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棚夏針手詩集

 段ボールに詰め込んであった詩集を整理してたら何冊かの『VOU』と『O』が出てきた。
 いつ購入したのかも覚えていないこの詩誌のページをめくると「棚夏針手(たなかはりて)」の記述があった。

―― あまり知られていない詩人であるが、といって、それはむしろ当たりまえのことで、大正末期から昭和初期にかけての数年間、同人誌に発表したまま不明になった詩人である。それを鶴岡善久氏が周年に燃えて8年間をかけてまとめたのが『棚夏針手』である。鶴岡氏によれば、「サンボリックなものが形を解体しながらにシュルレアリスティックなイメージに変形していくところに棚夏針手のオリジナルな先駆者的な価値づけが生じてくる」といい、サンボリックからシュルレアリスムへ至るきわめて独自的な秘教的餐宴、といっている。わが国における直輸入的シュルレアリスム機関誌の発刊の前に、すでに彼のシュル開眼の活動は終りかけていた。つまり輸入以前に独自的に切り開かれていた。として高く評価し、またその発展的必然性をいちはやく実証していたということになるらしい。しかしわたしのみるところでは、ボードレール、ランボー、マラメル等の象徴主義がかなり強烈に働きかけ、そこへ日本的な美意識が、ひと癖ありげにまた生真面目に加えられて、あなたの皿に盛られた。そんな果物のようにみえる。それはシュルレアリスムがサンボリスムから必然的に発展する過程の詩の実証(近藤東言)であるよりは、やはり和風サンボリスムという感じが強いのである。日本のシュルレアリスムが衣裳として心を軽くしたとみるならば、棚夏針手の和風サンボリスムは、それ以前の、心の重みにあでやかな衣裳を着せかけているようにみえる。軽快な竹馬と靴のような関係である。ともあれ、現代詩への重要な足がかりをもつものとして意義深い。

「黒支那麦の婦人帽の内部」
  
黒い夕焼は
黒支那麦の婦人帽の内部。
黄金の渡守と語る白い巡礼が
初めて罌粟畑に下りた象牙の保護鳥のやうに
午終一面に張りつめた蜃気楼の帆陰で
見知らぬ昼の都会に狂ふ牛の胸の
燕脂色の第一闘牛賞のメダルを見る
それは月だ。
お前が私に贈ると云つて桃色の半巾(ハンケチ)に包んで置いた
基督磔刑像の痛々しい御胸だ。
密培の赤い象牙の保護鳥が啄むので
双手を伸べて抱擁の美眉術をつくさうとする夢が
石垣の氈襖(かもぶすま)の上を匂のやうに歩いて来る
月の常春(きずた)が軽く
背後の花壇は行手の泉にうつる。
それは薔薇の花。
お前の置いて行つた一本の金髪のからんで居る
基督磔刑像の蒼白めた御足だ。

不日(いつか)
久しく帰つて来ないお前が帰つて来て
私の「陶然」の客間(サロン)で  
その黒い夕焼の婦人帽を脱ぐ時があらうも知れぬ。

私は 其時 
畳まれた水色の粉油が
お前の耳かくしの束髪に雪のやうに積るのを
さうして白藻はお前に
快く眠られるだけの冬を招くのを
尚、魂が蝸牛(かたつむり)のやうな瑣瑙の手燭に
麹色の果汁氷果(アイスクリーム)を盛つて推(すす)めることを知つて居る。
けれど
黒い夕焼の婦人帽の内部の月と薔薇の都会の紫の蓋をした巨大な蒼白い密瓶の側面では
白い巡礼と黄金(きん)の渡守とが乳房をあはせ
その影の弁髪の密航者は
象牙の保護鳥を捕へんものと
黄金の泊木を空に灯してゐる
  
おお それは
黒い夕焼の月の常春藤(きずた)に懸(かか)つて
透蚕(きさご)のやうに皮膚を匿さんとなしつつ
悶えてゐるお前ではないのか。

「薔薇の幽霊の詞」

これは花粉色の絶筆の集である。
「今」の二月廿九日である。そして又、
「明日」の二月廿九日である。
私であるお前達の薔薇の幽霊であるモノタイプなのだ。

私は懇願した招待は嫌いだ。
これは私自身のための招待だ。
私はこの招待を衷心から寿つて呉れる数人に限つて、
嬉んでここにある幾個かの快い椅子を使用して欲しいと依頼したい。
私の範囲にゐる数人は嬰児の背後から偶然の催芽が神の平均を失はせる「真」を、
私は怕らくは知つて居やうから。
私はこの優れ行く盛花を禁断したくはないのだ。
私は恒に背後にゐる女(ひと)の像に乱祝であることを悲しむ。

けれど、
私は彼女のために斯うして何時ともなく創くられた  
「巨大なるソロモンの櫃」の五穀の一握を、
一指づつ掌に啓いて行くことをゆえなく怕れる。

私は誰呼する。

私はこの手に
「明日」の二月廿九日の君臨を知つて居る神々の、
私であるお前達の、
EX.VOTEを支へ終はせたい、
私はアルチュール・ランボーの径に死んだ若い商人であるが。
  
これが私である薔薇の幽霊だ。

読者よ、私は直截に申します。
都(すべて)、常識を以て認識して欲しいと。

 棚夏針手とはペンネームで、彼は本名を田中真寿という。 
 また彼には田中真珠というペンネームも用いた(これは堀口大学からの言葉もあって本名の真寿に戻る意味もあったらしい。昭和二年十二月の「近代風家」第二巻第十二号に発した「寝明り」、「星」などの作品にはこの田中新珠が使用されている)。棚夏針手は、そのほか「明星」、「詩と音楽」、「白孔雀」、「君と僕」、「指紋」、「青騎士」などの諸雑誌に作品を発表した。近藤東、竹内隆二、添田英二、大河内信敬などわずかに詩的交渉があった。活動期は大正十年代で彼の十九歳から二十代前期にかけてであったと思われる。とくに当時注目されたようでもなく、わずかに北原白秋、堀口大学などの詩人が雑誌の選者あるいは編集者として注目した程度であったらしい。棚夏針手のビオグラフィについては、まったくつまびらかではないが、わずかに竹内隆二の「作家・山本周五郎の生いたち」という文章のなかに、「桜橋の『高治』という親質屋には棚夏針手というのが居て、これの詩が当時シュルレアリスムの先駆となりました。」、「そのうち、添田英二と棚夏針手が与謝野晶子の「明星」に推薦され、北原白秋の「詩と音楽」に私と添田、棚夏が推薦となりました。」という記述がみいだせる程度である。残した作品はおそらく三十篇前後ほどで、当時彼は「薔薇の幽霊」という詩集を、二十一篇ほどの詩を集めて出版する計画であったらしい。が、これはついに実現しなかった。棚夏針手は二十代後半からおそらく詩からさっぱり離れたらしく戦後いささか左傾して青年文化運動にたずさわったりして、常磐線の牛久あたりにいるのではないかという推察も存在するが実際には彼の失われた足跡はまったくたどれない。(『棚夏針手詩集』蜘蛛社)

 彷徨の青春時代はあきれるほどカラッポで、奴隷船のような部屋で小さな窓から波間の太陽を見上げるように、ダダやシュルレアリズムや幻想文学を読んでいた。妄想するとこによって現実から逃避するためである。奴隷船から海に飛び込んで何処かにたどりつくために必死で泳ぎ続けている。少しは泳ぎは上手にはなっているが・・・。

(2019年6月7日)

長沢延子の春夏秋冬

 冬は長沢延子と出逢う季節だ。

【別離】
友よ
私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ
花を供えたり涙を流したりして
私の深い眠りを動揺させないでくれ

私の墓は何の係累も無い丘の上にたてて
せめて空気だけは清浄にしておいてもらいたいのだ
旅人の訪れもまばらな
高い山の上に--

私の墓はひとつ立ち
名も知らない高山花に包まれ
触れることもない深雪におおわれる
ただ冬になったときだけ眼をさまそう

ちぎれそうに吹きすさぶ
風の平手打ちに誘われて
めざめた魂が高原を走りまわるのだ
…………

 終戦後のレッドパージの時代に、思想と哲学に生きた17歳の長沢延子は毒を喰って死んだ。
 吉田松陰は、遺書ともいえる『留魂録』に次のように書き残した。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」と。
 長沢延子の人生とは「生まれた時から死ぬ気で生まれてきた」と自らが語るように、敗戦という混乱の季節の中で、早熟で聡明な魂を「春と夏」切り捨てて「秋と冬」だけの短い時間で、すばやく自己変革し、すばやく成長させ、自己完結させた。

「折鶴」 長沢延子

紫の折鶴は
私の指の間から生れた
ボンヤリと雲った秋を背中にうけて
暗い淋しい心が折鶴をつくる

ああ秋は深く冬は近い
机の上にひろげられた真白なページに
今日もインクの青さがめぐっている

友よ何故死んだのだ
紫の折鶴は私の間から生まれた
落葉に埋れたあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう

私とあなたは折鶴など縁遠い存在だったけれど
あなたが私のもとを去った日から
何故か折鶴があなたの姿のように見えるのだ

もの言わぬあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう——紫の折鶴を
あなたと私とのはかない友情を表した
  
あの淋しい折鶴を

 歌人の福島泰樹は『悲しみのエナジー』(三一書房)に中で「「暗い淋しい心が折鶴をつくる」の声調に、萩原朔太郎の余韻を感じる。「折鶴」は詩人長澤延子の誕生を飾る詩である。そして、思うのだ、「友よ」の「友」は、自身への呼びかけではないか。墓にいる自身に、向かって「紫の折鶴」を折るという、生と死の「複合」によって成り立った詩ではないのか。長澤延子は、14歳10ヶ月にして、一気にその自身の詩の方法論を獲得してしまった。」と賞している。

「墓標」 長沢延子

うしなわれた数々の幼ない画集の中
流れながら野辺おくりの郷愁の唄が光る

朝飯にと供せられた一切れのパンに
あのキューバの砂糖をつけて口に運べば
あまりに困惑した眉根がうかぶ
——自ら訪れて年をとろうとした
 苔むした墓場のかぎ
——自ら生命をたとうとした
 あまりに底ぬけな空の青さよ

死にそこなった疲れに
むなしく窓外をみつめた時
あてどなく雪は降りつもっていた
そのゆくては見えず
充血した脳髄をひやすように
どこともなく駆けて行く
馬車のわだちを聞いたのだ
小さな風気孔から血が降ってくる

この別れに何と名をつけろと迫るのだ
私はドアを閉めて外へ出た
閉ざされた窓に風が吹きつける
雪よ あの家を埋めろ
私の墓標はこの涯ない草原に群をなす
裸体の人々の中にある
すでに家を捨てた者が
逞しく この草原を闘いを知ったのだ
打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ

雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
もうすでにおそい
私は限りない闘いの中に
私の墓標をみた

 16歳で日本青年共産党同盟「青共」に加盟した長沢延子は「激しい生存への、人間性への、社会への、歴史の希求と、底深い死への密着が私の中の共存していた。」と自ら語るように、真のコンミュニストになるために歴史的必然と自己否定、〈生〉への希求と〈死〉への傾斜を同時に共存させ、はげしく葛藤した。早熟で純粋な〈生〉は「革命」を目指すものだ。革命理論とは、資本家階級を「搾取階級」として糾弾し、革命的打倒を呼び掛ける理論のことある。この理論に忠実であろうとすると、まず自分で自分を打倒しなければならないことになる。そこに「自己矛盾」に陥り煩悶することになる。しかし、矛盾を抱えた存在と悟った人間でなければ詩は生まれない。長沢延子矛盾の中で詩を書き、思想と哲学を学び、真のコンミュニストとして死んだのだ。
 詩人の松永伍一は『荘厳なる詩祭り』(田畑書店)の中で、長沢延子の〈死〉について語っている。

◆かの女は1949年6月1日、服毒自殺をとげた。なぜ、死の淵をすべり降りていかねばならなかったのか。健康な女学生が〈生〉を放棄するのは、家庭の不和だの、知ってはならなぬものを知った絶望だの、不具の哀しさに耐えきれなかったからだの、といった理由からではない、もっと深い〈生〉そのものの意味からであった。〈生〉とは歴史と関わることだ。いや、歴史と関わる自己を発見することだとすれば、〈死〉を積極的に死んだ長沢延子は、その行為によって〈生〉の本質を胡摩化しぬきでつかみ出そうとした一個の求道者に化身していたといえよう。

◆かの女は、私が10余年近くたって具体的に気づき不満(戦後の自称コンミュニストたちによる政治運動の思想的空洞化とイデオロギーの風化)をもつにいたったそれらの事柄を、3年足らずのうちに洞察しつくしていたのである。「全てを知って青共に入った」と書くあの誇らしさがもつ悲劇の調べは、それが敗北の予感を受け取らせるものであったためにかの女の〈死〉は〈生〉そのものをきびしく裏打ちするところまで、鳴りひびいていた。暗いといったらいいのか明るすぎるといったらいいのか。足許に安定感のない若い青春が何時も死という深淵を無造作に自分の中に抱えこんでいたこと。あびやかされることもないただすべてうっとうしい感受性——おのみずみずしい暗い粘着性をもった感受性——は俗流政治主義者の内面に息づくことのなかったものだった。それためにかれらは偽装しつつ長生きしたが、思想的に妥協を許さぬかの女の真生コンミュニストへの情憬は、矛盾を多くかつ深く早目に知ってしまったために、死を急がねばならなかったのである。

◆かの女は言う。「魂が破滅をえらぶなら肉体も運命を共にしなければならぬ」と。魂は肉体であり、そして肉体は魂だからだ。このぎりぎりの地点まできたとき、かの女は唯物論者ではなく一種の運命論者に変質していたが、いんちき唯物論者の偽装よりも、人間の実存を手さぐりするウソのない運命論者の方が数等すぐれていることを自覚していたかどうか、それはわからない。「私の精神、無用者の年輪」という自嘲は、唯物論に対する観念論の敗北への自嘲と同質のものだとすれば、一応の想定はくだせよう。しかし、きみは、自嘲することもなく敗北の怖れすら予感しない思想家を賛抑できるか。そういう政治家を組織の指導者として信頼していけるか。それをかの女は沈黙することによって憎んだのである。純粋な世界を目ざす誠実さが、不純な人間を憎むのは当然であるが、罵声を浴びせるかわりに〈死〉を選んで抗議したのではなかったか。

◆かの女は1948年すでに、共産主義運動の一枚岩という固定観念の妄想を衝いていたのだ。あの組織のなかの衆愚性に目を開いた人間は、権力にこびたその衆愚性によって復讐される運命を負わねばらない。この悲劇は、有頂天になっている情勢論者たちにはとうていおとずれることのなづかぬ愚昧な生き方が組織を侵していく現実に、いち早く気づいたかの女の群を抜いた歩みは孤独この上もないものになっていたのである。唯物論の偉大さを知ったかの女が、唯物論者と自称する組織体の人間どもにあいそをつかし、そのことをかなしみ、進みすぎたものの悲劇的運命を感覚していくとき、〈死〉はもう避けがたい深淵のほとりまで誘惑の手をさしのべていたのであって、まわりの衆愚性はそれを拒むための何らの助言すらできる資格をもたなかった。かれらは、死を喰いとめさせる力を所有していなかったことを恥じるどころか、「死は敗北だ」という高慢な非難を浴びせ胡摩化すだけしか知らなかった。長沢延子の死がそういう非難への非難という意味を含んでいた事実を、一体何人が知っていただろうか。
真に思想に目覚めたものは、妥協という方法をとって後退することはできないのだ。前進をめざせば、それ敗走になってしまう。きみは、「人々は私の敗走を何の好意を持ってか“前進”の意に名づけてくれたから、私もこの栄誉になってみようかと思ったまでだ……」というかの女の言葉を、ここで反芻できるだろう。偉大さとは、こういうことを指して言うのだ。

「旅立ち」 長沢延子

光る舗装が目にまぶしい
もはやおさらばを告げてよい時節
  
喫茶店よりコーヒーの香りは失せ
悲しい玩具が飾り窓に
あれが私の生命——
母よ
静かなくろい旗で遺骸を包み
涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか

私の魂は波頭を越えて
あなた方の
知らぬ異国の旅人となろう
母よ
渚に立ちながら
私は何の幻影もなく
あなたの名をおもう
私を生んだ
あなたの生殖器に思いを走らせる

母よ
あなたはオーロラーを知っているか
あなたが幼ない恋人の胸に抱かれた時
あなたはふと北国の氷山を
燃えあがる心の内に浮かべはしなかったか

——あなたの古びたアルバムを土蔵の隅から発見して
私は捕鯨船と
そのマストに登る
しなやかなあなたの眼ざしを見た
  
母よ
私の心に暖かいざわめきが漂ってくる
あの暖かいあなたと恋人のロバタには
私の生誕を祝う余地はなかったはずなのだが——
  
私は私がおどおど立ち上った所に
あなたの遠さを道ばたに捨てたまま
かえって行こう

もし幾年かの後
あなたが小さい女の子を思い出したなら
私のベッドの固さに驚かされることだろう

私は何の夢もなく旅人を志願した
遥かな異国の街々で
とどける術のない
あなたへの贈物を買おう
珍らしい宝石や美しいヴェールや
そして
あなたに教えられなかった
無為の花々を

 思想とは正解・不正解、勝者・敗者を決めるものではなく自からを成長させるものだ。長沢延子の〈生〉と〈死〉が、わたしを孤独から救いあげてくれた。人生は孤独だし不安である。ニーチェは体調が悪いときは必ず母親の元に帰ったという。長沢延子はこの世に帰る場所はなく、季節を最初からやり直すために母の腕の中へと旅立ったにのだろう・・・。
 古代ギリシャ人は「最も良いことは、この世に生まれないこと。次善は、早く死ぬことだ」と考ていた。この苦痛ばかりである人生を耐えるためには、〈死〉の深淵と関わること。そして、終わることのないの苦痛があるからこそ、ギリシャ人は美しい神殿や彫刻を作り、思想や哲学を極め〈生〉が輝いたのだ。〈死〉から目を背けずに注視しているからこそ、今を大切に生きていける。疲れたら長沢延子という原点に帰ればいいのだから。

(2019年5月10日)

あいづち

 教育評論家の尾木直樹さんが関係している小学校で、子どもたちに好きなものを挙げさせたら、小学校高学年の子どもたちがほっとするものが、ゲームとかではなく、北村宗積さんの「あいづち」という詩だったそうだ。「子どもたちは、共感して優しくあいづちをうってくれる欲していて、現実にそういう大人が廻りにいないことの現れなのだろう」という。

「あいづち」 北原宗積
  
そうかい そうかい
そりゃあ たいへんだったねぇ

つらいはなしには 
かおをくもらせ

なるほど なるほど
そりゃあ  よかった

うれしいはなしには 
かおを ほころばせ

いまは
むかしほど ちからもない
じょうぶな はも
なびくかみも ない

あるものといえば
ふかいしわと
とりすぎたとしばかりの
おじいさん

だれがはなしにきても
やさしく あいづちをうっている

 現代社会では、子どもに限らず若者や大人たちも「他者からの承認願望」を希求しているのではないだろうか。
 ネット環境は多くの友だちを増やし、人間関係を拡大していこうとする傾向を強めるが、その一方で、できるだけ価値観の似通った人だけと確実な関係を維持していこうとする傾向も同時に強めるという。
 友だちの数が人間として価値を測る物差しとなり、出来るだけ多くの友だちを確保しようとし、遊ぶ内容によって友だちを使い分けるという。しかし、付き合う相手を勝手に選べる自由は、そのあいて相手から自分が選んでもらえないかもしれない恐怖がつきまとう。友だちに嫌われないためにお互いの内面にまで深入りすることなく、ひたすら空気を読み、自ら作ったキャラを演じ、スマホの着信にびくびくしながら生きていかなければならない。
 現代の価値観の多様化した社会では、各々が意見のぶつけあう方向にではなくむしろ対立を避け、がむしゃらに主張を押し通そうとはせず、互いに譲りあうような関係になっている。しかし裏を返せば、互いの内面にあまり深入りをしなくなったと捉えることもできる。その背後にあるのは「承認願望」の強さである。絶えまなく承認を受けつづけるためには、つねに衝突を回避しておかなければならず、互いに相手を傷つけないように慎重にならざるをえないのである。
 「予定調和」の関係とは、ひたすら相手に合わすだけの関係であり、他者を気にするあまり自分のことはわからい。必要とされる役回りだけが互いに期待され、それ以外は求められないからだ。自分の本当の姿を相手が教えてくれることはなく、本当の自分の姿と出会うこもできない。
 新聞記者の小国綾子さんは、生きづらさを抱えた若者や子どもの取材を長年にわたって積み重ねてこられた方であるが、中学時代には自分もリストカッターだったそうだ。その自身の中学時代を振り返りつつ、吉野弘さんの「生命(いのち)は」という詩を引用して、こう語っている。「長いめしべと短いおしべ。簡単に受精できない花の形。吉野さんは「生命の自己完結を阻もうとする自然の意思が感じられないだろうか」と問う。常に好ましいわけではなく、時にうとましくわずらわしい他者。しかし「そのような『他者』によって自己の欠如を埋めてもらう」のが人間なのだ、と。/好きな相手や似た者同士で固まるのは楽だけど、それでは「自己の欠如」は埋まらない。ある時は見知らぬ誰かが私のための虻となり、ある時は私が誰からのための虻となる。/確かに私の人生、そんな他者との出会いの積み重ねだったのかも」(『毎日新聞』2014年2月4日)。

「生命(いのち)は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 人間関係とは、互いの衝突を契機にそのあり方が見直され、再構築されていくもであり、そうすることで周囲の環境の変化にも柔軟に対応していける。そして、新しい自分を発見していくこともでる。しかし、あらかじめ衝突の危険性を回避し「予定調和」の関係を営んでいるかぎり、その関係は次のバージョンへとレベルアップされ、深まっていくことはありえない。自分の知らない自分に出会うこもできず、したがって環境の変化にも絶えられないことになる。キャラを演じあうことで維持される人間関係は、表面上は安定した関係のように見えるが、それは今この場かぎりのものであって、長い目で見ればじつは意外と脆いものである。
 互いの本音を理解しあっている人間関係であれば、多少の摩擦が生じたとしても、それで関係は壊れるかもしれないなどと不安に駆られることはないだろう。自律的に個人は相互に信頼して尊敬しあえる関係を築き、そこで互いに承認を与えあうことができれば、自己肯定感も揺るぎないものになるだろう。そうすれば強い他者に依存することもなく、弱い他者を気遣うこともできるだろう。
 誰だって若い時は不安定だし孤独だ。小国さんは自らを振り返り「自分探し」をするなという。
「自分から心に高い影を築き、独りぼっちで生きる理由を探しているだけで、頭の中だけで「自分探し」をして見つかる自分でなんて、ろくなもんじゃない」と。
「狭く閉じてしまわず、あきらめず、一歩踏み出そう。誰かに会って「はじめまして」と言おう。「こんにちは」と「ありがとう」を重ねていこう。そんなことから見えてくる「自分」が大事だ」と。

〈参考文献〉
『つながりを煽られる子どもたち』 土井隆義(岩波書店)

北原宗積(きたはらむねかず)
1931年 信州松本に生まれる。信州大学工学部卒業。中部日本放送勤務をへて児童文学の道へ。
第10回新美南吉文学賞 佳作受賞
第1回日本児童文学賞制作コンクール入選

(2018年12月27日)

永瀬清子の「あけがたにくる人よ」を読む 

 永瀬清子さんは1906年2月17日に生まれ、1995年のちょうど誕生日と同じ日の朝に亡くなった。
 4人の子どもの母であり、体の弱かった夫を助け、戦後は農業もし、岡山家庭裁判所調停委員の仕事を持ち、いわば主婦、詩人、仕事の3つをやりぬいた人生であった。
「多くの女性をやっていることを詩人の名でやらずにすませ得る事はなく、それをのけて女性詩人があるものではありません」と語るように、このようなまともな考え方のできる人だったからこそ、1度読んだら忘れられない詩を残せたのである。 
 永瀬さんの残した作品は、詩集18冊(アンソロジーを含めて)とエッセー集5冊、短章集5、6冊であり、ほとんどが絶版であることを考えると、現代詩の先駆的な存在である永瀬さんの作品が広く読まれるべきだと思う。
  
「あけがたにくる人よ」 永瀬清子

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
わたしはいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

 「あけがたにくるひとよ」は、詩人永瀬清子が81歳にして第12回地球賞を受賞した詩集の中に収められた同じタイトルの作品である。
 “てってぽっぽう”という語感に残るの印象的な言葉は、山鳩の鳴き声の事であるという。たまたま上京して従姉の家に泊まったその明け方早く目がさめ、ててっぽっぽうの声を聞いて郷愁を感じ在りし日を思いこの詩を書いたという。
 あけがたに来る人とはどんな人なのか。
 永瀬さん自身の言葉によると、「あけがたに誰かがくると云えばこの「詩」が来てくれた事が一番あたっていると云えよう。何の誰それと云ってももうそれは何十年も年月がすぎて昔の事情とはちがっている。でもこの『詩』が来たのは嘘いつわりではないのだ。それは本当に「来た」のだ。(『女人随筆』(1991年1月号))」ということらしい。
 清水哲生氏によれば「若い頃に、ひそやかな恋心を抱いた人——。あるいは、すなおにそう読むべきかもしれないが、この読み方どうも通俗に流れすぎるようでおもしろくない。あくまでもこの人物はひとりなのではあるけれど、未知の人物も加えて、若き日の詩人の「こころ」に何らかの影響を与えた人々の総体なのだと、私は読んでおきたい。だからこそ作者は、「もう過ぎてしまった」というのであり、「一生は過ぎてしまったのに」と断言できるのである。昔の想い人に託した形式はとっているけれども、もっとうがった見方をしておけば、「あけがたくる人」とは、実は詩人自身にことでもあると読めないだろうか」という。
 永瀬さんの詩の根底を貫いている主題とは、「遠い日々に思いに馳せながら「人の世の生業」への情愛に自ら縛られて老いていく女たち」であり、「憧れや幻想を捨てて選びとった地上」を生きることである。
 この「あけがたにくるひとよ」という恋物語は寓意の世界である。一日のうちで夜と朝の狭間に置かれた「あけがた」という神秘な時間がごく短いように、「恋人」は一瞬のの至福として彼女の前に現れ去ってゆく。だが、この律儀な娘には生きる真実を捨ててまで夢を老い続けることはできなかった。——「恋人」とは「夢や希望」の象徴表現であり、今や晩年を迎えようとしているかつての少女は、捨てられたかに見えた若き日の「夢や希望」を、こころの奥深くにつつましく抱きしめて涙するのである。
 永瀬さんにとって詩とは基本的に己の「自我」と向き合い、それを確認するための場、そして主張してやまない自我の抑制から、より普遍的なはれやかな場所へと自己を解放するための鍛錬の場であった。したがってこの自我は芸術家らしい野放図な拡大を求めるものではなく、つねによき「女性」として在るための内省の場を求めたのである。
 『短章集』を読んだ谷川周太郎氏はこう語っている。「永瀬清子という人がひとりの日本の女でるということ、妻でもあり母であり農夫であり勤めの人であり、それらのすべてでありつづけることによって詩人でるということが、私にも分かってきたのだ。彼女は他の多くの、特に男の詩人たちのように、たつきはたつき、文学は文学と和割り切って、昼の仕事を終えたあとに書斎にこもって詩を書いたのではない。『ほしいもの』というという本集に収められた一文を読むだけでも分かる。永瀬さんは女の戦場の只中で書きつづけてきた。」(「ひとりの日本の女」より)
 永瀬さんは、女性が何かを表現するというのが許されない封建的な時代を、「女性」であることの詩と真実を求め続けてきたからこそ、現代の女性の詩人たちの存在があるのだろう。

〈参考文献〉
『近代女性詩を読む』新井豊美(思潮社)
『永瀬清子』井坂洋子(五柳書院)
『現代詩つれずれ草』清水哲生(思潮社)

(2018年12月25日)

星になった少年 —父と子の物語—

「おい居るかい。まだお前は名前をかへないのか。ずいぶんお眼も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格はちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまでも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまからくださったのです。」
「いいや。おれの名前なら、神さまから貰ったのだと言ってもよかろうが、お前のは、言はば、おれと夜から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。」
〈略〉
「だってそえはあんまり無理ぢゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」

宮沢賢治の『よだかの星』を読むと、よだかと岡真史少年のことを重ねてしまう。
岡真史少年は中学2年生のとき、東京の西北郊外にある住宅団地の屋上から突然、鳥が翔び立つように夜の空へと身を投じて命を絶った。残された詩と作文が『ぼくは12歳』(高史明・岡百合子編)という詩集になり、版を重ねて今でも読み継がれている。この詩集に収められた詩は、真史君が小学校6年生かの晩秋から、中学2年生の死の直前までに書きためた詩である。

『よだかの星』とは「かわせみの仲間であるよだかが、その名前から鷹に嫌がられ「明日までに改名しなければつかみ殺すぞ」と言われてしまい、自分が鷹に殺されることがこれほど辛いのに、その自分は毎晩たくさんの羽虫を殺して生きなくてはいけないことを悟り、そして辛すぎるこの世を捨てる決心をし、空に向かってどこまでもどこまでも飛び続け、やがて青い美しい光を放つ「よだかの星」になり、今でも夜空で燃える存在となる」という童話である。

鷹がよだかを殺そうと思えば簡単に殺せるのに、わざわざよだかの家まで行って改名を要求したというのは、殺すつもりはなく、鳥の世界のしきたりを教えようとしたためだと思う。親子の関係に置き換えると、鷹=〈父〉であり、よだか=〈子ども〉のような存在である。〈父〉がいつまでも自由奔放に遊ぶ〈子ども〉に、大人になるための通過儀礼を与えたが、残念なことによだか=よだか=〈子ども〉はすべてを拒否して自分自身であるために死を選ぶことになってしまった。
〈父〉とは「社会からの要請」を代理としてリビドーの発露を抑圧する存在である。そうした社会からの要請を代理する〈父〉の機能をジャック・ラカンは「父の名」と呼んだ。幼少時の全能感・万能感を断念させる「父の名」を通じて、初めて社会のポジシャンを得る方向に向かうという。

「ぼくはしなない」 岡真史
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

父親の高史明氏は『いま「いのち」の声を聞く』(佼成出版社)で亡き真史君のことを語っている。
彼が中学生になった時に、私は三つの言葉を贈りました。「君は今日から中学生なんだ。中学生になったからには、これからは自分のことは自分で責任をとりなさい」、そして二番目に、「他人に迷惑をかけないようにしなさい」そう言いました。そして最後に、「自分のことは自分で責任をとり、他人に迷惑をかけなければ、お父さんはこれから一切る君のやるこに干渉しない。自分の人生だから。自分で責任をとっていきなさい」こう言いました。
ちょっと考えてみると、正しい。しかしその正しさは、「十二から四つを引くと八つ残る」という正しさとあまり変わらなかったのでした。私の言葉のどこに問題があったか。具体的に言いますと、こういうことです。
「他人に迷惑をかけるな」と私は言いました。しかし「ここまでくるのにどれだけ他人の働きを頂戴してきたか」——それを言うのを忘れておりました。「他人に迷惑をかけるな」——この言葉には端的に言って「明日から迷惑をかけるな」です。それこそ、今日ここへ来るまでの十二年間に、どれだけの人の働きを頂戴しているかを見失った言葉にほかならなかったのです。しかし、着ている洋服、靴。それは自分が作ったか。歩いている道は自分が作ったか。それをお金を出して買ったのだから誰にも迷惑をかけていない。と思うなら、生きた人間の姿がお金の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それだけではない。人間が見えなくなれば、当然たくさんの生き物のいのちも見えなくなります。人間は生き物のいのちを頂戴して生きているわけです。その生き物のいのちというものが見えなくなれば、美味しいとか不味いかだけでご飯を食べるようになります。それは、生きるということから、生きている人間や他の生き物とのほんとうのつながりを見失って、そのすべてを数の知恵に置き換えてしまうことに等しいことになります。それが人生というものでしょうか。その人生は実に虚しい、砂漠のような人生です。私は子どもによかれという思いから、ほんとうの生、ほんとうの人生を見失わさせていたのでした。
私は、彼が中学生になった時、違うふうに言うべきでした。
君は今日から中学生だこ。こまで来るのにどれだけの人の生きた働きを頂戴してきたか。どりだけの生き物のいのちを頂戴してきたのか。それをしっかりもう一度肝に銘じてほしい。それが他人に迷惑かけないことの始まりであり、それがほんとうの意味のいのちに根ざした『自分』というものの始まりだ。自分のことは自分で責任をとる、とは、自分がすべてでないということ、自分がこの世に誕生せしめられてきたそのいのちの働き全体に対して、真に責任をとっていくこと、いただいたいのちを生きること、それこそが本物の責任というものだ」そのように言うべきでした。それが、言えなかった。その言えなかったことろこそが、算数の知恵、それだけを良しとする私の間違いがあったのだと思います。

「じぶん」 岡真史
じぶんじしんの
のうよりも
他人ののうの方が
わかりやすい
みんな
しんじられない
それは
じぶんが
しんじられないから

子どもという存在は社会的な衣を着ていない存在であり、社会的な地位や階級や国籍などにも囚われない、いのちそのものに近い存在である。その子どもが大人になるとは、子どもの「自分を殺して」大人としての「自分に生まれ変わる」ことであり苦難や苦痛を伴うものである。大人なら誰でも心当たりがあると思うが、心の状態が不安定になり家出をしたり家庭内暴力をしてしまった時期が、子どもから大人に変わろうとしている時期である。
この時期の子どもたちは、大人たちの世界をどのように見ているのだろうか。「いのちを大切に」といいながら過剰に繁殖させて動物を食し、自然破壊の影響で住む場所を追われた野生動物を殺し、「平和の大事さ」をいいながら世界中で戦争が行われ、「差別はいけない」といいながら弱者を平気で切り捨てるのが大人の世界の現実である。子どもたちは、大人たちの醜い姿を見抜いている。そして、この醜い世界で生きているという絶えられないほどの苦痛があり、いっそのこと「死んでしまいたい」と思っても不思議でなないだろう。

「無題」 岡真史
にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべ
してた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない

この世の中に
自由なんて
あるだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに・・・・・・

大人たちは12歳の少年に「自分を、かえしてよ」と問われたら、何ことばを返したらいいのだろうか。たいていの大人たちは返答に窮し、言い逃れをするしかないだろう。けれども真史君は「きれいごとではすまされないこともある、まるくおさまらないことがある」と大人たちが返答できないことすらわかっていたのかもしれない。それが真史君の聡明さであり、優しさなのだろう。その優しさが「心のしゅうぜん」ができなくて自ら命を絶ってしまったのかもしれない。

よだかにしても、鷹にむかって「改名するくらいなら、死んだほうがましだから今すぐ殺して下さい」と言ったことを考えると、よだかの鷹に対する甘えと理解することができる。よだかは鷹が殺せないということを知っているのだ。〈子ども〉=よだかは〈大人〉になること「共同体」に参入して生活人となることの拒否の表明なのである。いわばとだかは鳥社会の中での自由人で詩人でありたいのだ。よだかは誰にも束縛されず、自由に空を羽ばたきながら生を謳歌していたいのである。しかし、このいつまでも〈子ども〉にとどまり。自由でありたいと願うよだかも、ついに共同体社会に参入するための通過儀礼の日を迎えざるを得なかった。鷹は、最後通告の形で、よだかを説得しに訪れたのでる。
〈子ども〉であり続けようよするよだかは、罪を知らず、生活を引き受けようともしない、そしてこの自由がもはや許されないと知ったとき、よだかは生きることよりは自ら命を絶つことを選んだのだ。

この考えですら大人である自分は、真史君の死を納得させるための都合のいいように解釈しているかもしれない。そして、残された高史明氏や鷹=〈父〉の苦悩のことも考えないわけにはいかない。ただ一つだけ言えることは、大人たちの「生」は亡くなった〈子ども〉たちに問われているということだ。
『ぼくは12歳』という詩集は悲劇性だけを考えるのではなく、純真な小さな詩人そのものと、向き合うことが大事だと思う。

「夕ぐれ」 岡真史
夕ぐれ
赤い
もえたつ太ようが
くもも空も
みんな
仲間入りさせてる……
くもも空も
まっかにそまる
ぼくも
仲間だよね
ほら
全身まっ赤だよ

創造的退行という言葉がある。退行というのは、人間のこころの状態が子どもの頃に帰る状態になり、馬鹿げた空想をしたりするようなことである。これは決して悪い意味ではなく、現在の閉塞した社会を打ち破るためにも、退行することが何か新たな想像力を生み出すことに繋がるからである。
子ども頃のように夜空をながめてみよう。
2つの美しく輝いている星が「何か」 を教えてくれるから。

〈参考文献〉
『宮沢賢治の神秘的世界』清水正
『いま「いのち」の声を聞く』高史明
『大人になることのむずかしさ』河合隼雄
「岡真史「ぼくは12歳」と「山芋」」(『大関松三郎の四季』)南雲道雄

(2018年12月15日)

日々を慰安が吹き荒れる

近くのスーパーで、200円の海苔弁当か300円の唐揚げ弁当を買うか悩んだあげく、300円の唐揚げ弁当の欲望をレジ袋に入れて帰宅する途中、群衆が道をふさぐように集まっていた。「今日は何かのデモがあるのか?」と心躍ったが、期待もむなしく“ポケモンGO”の巣に集まった群衆だった。
吉野弘に「日々の慰安が」という詩がある。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が作る。
明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

慰安が笑い
ささやき
うたうとき
さみしい心の人が枯れる。
枯れる。
なやみが枯れる。

ねがいが枯れる。

言葉が枯れる。

ある解説によると「慰安」はテレビ番組のことで、自分の中に抱えている寂しさや悩み、それからもっと踏み込んだ精神性、プライド。それをテレビの慰安が吹き荒れて、紛らわしてしまう。何か考えなきゃならないことがあったのに、テレビを見てしまうといつのまにか時間が経ってる。心の中の淋しさや苦悩そんな精神が、人生にとって本当に大切なものかもしれないのに、それが浅いところで紛らわされてしまうということらしい。「日々の慰安が」は1952年に雑誌「現代詩」に掲載され、第一詩集『消息』に収められている。
この時代に流行した言葉で、社会評論家の大宅壮一の「一億総白痴化」ということばがある。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
適菜収は、テレビは基本的に“バカを生み出す機械”という。「テレビ番組の目的は、不特定多数の人間にCMを見せてモノを買わせるころです。スポンサーを得るためには視聴率を稼がなくてはなりません。そのためには「大多数が好む番組」を作る必要がある。だから「底辺レベル」に合わせた番組作りが行われます。「上のレベル」に合わせたら下がついて来れず、視聴率が稼げないからです。こうなると「底辺」に向かうスパイラルに陥ります。視聴者はバカな番組を見てバカになり、そのバカに合わせて番組を作るので、あさらにテレビは下劣になる。この構造が「モノを考えずに消費する人間=騙されやすい人間」が増えている要因です。」という。
現代社会はテレビに限らず、あらゆる娯楽があり「白痴化」が激化して「B層」社会化している。ネット社会は、おたくやフリーターを急増させ、世代間のギャップが目立つ。若者たちは政治から遠ざかり、目先の「お祭り騒ぎ」にしか関心が向かない。

サルトルが提唱した「アンガージュマン」という思想がある。「社会参加」という意味だ。サルトルがが1939年9月のある日、一枚の招集令状を受け取り、戦争という自らの個人的自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれ、いやおうなく「社会的状況」というものに目覚めることになったという。
「アンガージュマン」の思想は、サルトルが1947年の「文学とは何か?」において文学者「アンガージュマン」について述べている。だが「アンガージュマン」というのは文学者の「社会参加」という意味ではなく、一般の人間にも通じる思想である。
サルトルは『存在と無』において「人間は自らの“存在仕方”に関する限り全面的に責任がある」と主張した。人間は世界-内-存在として「事物や他者の存在する社会」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような社会と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような社会と関わって生きるということなのである。
サルトルは言っている。「たとえ石ころのように黙ってじっとしていても、われわれの受身の態度そのものが、すでに一つの行動である」このように、社会に背を向けて生きる場合でさえも、それは社会に対する一つの関わり方であり、一つの社会的立場をとることなのである。

安倍(アメポチ)政権は「戦争のできる国」から「戦争をしたくてたまらない国」へ、戦後の平和主義を否定し、海外で戦闘可能な体制を作りだし、軍隊を復活させ帝国主義に回帰したいようだ。そして、安全保障も外交も経済システムもすべて壊してアメリカに売り飛ばそうとしているのが安倍政権である。集団的自衛権の問題は、日本という国が対米追従国家であることを露呈した。
いつまでも経済会国でありたいという欲望は、グローバル経済秩序における教義とさえ言える新自由主義を絶対視している。何でも自己責任の“改革”が格差社会を作り、ワーキングプアや失業者を大量に増やすことによって「戦争」をしやすくしている。弱者は強い立場の者にへつらい、より弱い立場の人間を差別することで内心のバランスを保とうするからだ。そして、官僚や企業は政権からおこぼれにあやかろうと忖度し、メディアは権力に飼いな馴らされ社会は集団化し、対米従属を不可侵の大前提としとした帝国主義国家化へと進んでいる。
日本は世界から「働きバチ」といわれ、「ウサギ小屋」といわれ揶揄されてきた。しかし、精神性と勤勉さで「豊かな国」になったのではないのか。国民から搾取したカネを米国に貢ぎ、福祉を切り捨て、決して「豊かな国」になれない日本でいいのだろうか。年間3万人の自殺者は決っして「豊かな国」になりれない日本を象徴しているようだ。カネは人を殺す為に使うのではなく、人を殺さない為に使うべきだ。
トーマス・カーライル は「この国民にしてこの政府あり」というように、私たちは「B層」を生きては行けない。安倍晋三氏は、選挙の演説で反対派に対して「こんな人たち」と発言し、麻生太郎氏は、選挙演説で支援者に対して「下々(しもじも)の皆さん」と発言した。この程度の政治家を生み出しているのも私たち自身である。
自分の存在など、路傍の石ころみたいなものだろう。「右」も「左」も関係ない、自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれないために「下」から「上」を睨み続けていきたい。
ハンナ・アーレントはいう。「思考し続けろ!」と。

(2018年12月7日)

谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~

 杉並区中央図書館で開催している「谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~」を観てきた。

 「どこに行っても谷川さんに会える」をコンセプトに、中央図書館全てをキャンバスとして谷川さんの詩や写真などを展示します。読書に疲れてふと見上げると谷川さんの詩や写真がある。図書館全てが谷川さんの「ことば」(メッセージ)で溢れています。
 また、谷川さんの詩に感動したら谷川さんへの「メッセージカード」にあなたの思いを書いてみよう!特別展示コーナー(1階CDコーナー横)にあるとのこと。(杉並中央図書館HPより)

 谷川さんが詩人としデビューするきっけとなった手書きの2冊の詩集ノートがあるという。
 谷川さんのお父さんが知人であった三好達治氏に、この2冊のノート見てもらい評価されたことによって、出版社に推薦され第1詩集『二十億光年の孤独』の出版に至ったものである。
三好達治氏は『二十億光年の孤独』の「序にかえて」で書いている。

 この若者は
 意外に遠くからやつてきた
 してその遠いどこやらから
 彼は昨日発つてきた 
 十年よりもさらにながい
 一日を彼は旅してきた
 千年の靴を借りもぜず
 彼の踵で踏んできた路のりを何ではかろう
 またその暦を何ではかろう
 (略)
 一九五一年
 穴ぼこだらけの東京に
 若者らしく哀切に
 悲哀に於て快活に
 ——げに快活に思ひあまつた嘆息に
 ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は
 ああこの若者は
 冬のさなかに永らく待たれたものとして
 突忽とはるかな国からやつてきた
 (『二十億光年の孤独』 序にかえて 三好達治より)

 この2冊のノートが現代詩の出発点といっていいかもしれない。そして、穴ぼこだらけの心を解放と安心で満たされた人も多いことだろう。
 この展示でこの2冊のノートと、三好達治氏の「序にかえて」の生原稿が見ることができます。ガラスケースに入っているので実際に手にとることはできないが、「二十億光年の孤独」「新緑」と「雲」「ある世界」が載っているページがそれぞれ開かれている。
 平成30年11月3日(土曜日)から平成31年3月31日(日曜日)まで開催しています。無料ですので、お近くの方は観にいかれたらよいかと思います。

■2冊のノートとは
 ノートは全部で4冊(谷川さんは2冊だと思い込んでいた)あるという。1冊目のノートは「傲岸ナル略歴Ⅰ」には60篇(1949年10月12日〜1950年3月4日)、2冊目のノート「電車での素朴な演説Ⅱ」には56篇(1950年3月6日〜5月9日)、3冊目のノートには80篇(1950年5月10日〜1952年2月23日)の詩が収められている。3冊のノートの詩を合わせると、196篇となる。年度別に見ると、1949年8篇、1950年には、150篇1951年には、35篇、1952年には3篇と、詩の数は高校を卒業した年の1950年が圧倒的に多い。
 この時期の詩で活字になったものは、『二十億光年の孤独』(創元社、1952年)に50篇、「二十億光年の孤独 拾遺」(『日本の詩集17 谷川俊太郎詩集』(角川書店、1972年))21篇、「〈62のソネット〉以前」(『愛について』(東京創元社、1955年))に11篇、『十八歳』(東京書籍、1993年)に62篇、合わせて144篇の詩を私たちは目にすることができる。
 詩には、書いた日が添えられている。制作された日の順に詩を読んでいくと、作品が多い17歳後半から19歳半ばくらいまでの時期は、若い詩人の詩の変化がたどれるように思えるという。
 4冊目のノートはデビュー後の作品が大半で、詩の性格も『62のソネット』につながるもので、谷川さんの運命を変えたノートとして、3冊と考えるのが自然だろう。(『ぼくはこうやつて詩を書いてきた』山田馨より)

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。(『徒然草』)

 詩でなければ伝わらないことがある・・・。
 それを探し続ければたとえ孤独であっても豊かになれる・・・。

(2018年12月2日)

詩人であったテロリスト

 石川啄木は「ココアのひと匙」で、大逆事件で処刑された幸徳秋水たちテロリストの悲しい心情を詠った。

「ココアのひと匙」  石川啄木
われは知る、テロリストの
かなしき心を──
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
奪われたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を──
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

 大逆事件から12年後の大正12年に起きた関東大震災のどさくさに紛れて、社会主義者の虐殺が軍・警察の手で実行され、故意に流されたデマに踊らされて多数の朝鮮人・中国人が犠牲になった。
 アナキストたちがもっとも激昂したのは、大杉栄・伊藤野枝夫妻の虐殺だけでなく、思想的には何も関係ない大杉の甥の橘宗一少年(6歳)が、一緒にいたというだけで締殺された事だ。しかも反抗がバレないように遺体は大杉夫妻とともに古井戸に投げ込まれた。これはおそるべき犯罪行為である。
 その復讐に起ち上がったのがアナキスト中浜哲と古田大次郎が率いるギロチン社と、大杉直系の労働運動社の和田久太郎たちだった。

 人は「この社会を変えよう」と思いつめた時、自分の肉体のみを武器としてテロリストを目指す。自分の目の前で人が苦しんでいて、政府や富豪やら、だれが悪いのかもはっきりしている時、どうしようもなく義憤に駆り立てられる。たいていは弾圧されて、ぶっ殺されるだけだろう。いまの自分の利益を考えたら損するだけだ。でも、それでもいい。ただ一撃でいいから、悪いやつらに鉄槌をくだしたい。そうやって、世のため人のため、身を捨てておのずから動くのだ。

「詩人であったテロリスト」 辺見吉三 (『墓標なきアナキスト像』より)

 アナキズムが、今もなおダイナマイトやピストル、そして暗殺者の黒い恐怖として、人の胸裏に伝説となっているとしたら、それはただアナキストのみのゆえんであろうか。
 明治43年夏、幸徳秋水らは明治天皇暗殺をはかったとしてつぎつぎに逮捕され、翌年1月12名は死刑、12名は無期となった。
 そのとき幸徳らは誰をも殺さず、また傷つけたのではない。さかさまに彼らこそが、天皇制にくびり殺されたのにある。

 大正12年から13年にかけて、違いわゆるアナキストのテロルとよばれる一連の事件が連続しておこった。
 そのテロルとは、合計した結果でも、あやまって1人の老人をころし、わずかに2人にかすかな負傷をおわせただけのものにすぎない。しかも天皇制政府は、それへの見返りとして数十人をとらえ、数十人を獄死させ、あるいは死刑に処したのである。
 そして政府はそれらの内容の漏洩をまず記事差し止めで防ぎ、ついで理不尽な処刑にふさわしくデッチあげ、全く一方的に潤色して発表したのにあった。
 このようにして、アナキズムの歴史がテロルの血によって書かれている、と人々というならば、その血は、天皇制政府によって流されたアナキストのものであること、テロルの黒い伝説は、アナキストに対しての天皇制そのものにこそ、与えられねばならぬことが明らかだろう。
 だが、それはもちろん、アナキストが、他の誰よりも目立って、天皇制への反逆者であったことを意味している。
 しかしまた天皇制絶対状況のもとでの、ことに〈大逆〉は、それ自体として存在しえないもの、または〈死〉にほかならなかった。
 それゆえにアナキストたちが——日々の〈生〉が〈生そのものとして死化している〉日常において、自己の〈生の死化〉を認めつつなお闘おうとするとき、おのれの内面を今まで支えた確たるもの——〈志〉あるいはアナキズムの喪失をしらなければならなかった。
 またその〈志〉の喪失感の深さは、その深刻さに比例した自己処罰のニヒリズムとして、彼らをはげしく衝ききゆるがすものであった。
 それゆえ彼らが、〈大逆人〉の位置にみずからを捉え、自己を律することでおのれの〈生〉を絶対化しようとしたとき、うかびあがってきた〈死〉は、〈生〉そのものとしての〈志〉の復活であった。
 しかしそれは古田の手記にある「死と結婚した」人間の「死と握手している寂寥やる方なき心をば、深く胸中に蔵した時のみ得られる」という——〈生〉のアナキズムから転生した〈死〉テロリズムへの——〈志〉にほかならなかった。
 このようにみるとき中浜鉄、古田大次郎、後藤廉太郎、和田久太郎、村木源次郎……と彼らのほとんどが詩人であったことは、また偶然ではない。
 彼らにとって、〈死〉はまた〈詩〉の極致でもあった。
 そしてテロルが〈詩〉とむすびつくのは、生の跳躍としての自己投企において、〈死〉を貫徹させること、その〈死〉的燃焼の完結性——完璧性としてである(その故に、中浜や和田は無期をでなく、裁判でも死刑をあのように望んだのでだった)。
 このようにして彼らが、その最後の〈死〉において表現したものは、それそのものとしての〈志〉であり、また〈詩〉であった。
 いいかえれば〈死〉によってしかあらわすことのできない、それは〈志〉であり、〈詩〉なのであった。
 もはやそれそのものが目的となった〈詩〉あることによって〈志〉の、はげしくうつくしい〈死〉であった。

 チェ・ゲバラが語ったなかで好きな言葉がある。
ラテンアメリカ革命のための山岳ゲリラ戦で、山の中を追われて逃げている時、撃たれてもう動けなくなってしまった仲間が「足手まといだから自分をここに置いていってくれ」と言ったら、ゲバラは「お前さんを釣連れて一緒に行くのが革命のポエムだ」と言ったという。ただ足でまといだからというのでどこかに収容するのではなく、それを一緒に背負っていくことが人間的な社会を象徴する、革命というのはそういうことだと思う。

 大杉栄は喝破した。「国家がやっていることは、暴力をつかって人びとを生きのびさせることである。ただ生存のために生きさせること、それ以上の生きかたを認めないこと。キーワードは奴隷根性であり生の負債化だ。人びとは、負い目をせおわされることによって、特定の尺度をうけいれ、こうやって生きるべきだと思わされる。まわりの評価を気にして生きること。もっと評価されようとして、他人と競い合うこと。それは、奴隷が主人によろこんでもらおうと、四つんばいになってしまう」というようなものだと。

「むだ花」 大杉栄
生は永久の闘いである
自然との闘い、社会との闘い、
他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社会力に屈服した生のあきらめ、
かくして生の闘いを回避した
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
芸術がそれだ。

 闘うとは「ポエム」なのだ。
 生きるとは「ポエム」なのだ。

(2018年12月1日)

石牟礼道子さんへ② 「問い」

 想像してみよう。
 「自分の住む町に大きな工場があり、もくもく煙を吐いている。ある日突然猫がよだれをたらし、激しく痙攣して海へ飛び込み、鳥が空から落ち、近所に住んでいる人たちが狂ったようになり奇声を発して次々に死にはじめる。両親も、子どもも狂死する。何とか生き残った住民たちはその侵害された身体を引きずりながらも、工場に排煙を止めるよう要求し国や県に訴える。工場は因果関係の証明がないとして訴えを拒否し、国も県も何の対策もとらない。むろん、住民たちの抗議の暴動が起こる。だが、警察は被害者を逮捕する。被害者は周辺の住民たちから徹底的に差別され続ける」ということを。
 これが映画でも小説の世界ではなく、今から60年前に日本の水俣で起きた現実の出来事である。

水俣病とは何だったのか?

 水俣病事件とはジェノサイド(大量殺害)だ。アウシュヴィッツが陸のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空のジェノサイドだったとすれば、ミナマタは海のジェノサイドである。ジェノサイドの本質とは、国家と産業の発展を優先させ、生命の尊重や人間の尊厳を二の次とする倒錯した政治にほかならない。
 戦後日本の急速な高度成長は、チッソ(当時は新日本窒素肥料)の生産したアセドアルデヒドなしでは達成できず高度成長のためには、つまり「豊かさ」を追求するには、有機水銀を海にたれ流してもアセドアルデヒドの増産を中断することなく続ける必要があり、政府もそれを黙認した。それは一部の人間を犠牲にしてでも「豊か」になる社会システムだった。

「豊かさ」とは何なのか?

 現代社会の支配的な価値観である効率主義や物質主義は、家族やコミュニティーをバラバラにひき離し、友情を忘れさせ、人びとが共有する未来について、あるいは自然とともに生きる人間の生き方について、考える時間を奪い去ってしまった。
 もともと経済活動は、人間を飢えや病苦や長時間労働から解放するためのものであった。経済が発展すればするほど、ゆとりある福祉社会が実現されるはずであった。しかし、日本は金持ちになればなるほど逆である。人びとはさらに追い立てられ、自然はなおも破壊されていく。
 効率を競う社会制度は、個人の行動と連鎖的に反応しあっているから、やがて生活も教育も福祉も経済価値を求める効率社会の歯車に巻き込まれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るため利己的にならざるを得ないから、人間は意地悪になったり欲張りになり、弱者をかばうこともなくなり、万人は万人の敵となり、自分を守る力はカネとモノだけになる。

自らの「問い」を生きていきたい。

 「豊か」になる社会システムでは、政治家が寄生している企業があり、その企業は人権や自然を破壊してまで利益を追求する。企業には従業員がいて、消費者が存在する。自分自身やあなたがその従業員であり、消費者の一人なのである。水俣病事件は利己的な醜い自分自身を深々と映し出した。「豊かさ」の影で弱者が犠牲になるシステムに加担しないために、体現者たちの声を聞き、この時代に生まれた者として自らの「問い」を生きていきたい。

■緒方正人の「問い」
 水俣病被害者で水俣病患者運動のリーダーだった緒方正人さんは「チッソは私であった」と語った。
「チッソとは何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり便利なモノであったり、いわば「豊かさ」に駆り立てられた時代であるわけですけれども、私たち自分の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。
 この40年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスティックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にたくさんあるわけです。水道のパイぷに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけど、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」と求めたこの社会は、私たち自身ではなかったか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかというころが、大きな問いとしてあるように思います。」と自ら「問い」て、人として生きたい。一人の「個」に帰りたいという。

■原田正純の「問い」
 水俣病に一生をかけて向き合った原田正純医師は、「水俣病の臨床的な研究をすることとなり、水俣を訪れたのが水俣病との出会いであったと。その最初の経験では、東京の豊かさと水俣の悲劇と貧しさの落差に愕然とした、治らない病気を前にして医者に何ができるか、何をすべきか」という患者からの深い問いかけに直面することとなった。医師と患者の関係は単に「治してあげる、治してくださいでしかないのか」と自らを「問い」た。無力である自分を突きつけられ、逃げず水俣病につきあうことを選択したという。そして「人類は、自然界には存在しない科学物質を開発し、気がついてみれば、私たちの周りには化学物質によって取り囲まれてしまっている。人間はどんでもない過ちを犯そうとしているのではないか。人類はもうこれ以上、何をどう便利に、豊かにしようというのだろうか。しかも、その恩恵に浴しているのは一部の人間だけである」と世界各地で公害病の調査研修をした、第一人者が強く批判している。

■山内豊德の「問い」
 環境庁企画調整局長だった山内豊德さんは、水俣病認定訴訟において、国側の担当者となり、被害者側との和解を拒否し続ける立場にあったが、人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み、1990年12月5日に自殺した。
 山内豊德さんは、東京大学法学部を卒業して厚生省に入省した。中学生の時に骨髄炎にかかり身体はあまり丈夫でなかった。経済的には恵まれており、成績も抜群で、まさにエリート中のエリートではあった。しかし、生い立ちもふくめ、家庭的な愛情にはあまり恵まれて育たなかったため、社会的な弱者救済を設けられた厚生省を選んだという。
 厚生省で福祉課長をしていた時代には、「人間はね、人を愛するという気持ちがなかったら人間じゃないよ・・・・。これは福祉に限ったことじゃない。行政に携わるすべての人間の基本は人を愛するという気持ちを持つことだよ」、「相手の心を汲み取って人に対処するようにしないといけない。自分の立場だけで判断していちゃ福祉の仕事は駄目だよ」と部下に語っていたという。
 文学志向でもあったという山内豊德さんの15歳の時の詩がある。

【しかし】 山内豊德
しかし‥‥‥と
この言葉は
絶えず私の胸の中でつぶやかれて
今まで、私の心のたった一つの拠り所だった
私の生命は、情熱は
このことばがあったらこそ‥‥‥
私の自信はこのことばだった
けれども、
この頃この古葉が聞こえない

胸の中で大木が倒れたように
この言葉はいつの間にか消え去った
しかし‥‥‥と

もうこの言葉は聞こえない
しかし‥‥‥
しかし‥‥‥
何度もつぶやいてみるが
あのかがやかしい意欲、
あのはれやかな情熱は
もう消えてしまった

「しかし‥‥‥」と
人々にむかって
たゞ一人佇んでいながら
夕陽がまさに落ちようとしていても
力強く叫べたあの自信を
そうだ
私にもう一度返してくれ。

 人は年齢を重ねていくにつれ、人は「しかし」という言葉を自分の中から失っていく。そして、その言葉を「だけど‥‥‥」という言い訳の言葉に変えながら生きていく。山内さんはそれが許せなかったのかも知れない。「しかし」と言えなくなった53歳の自分を、15歳の自分によって裁いてしまったのでないか。“もう一度返してくれ”という山内の叫びは、自分に向けてのものだったのか。「だけど」という時代へ向けてのものだったのか。
 山内豊德さんは、加害者なのか被害者なのか。
 福祉にとっての理想主義が経済優先の現実主義に圧倒されていく、その下降線の時代を山内さんは必死で生きようとしたのだと思う。高級官僚としてその下降に立ち会ったと責任においては彼はやはり加害者側の人間だったと言わざるを得ないし、又同時に時代の被害者だったとも言えるような気がする。彼はそのふたつのベクトルに引き裂かれながらアイデンティティの「二重性」を生きたのだろうと思う。少なくとも彼は自らの加害者性というものを痛みとともに鋭く認識していたはずである。それは彼が出した結論からも推測できる。しかし、これは彼に限ったことではなく、今という時代にこの日本という国で生きていくということは否応なくこの「二重性」を背負わざるを得ないということを意味している。ただ多くの人はこの内なる加害者性と向き合うことが辛くて、眼をそらしているに過ぎない。
 この「二重性」を生きているという自覚こそが、そして開き直るのではなく、そこから出発する覚悟が私たちに求められている。そして、その辛い自己認識から眼をそらすことなく、私たちはその「二重性」と向き合う態度を身につけ、覚悟を持って生きなければならない。

 被害者は苦しみながらも日本の未来に向かって自らを「問い」た。そして、多くの人間たちが水俣病から逃げずに寄り添い続けた。
 しかし、加害者側の人間たちは自らの「問い」を生きていたのだろうか。チッソや行政の多くの人間たちは、有機水銀を海にたれ流していたことは知っていたはずだ。ジェノサイドとはナチスのアウシュヴィッツがそうだったように、決して悪魔のような人間が行うのではなく、普通の人間が自己保身のために行うものだ。アンブロース・ピアスの『悪魔の辞典』によれば、「会社」とは「個人が利益を得ながらも、個人的にいかなる責任も負わないで済むための巧妙な仕組み」というが、チッソや行政の人間が一人でも見てみぬフリをせずに早い段階で反対の声を発していたなら、ここまで被害が拡大することはなかっただろう。

水俣病は終わっていない

 企業の責任は法的には明らかにされたが、企業の裏にある国や行政の責任が今なお明確にされていない。今までに一度も不知火海一帯の人たちへの健康調査すら実施しておらず、健康破壊の実態はわからないままだ。いじめが怖くて隠している人、チッソに気をつかってきた人、病気を我慢している人など、さまざま理由で取り残され苦しんでいる人たちがたくさんいいて、被害者救済は決してうまくいっていないのが現状だ。そうしたなかで、すでに多くの人が亡くなってしまった。
 国や行政の責任が明確になり、すべての被害者が救済され、人間が差別されず自然と共生する地域社会を創造するまで、水俣病事件は終わることはない。
 日本人は歴史に学ばない、歴史の教訓を生かさない。振り返らない。検証しない。後悔しない。反省しない。悩まない。やっぱり3.11の福島原発事故でも同じ過ちをくりかえした。不誠実な情報提供、責任の不追求、なし崩しの政策回帰、すべての生き物と自然の破壊。そして東電の経営者は現状の体制を維持すると決め、株主もたま原発の維持を承認した。これらすべてはこの国が水俣病事件から本質的に何も学んでいないという事実を突きつけている。歴史は繰り返す、という言葉をこれほどに再現した例は稀有だろう。
 何よりも深刻なのは、子どもたちの健康被害だ。水俣病事件では、チッソが有機水銀をたれ流していた当時の子どもたちが今苦しんでいる。子どもたちの人権が守られなかったのが水俣病事件であり、国の論理では個人は守られないと証明されたのが水俣病事件である。
 どうして、この国は「人を人と思わなくなってしまった」のだろう。子どもたちを守れないこの国に未来はない。そして、壊した自然は二度と元には戻ることはない。この国が辿り着く先には「豊かさ」という言葉だけが虚しく響くだけだろう。

 決して忘れてはいけない言葉がある。
 原田正純医師の「公害が起こって差別が生まれるのではなく、差別のあるところに公害が起きる」という言葉である。そして、「差別は必ず強い者から弱い者へと向けられていく」ということも。
 水俣病は1956年4月、総合病院に狂躁状態を呈した5歳の少女、田中静子さんがかつぎこまれたことが始まりだ。そして、8日後には3歳下の妹、実子さんも同じ症状で入院した。
 この姉妹の姉の下田綾子さんの手記によると「私の家は、チッソの排水口に近い水俣湾の坪谷にあって、すぐ下が海になっているんです。潮が満ちてきたら家から魚が釣れるぐらいです。上の妹の静子は当時5歳で、下の実子は3歳でした。静子はうちの中でも一番明るい子でした。近所の人が通れば、お茶も沸いていないのに「おじさん、お茶が沸いとるから飲んで行かんな」なんていうて人を寄らせていたんです。実子はいっつも「静子ねえちゃん、静子ねえちゃん」ちいって静子のあとをついてまわっていました。2人には海岸が遊び場、運動場だったんですよ。貝とかビナ(巻き貝)を採るのが好きで、船をつなぐ波止場に小さなカキがいっぱいつくんですけど、潮が引くと、すぐ二人で弁当箱とカキ打ちを持って行くんです。静子は上手だったから、2人分ぐらいはすぐ採って、実子にも食べさせていました。カキとかカラス貝なんかも毎日、味噌汁にして食べてました。いま考えれば、毒が入ったのを「美味しい、美味しい」ちいうて食べていたんですね。静子も実子もやっぱり魚は一番好きでしたから、たくさん食べていたんです。
(途中略)
 熊大の病院に3年間入院してたんですが、脊髄から水を採ったときの怖さが頭にこびりついとったんでしょうか、ずっと目も見えないままで、ものもいえないし、手も足も曲がってしまって、身体もエビが曲がったようにしとったんです。そして昼も夜もずっと泣いて、泣きつづけて亡くなったんです。話せば淡々としてしまうんですけど、静子は本当に苦しんで死んだんです。口ではいえないくらしです。今日、熊本大学に保存してあった静子の脳の標本を初めて見ましてね、ひどく小さくなっていましたから無理もなかったんだなと思って、残念でたまりません」と無念さを語った。
 静子さんは、病院にかつぎこまれてから3年後の1959年1月2日に亡くなった。実子さんは24時間、ヘルパーの介助を受けながら、水俣病の症状のある姉の綾子さん夫婦と一緒に暮らしている。

 想像してみよう。
 大人たちが有機水銀をたれ流した海で、何もしらない3歳と5歳の幼い姉妹が貝を採ってる姿を・・・。

参考文献
『証言水俣病』栗原彬 岩波新書
『水俣病は終わっていない』原田正純 岩波新書
『チッソは私であった』緒方正人 葦書房
『雲は答えなかった』是枝裕和 PHP研究所

(2018年11月24日)

辻征夫の「電車と霙の雑木林」を読む

「電車と霙の雑木林」 辻征夫

霙の雑木林のはずれを
電車が通過して行きました
いくたりかの乗客がいましたが
窓に顔をおしつけて
霙の雑木林を眺めていたのは
子供のときのわたくしです

子供は
冬枯れの景色を覚えていて
作文を書きました―
霙の
雑木林に
背の高いひとがいて
ぼくを見ていた
くぬぎ
けやき
いぬしで
うつぎ
こぶし
やまざくら
霙の雑木林で
そのひとは
電車の中のぼくを見ていた
傘をさして
黒いコートで

霙の雑木林のはずれを
電車がガタビシ通過して行きましたが
あの小さな乗客が
ここに来るまで
およそ四十年かかるというのは
気のとおくなるはなしです
いくつかの都市と
学校と
いくつかのこころの地獄を
なんとか通過してくるのですが


 
静かな夜だ。
小さな灯りに映った自分の影を視ていると、時空を超えて古い時間の自分と出会えるようだ。
私たちは、私ちのまわりの世界と対話することはできない。
すべての物の存在には意味はないからだ。
そもそも、私ちがそれぞれ「この私」であることにすら何の意味もないのである。
だからこそ、日常を超えて時空も超えて、古い時間の自分と対話するのである。
それでも生きていけるのは、くぬぎ、けやきの繁る暗い森に、こぼれ日が射す明日があるからだ。
自分の中の何かだけが時空を超えて、ただここに存在している。
静かな夜だ。

(2018年9月25日)