日本人は古来から、自然は単なる物質的、物理的な物体ではなく命を宿し、魂を宿していると考えられてきた。風には風の命があり、水には水の命があり、火にも火の命があると。自然現象は命の営みだからこそ、恩恵を与えてくれる神として敬ってきた。
時として襲いかかる自然災害も神々との関わりの中で捉え、信仰に基づくさまざまな叡智を生み出してきた。自然災害とは神々の怒り・祟りと考えられており、神は「地域を守護する神」であるとともに「祟り神」としての性格の両義的存在だった。
例えば、河川が氾濫した後は豊作になり、津波が豊漁をもたらし、地滑りの地の米はうまい…。など、自然災害は豊かさと裏腹であり、津波や、崖崩れや暴風も神なのだ。
東日本大震災のあの大津波でさえも神の業なのである。神が怒るときは、人間が対抗したり押さえこんだりすることは不可能で、なだめ、いなすことができるだけだ。
大震災は、「自然はやさしい」とばかり考え、自然=神への畏れを忘れてきた私たちに大きな反省を迫っている。私たちは自然の中から生み出された命の一粒なのである。今、求められていることは「自然との共生」という思想であり、”自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性”を取り戻すことだ。
そこで、宮沢賢治の詩を読んでみよう。
【雲の信号】
あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
そのとき雲の信号は
もう青白い春の
禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
【林と思想】
そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ
賢治の創作の原点は、自然と人間の営みの中に「命の輝き」を見たことだ。賢治は野外を散策しながら、動物や植物・鉱物、風や雲や光、星や太陽といった森羅万象と語りあったり、交感しあったりした。賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえないと考えていた。
私たちは、賢治のたくさんの作品群から、自然に対する近代の人間に傲慢さを知り「自然との共生」の精神を学びたい。
(参考文献:『神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる』鎌田東二)
(2017年7月31日)