「死」 (『原爆詩集』峠三吉 より)
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泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩こめた塵煙じんえんの
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている
背中から突き倒した
熱風が
袖で肩で
火になって
煙のなかにつかむ
水槽のコンクリー角
水の中に
もう頭
水をかける衣服が
焦こげ散って
ない
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵かかとがとれ
せなかに貼はりついた鉛の溶鈑ようばん
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴ふきこむ
火と煙
の渦
〈ヒロちゃん ヒロちゃん〉
抑える乳が
あ 血綿けつめんの穴
倒れたまま
――おまえおまえおまえはどこ
腹這いいざる煙の中に
どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまずき仆たおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつ癇高かんだかいさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥むけた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿のうしょう
むしこめる煙、ぶっつかる火の風
はじける火の粉の闇で
金いろの子供の瞳
燃える体
灼やける咽喉のど
どっと崩折くずおれて
腕
めりこんで
肩
おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば
な
らぬ
か
峠三吉の『原爆詩集』を高く評価している詩人のアーサー・ビナードが「死」の解説をしている。
「!」
原爆さく裂の瞬間を「ピカ」と称したのは被爆者の実感だが、それでも、後から言語化した感はある。「!」は、言語化するいと間もなく、熱線と放射線に射抜かれた感じが伝わる。そして、生き延びようと逃げる体験に読者を巻きこみながら、文は切断される。
<あ
にげら
れる>
日本語の常識では決して改行しない箇所で、なぜ切ったのか。峠はここで、「日本語をヒバクさせた」のだと思う。放射線でDNAが切断されたように、言葉が切れちゃっている。ヒバクさせた言葉で、読者を実体験の近くまで導く。
詩はこう終わる。
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば
な
らぬ
か
巻きこまれた読者一人一人は、ついに逃げ切れず、死に直面する。心地よい調べではないけれど、21世紀半ばからの核時代になくてはならない詩の表現であり、内部被曝をもたらす放射能汚染が途切れない21世紀まで見通した言語的実験だ。
アメリカ生まれのアーサー・ビナードが『原爆詩集』を評価した事の意味は大きいことだ。
アメリカでは原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という考え方が主流で、学校でもそう教えられるという。
心の奥底から戦争への憤りを覚えるのは、人類の歴史で発展しきてた「文化」である。
「異文化」を理解することは、「文化」の多様性を理解することであり、それを十分に理解できれば、「異文化」の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、共感することが容易になるはずだ。
「文化」は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあり、人間は欲動から自由になれないが「文化」を獲得することで、知性の力が強くなりそうした欲動がコントロールされるようになっていく。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになる。いわゆる「オタク的」になればいいのだ。秋葉原に観光に来るアニメ好き、ゲーム好き外国人は礼儀正しくて、優しそうな顔をしているのも「異文化」を理解しているからだ。
新の平和主義者とは、「文化」の発展を受け入れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことだ。
(参考:『ひとはなぜ戦争をするのか』)
(2017年8月22日)