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茨木のり子の戦後

 自ら始めた戦争を自ら終わらせることが出来ず、ただ無責任に継続させて南方戦線では飢餓と病死、沖縄決戦と日本軍による沖縄住民への虐殺、広島と長崎への原爆投下、東京大空襲と戦争末期に死んでいった人々の数は膨大であり、その甚だしさが「天皇の詔書」というたった数分のラジオ音声で一変してしまうというとんでもない理不尽さを、日本の「戦後」は問い続けなければいけなかった。
 だが、そんな問いなど気にも留めず、あっけらかんと始まった日本の戦後は戦中と同様に「無責任」な体質は変わることはなかった。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 茨木のり子さんが、詩を公表しはじめた一九五〇年代初めは、朝鮮特需の時代。いわゆる人殺しの片棒を担いで儲けたお金で戦後復興した時代だ。
 茨木さんの代表作である「私が一番きれいだったとき」(『詩文芸』一九五七年二月)は、敗戦後の心情を謳い、青春時代を思い起こすとともに、その時間が戦争に奪われた悔しさを取り戻すべく謳ったものだ。
 茨木さんはこの詩を書いた心境を「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」としみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「私が一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったからかもしれない」(「はたちの敗戦」)と記している。

「わたしが一番きれいだったとき」 茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

 茨木さんの古くからの詩友である谷川俊太郎さんは、「「基本的に茨木さんは正しいことを書く人で、詩というものは正しいことを書くものじゃないと思っていたから、ちょっと肌に合わないところがあった。」「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩がありますよね。あれなんかでも僕は書き過ぎていると思う。この行(第五、第六、最終節)は切っちゃえばいいのになんて直接言ったりして、茨木さんは苦笑してました。」と記している。
 この詩の第五節では「そんな馬鹿なことってあるものか」と、第六節では「異国の甘い音楽をむさぼった」と、最終節では「できれば長生きすることに」と謳われている。敗戦を喜べないが、解放を思う存分に謳歌する。それは「わたしの国」の敗戦にとまなう解放であり、また「異国」による占領もとでの解放であるため、矛盾と葛藤をはらんだ解放の心情が謳われている。一九四五年八月の複雑な心情を、一九五七年の時点であらためて整理し、その時期の社会にぶつけたのが、この詩である。一九三一年生まれで、茨木さんより五歳年少の谷川さんとて、敗戦に複雑な感情をもったはずだが、であるからこそ茨木さんのこの詩の第五節で敗戦の屈曲をいい、第六節で全面的な開放感を謳うという、相矛盾する心情をそのまま書き付けたことに、谷川さんは違和感を持ったのでないかと解釈できる。
 文化人に限らず、誰もが戦後の生き方を問われた時代であっただろう。
 茨木さんは「国のためなら死のうと思った」と語るほどの軍国少女だったという。だからこそ、敗戦と占領の負の記憶をたどることによって「正しい」ことを書き、国とは何か、大義とは何か、生きるとは何か……。内省を強いる深い「問い」を抱きつづけた。

 「四海波静」 茨木のり子

 戦争責任を問われて
 その人は言った
 そういう言葉のアヤについて
 文学方面はあまり研究していないので
 お答えできかねます
 思わず笑いが込みあげて
 どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘

 昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五年十月、皇居内で記者会見した際に、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。」と、質問をしたことに対して、昭和天皇が、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えた。
 「四海波静」は、この昭和天皇の「無責任」な発言への直截な憤りを込めた詩だ。
 茨木さんはこの詩を書いた気持ちを、「かつて戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。
 しかし、ジャーナリズムの反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」という頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私は長く詩を書き続けてきたものだが、、この天皇の言葉を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった。」と、記している。
 この詩は天皇だけを非難しているのではなく、「頼朝級の野次ひとつ」飛ばさないジャーナリズム、さらにその背後にある「黙々の薄気味わるい群衆」の自ら思考停止し、歴史に向きあることをしない人間を非難しているのである。
 この昭和天皇の記者会見が行われたのは戦後三十年目である。さらに四十余年の月日を重ねた現在、敗戦を「終戦」、占領を「駐留」とすり替え、あったことをなかったことにせんとするばかりの糊塗、権力への忖度、萎縮、自己規制がまかり通っている。「歴史」に向きあることなしに過去が過去として精算されることはない。
 茨木さんは、「私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持ちで詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っておいう思いがいつもありましてね、信じられないかもしれませんが(笑)。それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある。それが間接的に人を励ますことになっているのかもしれません。とにかく私自身は強くはない。弱い人間です。」と自ら語るように決して強い人ではなかったと思う。だからこそ、自分自身を律することにおいて強靭であり、その姿勢が詩作するというエネルギーに源であっただろう。正しく生きるとは、「歴史」にきちんとした筋を通して生きることである。
 はたして戦後の日本は平和なのだろうか。「直接の銃撃戦」という意味において戦争の最前線には参加していないが、戦争そのものには「兵站」「後方支援」という形で積極的に関与している。そして、その結果、日本は数多くの国際戦争で間接的に他国の兵隊や民間人を殺している。「平和国家日本」は欺瞞であり虚構である。わたしたち日本人は両手を赤く血に染めているのである。現在も、戦中となんら変わることなく人を殺す社会であり国家である。ただその方法が巧妙で、直接的でなくなったというだけの話である。平和とは誰も殺さず、そして誰にも殺されない社会のことをいうはずだ。
 茨木さんの走り続けた戦後は決して終わっていない。わたしたちが、そのバトンを受け継がなくてはならない。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

と、自分に言い聞かせて………。

参考文献
「茨木のり子 女性にとっての敗戦と占領」 成田龍一 〈『ひとびとの精神史』〉 (岩波書店)
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治 (中央公論新社)

(2018年8月27日)

最後の放浪(されく)詩人 高木護

子どものころ森に入ると、風にも、川にも、木にも、草にも、魚にも、声があった。
自然こそが最高の教師だった。

「童謡」  高木護

海を買いにゆく
がったんごっとん
むかしの少年は
むかしの唄を
口笛にのせて
いそいそ
青い海を買いにゆく
ここらには
涙を溜めた貝がいて
ここらには
法螺吹き魚がいたそうな
恋をして
あの、あの
そっと指切りして
たったそれだけ
忘れられない人は
海の瞳

「こんな詩は、いまの時代になかなか生まれなくなった。それほそ人間は知らず知らず詩を生み出せぬような、乾いた世界にとりかこまれて、心の荒廃限りもないということだろうか。それを排除して、高木さんは生きている」と評したのは永畑道子だ。
 高木さんは昭和二年に熊本県山鹿市に生まれたが、生まれつき体が弱く、戦時中は軍属としてシンガポールへ送られときにマラリアに罹ってしまった。奇跡的に一命を取り留めたものの、復員してからマラリアの後遺症に悩まされながら、残された五人の兄弟姉妹を食べさせるために仕事を探した。しかし、どこの会社の面接を受けても採用されなかった。それならばせめて自分尾食い扶持くらいは減らそうと、自然の山道を孤独に歩きだした。脳裏には自然の中での「野垂れ死」という言葉を描き、宗不早のような行く着く先での自然死を心のどこかでは願っていた。高木さんのいう「野垂れ死」とは、人が何かに失敗して死んでいくのではなく、生きていくうえで垢のように身につけてしまってきた物を捨てて生まれたままになって死んでゆくことであり、いかにして裸の自分になるかという努力することだという。

「返す」  高木護

むずかしいことは判らない
この世にうまれてきた理由も
判らない
なぜ、といわれても判らない
すみません
あなたに骨を返します。

 辛いことばかりが続くと、「なんのためにこの世に生まれてきたのか」「何故生きているのか」「これからどうすればいいのかわからない」と、人生を深く考えやすくなる。
 高木さんは、逃げているわけでもなく、居直っているわけでもなく、まるで子どものように「判らない」という。そして、「人間は自然の一部であり自然に生かされているといる」、「ここまで生かしてもらったことにともて感謝している」ともいう。
 高木さんの心の中には今でも森があり、川が流れ、雲が流れ、緑の木が揺れていて自然と一体なのだ。欲望を捨てて「無」になれるから自然の声が聞こえるのだろう。歩いて「無」になることが大切である。「無」とは生と死が同じであり、等価である。生は死へつらなり、死があるからこそ生が生まれる。その無限に巨大な「無」、あるいは自然を高木さんは表現しつづけてきた。
 だから、高木さんは急がない。求めない。ぶらぶらとただ歩く。自分をたのしませることによって、人をたのしくさせるのだ。

「夕御飯です」  高木護

灯りがゆれると 私の胸に想いがいる
想いを 箸でつゝくと
お前らの瞳の中に
遠い湖があり
青い魚が跳ねている

呼ぼうよ 遠い日を
こゝには 父が坐っていたね
そこには 母が坐っていたね
いまその暗い影に
私が 坐り
お前らが 坐っているね
時に流れ
それは 哀しみのぎつしり
敷詰められた小径だった

「足こそは私の思想であり、私の哲学である」と語る高木さんは、「足は、歩くだけにあるのではなく、歩くおれらの心の道をみつけるにもある」、「人間は他の生き者たちの心と比べたら、使い方によっては大きくもなるし、小さくもなるし、豊かにもなるし、乏しくにもなるし、広くもなるし、狭くもなるし、善くもなるし、悪くもなるし、楽にもなるし、苦しくもなるし、明るくもなるし、暗くもなるし、しあわせにもなるし、ふしあわせにもなる」という。
 「歩く」とは自分の心の道を探すことである。ただ、足で歩くだけではせいぜい歩いたというだけの自己満足しか得られないが、自分の心の道を探し出して歩いたら、よい人間になる修業になるのである。

 高木さんの「足の思想」は、老子の思想と通じるものがある。老子のいう「道」とは普段歩くために使う道路のことではなく、人間社会からはるか宇宙に至るまでの根本的な原理であり、人間が生きる上で手本とするべき最高の理想、すなわち道徳のことだ。その「道」からあらゆるものが生まれてくると老子はいう。また「道」とは本来、言葉にできるものではなく「名無し」の状態を指し、なにもない天地の始まりのようなものであるそうだ。そこから万物が生まれることで、はじめて「名有り」の状態になり、無から有が生まれるという構図ができるという。その後に、「道」に内在している「徳」の働きが、万物を養い育てるという。

石牟礼道子さんへ① 「還る」

 大寒に降った雪がすっかり溶けて、もうすぐ小さな命たちが芽吹こうとしている二月十日、石牟礼道子さんが亡くなった。
 森羅万象、何かが始まるということは、何かが終わることでもある。
 人間が、動物が、鳥が、虫が、植物が、そして魂石が泣いている。
 魂石とは、石牟礼さんが中心となって、水俣病の患者さんたちの「自分たちは死なんぞ。死なんのじゃと。死ねないのではなく、死なんぞ」との想いをこの世に伝えたいと、自分たちでつくった野仏のことである。

 石牟礼さんの最後の声を聴いたのは、『アナザーストリーズ』というテレビ番組みの中だった。亡くなる数ヶ月前のことだ。
 石牟礼さんはインタビューに答えて、「人類だけでなくて 行きているもの全て草木を含めて 人間は思い上がってはいけないと思いました」と語った。
 それ以来、この言葉は自分のこころの一番大事なトコロに突き刺さっている。そして、謙虚に丁寧に人生を生きなければならいと改めて感じた。
 石牟礼さんは、亡くなるその日まで水俣病の患者さんに寄りそった。「石牟礼さん、どうしてあなたはそれほどまでに強くて優しいのですか?」と自問しながら、「自分が何をしなければいけないか?」と自答している。

 石牟礼さんは『苦海浄土』を出版し、水俣病問題、チッソの告発のジャンヌ・ダルクとして社会的に有名になった。石牟礼さんの肩書きにルポルタージュ作家と銘うたれる場合も多く、純粋な文学者、詩人というより水俣病患者の代弁者、あるいは公害や環境破壊の告発者といった世間の評価が強いかもしれない。
 しかし、石牟礼文学とは大地に立つ自分をとりまく家族や交友の絆、建物や町並、そして吹く風、香る花々、とりわけ樹木たち、遠くに望む山脈、空にきらめく星々、そのような森羅万象の世界を、私たちは自分の生きる世界と感受し、森羅万象の世界に戻るのではなく、森羅万象の世界から乖離する自分の意識が生む孤独感を、近代と遭遇するこちによってあてどない魂の流浪に旅立った間近代の民の嘆きと重ね合わせたのが石牟礼さんの文学である。

 水俣地方に「もだえ神」という言葉がある。
 他人のことなのに、自分のことのように身をもんで嘆き苦しむことをいうらしい。
 人間と人間は媒介するものがないとつながらない。自分をとりまいている山や川や空や小さい命たち、そういった森羅万象の畏敬の念を持ち、それに媒介されて、人間の畏敬の念が生まれるのである。
 石牟礼さんは、あくなき企業の利潤追求、人間の欲望により森羅万象の世界が壊されていくことに絶望したのか三度の自殺未遂をしている。小さな命にも共鳴した石牟礼さんにとって、水俣病の患者さんたちに寄りそったことは必然のことだし、絶対の孤独を水俣病の患者さんたちの孤独と重ね合わせることで、一日一日を生きていたのかもしれない。

「花を奉る」  石牟礼道子

春風萠(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏(くら)し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに 何に誘(いざな)わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世なる仄明りを 花その懐に抱けリ
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾(つぼみ)のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日(こんにち)の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいづるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然(しか)して空しとは云わず
現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す

花の居場所 征矢泰子の詩

 コンクリートだらけの地べたのほんのわずかな砂地の隙間から、風か生き物が種を運んだのか、もともとその場所が花畑だったのか知らないけれど、居場所を見つけたかのように一本の小さな花が咲いていた。数日後、その花は誰かに摘まれたのか自ら消えたのか無くなっていた。
 宇宙が誕生しておよそ138億年。銀河が2兆個あり、そのうちの1つが私たちが存在する天の川銀河で、天の川銀河には惑星を持つ恒星系がおよそ1000億個。その一つの太陽系に地球がある。今から46億年前に地球が誕生し、600万年前にアフリカの森林で人類が誕生した。同じように誕生した花の美しさは奇跡的であり、人間が人間になったのは花の美しさに癒されてきおかげかもしれない。
 花の美しさとは儚い命を無防備に宇宙に向かって、自分を開いてただ「愛」を待っているからだろう同じ命である人間が美しく生きるとは「古代から永遠と繫いできたであろう小さな命たちと心を寄り添えられるか」ということだと思う。

その思い出は中空の時間の先端で
ようやくおもいきってさききろうとしている
みるたびにどきっとしていまうのは
花のうしろにまだあなたがいる証拠だ
いいからはやくしんそこまで花になっておしまい
(「アマリリス」征矢泰子 より)

 征矢泰子は花になろうとしてもなれない人間の苦しみを書きながら、もう人であることに耐えきれず花になれと自分に叫び、1992年11月28日の夜に手首を切って自殺した。
 友人の新川和江は、「ここ1、2年の征矢の詩にはほとんど各行の末尾に句点が打たれ、それが強く気になっていた」と回想し、「しきりに句点をうちながら、征矢泰子は、とめどなく流出し落下しようとするものを、必死でせき止めようとしたのではないか。あらゆる問題をこえて、征矢自身の生命の中で、おびただしい流出と落下がはじまったのではないか」と、死に向かう征矢の痛ましいさに触れたと語る。

さがされて、いたい。
うまれて、しまった以上。
いやされるなどのぞむべくもなく。
せめてただ、だれかに
さがされていたい。
うみおとされたときからささっていた。
ささやかなめいめいの死の棘。  
(中略)
さがされていたいとそんなにも執拗にねがいながら。
さがすものでしかありようもないひとたちがさまよう。
皓々とあかるい故里の春の夜。
めいめいの死の棘がじりじりとのびていく。
(「死の棘」征矢泰子 より)

「わたしは人と花のあいだをゆれうごきながら、そのどちら側にも落ちつけない自分のもどかしさを詩というかたちでかきつづけてきたような気がする」と語っていた征矢泰子を想うとき、美しさとは孤独や儚さを内包するものであるからには死を悲しむよりも、どんなに小さな命の傷さえも自分の命の傷として寄り添った妥協の無い誠実で美しい征矢泰子の詩を心にきざめばよい。
 人生は地球が瞬きするくらいにあまりにも短いが、だからこそ美しいものだけを見て生きていきたい。
 いつか地球も消えて無くなる日がやってくる。その日まで花の居場所があれば人間は人間として生きていけるだろう。

いちばんうつくしいのはこわれたものたち。
廃船・廃屋・廃園・廃校・廃村・エトセトラエトセトラ。
こわれたものはもういつまでもうつくしいこわれたために。
つくられて・つかわれて・つかわれつかわれてクライマックス。
それからすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつつかわれなくなり
やがてすこしずつすこしずつわすれられて。
しずかにゆっくりとこわれていったもののなかにだけ
つかうことで生きていた日々の記憶はのこっている。
死んでしまうと生きていた日々の記憶はのこっている。
(中略)
死んでしまうと生きていたことはちらばっていく。
くうきにはじまりみずにとけやがて大地や海にかえる。
でもいちばんすきなのはこわれたものたち。
宇宙(そら)いっぱいにとびたっていくまえの一刻(いっとき)生きていたことは
こわれたものたちのかげでそっとやすんでいる。
いつもいちばんうつくしくてやさしいのはこわれたものだから。
生きているのにまるで死んでしまいたいときは
こわれたものたちのところへいきたい。
そしてまっぴるまどうどうとゆめ みたい。
ゆめのなかからだけかえってこれる
うつつへのみちも あるはず だから。
(「生き死にのうた」征矢泰子 より)

(2017年12月20日)

辻征夫の「まつおかさんの家」を読む

【まつおかさんの家】 辻征夫

ランドセルしょった
六歳のぼく
学校へ行くとき
いつもまつおかさんちの前で
泣きたくなった
うちから 四軒さきの
小さな小さな家だったが
いつも そこから
ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで
学校へは行ったのだが

ランドセルしょった
六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって
学校へ行くのを
窓から見ていた
ぼくは中学生だった
弟は
うつむいてのろのろ
歩いていたが
いきなり 大声で
泣き出した
まつおかさんちの前だった

ときどき
未知の場所へ
行こうとするとき
いまでも ぼくに
まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが
いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって
かまわないのだが
叫んだって いっこうに
かまわないのだがと
かんがえながら 黙って
とおりすぎる


 人は不安に襲われるとき、その気分のなかに「死」を感じ取っている。
 『不安と存在』のなかで、ハイデガーは「自分もいつかは必ず死ぬことを自覚したとき、本来の生き方に立ち戻ることができる」と言う。
 自由を求めるとは不安の中に身をおき葛藤することでもある。不安は自己への反省意識のなかでしか生まれず、自己の弱さを自覚して克服することによって自由を手に入れるものだ。
 しかし、正しい判断だと思った行動でも、うまくいかない場合もある。自分が納得して決めた行動であれば、不安の意味も理解できてるし、自由の意識が維持されているので決して後悔することはない。
 二十歳代は外国を放浪し、三十歳でフリーランスの道を選んだ。「まつおかさんの家」は今でも弱い自分を越えるために存在している。

(2017年11月16日)

佐藤泰志の生きる切実

眠れない。夜をあきらめて佐藤泰志を読む。
若いころは与えるものがないから夢だけを語っていた。
孤独と迷いの中で、暗闇のなかでも手探りで進めたが、夢を見失うことのほうが怖かった。
佐藤泰志の小説を読むと、眠れなかったいくつもの夜を思いだす。

佐藤泰志の小説は、いつも時代社会的に弱い立場の人間に共感し、弱者へのいたわりがある。見せかけではなく本物の優しさや思いやりがあり、それはあらゆる権威や権力から遠く離れた貧しく地味な庶民のひたむきな人生にこそ、真実の姿あると考えていたからだろう。佐藤泰志の小説は、登場人物に寄り添える数少ない小説だ。
本来生きるとは本来切実な作業だ。詩人の福間健二は佐藤泰志とのこんな出来ごとを記している。

あるシナリオコンクールに応募しようとしていた。その脚本のクライマックスに佐藤泰志の「犬」のラスト、釘をうちつけた角材と「中野にはな、犬がいっぱいなんだよ!」を使いたいと思った。それを使わせてほしい、できたら一緒に脚本を書いて賞金を山分けしようぜと彼に電話した。これが彼のカンにさわった。「おことわりします」「どうしてさ」「福間さんこそ、どうかしてるんじゃないですか。賞金目当てに脚本を書くなんて」「映画作りたいんだよ」というケンカになった。
その言い合いのなかで私は借金のことを口にしてしまった。私の人生でやった恥すべき最大の失敗はこれだとずっと思ってきた。「賞金が入れば、きみだってラクになるじゃないか」「ちがう、ちがう、そんなことやらないためにこうしているんだ。金がないから苦しいというのじゃない」彼のふるえているのが受話器から伝わってきた。
すぐに絶交状がきた。彼は、借りていたお金を分割で返しはじめ、結局、全額、返してもらった。現金封筒が届くたびに、私はつらい気持ちになった。返さなくていい、と言わなかった。そんなふうに人にお金を貸したことは滅多にない。返してもらったことは、これ以外はまったくない。
ともに三十になる手前のところで、あせっていたのかもしれない。

数年前テレビで格差社会の弱者を取り上げた番組で村上龍が「弱者を取り上げることはネガティブであり、景気が悪くなる」ようなことを言っていた。勝ち馬に乗るのも、自ら負け戦をするのもそれぞれの生き方であるので批判はしたくないが、だからこそ実直な生き方をしていた佐藤泰志に生きて小説を書き続けてほしかった。苦悩のただ中にいる者だけが、苦悩している人間の心情が理解できるはずだからだ。
佐藤泰志が死んで27年が経つ。今の時代は出来レースの中で競わされ、負けた者たちは排除される。生きていくので精一杯で、夢や幸せを語るのも困難な時代だ。あの頃のような夢を語れた時代に戻ることは出来ないし、佐藤泰志を生き返らせることも出来ない。
しかし、ほんの小さな夢やほんの小さな幸せでも人は生きていける。だれにでも、暗闇の中でさえ「そこのみて光輝く」場所はかならずあると信じている。

【僕は書きはじめるんだ】 佐藤泰志

もし僕に真実の悲しみが書けるなら
もう僕は夜道で酔っ払って乗れない自転車を乗ろうとしたり
笑えない冗談や
僕が考えている愛の姿や
コミュニケーションさと気のきいたことを口にした僕らのセックスなんかに
うつつを抜かしたりしないだろう
美しい声で泣く赤ん坊が
生きているのはあんたばかりじゃないわ
といっている部屋で
そうだよ 僕は彼女のことを思っているさ
だからそれがどうなんだって
いう奴らがいたら
道端に吸いかけの煙草を捨てて
「そうだね」と静かな声で答えてやる
ありもしなかった革命だとか
生きたふりをしただけの時代だとかについて
夜っぴいて語りあかす時間があったら
赤ん坊の泣き声に僕は耳を傾けて
黙って彼女のことを思うだろう
それから赤ん坊が寝静まるのを待って
僕の言葉で書きはじめるんだ
世界について愛について樹木について光について
僕は書きはじめるんだ
彼女の振ったてのひらについて
  

【誰が悲しいだなんていった】 佐藤泰志

誰が悲しいだなんていった

馬券を踏み散らす男たちを眺めながら
清潔な店で古い女友達と新しい女友達と
映画を見たあとでちょっとビールを飲んだ
それから街路樹の陰に生えていたビワの木から
三個の実を盗んで歩きながらむしゃむしゃ食べ
磨きあげた兎の眼のようなタネを吐き散らし
まるで僕らは世の中のすべてを相手にして
戦っているんだ 三角関係を武器しにて
とでもいいたいぐらい陽気に歩いている

そんな陽気な日曜日なんて嘘だと
いっていいのは世界中でたったひとりしかいないと
知っているか

おい 誰が悲しいだなんていった
僕のひとりの子供 僕のふたりの子供 僕の無数の子供の前で
これっぽっちも心をあかしたりなんかしない
だから今日は素晴らしいお天気で
その前に本当の喧嘩をすると
トウフ屋の角で誓った
そうして僕は今だに
自分を責めることもできない

(佐藤泰志作品集より)

(2017年11月2日)

井亀あおいの「もと居た所」

♪ほかの人にはわからない
 あまりにも若すぎたと
 ただ思うだけ けれどしあわせ
  
 空に憧れて 空をかけてゆく
 あの子の命はひこうき雲♪

 これはユーミンの『ひこうき雲』の一節だ。
 ユーミンが高校生の頃、近所で実際にあった高校生の飛び降り自殺と、小学校時代の友達の死をモチーフに作られた曲といわれている。
 『ひこうき雲』がリリースされた1970年代とは、学生運動が活発化と終焉、大量生産大量消費での繁栄と交通戦争、公害問題の暗い影が混在し、学校では管理教育による校内暴力が多発し、教育諸問題が表面化した時代だ。そして、「あの子」たちの自殺が社会問題化した時代でもある。

 『ひこうき雲』を聴くたびの思い出す少女がいる。井亀あおいは1977年11月17日に17歳で自らの命を絶った。
 井亀あおいの死後に『アルゴノオト―あおいの日記』と『もと居た所』が小さな出版社から刊行された。
 井亀あおいの青春とは、彼女は学校や社会での人とのふれあいの中で生じる悩みや迷い、反発、喜怒哀楽を日記として吐き出すかたわら、創作ノートとしてトーマス・マンやジイドやモーム、カミュ、ジェームス・ジョイス、ショーペン・ハウエル、リルケ、マラルメなどの文学を語り、シベリウス、マーラー、ベルリオーズなどの音楽を語り、キリコ、キスリング、ダリなどの絵画を語り、ヴィスコンティ、トリフォー、ゴダールなどの映画を語る。
 そして、これらの過剰な思考と自己の内面の奥底に限りなく向かおうとする偏執が疎外感や孤独感を生み、現実の世界がニセモノで、自分が身を置くべき本当の世界がどこかほかにあるように思えてならなかった。現実の世界の拠りどころが何をもってしても得られない以上、空想の世界に求めるしかなかったのだろう。それを作品化したものが「もと居た所」と題したメルヘン風の短編小説である。
 小説の中の主人公の「彼」は井亀あおい自身である。
「ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ、ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものがふえてしまった。とても、邪魔なんだ。分るね。邪魔に思えるんだ」
「ずっと以前、ここではない所に『真』があったのを。そこは、ほんとうに、今のここじゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜があける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりの人なんて居ない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに『真』があっつたんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。すべての、多すぎるものをとり去ってしまえば、あの以前の、そうだね、『もと居た場所』があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ」と、語る。これが「もと居た場所」の原風景だ。

 人間は自分の意志で生まれてくるこはない。よって不安や恐怖や孤独からのがれる事はできない。
 16歳の時、井亀あおいは日記に「私は時に、誰かの上衣のすそをしっかりと握っておきたい気になる。誰かにつかまっていないと、まるで時間の過ぎ去るように人間が去ってしまうような、あるいは自分が斜面をすべり落ちてしまうような思いにかられる。昔、まだものをよく見ていなかった頃、しきりと人間は孤独だと考えていたが、こうしていくらか知ったのちにも、私は人間が孤独だと思う。そかしそれはあの頃考えていたようなものではなくもっと根源的なものだ。」と、書いている。
 根源的な孤独の中、人間が生きている意味は存在するのか。
 人間は自分で作った鎧をつけて自己を騙して生きるしかないのか。
 井亀あおいは意味を求めたのだ。「もと居た所」で自分の意思で生まれることを・・・

(2017年9月16日)

愛と詩と死を見つめて 氷見敦子の詩

 詩との出会い方は色々あるが、氷見敦子の詩の出会いは北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』を読んだことだった。氷見敦子はすでにこの世にはいなかった。

下腹部がが張り
死児がとり憑いたように腹が腹らんでいる
胃と腸が引きしぼられるように傷み
軀をおこすこともできず
前かがみになってのろのろと移動する
——略——
「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる
地の底の深い所に立つわたしを見降ろしている井上さんの顔が
見知らぬ男のようになり
鍾乳石の間にはさまっている
ここが 
わたしにとって最終的な場所なのだ
という記憶が
静かに脳の底に横たわっている
今では記憶は黒々とした冷えた岩のようだ
見上げるもの
すべてが
はるかかなたである
(「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」氷見敦子 部分)

 死の国からの第一声のようなこの詩の出だしに、息をのんだ。力をふりしぼった執念にも似た詩行は、もはや論理とはほど遠いが、氷見敦子はこの時すでに癌を告知されていた。たじろがずに、毅然と地獄谷へ降りて行く凄みのある詩行を読みすすむうち、真夏に気温十度という、激しい照り陰りのない鍾乳洞は、まさに、氷見のかっこうの死に場所であり、食事もとれない状態でこの作品を仕上げることによって、氷見は、天に出発する自らのはなむけにしたのではないかと思えた。
 しかし、ねじ伏せるように事葉をたたみかけて、地の底まで降りながら、その先で一挙に生の高みへ飛び上がろうとする、目眩にも似た野心が詩行に見え隠れするのはなぜだろう。(北川朱実の『死んでもなお生きる詩人』より)

 絶筆となった「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく」という詩は食事をとることもできず点滴を打ちながら書き上げたもので、この時すでに死を覚悟していたという。そして、この十二日後に死んだ。三十歳だった。
 凡庸な日常を生きている身にとって、この「詩」と向き合うことは氷見敦子の「死」とも向き合うことであり「あなたにとって死とは何か?」とか「あなたにとって生とは何か?」ということを問いかけられている。
 氷見敦子の言葉は重い。新井豊美との会話で「今後詩はいっそう軽くなるのか」との問いに、即座に「重くなるんです」と答えたというように。近ごろの軽薄とも思える言葉があまりにも多すぎる。お世辞や社交辞令など「ソン・トク」が透けて見える言葉や、上っ面だけの不誠実な言葉の数々に辟易する自分にとって氷見敦子の言葉は、孤立や孤独や不安からすくい上げてくれる思いがする。言葉とは思考であり生き方である。

(2017年9月14日)

真実を生きる 千野敏子の魂

 教師をしていた二十二歳の千野敏子の死は「真実」を追求するあまり、戦後の食糧難の時代「闇買い」を拒否して栄養失調に陥ったことによるもので、自らにきびしいその生き方を身を以って示したものといえよう。彼女の日記にはこまごま毎日の食事量が記入され、「これで生命が保てるだろうか」と書かれていたろという。そして、ついに教壇で昏倒して病院に運ばれ、昭和二十一年八月二日、腸捻転のため死亡した。すでに回復がおぼつかないほど身体が弱っていたのであろう。
 千野敏子は栗生(長野県諏訪市)という農村部に下宿して自炊生活を営み、そこから三キロメートルほどの富士見小学校まで歩いて通っていたが、彼女がいまにも倒れそうによろよろ歩いている姿を見掛けた生徒があることからも、最後にはほとんど精神力だけで教壇に立っていたものと思われる。日記には主にその日の行動を記録するだけの役割を与え、それとは別に自分自身うぃ向き合った魂の記録とも呼ぶべき「真実ノート(全四冊)」を十七歳から書き始めた。
 死後、遺稿集として『葦折れぬ——一女学生の手記』が出版され、当時十版を重ねて広く読まれ、若い読者層に多大の感銘を与えた。諏訪高女時代の旧師が、この本に寄せた序文の中で「彼女の死期を早めたのは、そのひたむきな真実の生活であった」と述べているように、一切の虚飾と妥協を排し真実のみを追求する姿勢を最後まで崩さなかった若い魂は稀有といわねばならない。

「音」 (千野敏子が十七歳の時の詩)

音がする
遠い空のほうで。
何の音だろうか。
それは木枯しが吹きすさぶような音
山の木の葉のおののきふるうような音
しかし山の木の葉はそよとも動かない。
それは時雨の通りすぎてゆくような音
板屋根の水しぶきにけぶるような音
しかし屋根の板は乾いてそりかえっている。
夕ぐれの灰色の静けさの中に
山の木の葉は身じろぎもせず灰色に暮れてゆく。
屋根の板も一日のほこりを吸いこんだまま灰色に暮れてゆく。
しかし遠い空のほうでは音がする
空には木枯しが荒れくるっているのであろうか。
時雨が激しく降りそそいでいるのであろうか。
音がする
遠い空のほうで。
虚無の音――

 自我への執着を捨てて真実を追求すればするほど、人間の本質が見えて憂鬱になるし孤独になる。死の影にも不安になり、それを越えなければ自分自身がわからなくなるものだ。

私は此の頃自分と云ふものが一向にわからない。
あらゆる人間にとって『自分』は最も不可解なものだろうと思ふが、
それにしても私と云う人間は特別そんなやうな気がする。
私の内にはあらゆる矛盾があり、あらゆる反目がある。
不可解なるものよ。汝の名は我なり。
(「真実ノート」第四冊)

 結局、千野敏子は闇買いを拒否し、栄養失調が因で死ぬのだが、明らかに彼女は死を覚悟していた。いや、すでに彼女は学窓を巣立った日から半ば死んでいたとすら言えるのであって、事実、そのことは「私の生命はあの卒業式の翌日からもはや此の世に存在すべきでなかった」(「真実ノート」第四冊)と書きつけた告白からも明らかだ。真実を求めてその涯に見つけたものは、自我とともに自己の存在も消滅させる虚無だったのだろうか・・・・

(参考:『夭折の天才群像』 山下武)

(2017年8月28日)

炎える母へ走る 

「炎える母」 宗左近 

走っている
火の海の中に炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないからはしっている
わたしが
走っているから走りやまないでいる
走っている
とまっていられないから走っている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
焼きながら
燃やしながら
走っている走っている
走っているものを追いぬいて
走っているものを突きぬけて
走っているものが走っている
走っている
走って

いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って

走って
走って
いるものが
走っていない
いない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが

いない

母よ

いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない

母よ

走っている
わたし

母よ

走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることが
できない

ずるずるずるずる
ずるずるずる
ずりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか

走っている

あれは
なにものなのか
なにものの掌の中のなにものなのか

走っている
ふりむいている
走っている
ふりむいている
走っている
たたらをふんでいる
赤い鉄板の上で跳ねている
跳ねながらうしろをふりかえっている

母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる

わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
跳ねている走っている
走っている跳ねている

一本道の炎の上

母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている

炎の一本道

走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
炎えている一本道
母よ

 1945年5月25日の山の手大空襲は、大量の焼夷弾が降り注ぎ3600人余りが亡くなった。
 宗左近は疎開先の福島から一時上京していた母を送るため、上野に向かっていたところで空襲に遭った。2人は手をつなぎ火を避けながら逃げ惑い、なんとか四谷の仮住まいに戻るものの、そこも炎に包まれてしまった。宗と母は、燃えさかる「炎の一本道」を抜けようとしますが母は転び、その手が離れてしまい母を置き去りにし、そして生き延びた。
 宗は炎の中で倒れた母をなぜ救いに行かなかったのか、母を見殺しにして自分はなぜ生きていかれるのかと自分を責め、
それから23年後、ようやく母への墓碑「炎える母」という長編詩を書くことが出来たのである。
 そして、書くことによってあがない続けた。「ぼくの生きてゆくことの中心は、書くことです。ぼくの書く力は母からのらっているにであって、書けばそこに母がふたたびよみがえってきて、ときにぼくを叱ったりしてくれるからなのです。」と語った宗は2006年6月20日、50冊に及ぶ詩集、100冊を越える著書を残し母のもとへ旅立った。

(2017年8月7日)