは髪にこびりつくかもしれない
私はもう一度だけ手を洗って
それから髪を耳にかけようと思います

蛇口をひねります
ほらバイキンがついた
何度もこすります
手の先が赤く、しびれてきました
ネグリジェの裾がとても気になります
涙が出てきます
どうして私は泣いているのでしょう
鼻水もでてきます
でも手はバイキンで汚れていて
鼻をぬぐうことができない
蛇口には誰かのバイキンがついています
ネグリジェの裾から
廊下のしめったバイキンが上ってきます
私はどうすればいいのだろう
そう思うと体が硬直します
蛇口に水をかけます
かけながらネグリジェの裾が気になります
もう黄ばんでいるかもしれない
手を
清潔にしなければなりません
蛇口に水をかけます 速く
もっと速く
体が硬直します 速く
速く ハヤク

脅迫性障害蛇口に水をかけます

今から30年くらい前(1983年)に出版された詩集だ。
強迫性障害や境界性パーソナリティ障害が急激に増えた頃だ。
大富豪のハワード・ヒューズは、
汚染を恐れるあまりホテルの最上階のスイートルームに閉じこもり、
人を寄せつけず、一日中手袋が欠かせなかったという。
また、ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れなかったり、
手洗い始めると血が出るまでやめられなくなったりしたため、
入浴や手の洗浄がほとんど不可能だったともいわれている。
髪や髭は伸び放題、顔中毛だらけで、
爪は伸びすぎていくつにもねじ曲がって長く伸び、
入浴もできなかったので、体から悪臭が漂っていたという。
デビッド・ベッカムも強迫性障害であることをカミングアウトしている。
カオス社会の現代、人間関係も煩雑化し、常に「不安感」はつきまとう。
「不安感」の根底には、人間の時間認識と空間認識の誤差から生まれる。
人はこの時間と空間の中で,生まれ,生活し,生きている。
この時間と空間の中で,親と過ごし,友と交わり,大切な人と別れる。
人は時間と空間の変化を味わっている存在している。
人はいずれ、時間の中に存在できず,空間の中に存在できず,
存在そのものを失うことへの不安と怖さが襲ってくる。
時間と空間は死んだ後も存在し続けるのに、
自分はいなくなるという恐怖である。
しかし、時間と空間を自分の外に意識すると,
ますます死は時間と空間の中でもがき苦しむことになる。
この時間と空間の中に自分がいるのではなく,
自分の中に時間と空間がある。
自分が生まれる前には,この時間と空間の中に自分は居らず,
自分が死んだ後にも,時間と空間の世界は自分のまわりにはない。
人は皆,自分の人生を生きる。死ぬ一瞬に永遠の時間を経験するのだ。
いつか全てが消えてなくなる。
この地球が偶然誕生したように、私たちはこの時間と空間に誕生した。
榊原淳子さんは、「人類は、もっと優しく思いやり深くもなれる、
そして、もう一つ上の動物へと、進化できる」という。
時間と空間が、私たちを存在たらしめている間に、
競べあうのではなく、貶しあうのではなく、
お互いがわかりあわなければいけない。

(2017年7月26日)

無償の愛 吉原幸子の詩

 風 吹いてゐる  
 木 立ってゐる
 ああ こんなよる 立ってゐるのね 木
 (【無題】)

 雲が沈む
 そばにゐてほしい

 鳥が燃える
 そばにゐてほしい

 海が逃げる
 そばにゐてほしい
 (【日没】)

吉原幸子の詩は、鋭いナイフの様に、真っ直ぐに心の奥底に突き刺さる。
読者たちは、吉原幸子によって傷つけられ、救われるのだ。

 他人にも傷がある そのことで
 救われるときがある たしかにある

 でも
 わたしの傷が 誰を救ふだろうか
 (【非力】)

 吉原幸子を”純粋病”と呼ぶ。
 詩作という行為によって自傷し、両腕いっぱいにことばでリストカットをして失神する。
 血が出るわけではない。詩が湧き出てしまう。
 そしてわざと、神を失いかける行為を繰り返す。
 神から見放されることで、やっと自由になれるだろう透明な自分を求める。

 傷のない愛などある筈はに だが
 愛はないのだから 傷もある筈がない
 ない空にない風船をとばした罪
 ない恋人を抱いた罪
 半分が終わった
 さうして残る半分は
 わたしがそこにゐないことを
 証明するための時間だ
 どどかなかったナイフは ない
 傷はないのだから わたしは ない
 (【独房】)

 わたしの小さな光のために
 まはりの闇が もっと濃くなる
 わたしにはあなたがみえない
 あなたのなかの闇がみえない

 わたしの小さな光のために
 わたしには わたしがみえない
 わたしの流した白い血だけがみえる
 (【蝋燭】)

人は愛に絶望した時に、肉体を求める。
吉原幸子は無償の愛をテーゼとし、

その極限に自らを追いつめるように生きた。
純粋病はどの病気よりも重く、美しいほどに残酷だ。
しかし、何かをひたむきに求め続ける「生」は光輝くだろう。
深い孤独とともに。

 ハンスたちはあなたを抱きながら
 いつもよそ見をする
 ゆるさないのが あなたの純粋
 もっとやさしくなって
 ゆるさうとさへしたのが
 あなたの墜落
 あなたの愛
 (【オンディーヌ】)

(参考文献/『現代詩手帖(吉原幸子の世界)』)

(2017年7月25日)

リチャード・ブローティガンの原風景

それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは
  なぜだろうか
すべてはまたべつのことにつながっているのだから、
  もう一度
  たしはやりなおそう
ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない 
ひょっとしたら、わからないかもしれない
ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない
  はじまりかもしれない
ときは早くたつ
  わけもなく
またはじめから
  やりなおしかんだから
わたしどこへも行きはしない
ここまでいたところへ
  行くだけなのだから
 
 ヒッピー時代の寵児だったリチャード・ブローティガンは、この「無題」という詩を残してたった一人で死んだ。

 『芝生の復讐』に「談話番組」という作品がある。29ドル95セントの安いラジオを買ってきた夜、幼少時代に買ったラジオの回想をする物語だ。
 大好きな作品なので、長くなるが引用したい。
 「十二歳のときだったろうか、「わたし」の家では新しいラジオが必要になっただ、とても貧しかったので、おいそれとは買えなかった。やっと月賦の頭金に足りる分だけ貯まったので、ぬかるみを歩き、近所のラジオ屋へでかける。そして「天国の製材所のような匂いのする素敵な木製のキャビネットに入った、息もつまるように美しいものを」買う。冬の暴風雨が家を揺さぶったあの夜は、生涯でも至福の一夜だった。家の中にあった棺のような家具や一家の貧しさ、若かった不幸な母や、おさない妹の姿。宝物のようにラジオを捧げもって、歩道もない泥道をもどっていった誇らしい「わたし」。そして、すでに禿げかけ、腹もでてきた中年のかれは、いまふたたび新しいラジオを聞いている。すると、「あのときのあの嵐の影が、ほらまた家を揺さぶる」のだ。」
 ラジオが最高の娯楽だった時代に、貧しくて壊れても買いかえることができず、無音のラジオに耳を傾けていた日々。やっとラジオを買いかえることでき、持って帰った幸福感。これがブローティガンの原風景だろう。 
 大人になったブローティガンはラジオに変わる「幸福なモノ」を探しに故郷を捨てる。呪われた時間を取り戻す人生の旅のスタートだ。
 「あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」とヘミングウェイの言葉にもあるが、ブローティガンも母や継父に邪魔者扱いされた幼少時代の影響から、ひととの友情や、恋人との恋愛関係を持続させることができなかった。
 語る事だけがブローティガンすべてだ。語らなければ過去は時間の屑籠にすてられたままである。語られることで、記憶が堀りおこされる。埋もれた時間はときに、呪われた時間でもあるが、それでも語られさえすれば、傷ついたこころが休息を得ることはある。呪われた時間こそ、語られなければならない。それではじめて、悲傷や失意や屈辱に威厳があたえられるということか。
 ブリーティガンの作品には常に「死」がつきまっとっているが、何故か悲壮感や絶望感はない。絶望のすえの希望のようなものがあり、読者にやすらぎを与える。
 自分もブリーティガンの原風景を見ている。 
 じぶんの旅はもう少し続くが…… 
      
(参考文献/『リチャード・ブローティガン』藤本和子) 

(2017年7月24日)

母を想う 山下千江の詩

 山下千江さんの詩集に『ものいわぬ人』という非売品の詩集がある。
 『ものいわぬ人』は山下千江さんの母様が昭和三十八年一月十三日、掘りごたつから出ようとして倒れ、そのまま脳血栓の後の脳軟化症のため、すべての運動神経がマヒし、物も言えず、手足も不自由なまま、病床にあって、昭和四十年一月十七日早暁、満二年と四日目に亡くなり、亡き母様に捧げるために綴られた詩集です。
 

  【わかれ】  山下千江

  ふくらみかけた紅梅に姿よく雪がつもった朝
  ベットの母に一枝折ってかざしてみせた

  母の口がきけなくなってから
  母娘はお互の眼の奥をのぞきこんで
  言葉よりも重い会話を交しあった

  娘がなぜわらいながら蕾(つぼみ)の枝をかざし
  つもった雪をみせようとしたかを
  母は深く受取ってこくりとうなずいた。

  涙よりもつづきのない
  つめたい「その日」がもう遠くはないことを
  紅梅の紅は娘にかわって母に語りかけた
  母はなぜ娘が「わらって」いたかを理解して 小さく泣いた
  
  その泣声を娘は終生忘れ得ないであろう
  深く 重く そしてあわれにも浅い縁(えにし)

  そういうものであった
  (母と子というものは)

  野路の紅梅が一輪
  ふっくり開いた朝
  母の頬は白く冷たくなって
  閉じた眼は
  もう花の色をみることが出来なかった

  娘はまだぬくもりのさらぬ母の懐に一枝の紅梅を抱かせ
  声をのんで泣いた

  そして今度は自分で
  「さようなら お母さん」 といった

  【綾とり】  山下千江

  とおい日に
  あなたのたもとに
  重くすがって
  曲らせなかったいくつかの路

  その中には
  若い日のあなたが
  心を残してすぎた路地もあったでしょうに

  お母さん
  ゆるして。
  あたしの一番大きな罪は
  まだ子供だったということ
  
  あなたを今重く背負って
  私が曲り角に佇(た)っていても
  私が涙をこらえてそこを通りすぎたとしても
  あなたの罪はたった一つ
  老いて病人であるということだけ

  明治生まれの母と大正生まれの娘は
  こんなところで綾とりをして
  お互いの生涯の帳尻を塡めあっていくのでしょうか

  【添書】  山下千江

  謹んで拝します。 あみださま
  十七日早暁お手許に伺いました旅人の列に
  藍大島の対の着物
  緑の市松模様の帯をしめ
  紫檀と珊瑚のじゅずをかけ
  かぼそい竹の杖をついて
  トボトボと歩く小柄の老女をおみうけでしたら
  それがわたくしの母でございます
  冥府へ行列は足音もきこえず
  三角の旗なびかせた鬼に守られて
  母はおびえていなかったでしょうか

  連れがあるような ないような
  たよりないあの世とやらの道々で
  ひとり歩きをしたことのない年寄りが
  もしや迷っては居りませんか

  (略)

  はじめまして あみださま
  日頃は無信心のわたくしが
  勝手についてのおすがりを
  どうぞおわらい下さいまし
  おわらいの上のお慈悲には
  母をよろしく願います
  馬鹿正直で辛抱強く
  気弱なくせに強情っ張り
  世間知らずのお人よし
  もしや言葉の行きちがいで
  地獄へ行ったら恨みます
  どんな片すみでも日あたりよく
  静かなやさしい空気のあるところなら
  母はくるくる働いて
  針仕事や居眠りをして過ごしましょう

  はじめまして あみださま
  おしゃかさまに かんのんさま
  おじぞうさまに おえんまさま
  もしもあなたが本当においでなら
  紙銭もたきます 藁の馬も作ります
  毎日清水も供えます
  あなたの悪口もつつしみます

  お母さん
  今度は気儘に暮らしてね

 山下千江さんは「あとがき」で、
「母を見送って一年たった時、母のことを何か書くどころか、苦しかったことは皆忘れて、とにかく一生懸命に生きてきた母の姿ばかりが目に浮かび唯々悲しく、可哀想で、はずかしいことですが、以前の意気込みはどこへや、何も手につかないままボンヤリとした一年を過してまいりました。満二年その不甲斐なさに愛想をつきた形です。
 しかし、考えてみれば、私の母は決して学識が深いとか、賢母とか慈母とかいうよりは、むしろ、やみくもに娘を愛し、老いては全身の重みでもたれかかってきた、ごく普通の愚母でありました。
 愚母を弔うにが豚女こそふさわしいかもしれません。私は身の程も忘れておこがましくも考えつづけてきたいろいろの問題を、今はもうこだわりがなく一時おあずけにして、愚かな母の愚かな娘としてごくそのままの形で、この「詩集」というにはあまりに幼稚な一本を編み、不人情な娘心のお詫びのしるしに亡母に捧げたいと思います。」
 と詩集を編んだ苦悩を綴っている。
 そして、「序文」を依頼された矢野峰人氏は、
「山下さんが、女性の身を以て、時としては自分も傷つき倒れながら、二個年の長きに亘る悪戦苦闘の後に達し得た心境は、自我愛と人類愛との葛藤とも言えよう。欺くて、この闘いに能く堪え得る者は、その間も、いつかしら、一層高い立場から、博大な愛を以て、一切を眺め得る力を体得する。
 これは、人間としてのみならず、芸術家としても亦、最も尊い体験である。山下さんの詩が、上述のような忍耐の生活からにじみ出た結晶であるにもかかわらず、その孰れとして、決して生々しい素材を以て生の人間的感情に訴える事なく、能く純粋な芸術として人をつよく動かす事に成功しているのは、苦い体験を重ねた後、一定の距離を置いて対象を見得る境地に達したからである。
 われわれが此処に聞くものは、絶望のどん底から響いて来る厭世呪詛の声ではなく、涙を以て洗い清められた魂の、静かな独語、または亡き人の霊との対話であり、血涙を以て綴られているにもかかわらず、一切が静かなる涙の光につつまれて、さながらに縷々として立ちのぼる香煙にうちまじる読経の声のように、耳傾ける人々の胸の奥に沁み入る力を有って居り、彼等もふとわれに返れば自分も亦涙に濡れているのに気づくのである。亡き人の霊前に献げるにまことにふさわしい詩集といえよう。」
 と賛辞を贈った。
 『ものいわぬ人』は、一九六七年一月二十三日の発行です。子どもを愛する母の想い、母をいたわる子どもの想いは五十年前も現在も、そして未来も変わることなないでしょう。まして、高齢化社会の現在にあって介護の問題は避けては通れない問題です。介護する側のこころの葛藤から解放までを考える上でも貴重な一冊です。

 どれだけ「おかあさん」という響きに助けられてきたことだろう。
 おかあさんを想う詩を読めば、見えないへその緒をたぐり寄せるようにおかあさんとの思春期の愚かしい情景がまなうらに蘇る。
 おかあさんの詩が数多いサトウハチローは、「ぼくは不良少年だったからね、おふくろを嘆かせることが多かったので、いっぱい書くことがあった」と語り。おかあさんの死を悼むにしても、詩で泣いたり、詩でわびしたり、おかあさんお想い出を詩で綴っている。
 おかあさんの存在とは“原風景”であり、見えないへその緒をたぐり寄せて“還る家”である。人は“還る家”があるから、人生という旅の中でめぐりあう困難や悲しみも堪えていけるのであると思う。思春期に逃げないで激しくおかあさんと感情をぶつけ合いながら向きあってきたからこそ“還る家”はつくられたはずだ。そして心の底から感謝しているよ。
 おかあさん・・・。

(2017年7月23日)

アーメン ソーメン 冷ソーメン 山田花子

 『ユキの日記』 『二十歳の原点』 『卒業式まで死にません』 など詩集と同じ様に日記本も数多く読んできた。夭折者の残した日記本は、その話題性もあり当時ベストセラーになったものも多く、いまでも読み継がれている。山田花子の『自殺直前日記』もその中の一冊だろう。
 山田花子とは80年代から90年代始めにかけて活動していた漫画家で、92年2月に統合失調症で入院、「詩人・鈴木ハルヨとして再出発する」と日記に書いたが、退院翌日の5月24日に飛び降り自殺した。『自殺直前日記』は生前メモ魔であった彼女の、残した日記やメモ類を刊行したものだ。
 学生時代からつげ義春や泉昌之のガロ系の漫画が好きで、時代は少し違うが、同じ専門学校でグラフィックデザインを学んだという接点もあり気になる存在だった山田花子について考えてみた。
 精神科医の石川元は『隠蔽された障害』で、山田花子が非言語性LD(自閉傾向のある発達障害)であり、「こころの持ち方や努力だけでは変化せず、なぜ自分の言動がいつも対人関係の場で裏目に出るのか理解できず、「困った人」「不可解な人」と受け取られ、いじめや無視のターゲットにされた」と結論付けている。
 また、編集者とのトラブルもについて「山田花子が悩んでいたのは「オチがないことではなく「オチがないと言われる」ことに限られました。知的にはきわめて高度であるにもかかわらず、オチを付けることで対人交流を円滑にするという、並の人間なら自動的に行えるはずのことができないという欠落に自分では気づくとこはありえないでしょう」と書いている。「脳」の問題を「こころ」の問題として意識をして我慢すべきことだと考え、いじめっ子を恨みながらも自分を責めて続け、そのために二次的に情緒障害を悪化させた。
 グラフィックデザインの道に進んだ自分だが、創作活動をするなかで行き詰まったり落ち込んだり、人を恨んだりしている。誰しもみんな、山田花子であり山田花男なのかもしれない。精神分析学の草分けである古沢平作博士が「人間みんな病人です」と、言うように。
 残念なのは、才能があった彼女が違う世界で表現できなかったことだ。

(2017年7月21日)

『原発難民の詩』 佐藤紫華子の詩

佐藤紫華子さんの詩集『原発難民の詩』を読んだ。

【原発難民】

仕事がありますよ
お金をたくさんあげますよ

甘い言葉にのせられて
自分の墓穴をほるために
夢中になって働いてきて
原発景気をつくった
あの頃・・・・・・

人間が年をとるのと同じように
機械も年をとるということを
考えもしなかった
技術者たち!
ましてや
大地震、大津波に
襲われるとは・・・・・・

地震国であり
火山国であるという
基本的なことを忘れてしまった末路か・・・・・・

私たちは
どこまで逃げれば
いいのだろうか
追いかけてくる放射能
行く手を阻む線量

見えない恐怖!
におわないもどかしさ!
聞こえない苛立たしさ!

私たちは安住の地をもとめて
どこまで
いつまで
さすらうのだろう

【ふるさと】

呼んでも 叫んでも
届かない

泣いても もがいても
戻れない

ふるさとは
遠く 遠のいて
余りにも 近くて
遠いふるさと

あのふるさとは
美しい海辺

心の底の
涙の湖に ある

佐藤さんは「逃げている間は夢中で、何が何だかわかりませんでしたけど、どうにか落ち着きを取り戻してホッと息をつきましたら、恐ろしくて、悲しくて、たとえようのない切迫感におそわれて、何かしなくてはいられませんでした。それが詩となってあふれ出たのです」と詩を書くようになった理由を記している。

原発事故直後、世間での「原発利権」と「脱原発利権」や「ネット右翼」と「デモ左翼」による二項対立に違和感を感じるなか、小出裕章氏の原発事故に対して「今回のことにしても、単純なことであって、弱者が虐げられているという、そのことだけです。別に放射能の問題でもなければ、原子力の問題でもない。本当に弱い立場の人たちが虐げられるということです。そのことに私達一人ひとりがどう立ち向かうかという、それだけのことでしかありません」と語った言葉に感銘した。それは今も変わりない。

自分の豊かな暮らしのために誰かの犠牲がある
しかし原子力ムラは無罪放免そして再稼働

原発が再稼働し、信頼が失われた社会でのなかで一日一日を正しく生きるために、マザー・テレサの「小さなことに誠実になりなさい。その中にこそ、私たちの力はあるのですから」の言葉を思い出す。自分自身の戒めとし、小さな灯りで暮らしている。

(2017年7月19日)

詩は毒である 山本陽子の宇宙

 以前、平田俊子さんにサインをしてもらった際に、「詩は毒である」と書き添えてあった。
 「薬」と「毒」は表裏一体なら、猛毒で癒されたいものだ。
 山本陽子は、58年女子美術大学付属高校に首席で入学、学校側の大学に残ってくれという依頼を断わって卒業後、日大芸術学部映画科に入学した。63年「私の知っていることしか教えないのでつまらない」と中退。66年、思想・文学の同人雑誌「あぽりあ」創刊に参加。評論「神の孔は深淵の穴」を発表する。67年「あぽりあ」第2号に「よき・の・し」を発表。70年、頂点となる「遥るかする、するするながら3」を発表し、独自の語体を確立する。76年パートとしてビルの掃除婦をし、午後は読書、その後は一人住まいの目白の公団自室で酒にくれるという日々を9年間続け、その中から意味を拒絶する言葉の連なりをつむぎ出していた。84年死去。おびただしいメモ類が残されていたが、すべて家族の手で焼却された。
 彼女は社会を拒絶し、ひたすら自分の内面とむきあった。そこには強固な意思があり、切実な思いがあった。
 彼女の詩は、意味を拒絶する詩ではない。「不明」を意味し、不明を体現しているかのようだ。要するにつねにそれは意味の不明性こそが存在証明であったかのようだ。
 「未来にどんな代償も求めず、過去をそのまま受け入れること。今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。この世から脱して、むなしくなること。しもべ(奴隷)の本性を身にまとうこと。時間と空間の中で自分の占めている一点にまで小さくなること。無になること。この世の架空の王権を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。そのとき、人はこの世の真実に触れる」、「自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。この目的をめざしてすべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。神よ、どうか私を無とならせてください。私が無となるにつれて、神は私を通して自分自身を愛する」と、シモーヌ・ヴェイユは言っている。
 詩は混沌であり、詩自体には意味は無い。ルイス・ブニュエルを好んだという彼女は、自室にこもって身体を使い「無」になる実験を重ねた。そこからこぼれ落ちた言葉を拾い集めた。一冊の詩集だけしか残さなかった彼女は、詩集をつくることも意味が無かった。そして、山本陽子自体が詩となった。(参考文献:『現代詩手帖』萩原健次郎)

詩人山本陽子の世界(音・映像:井野朋也)  https://www.youtube.com/watch?v=ndDzyAep8PU

(2017年7月18日)