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小さな一歩

(『PEANUTS 』1993.4.24)

「私とは誰か」「何のためにここにいるのか」。心の中でさまざまなに問いかけてくる。「お前は誰だ」「何のためにそこにいるのか」。自分が「ここにいる」というのは自明のことだと信じて疑わなかったチャーリー・ブラウンは、「ここってどこ?」という内なる声に問い返されて、言葉を失う。改めて考えてみれば、ぼくが「チャーリー・ブラウンという名前の人間である」ことも、「あの両親の子ども」だということも、「20世紀のアメリカのここにいる」ことも、すべて当たり前ではない、謎なのである。内なる声の主は、手を振ってみせろと言うけれど、いったいどこから「ぼく」を見ているのか。そこから「ぼく」は、どんなふうに見えるのか。そもそも、「手を振ってみせろ」と話しかけてくる相手も「ぼく」のはずではないか。
このようにして人は人生のどこかで、私に語りかけるところの〈私〉と初めて出会う体験をすることがあるのではなかろうか。眠れぬ独りの夜、鏡を見た朝、親友に裏切られた日、深い山で空を見上げた瞬間―さまざまなきっかけで、人は、自分自身を対象化してとらえる「主体としての私」のはたらきに気づく。それは、私でありながら未だ私ではない誰かと出会うということでもあり、突然に自分と世界が変容する体験でもなり得る。
そう考えと、〈私〉と出会う体験というのは、「やっと出会えた」という喜びの場面になるとは限らないことがわかる。「ああ、私は〈私〉だったんだ」と最初から納得される、幸運な出会い方をする人がいないわけではないと思うが、漠然とした違和感や不安だけを残したり、見えていなかったものが突然目の前に姿を現し、その存在を認めようと迫ってくる、圧倒される不可思議な体験として意識たりする人のほうが多いのではないか。そして、そのような出会いの体験は、一度きりで終わるとは限らず、時を変え、形を変えて、人生の経過の中でふいに訪れるものなのではないかと考えられる。(『自我体験とはなにか』高石恭子)

「自我」とは何とも煩わしいものだろうか。
人間が人間らしくなる前の恐竜の餌だった太古から、植物連鎖の頂点に立ち、科学技術が発達した近代において「自我」は進化の副産物でもある。デカルトやパスカルを罵倒する訳にもいかず、毎夜のように「自我」格闘し続けなければならないのが人生というものだ。
人間は誰でも不安の中で自分の明日を創るために、「小さな一歩」を踏み出さなければばらならない。眠れない夜は「小さな一歩」の証でもある。
それでも安心さ、隣にスヌーピーがいるからね。