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リチャード・ブローティガンの原風景

それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは
  なぜだろうか
すべてはまたべつのことにつながっているのだから、
  もう一度
  たしはやりなおそう
ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない 
ひょっとしたら、わからないかもしれない
ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない
  はじまりかもしれない
ときは早くたつ
  わけもなく
またはじめから
  やりなおしかんだから
わたしどこへも行きはしない
ここまでいたところへ
  行くだけなのだから
 
 ヒッピー時代の寵児だったリチャード・ブローティガンは、この「無題」という詩を残してたった一人で死んだ。

 『芝生の復讐』に「談話番組」という作品がある。29ドル95セントの安いラジオを買ってきた夜、幼少時代に買ったラジオの回想をする物語だ。
 大好きな作品なので、長くなるが引用したい。
 「十二歳のときだったろうか、「わたし」の家では新しいラジオが必要になっただ、とても貧しかったので、おいそれとは買えなかった。やっと月賦の頭金に足りる分だけ貯まったので、ぬかるみを歩き、近所のラジオ屋へでかける。そして「天国の製材所のような匂いのする素敵な木製のキャビネットに入った、息もつまるように美しいものを」買う。冬の暴風雨が家を揺さぶったあの夜は、生涯でも至福の一夜だった。家の中にあった棺のような家具や一家の貧しさ、若かった不幸な母や、おさない妹の姿。宝物のようにラジオを捧げもって、歩道もない泥道をもどっていった誇らしい「わたし」。そして、すでに禿げかけ、腹もでてきた中年のかれは、いまふたたび新しいラジオを聞いている。すると、「あのときのあの嵐の影が、ほらまた家を揺さぶる」のだ。」
 ラジオが最高の娯楽だった時代に、貧しくて壊れても買いかえることができず、無音のラジオに耳を傾けていた日々。やっとラジオを買いかえることでき、持って帰った幸福感。これがブローティガンの原風景だろう。 
 大人になったブローティガンはラジオに変わる「幸福なモノ」を探しに故郷を捨てる。呪われた時間を取り戻す人生の旅のスタートだ。
 「あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」とヘミングウェイの言葉にもあるが、ブローティガンも母や継父に邪魔者扱いされた幼少時代の影響から、ひととの友情や、恋人との恋愛関係を持続させることができなかった。
 語る事だけがブローティガンすべてだ。語らなければ過去は時間の屑籠にすてられたままである。語られることで、記憶が堀りおこされる。埋もれた時間はときに、呪われた時間でもあるが、それでも語られさえすれば、傷ついたこころが休息を得ることはある。呪われた時間こそ、語られなければならない。それではじめて、悲傷や失意や屈辱に威厳があたえられるということか。
 ブリーティガンの作品には常に「死」がつきまっとっているが、何故か悲壮感や絶望感はない。絶望のすえの希望のようなものがあり、読者にやすらぎを与える。
 自分もブリーティガンの原風景を見ている。 
 じぶんの旅はもう少し続くが…… 
      
(参考文献/『リチャード・ブローティガン』藤本和子) 

(2017年7月24日)

母を想う 山下千江の詩

 山下千江さんの詩集に『ものいわぬ人』という非売品の詩集がある。
 『ものいわぬ人』は山下千江さんの母様が昭和三十八年一月十三日、掘りごたつから出ようとして倒れ、そのまま脳血栓の後の脳軟化症のため、すべての運動神経がマヒし、物も言えず、手足も不自由なまま、病床にあって、昭和四十年一月十七日早暁、満二年と四日目に亡くなり、亡き母様に捧げるために綴られた詩集です。
 

  【わかれ】  山下千江

  ふくらみかけた紅梅に姿よく雪がつもった朝
  ベットの母に一枝折ってかざしてみせた

  母の口がきけなくなってから
  母娘はお互の眼の奥をのぞきこんで
  言葉よりも重い会話を交しあった

  娘がなぜわらいながら蕾(つぼみ)の枝をかざし
  つもった雪をみせようとしたかを
  母は深く受取ってこくりとうなずいた。

  涙よりもつづきのない
  つめたい「その日」がもう遠くはないことを
  紅梅の紅は娘にかわって母に語りかけた
  母はなぜ娘が「わらって」いたかを理解して 小さく泣いた
  
  その泣声を娘は終生忘れ得ないであろう
  深く 重く そしてあわれにも浅い縁(えにし)

  そういうものであった
  (母と子というものは)

  野路の紅梅が一輪
  ふっくり開いた朝
  母の頬は白く冷たくなって
  閉じた眼は
  もう花の色をみることが出来なかった

  娘はまだぬくもりのさらぬ母の懐に一枝の紅梅を抱かせ
  声をのんで泣いた

  そして今度は自分で
  「さようなら お母さん」 といった

  【綾とり】  山下千江

  とおい日に
  あなたのたもとに
  重くすがって
  曲らせなかったいくつかの路

  その中には
  若い日のあなたが
  心を残してすぎた路地もあったでしょうに

  お母さん
  ゆるして。
  あたしの一番大きな罪は
  まだ子供だったということ
  
  あなたを今重く背負って
  私が曲り角に佇(た)っていても
  私が涙をこらえてそこを通りすぎたとしても
  あなたの罪はたった一つ
  老いて病人であるということだけ

  明治生まれの母と大正生まれの娘は
  こんなところで綾とりをして
  お互いの生涯の帳尻を塡めあっていくのでしょうか

  【添書】  山下千江

  謹んで拝します。 あみださま
  十七日早暁お手許に伺いました旅人の列に
  藍大島の対の着物
  緑の市松模様の帯をしめ
  紫檀と珊瑚のじゅずをかけ
  かぼそい竹の杖をついて
  トボトボと歩く小柄の老女をおみうけでしたら
  それがわたくしの母でございます
  冥府へ行列は足音もきこえず
  三角の旗なびかせた鬼に守られて
  母はおびえていなかったでしょうか

  連れがあるような ないような
  たよりないあの世とやらの道々で
  ひとり歩きをしたことのない年寄りが
  もしや迷っては居りませんか

  (略)

  はじめまして あみださま
  日頃は無信心のわたくしが
  勝手についてのおすがりを
  どうぞおわらい下さいまし
  おわらいの上のお慈悲には
  母をよろしく願います
  馬鹿正直で辛抱強く
  気弱なくせに強情っ張り
  世間知らずのお人よし
  もしや言葉の行きちがいで
  地獄へ行ったら恨みます
  どんな片すみでも日あたりよく
  静かなやさしい空気のあるところなら
  母はくるくる働いて
  針仕事や居眠りをして過ごしましょう

  はじめまして あみださま
  おしゃかさまに かんのんさま
  おじぞうさまに おえんまさま
  もしもあなたが本当においでなら
  紙銭もたきます 藁の馬も作ります
  毎日清水も供えます
  あなたの悪口もつつしみます

  お母さん
  今度は気儘に暮らしてね

 山下千江さんは「あとがき」で、
「母を見送って一年たった時、母のことを何か書くどころか、苦しかったことは皆忘れて、とにかく一生懸命に生きてきた母の姿ばかりが目に浮かび唯々悲しく、可哀想で、はずかしいことですが、以前の意気込みはどこへや、何も手につかないままボンヤリとした一年を過してまいりました。満二年その不甲斐なさに愛想をつきた形です。
 しかし、考えてみれば、私の母は決して学識が深いとか、賢母とか慈母とかいうよりは、むしろ、やみくもに娘を愛し、老いては全身の重みでもたれかかってきた、ごく普通の愚母でありました。
 愚母を弔うにが豚女こそふさわしいかもしれません。私は身の程も忘れておこがましくも考えつづけてきたいろいろの問題を、今はもうこだわりがなく一時おあずけにして、愚かな母の愚かな娘としてごくそのままの形で、この「詩集」というにはあまりに幼稚な一本を編み、不人情な娘心のお詫びのしるしに亡母に捧げたいと思います。」
 と詩集を編んだ苦悩を綴っている。
 そして、「序文」を依頼された矢野峰人氏は、
「山下さんが、女性の身を以て、時としては自分も傷つき倒れながら、二個年の長きに亘る悪戦苦闘の後に達し得た心境は、自我愛と人類愛との葛藤とも言えよう。欺くて、この闘いに能く堪え得る者は、その間も、いつかしら、一層高い立場から、博大な愛を以て、一切を眺め得る力を体得する。
 これは、人間としてのみならず、芸術家としても亦、最も尊い体験である。山下さんの詩が、上述のような忍耐の生活からにじみ出た結晶であるにもかかわらず、その孰れとして、決して生々しい素材を以て生の人間的感情に訴える事なく、能く純粋な芸術として人をつよく動かす事に成功しているのは、苦い体験を重ねた後、一定の距離を置いて対象を見得る境地に達したからである。
 われわれが此処に聞くものは、絶望のどん底から響いて来る厭世呪詛の声ではなく、涙を以て洗い清められた魂の、静かな独語、または亡き人の霊との対話であり、血涙を以て綴られているにもかかわらず、一切が静かなる涙の光につつまれて、さながらに縷々として立ちのぼる香煙にうちまじる読経の声のように、耳傾ける人々の胸の奥に沁み入る力を有って居り、彼等もふとわれに返れば自分も亦涙に濡れているのに気づくのである。亡き人の霊前に献げるにまことにふさわしい詩集といえよう。」
 と賛辞を贈った。
 『ものいわぬ人』は、一九六七年一月二十三日の発行です。子どもを愛する母の想い、母をいたわる子どもの想いは五十年前も現在も、そして未来も変わることなないでしょう。まして、高齢化社会の現在にあって介護の問題は避けては通れない問題です。介護する側のこころの葛藤から解放までを考える上でも貴重な一冊です。

 どれだけ「おかあさん」という響きに助けられてきたことだろう。
 おかあさんを想う詩を読めば、見えないへその緒をたぐり寄せるようにおかあさんとの思春期の愚かしい情景がまなうらに蘇る。
 おかあさんの詩が数多いサトウハチローは、「ぼくは不良少年だったからね、おふくろを嘆かせることが多かったので、いっぱい書くことがあった」と語り。おかあさんの死を悼むにしても、詩で泣いたり、詩でわびしたり、おかあさんお想い出を詩で綴っている。
 おかあさんの存在とは“原風景”であり、見えないへその緒をたぐり寄せて“還る家”である。人は“還る家”があるから、人生という旅の中でめぐりあう困難や悲しみも堪えていけるのであると思う。思春期に逃げないで激しくおかあさんと感情をぶつけ合いながら向きあってきたからこそ“還る家”はつくられたはずだ。そして心の底から感謝しているよ。
 おかあさん・・・。

(2017年7月23日)

アーメン ソーメン 冷ソーメン 山田花子

 『ユキの日記』 『二十歳の原点』 『卒業式まで死にません』 など詩集と同じ様に日記本も数多く読んできた。夭折者の残した日記本は、その話題性もあり当時ベストセラーになったものも多く、いまでも読み継がれている。山田花子の『自殺直前日記』もその中の一冊だろう。
 山田花子とは80年代から90年代始めにかけて活動していた漫画家で、92年2月に統合失調症で入院、「詩人・鈴木ハルヨとして再出発する」と日記に書いたが、退院翌日の5月24日に飛び降り自殺した。『自殺直前日記』は生前メモ魔であった彼女の、残した日記やメモ類を刊行したものだ。
 学生時代からつげ義春や泉昌之のガロ系の漫画が好きで、時代は少し違うが、同じ専門学校でグラフィックデザインを学んだという接点もあり気になる存在だった山田花子について考えてみた。
 精神科医の石川元は『隠蔽された障害』で、山田花子が非言語性LD(自閉傾向のある発達障害)であり、「こころの持ち方や努力だけでは変化せず、なぜ自分の言動がいつも対人関係の場で裏目に出るのか理解できず、「困った人」「不可解な人」と受け取られ、いじめや無視のターゲットにされた」と結論付けている。
 また、編集者とのトラブルもについて「山田花子が悩んでいたのは「オチがないことではなく「オチがないと言われる」ことに限られました。知的にはきわめて高度であるにもかかわらず、オチを付けることで対人交流を円滑にするという、並の人間なら自動的に行えるはずのことができないという欠落に自分では気づくとこはありえないでしょう」と書いている。「脳」の問題を「こころ」の問題として意識をして我慢すべきことだと考え、いじめっ子を恨みながらも自分を責めて続け、そのために二次的に情緒障害を悪化させた。
 グラフィックデザインの道に進んだ自分だが、創作活動をするなかで行き詰まったり落ち込んだり、人を恨んだりしている。誰しもみんな、山田花子であり山田花男なのかもしれない。精神分析学の草分けである古沢平作博士が「人間みんな病人です」と、言うように。
 残念なのは、才能があった彼女が違う世界で表現できなかったことだ。

(2017年7月21日)

『原発難民の詩』 佐藤紫華子の詩

佐藤紫華子さんの詩集『原発難民の詩』を読んだ。

【原発難民】

仕事がありますよ
お金をたくさんあげますよ

甘い言葉にのせられて
自分の墓穴をほるために
夢中になって働いてきて
原発景気をつくった
あの頃・・・・・・

人間が年をとるのと同じように
機械も年をとるということを
考えもしなかった
技術者たち!
ましてや
大地震、大津波に
襲われるとは・・・・・・

地震国であり
火山国であるという
基本的なことを忘れてしまった末路か・・・・・・

私たちは
どこまで逃げれば
いいのだろうか
追いかけてくる放射能
行く手を阻む線量

見えない恐怖!
におわないもどかしさ!
聞こえない苛立たしさ!

私たちは安住の地をもとめて
どこまで
いつまで
さすらうのだろう

【ふるさと】

呼んでも 叫んでも
届かない

泣いても もがいても
戻れない

ふるさとは
遠く 遠のいて
余りにも 近くて
遠いふるさと

あのふるさとは
美しい海辺

心の底の
涙の湖に ある

佐藤さんは「逃げている間は夢中で、何が何だかわかりませんでしたけど、どうにか落ち着きを取り戻してホッと息をつきましたら、恐ろしくて、悲しくて、たとえようのない切迫感におそわれて、何かしなくてはいられませんでした。それが詩となってあふれ出たのです」と詩を書くようになった理由を記している。

原発事故直後、世間での「原発利権」と「脱原発利権」や「ネット右翼」と「デモ左翼」による二項対立に違和感を感じるなか、小出裕章氏の原発事故に対して「今回のことにしても、単純なことであって、弱者が虐げられているという、そのことだけです。別に放射能の問題でもなければ、原子力の問題でもない。本当に弱い立場の人たちが虐げられるということです。そのことに私達一人ひとりがどう立ち向かうかという、それだけのことでしかありません」と語った言葉に感銘した。それは今も変わりない。

自分の豊かな暮らしのために誰かの犠牲がある
しかし原子力ムラは無罪放免そして再稼働

原発が再稼働し、信頼が失われた社会でのなかで一日一日を正しく生きるために、マザー・テレサの「小さなことに誠実になりなさい。その中にこそ、私たちの力はあるのですから」の言葉を思い出す。自分自身の戒めとし、小さな灯りで暮らしている。

(2017年7月19日)

詩は毒である 山本陽子の宇宙

 以前、平田俊子さんにサインをしてもらった際に、「詩は毒である」と書き添えてあった。
 「薬」と「毒」は表裏一体なら、猛毒で癒されたいものだ。
 山本陽子は、58年女子美術大学付属高校に首席で入学、学校側の大学に残ってくれという依頼を断わって卒業後、日大芸術学部映画科に入学した。63年「私の知っていることしか教えないのでつまらない」と中退。66年、思想・文学の同人雑誌「あぽりあ」創刊に参加。評論「神の孔は深淵の穴」を発表する。67年「あぽりあ」第2号に「よき・の・し」を発表。70年、頂点となる「遥るかする、するするながら3」を発表し、独自の語体を確立する。76年パートとしてビルの掃除婦をし、午後は読書、その後は一人住まいの目白の公団自室で酒にくれるという日々を9年間続け、その中から意味を拒絶する言葉の連なりをつむぎ出していた。84年死去。おびただしいメモ類が残されていたが、すべて家族の手で焼却された。
 彼女は社会を拒絶し、ひたすら自分の内面とむきあった。そこには強固な意思があり、切実な思いがあった。
 彼女の詩は、意味を拒絶する詩ではない。「不明」を意味し、不明を体現しているかのようだ。要するにつねにそれは意味の不明性こそが存在証明であったかのようだ。
 「未来にどんな代償も求めず、過去をそのまま受け入れること。今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。この世から脱して、むなしくなること。しもべ(奴隷)の本性を身にまとうこと。時間と空間の中で自分の占めている一点にまで小さくなること。無になること。この世の架空の王権を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。そのとき、人はこの世の真実に触れる」、「自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。この目的をめざしてすべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。神よ、どうか私を無とならせてください。私が無となるにつれて、神は私を通して自分自身を愛する」と、シモーヌ・ヴェイユは言っている。
 詩は混沌であり、詩自体には意味は無い。ルイス・ブニュエルを好んだという彼女は、自室にこもって身体を使い「無」になる実験を重ねた。そこからこぼれ落ちた言葉を拾い集めた。一冊の詩集だけしか残さなかった彼女は、詩集をつくることも意味が無かった。そして、山本陽子自体が詩となった。(参考文献:『現代詩手帖』萩原健次郎)

詩人山本陽子の世界(音・映像:井野朋也)  https://www.youtube.com/watch?v=ndDzyAep8PU

(2017年7月18日)

さらばロシナンテ 好川誠一の青春

 『石原吉郎全詩集』を読まなければ、好川誠一のことを知らなかったと思う。
 好川誠一は石原吉郎と出会わなければ死ななかったかもしれない。2人は共に「文章倶楽部」の投稿仲間であり、他の投稿仲間たちと同人誌「ロシナンテ」を創刊したのが1955年であり、1959年の終刊までの4年間で好川の残した詩作品はわずかな数でしかなかった。
 同人だった小柳玲子が、好川の残した詩について語った言葉がある。「詩人好川誠一を語ることは、私にはとうてい不可能である。この詩をもって彼を詩人と呼んでよいものかどうかも私には現在判断がつかない。常識的な見解からいえば、彼は詩人の列に加わってはいないのだろう。なぜなら彼は詩人が当然越えなければならない苦しいと峠を越え得なかったのであるから。表面をどのようにつくろっていようと、詩人と呼ばれる人々はみんなこの峠を越えるのであって、自発発生的な言語だけをもって詩人になれることはない。努力が嫌い、我慢ということができない、悪ガキがそのまま大人になったような好川誠一は峠なんか越える辛さは真平であったのだ。」と、同時に「わたしは「すっぱだか」のまま30歳になってしまい、「ロシナンテ」の面々にもてあまされていたらしき、不運な詩人を、大変愛しているのである。」と語った。
 子どもは少なからず誰でも天才性をもっている。しかし、多くの人間は天才性を自ら殺しながら大人になり、普通の存在と気がつく。
 詩の投稿を始めた頃の好川も、確かに才能があり評価された。石原と始めた「ロシナンテ」だったが、仲間からライバルとなる。あまりにも大きなライバルであり、石原は戦後詩を代表する詩人になっていった。大人になった好川の詩は輝きを失い、「詩なんか書く奴はバカだ」、「30をすぎたら詩なんか書かない」と毒づくしか出来なかった。
 1964年、石原がH氏賞を受賞し祝賀会を最後に、好川はみんなの前から消えた。詩を書くことができずに悩み、詩なんか書けなくたっていいじゃないかと開き直ることもできなかった。どうしても詩をあきらめきれず、遺書と思えるような詩を出版社に送り、好川は詩人として死んだ。享年30歳であった。(参考文献:現代詩手帖 1992年8月号(若く眠れし―小柳玲子))

(2017年7月17日)