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地球の寝床

 反差別、反偏見、反貧困、反戦争、反原発・・・。
 悪夢を喰いながら詩を書き続けたのが、山之口貘(1903~1963)という貧乏詩人のポエジーだ。

「座蒲団」  山之口貘
土の上には床(ゆか)がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

 貘さんの詩法の最も優れた特徴は「反転」の鮮やかさにある。ユーモア、アイロニー、ペーソスといったような貘さんの詩について述べられる評価のすべてはこの「反転」によって生まれてきたものだと言っていい。この「反転」はどこから出てきたかというと、それは「ない」ことの認識をめぐって生まれてきたものだ。「ない」状態を際立たせるための最大の戦略としてそれはあったし、「ない」ことをめぐる「思辨」が生み出した方法であったのである。
 ペーソスやペシミスティックに「ない」ことを語るのは誰にでも出来るだろう。しかし、生き様が反映されていない言葉はウソっぽいものである。貘さんの言葉とは、すべて身体を通して出てきたものであり、生き様そのものである。
 19歳で沖縄から東京に出てきた貘さんは、定職を得られず、昼間は喫茶店に入りびたり、夜は土管にもぐって寝たり、公園や駅のベンチ、キャバレーのボイラー室等折り折りの仮住まいの生活で、初上京の日から16年間、畳の上に寝たことはなかった。こうした放浪生活の中で詩を書き続けたのだ。

「生活の柄」 山之口貘
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねれむれない

 貘さんは40年間の詩人生活で『思辨の苑』『山之口貘詩集』『定本 山之口貘詩集』のわずか3冊の詩集しか刊行していない。短い詩一篇を生み出すために、200枚、300枚の原稿用紙を書きつぶしてしまうほどの「推敲の鬼」と言われるほどだ。こんな逸話もあるという。苦労して書きためた詩も相当数になり、それらをまとめて処女詩集を刊行する運びになった。そこで貘さんは佐藤春夫氏に序文を書いてもらった。佐藤氏はその序文の末尾に「1933年12月28日夜」と日付を記した。ところが、実際に詩集が刊行されたのは1938年。序文をもらったあと、なお推敲に推敲を重ねるうち、5年の歳月が流れてしまったのである。
 獏さんを知っていた人たちは、みんな声をそろえて、獏さんのことを「精神の貴族」だといい、貧乏だったからこそ「よい詩」が書けたのだという。中野孝次氏は『清貧の思想』という著書で、金銭欲と所有欲が支配する現代社会に対して、芭蕉、良寛など日本の文化人たちが追求した文化の伝統を「清貧」を尊ぶ思想として論じた。その思想は、脱金銭、脱所有の生活態度に徹することによって、精神の自由を確保し、富裕や権勢や栄達以外に重要なものがあることを発見しようとするものであって、宇宙と自然の中に人間の魂や生命そのものの充足を図るというものであるという。獏さんは「地球市民」として「清貧」を生きたからこそ詩が生まれたのだ。
 「地球市民」とは、人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、誰もが地球社会の一員であり、人として尊重される社会の実現を目指そうとする思想の事である。

「僕の詩」 山之口貘
僕の詩をみて
女が言つた

ずゐぶん地球がお好きとみえる

なるほど
僕の詩 ながめてゐると
五つも六つも地球がころんでくる

さうして女に
僕は言つた

世間はひとつの地球で間に合つても
ひとつばかりの地球では
僕の世界が広すぎる。

 「地球市民」である獏さんの詩には「地球」という言葉が多く使われている。
 見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いている 「襤褸は寝てゐる」、地球の頭にばかりすがつている 「思弁」、ほんの地球のあるその一寸の間 「数学」、地球を食つても足りなくなるなつたらそのときは 「食ひそこなつた僕」、地球の上でマンネリズムがもんどりうつている 「マンネリズムの原因」、死んだら最後だ地球が崩れても 「生きてゐる位置」、まるい地球をながめてゐるのである 「夜」、まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら 僕の足首が痛み出した みると、地球がぶらさがつてゐる 「夜景」、次第に地球を傾けてゐるのをかんじるのである 「立ち往生」、青みかかつたまるい地球を 「頭をかかえる宇宙人」、地球の上を生きているのだ 「羊」、地球の上はみんな鮪なのだ 「鮪に鰯」、地球の上で生きるのとおなじみたいで 「告別式」、ぼくのうまれは地球なのだが 「がじまるの木」、地球をどこかへ さらって行きたいじゃないか 「船」、九月一日の 地球がゆれていた 「その日その時」、琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ 「沖縄よどこへいく」、まっすぐに地球を踏みしめたのだ 「親子」
 一昨年の夏、東海道を180KM歩いたが都市空間に限らずローカルな空間にも自販機やコンビニは至る所にあるのに、ところ構わず寝られる場所など一つもなく「○○禁止」の標識だらけだった。公園や空き地は徹底的に管理され、寝ればすぐに警察に通報された事だろう。むしろ人間は管理されたがっているようも感じた。近代化は何を豊かにしたのだろう。ところ構わず寝られる場所を奪い、人間の寛容さを奪い、多くの動植物が絶滅させ、山之口貘的詩人も絶滅危惧種である。ホーキング博士は、人類がこのまま二酸化炭素を排出し続けるならば温暖化により、あと100年で地球は終了すると警告したが、もうすぐ人間も絶滅危惧種の仲間入りするかもしれない。

「雲の上」 山之口貘
たった一つの地球なのに
いろんな文明がひしめき合い
寄ってたかって血染めにしては
つまらぬ灰などをふりまいているのだが
自然の意志に逆らってまでも
自滅を企てるのが文明なのか
なにしろ数ある国なので
もしも一つの地球に異議があるならば
国の数でもなくする仕組みの
はだかみたいな普遍の思想を発明し
あめりかでもなければ
それんでもない
にっぽんでもなければどこでもなくて
どこの国もが互に肌をすり寄せて
地球を抱いて生きるのだ
なにしろ地球がたった一つなのだ
もしも生きるには邪魔なほど
数ある国に異議があるならば
生きる道を拓くのが文明で
地球に替るそれぞれの自然を発明し
夜ともなれば月や星みたいに
あれがにっぽん
それがそれん
こっちがあめりかという風にだ
宇宙のどこからでも指さされては
まばたきしたり
照ったりするのだ
いかにも宇宙の主みたいなことを云い
かれはそこで腰をあげたのだが
もういちど下をのぞいてから
かぶった灰をはたきながら
雲を踏んで行ったのだ

(2020年6月24日)

津村信夫 伝

 津村信夫(1909年1月5日〜1944年6月27日)は北欧的詩情への憧憬から出発したが、しだいに質朴な生活を志向し、さらに身辺に取材する平明な叙情へと展開した。戸隠の自然と家族を愛した津村信夫はまた、生涯の師と仰いだ室生犀星や「四季」の面々からも愛されたが、3冊の詩集を残し、アディスン氏病により35歳の生涯を閉じた。

第1詩集『愛する神の歌』
昭和10年11月25日 自費出版(限定版400部/四季出版発行)

 『愛する神の歌』所収の作品は、全64編。それらは昭和6年5月から、同10年11月まで4か年半ばかりの間に発表された作品群である。昭和2年4月に慶応義塾大学経済学部予科に入学し、10年3月に同学部を卒業すると、ただちに東京海上火災保険会社に勤務した。そして昭和13年夏に同社を退くまで、3か年余りをサラリーマンとして過ごしている。従ってこれらの作品群は、慶大在学中の約4か年と、約半年のサラリーマン生活とにまたがる、4か年半程の間の所産というわけになる。しかもその全64編のうち、社会人になってから発表した詩は12編にすぎないから、大半は大学時代の作品といえるのである。
 『愛する神の歌』の題名は、集中の作品の表題によったものであるが、そもそもこれにはリルケ著『愛する神の話』の題名が投影しているのであろう。そして、津村信夫にとって〈愛する神〉とは、姉(道子、昭和8年7月15日没)であり、また恋人ちであって、津村信夫はそうした愛する神たちへのこの1巻を捧げたのであった。
 集中の作品は、すべて既発表のものである。そのうち〈馬小屋で雨を待つ間〉章に収められている初期(昭和6年~8年春)の作品群の主たる発表機関は、「三田文学」「あかでもす」「四人」さらに「文学」(「詩と詩論」改題)の4詩である。そして津村信夫はすでにこの初期に、「セルパン」(昭和7年10月)、「国民新聞」(昭和8年3月)などの商雑誌にも登場していた。次いで「四季」の創刊される昭和9年10月までの間には、「セルパン」「帝国大学新聞」「文芸」「舗道」「作品」「世紀」「苑」「鷭」などが舞台になっていた。
 「四季」には、創刊号に「生涯の歌」(〈石像の歌〉章)を携えて登場するが、以後は「四季」を拠点とし、さらに「青い花」「コギト」「芸術科」「改造」「短歌研究」なども舞台として、いっそう広範な活動を展開しようという勢いを示す。――そんな折に、処女詩集『愛する神の歌』は刊行された。つまり津村信夫は処女詩集の出現以前に、すでに詩壇・文壇の人になっていて、その刊行は津村信夫の存在を一段とめざましいものにし、然からしめたといえよう。

「小扇」 津村信夫
  ――嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に――

指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

※「ミルキイ・ウエイ」とは、津村信夫が父秀松の親友の令嬢(内池省子)に命名した渾名。昭和6年春に知り合い、その夏をともに軽井沢で過ごしたが、彼女は翌7年に他家に嫁いだ。

第2詩集『父のゐる庭』
昭和17年11月20日 臼井書房

 『父のゐる庭』所収の作品は、全33編。それらは昭和11年1月から、同17年4月まで6か年半ばかりの間に発表された作品群である。その間は津村信夫の28歳から34歳まで、――つまり青年期から壮年期への移り行きの時期に当たっている。
 津村信夫はその過程の中で、さまざまな人生経験を味わう。まず昭和11年12月に恋人昌子と結婚し、やがて1児をもうける(昭和16年5月に長女初枝誕生)。また、昭和13年夏には東京海上火災を退職し、3か年余りにわたったサラリーマン生活に終止符をうち、おのれの方途を文筆生活の一点にしぼる。そんな懸命の賭けを試みた矢先の昭和14年12月に、彼の保護者であり、また師表でもあった父の死に遭遇するのである。
 津村信夫の懸命の賭けには、当然文筆生活による自活の企図がふくまれていたであろう。とすれば、詩から散文へという道行きが、自然に求められていたと思われる。昭和15年10月刊行の『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて発行)は、そうした行程の最初の収穫とみられる。
 『戸隠の絵本』で、津村信夫はみずから〈叙情日誌〉と称する説話体のロマンの様式を創出するが、一方でまた津村信夫なりに本格的な小説の制作にはげんでもいた。とにかく津村信夫は生活者としても、文学者としても、ようやくけわしい転機を迎えつつあったのである。しかも世情は、日中戦争から太平洋戦争へと険悪の一路をひた走っていた。
 昭和16年7月、津村信夫は追われるようにして東京から鎌倉の仮寓に移ると、戦時下の徴用を忌避し、横浜市の日産自動車会社内青年学校に教師として勤務することになった。そのため、それまで指揮をとっていた「四季」の編集実務を後進にゆだねる。
 事態はもはや、美神への奉仕に専念することを津村信夫に許容しないまでに逼迫していたのである。この詩集の中で、津村信夫は〈不自由〉とか〈不器用〉とかいうことばをしばしば用いているが、それがそんな迷路にはまりこんだ津村信夫の、やり場のない嘆声とも聞きなされる。
 この詩集の詩風は、『愛する神の歌』のそれに比して、かなり変貌をとげている。津村信夫はすでに『愛する神の歌』の後期あたりから、人生派・生活派ふうな傾向を示しはじめ、表現の華麗さや感覚の鋭利さより、静かな知性・悟性を尊ぶようになっていた。その傾向はこの詩集において、はっきり表面に出る。用語・表記の上でも簡素化が目立つのであるが、それは句続点の全面的な排除という措置に最も端的に認められるのであろう。そしてこの措置は、次の第3詩集『或る遍歴から』においても、そのままひきつがれる。
 この詩集の題名は、〈その三〉の中にある「父が庭にゐる歌」という詩の表題にちなむもの。〈あとがき〉でもしるしているように、津村信夫はこの詩集を「私の心を育ぐくんでくれたもの(父)を記念」すべく編んだのだが、かたがた壮年期の展望に立ったおのれのための、一里塚ともするつもりだったのであろう。

「父が庭にゐる歌」 津村信夫
父を喪つた冬が
あの冬の寒さが
また 私に還つてくる

父の書齋を片づけて
大きな寫眞を飾つた
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあつたが
ポケツトの
紛悦(ハンカチ)は
そのまゝにして置いた

在りし日
好んで植ゑた椿の幾株が
あへなくなつた
心に空虚(うつろ)な
部分がある
いつまでも殘つている

そう云つて話す 兄の聲に
私ははつとする程だ
父の聲だ――
そつくり
父の聲が話してゐる
私が驚くと
兄も驚いて 私の顏を見る

木屑と 星と
枯葉を吹く風音がする
暖爐の中でも鳴つてゐる

燈がともる
云ひ合せたやうに
私達兄弟は庭の方に目をやる
(さうだ いつもこの時刻だつた)
あの年の冬の寒さが
今 庭の落葉を
靜かに踏んでくる

第3詩集『或る遍歴から』(「新詩叢書」の第15巻)
昭和19年2月15日 湯川弘文社

 『或る遍歴から』は、津村信夫の死に先立つ4か月前に刊行されたもので、津村信夫は「若年の日の歌に、今日の詩をまじへて」(〈あとがき〉)これを編んだ。全体は、〈その一〉〈その二〉〈その三〉3章から成り、作品の総数は77編。
 〈その一〉は、第1詩集『愛する神の歌』のアンソロジーで、原著の64編のうちから27編を抄出し、さらに当時発表された2編を新たに組み入れている。それらはまさに、津村信夫のいう「若年の日の歌」にあたる。
 〈その二〉は、いわば〈羈旅編〉で、主として津村信夫の愛した信濃路の旅の日々に取材した作品、21編から成る。そのうち5編は、『愛する神の歌』からのものであるが、他は新収録の作品で、その制作時期は『父のゐる庭』のそれとほぼ重なる。つまりこの章では、「若年の日の歌」「今日の詩」が混然と配列されているわけになる(なお、この詩集には『父のゐる庭』からの作品は、まったくとられていない。同書と雁行してこの詩集が刊行されることを顧慮してあえて抄出を見送ったのであろう)。
 〈その三〉は、新収録の作品ばかりの27編。その制作時期は前章と同じく、ほぼ『父のゐる庭』のそれ重なるが、前章に1編しかみられなかった最新の昭和17年度の作品が5編加わっていて、それらが津村信夫の精神史・生活史に即して配列されている。つまりこの章はこの詩集の最も新しい、ハイーライトをなす部分といえよう。
 津村信夫がこの詩集で編んだのは、昭和17年7、8月の炎暑下のころである。当時の津村信夫にはアディスン氏病の予兆があったらしく、そんな病患と対峙しながら選定に励んだ痛ましい心事は、〈あとがき〉の文章がよく伝えている。津村信夫はこの年の春に『父のゐる庭』をまとめているので、たてつづけに2冊の詩集を編んだわけになる。両方詩集の刊行日付には1年余の開きがあるものの、その編さんは一気にされたのだった。
 この詩集の題名には昭和13年4月に発表された「或る遍歴から」という詩の表題に基づくものであろう。ただし、その詩はこの詩集の中には採られていない。ともあれ津村信夫はこの詩集で、1人の詩人の遍歴の跡を追おうとしたのである。
 簡素・純朴な詩風は、この詩集おいてきわまったといえよう。前詩集同様に、句続点はこの詩集でもほとんど除去されていて、そのために『愛する神の歌』から抄出した作品のごときは、様相が一変した印象さえうけるほどである。

「戸かくし姫」  津村信夫
山は鋸の歯の形
冬になれば 人は往かず
峯の風に 屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ
「そんなに こうこうつて鳴りますか」
私の問ひに
娘は皓い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」
初冬の山は 不開(あけず)の間
峯吹く風をききながら
不開(あけず)の間では
坊の娘がお茶をたててゐる
二十(はたち)を越すと早いものと
娘は年齢を云はなかった
『津村信夫全集』(角川書店)より

(2020年5月9日)

岡崎里美とロックの時代

 “Happy birthday to rimi” の声が聞こえる。
 2020年3月31日、ウェブサイト「岡崎里美の世界」が更新された。岡崎里美さんとは、1971年7月30日に大好きなビートルズを聴きながら、たった一人で逝ってしまった17歳の少女の事だ。

 壊れた時計が古い時間を刻むように、1970年代を想い出す。
 1960年代半ばから1970年代に入った頃は若者の時代だった。「DON’T TRUST OVER THIRTY !(30歳を超えた人間は信じるな)」と若者は口にした。若者が創る世界が大きな力となって、世界が変わっていくと誰もが本気で思っていた。若者であることだけに意味があり、自分たちが大人になるなんて思ってもみなかった。そんな時代に、ジミ・ヘンドリックスが26歳、ジャニス・ジョップリンが27歳、ジム・モリソンが27歳で死んだ。ビートルズはジョン・レノン29歳、ポール・マッカートニー27歳、リンゴ・スターが29歳、ジョージ・ハリスンは27歳の時に解散した。そして、ロックは形遺化し、一つの若者の時代は刹那的に終わった。
 1970年代に入ると、大量生産、大量消費の時代に突入し、ロックは産業として飛躍的な成長を遂げることによってレコードが売れていった。娯楽性が強められ、テクノロジーを駆使した仕掛けが聴衆の目を奪い、華やかなコンサートが多くなっていった。そして、ミュージシャンとファンの関係から、マーケットと消費者の関係になっていった。社会の中では、男女間や家族間の関係にせよ、人間関係の在り方にせよ、様々な形で意識の変革を強いることになっていった。若者たちの誰もが「未来に対する希望」を抱く反面、「自分を消し去りたいという暗い欲望」を同時に抱えていた。地に足をつけようと思っている。でも見つめているのは遠景。遠く明るく空の彼方を純粋に見つめているばかりであった。それは、足元を見たとたんに、何も変わっていない土俗的な世界に強い絶望感を抱くからだ。美しく遠い希望と現実と自己への絶望、この落差が1970年代の空気の基調だった。里美さんは、そんな若者の一人であっただろう、あまりにも遠くの未来を見つめすぎてしまったのかもしれない。
 里美さんが最後に聴いていたのが、ビートルズが1969年にリリースした『Abbey Road』というアルバムだった。その中に「The End」という曲がある。

ビートルズ 「The End」(1969年)

Oh yeah! alright ! (ああ わかったよ )
Are you gonna be in my dreams tonight (今夜 僕の夢にやって来てくれ)
Love you, love you, love you… (君を愛してる…愛してる…愛してる… )
And in the end the love you take (結局はね 君が貰ってる愛は )
Is equal to the love you make (君がくれる愛と同じくらいなのさ)

 「人に「愛」を与えれば、人から同じだけ「愛」を貰う事が出来る」というビートルズが最後に残したメッセージだ。そして、ジミ・ヘンドリックスは「愛の力が権力愛に打ち勝ったとき、世界は平和を知る」と語り、ジャニス・ジョップリンは「あなたはあなたが妥協したものになる(自分を幸福にしないものを受け入れるべきでない)」と語った。『カッコーの巣の上で』の著者のケン・キージーは「ビートルズがいたから、僕たちは怪物になることなく、愛すること、そして、暴力に訴えない方法を学んだ」と語ったように、この時代の若者たちは、生き方をビートルズや若者の時代を創った旗手たちから学んだのだ。
 現在、世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスの為に多くの人が亡くなっている。差別や偏見が起こり、誰もが争うようにマスクや食料品を奪い合っている。ネットでは、世代間対立を表すような暴力的な言葉があふれている。今、私たちは試されているのかもしれない。そして、その答えは自分自身の中にしかない。新型コロナウイルスが終息したとしても、世界はこれまでとは大きく変わっていくと思う。今がその変遷期なのかもしれない。
 1970年代始め、誰もが自分の生き方を模索しなければならなった時代、人々の傷口を癒し、時代の架け橋としての役割を果たしたいくつかの音楽が生まれた。

キャロル・キング 「君の友だち」(1971年)

君が落ち込んで
何ごともうまくいかず
手助けが必要だったら
すべてが ああ すべてがおかしな方向に進んでいたら
目を閉じて僕のことを考えてごらん
そしたらすぐにそこに現れるから
君の一番暗い夜さえも明るくするために

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから
君には友だちがいるじゃないか

君の頭上にある空がすべて雲に覆われて暗くなりそうになったら
あの昔ながらの北風が吹き始めそうになったら
慌てなくていいからね
僕の名前を大声で言うんだ
じきに僕が君の家の扉をノックするはずだから

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
そしたらそこに現れるから

友だちがいるってのはいいことだろ?
人間は他人にとても冷たくなれるんだ
彼らは君を傷つけ 見捨てることもあるだろう
隙を見せれば君の魂も奪いかねない
隙を見せないで

君はただ大声で僕の名前を言えばいいんだ
それに僕がどこにいるか知ってさえいれば
また君に会うために駆けつけるから
冬だって春だって、それに夏、秋にだって
ただ君は僕を呼べばいいんだ
ああ すぐにでも現れるから
君には友だちがいるじゃないか
君には友だちがいるじゃないか

友だちがいるってのはいいことだろ?
友だちがいるってのはいいことだろ?
君には友だちがいるじゃないか

ジョン・レノン 「イマジン」(1971年)

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって…

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって…

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

 時代の変遷期は誰もが不安に襲われるものだ。しかし、どんなに時代が変わっても「僕」が「君」を思う気持ちが変わってはいけない。私たちは同じ時代を生きる「仲間」であり「世界はひとつ」になれると思う。今回の新型コロナウイルスで「私たちはどう行動するか」と問われている。自分の身に危険を感じるから誰もが必死になる。しかし、日本には年間30000人くらいが自殺し、1700人くらいが餓死している国でもある。「僕」が「君」を思う気持ちがなければこの数も決して減ることはない。たとえ新型コロナウイルスが終息したとしても「僕」が「君」を思う気持ちを持ち続けなければ決して幸せな国と言えないし、自らも幸せにはなれない。
 1969年8月15日から17日までの3日間に行われたウッドストックは、40万人もの人数が集まったにも関わらず、大きな事件は無く、誰もが自由にロックを楽しみ、お互いが助け合という理想的な姿がそこにあった。ヒッピー・コミューンの「ホッグファーム」は、LSDの幻覚に苦しんでいる参加者に食事を無料で提供し介抱した。若者たちは少ない食べ物を分けあって飢えをしのいだ。そして、主催者のマイケル・ラングはイベント終了後に「すべてを分け与えるのがヒッピーの精神」と語り、機材のすべてを恵与した。それが実現できたのは、誰もが誰かを必要としていたし、誰もが誰かを信じていたからだ。
 「こんな出来事はもう二度と起こり得ないんだろうな」と思う。だから「僕」は時間を超えて「君」と対話する。「君」の声を「僕」が代わって発し、「君」の記憶は「僕」が代わって証言する。「僕」は「君」によって生きかされているのだから。
 壊れた時計は古い時間を刻み続けるだろう・・・。
 そして「岡崎里美の世界」も更新され続けるだろう・・・。

 参考文献:『1971年の悪霊』 堀井憲一郎

(『New Music Magazine』より)

(2020年4月13日)

令和モダニズム

 立原道造といえば「美しい詩を書く人で、昭和の文学少女に愛された昭和モダニズム詩人」ということで、中原中也や金子光晴の詩が好きな僕にとって立原道造の詩に出会うことなかった。思い返すと、福永武彦も立川正秋も渡辺淳一もほとんど読んでいない。1年半ほど前から耳がほとんど聴こえなくなり、心を入れ替えるつもりで、出来るだけ美しいものに触れるようにしている。ひとり令和モダニズムといったところである。
 立原道造は、戦争の臭いが漂い始めた1939年3月29日、戦争から遠くの離れるかように結核のため24歳で没した。多くの美しい詩を残した立原道造には戦争は似合わない。幻想的な傾向が強い立原道造にとって、戦争という現実は耐えられないものであっただろう、現実と違う美しい世界を創ることによって生き抜こうとしていたのかもしれない。

「のちのおもひに」  立原道造

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
──そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 夢とか想いは、なかなか叶うものではない。この叶わなかった夢とか想いが迷子のように、しづまりかへつた山の麓のさびしい村の午さがりの林道をさまよっている。たとえ夢が叶ったとしても、人の一生とは永遠ではない。過ぎた時間は二度と戻る事もない。夢とか想いと共に、この世からさよならをしなければならない。だから、いつまでもいつまでも、日光や月光や草花や小さな生き物に語りつづける。

(2020年3月25日)

辻征夫の「雨」を読む

「雨」  辻征夫

耳たぶにときたま
妖精がきてぶらさがる
虻みたいなものだが 声は静かだ
(いまなにをしているの?)
街に降る雨を見ている
テレビは付けっぱなしだが
それはわざとしていることだ
だれもいない空間に
放映を続けるテレビ
好きなんだそういうものが
(それでなにをしているの?)
雨を見ている
雨って
ひとつぶひとつぶを見ようとすると
せわしなくて疲れるものだ
雨の向こうの
工場とか
突堤の先の
あれはなんだろう
流木だかひとだかわからない
たとえばああいうものを見ながら雨のぜんたいを
見ているのがいちばんいい
そういうものなんだ 雨は
(むずかしいのね ずいぶん)
何気ないことはんだってむずかしいさ
虻にはわからないだろうけれど
(妖精よ あなたの
雨の
ひとつぶくらいのわたしですけど)


 
雨は醜い自分をとかしてくれる。
こんな日は妖精が現われるものだ。
自分は自分である必要もなく言葉は言葉である必要もない。
あらゆる頸木から解放され自由になる。
雨が上がったら妖精に「さよなら」をいって、
自分という目的地に向かってどこまでも荒野を歩く。

久しぶりの雨だ。こんな日は感傷的になってしまう。
谷川俊太郎さんは詩作について「ある時期から自己表現というものを信じなくなった。自分をからっぽにして日本語の世界を歩き、その豊かさを取り入れたくなった。自分より日本語の総体の方が豊かだから。」と語った。
辻征夫さんには、辻さんが生まれる2年前に1歳で亡くなった長兄がいて「自分は長兄の生まれ変わりではないか」と感じていたという。この喪失感を埋めるために「見えない世界を見ようとする」感性が詩作の原点である。
現代社会の言葉は、真実を隠すために使われたり、人を騙すために使われる。虚妄の世界の言葉の方が真実を描くものなのかもしれない。だからこそ、喪失感を埋めるために詩人は詩を書くし、読者は詩を読むのである。
文学とは何のためにあるのか。福田恆存氏は「一匹と九十九匹と」というエッセイで、世の中いろんな問題が起きると、九十九匹を調整しながら解決するのが政治である。しかし、政治はすべてを救えない。最後の一匹の迷える羊、迷える人間の、その精神とか心の問題には、政治では救うことはできない。どんなにお金があっても、淋しさ、孤独、不安な心を政治には解決することはできない。そこで迷える一匹を救うのが文学だと語る。
普段は九十九匹側にいても、あっと言う間に一匹になってしまう事がある。そんな時に小説を読んだり、詩を読んだりして生きてきた。辻さんはきっと、その一匹のために詩を書いていたのかもしれない。
辻さんは「詩は個人にものであると同時に、共同体のものです。日本語なら日本語というひとつの言語の花です。詩人というのはある期間、ひとつの共同体の中で詩という言語の花を咲かせる機能を何故か持ってしまって、そういう役割を担っていつ人間のこと。」と語っている。
辻さんは一人ひとりの人間というもの、人間の善意というものを信じていたのではないか。具体的に若い人、世の中がどんな悪くなってもあとからあとから出てくる若い人、そういう人たちと作る未来を・・・。「テレビは付けっぱなしだが/それはわざとしていることだ/放映を続けるテレビ/好きなんだそういうものが」と物語っている事は、だれもいない空間だけど、いずれ誰かが来るであろう未来があるという事。今は孤独であるけど、いつかは繋がり合えるという事。
辻さんは、詩でたくさんの人に勇気を与えたり、不安な心を支えたりした。逆にいえば、そういう「みんな」が菅原さんを支えていたのかもしれない。
これからも、共同体の一員として辻さんの詩を読み続けたいと思う。

(2020年3月8日)

まど・みちおの戦後

 戦争に加担しないために・・・。

 まどさんが100歳で出版した『100歳詩集――逃げの一手』(小学館、2009年11月)のあとがきで、「山川草木、すべての中には、いのちがあります。木でも草でも何でもそうです。その中の、人間は一匹に過ぎないんです。私は、この中で「逃げの一手」を貫いてきたことになると思うんです。詩の中に逃げること、臆病な自分から逃げるということでもあります。むしろ、大胆とも言えるかもしれません。だから、逆に、私はそのことで私をいかしてきたというんです。有から無にはいるのと、無から有にかえるのと、その往復みたいなものなのです。逃げることによって、逆に生まれることにもなります。言葉っていうのは、いつも必ずそうなんですから。とにかく簡単なものじゃないから。100歳を目の前にして、ただ、感無量と言えば感無量ですけど、「逃げの一手」でここまで来たことに間違いはありません。それが私の生き方だったと思います。」と記している。

 戦争中に多くの詩人たちが、戦意昂揚のための愛国詩を書き戦争に協力した。
 まどさんにも、戦争協力詩と戦争協力詩文(随筆)が存在する。これらはまどさんの研究者が見つけたもので、まどさん自身は書いたことさえ忘れていたという。戦争詩については、みずから申し出て詩集に掲載し、詩を書いた経緯と忘れていたことを謝罪し、当時の子どもっちへの自責の念を表明した。この謝罪によって、まどさんの誠実な姿勢は多くの著名な詩人たちからも高く評価された。
 しかし、戦争協力詩文については一切ふれることなく公表もしなかった。その詩文の内容とは「少国民の皇民化」といい、日本が統治していた台湾の子どもたちを皇民化(同化)する目的で、日本語である「国語」習得と普及を唱えたものだ。まどさんは台湾の子どもたちに、家庭という愛情の下で小さいときから自然に習得した母国語ではなく、支配者である日本の「国語」を子どもたちに習得させようと主張したのである。
 まどさんの詩の世界とは、自然や生きものをじっと見つめた感性が創作の源泉であり、まどさんが子どもの頃から身につけた言葉によって築かれたものである。まどさんの子どもの頃と同じように台湾の子どもたちも一人ひとりが独自の世界を慣れ親しんだ言葉によって築いていることに気づかなかった。まどさんは自分で自分を裏切ったのである。だから最後まで何も語ることができずに「逃げた」のだ。
 敗戦後の日本は、まどさんに限らずほとんどにの人が、自分自身と向きあうことなく「逃げた」のだ。人は臆病だから「逃げる」のではく、権力や組織に「依存」するから「逃げる」のだ。盲目的に権力や組織に「依存」すれば何も考える必要もなく安心するし、同じ仲間といると心地いい。そういう人は個人より組織、個よりも全体を優先する「組織の論理」を進んで受け入れ、組織に忠誠を尽くそうとする。そうすると組織の傘から逃れられなくなり、意見の違う人を排除したり、強制的に「組織の論理」に従わせようとする。特に日本人は「依存」しやすい国民性である。過去を取り戻すことは不可能だ。だが、忘れてしまおうとすれば、過去はいつまでも追いかけてくる。決して「逃げる」ことはできない。そして、歴史に学ぼうとしないものは何度も同じ過ちを繰り返すのだ。
 「組織の論理」に侵されないために必要なのは、自分および他人の自由や誇り、権利を尊重する「個人主義」である。

 2019年12月4日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲さんは、同国の乾いた大地に用水路を造るため医師でありながら自ら重機を操った。その中村さんが幼少期を過ごしたのは、港湾労働者が多くいた北九州市若松区だ。「職業に貴賤はない」。人として大切なことは何かを教えた祖母の言葉と、故郷の景色に溶け込んだ労働者の姿が人生の原点だったという。
 生前、中村さんは「敵も味方も関係なく、傷ついた人がいたら助ける」といっていた。この考えが「個人主義」の本質である。中村さんは、米国に「依存」して、戦争を肯定している日本政府にとって、決して喜ばしい存在ではなかった。国会の証人喚問で「アフガニスタンへの自衛隊の派遣は有害無益」と発言したことに対して、議員からは「とんでもない奴だ」と非国民扱いし、懲罰にかけろという要求すらされたのだ。他国のために命を賭けた英雄でさえ国に逆らった者は最後まで許さないのが日本という国だ。その証拠に中村さんの葬儀には政府関係者が参列していない。(ちなみに中村さんの叔父である火野葦平は、敗戦後に戦争協力者として公職追放となった。その後、中国を訪れて戦争責任を見つめ、遺作というべき小説『革命前後』で、自らをモデルにした作家を登場させ、元兵士に「わしら、あんたに騙されて戦こうたようなもんじゃ」と、批判させた。そして、翌年53歳で自ら命を絶った。)
 戦前・戦中には多くの反戦運動家は逮捕されたり、虐殺されたりした。政権や軍部がいちばん嫌ったのが「個人主義者」だ。現在では逮捕されることはあっても、殺されることはないだろう・・・。戦争に加担しないために大事なことは「個人主義」を貫き、自らの頭で考え行動することである。個人主義とは決して他人を搾取したり、隣人を利用したり、他の人々の領域を犯すという事のない生き方である。自分という「個人」のひたすら念願することは、ただその個人が決して共同体や社会の器具になったり、社会的な仕組みの中の奴隷となって降参したくないということである。「個人主義」を貫けば戦争など起きるはずはないのだ。(参考文献:『消せなかった過去――まど・みちおと大東亜戦争』平松達夫)

「はるかな こだま」 まど・みちお

野に立って
とおく

かしわでをうちならすとき

こたえてくる
ながれてくる

はるかな はるかな こだまはなにか。

きよらかな
そぼくな

とおいむかしの日本の

神いますふるさとのよびごえか。

天の岩戸や
かぐやみめや
日のあたたかな かちかち山や
はるばる はるばる こえてきた

なつかしいふるさとのよびごえか。

「日本人よ
日本人よ

天皇陛下 をいただいた
光栄の日本人よ

君らの祖先がしてきたように

今こそ君らも
君らの敵にむかえ

石にかじりついても
その敵をうちたおせ

ー神神はいつも
君らのうえにある。」

ひびいてくる ながれてくる
そういうようにきこえてくる。

(2020年1月20日)

高野悦子と南条あやの青春日記

 青春期という季節の希望と絶望のはざまで読んだ本は、殺しきれなかったキズとして今でもヒリヒリと痛みが蘇ってくる。高野悦子の『二十歳の原点』はその一冊だ。『卒業まで死にません』の編集者は『二十歳の原点』を読んで、『高野の日記が与えた感動を今の若者にも再現したい」との熱意から、南条あやの日記の出版を企画したという。

 高野悦子の『二十歳の原点』(新潮社)は、1971年に出版された彼女の青春日記である。当時、全共闘世代と呼ばれた若者たちの共感を呼び、翌年にはベストセラー第二位になっている。いまだに大学の書店などではお薦めの一冊として取り上げられることも多く、今でもずっと若者に読みつがれてきた青春文学の古典の一つである。
 南条あやの『卒業まで死にません』(新潮社)は、2000年に出版された彼女の日記集である。高野ほどのベストセラーにはならなかったものの、『二十歳の原点』と同じく後に文庫され、現在も読まれつづけている。日記のオリジナルがインターネット上にウェブ日記として公開されていたのは1990年代の後半だが、当時は彼女自身も若者雑誌から取材を受けるほどの人気ぶりで、一部の若者たちからはネット・アイドルとして熱烈にもてはやされる存在であった。
 高野悦子は、1969年6月24日未明の貨物列車に飛びこみ、即死している。20歳だった。『二十歳の原点』は、彼女の遺した膨大な日記を父親が編集して出版したものである。一方の南条あやは、1990年3月30日、向精神薬を大量服用して中毒死している。18歳だった。『卒業まで死にません』も、彼女の死後にウェブ日記の存在を知った父親が編集して出版したものである。

永遠にこの時間が続けばよい
人々の中に入れば また
自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから
雲にのりたい
雲にのって遠くのしらない街にゆきたい
名も知らぬどこか遠くの小さな街に
(高野、1969年6月18日)

私が消えて
私のことを思い出す人は
何人いるのだろうか
数えてみた
・・・
問題は人数じゃなくて
思い出す深さ
そんなことも分からない
私は莫迦
鈍い痛みが
身体中を駆け巡る
(南条、1999年3月29日)

 高野も南条も、自らの死の直前に、辞世の句とでもいうべき死を遺した。
 束縛的な人間関係から開放されて浮遊することを夢みた高野悦子と、それとは逆に、浮遊常態から開放されて濃密な人間関係に包み込まれることを夢みた南条あや。どちらも孤独の悲哀にみちた詩でありながら、その感受性の向きは逆である。周囲の人びとから「自律したい」という焦燥感がもたらす高野の生きづらさは、30年という歳月を経て、周囲の人びとから「承認されたい」という焦燥感がもたらす南条の生きづらさへと変転している。
 高野の日記集の出版タイトルである『二十歳の原点』は、「「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である」(高野、1969年1月15日)という彼女の日記中の言葉に由来している。この言葉は、自己に取りこまれた他者のまなざしを経由して、自分自身へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから自己変革に励んで、つねに自分を成長させていきたいという熱っぽい意気込みが潜んでいる。
 それに対して、南条の日記集の出版タイトルである『卒業まで死にません』は、彼女が友人と約束を交わしていたという言葉に由来している。これと同じような言葉は、彼女の日記中にも何度か顔を出している。この言葉は、ウェブ日記の読者や友人へと向けられた彼女の宣言である。その背景には、だから私をずっと見つめてほしいという切ないまでの彼女の承認欲求が潜んでいる。
 高野にせよ、南条にせよ、日記をつけることは。生きづらさにもがく自分とって、大いなる救いとなっていたにちがいない。
 高野は、「より望ましい自分」に対して愚直なまでに誠実であろうとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠情の中へおしやられば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(高野、1969年6月1日)。
 南条も、「より望ましい自分」のすがたに対して貪欲ななまでに確証を得ようとし、それがもたらす生きづらさと格闘する日々を日記に綴っていった。「私はいつでも追いかけられている/この世の中の喧騒とか/義務なんてチンケなものじゃなくて/自分自身に/誰も助けてくれない/助けられない/私の現在は錯乱している/きっと未来も/ならば/終止符をうとう/解放という名の終止符を」(南条、1999年3月29日)。
 彼女たちの日記が等しく照らし出しているのは、「より望まし自分」へと駆り立てられ、いつも切羽つまった感じをどこかに抱いてしまうという青年期に共通の課題である。
 高野の生きづらさと南条の生きづらさのあいだには、30年という歳月を超えて、なお変わらない生きづらさの本質を見出すことができる。しかし、その生きづらさの根源は、「変わりゆく私」と「変わらない私」にそれぞれ対応して、限りなき自律欲求から絶えざる承認欲求へと大きく様変わりしてもいる。その意味で30年という歳月によって隔てられた大きな断絶をそこに見出すこともできる。(土井隆義『友達地獄』より)

 漠然とした社会で生きている限り、年齢に関係なく「生きづらさ」はなくなることはない。高野悦子と南条あやは「生きづらさ」の中で日記を書き、日記のなかに生きる自分自身に忠実であろうとして逝ってしまったが、「生きづらさ」がない人生が本当に幸せだとは思わない。自分が悩み苦しんだからこそ、他者の痛みが理解できるし優しくもできる。「生きづらさ」のなかにこそ本当に幸せがあり、それを少しづつ積み重ねていくしかない。

(2020年1月10日)

まど・みちおの「リンゴ」を読む

「リンゴ」 まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 まどさんはこの「リンゴ」という詩を1972年、63歳の時に発表した。まどさんは、詩を「つくる」というよりも「生まれる」という感じがするという。テーブルの上に置かれたリンゴを見て、その美しさにハッとして、まどさんの中の何かが震えた。なぜハッとしたんだろう、美しいと思ったんだろうと追求していったら、そのうち「リンゴが占めている空間は、ほかの何ものも占めることができない」ということに気がついて、またハッとしたという。まどさんにとって「リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ」という発見はよほど衝撃だったようだ。15年後の1987年に「リンゴ」を「ぼく」に置き換えて「ぼくが ここに」という詩を書いている。言わば「りんご」の存在を発見したことによって「個」というものの発見であったのだ。それは、この地球に自分自信が「存在」しているという「超個」の発見であったのだ。
 この詩は「存在」という普遍的なものがテーマだ。それゆえに、多くの人がこの詩について独自の評価し、多くの人が解説をしている。
 詩人の佐々木幹郎さんはこの詩について「短い詩だけれど「りんご」の存在感を浮き上がらせています。哲学としての存在論の領域にも踏み込んでいる」と語っている。
 詩人の大橋政人さんはこの詩について「リンゴは/リンゴ自身/存在していないことをしめすために存在している」と言う。「リンゴ」は風景としての「リンゴ」ではなく、すでに「在る」ことと「不在」が解け合ったような「光景」としての「リンゴ」になっている語っている。そして、この詩を最初に読んだとき、言葉の厳密な意味などわからなかったが、ものを凝視する詩人の恐ろしいほどの息づかいを感じた。そして、恐ろしいほどの凝縮した時間の中で、私が見ているリンゴの風景が「まぶしいように」一つの「光景」へと変質していくのを感じたという。

 人間が「存在」するとはどういう意味なのか。
 先人の哲学者たちは「存在」の意味を考えるとは、人間の「存在」の本質、自分が個人としてどのように存在するのか、自分の人生に意味を見出すことができるのか、ということを考えることだという。
 キルケゴールは、自分がどのような人生を送るかにについて、自分で道徳的判断を下す「自由」があり、それこそが自分の人生に意味を与えるという。しかし、この選択の「自由」は幸福だけをもたらすだけではなく、恐怖や不安を伴うものである。恐怖や不安に絶望して何もしないことを選択するか、不安から逃避せず「真正」に生きて人生に意味を与えるような選択をするか、決断しなければならない。
 人は生きていくうえで「死」の恐怖や不安から逃れることはできない。池田晶子さんが『人生のほんとう』で記すには「生きる」と「死ぬ」は対にならないという。「生」に対して「死」があるのではない。「死ぬ」という言葉で表象するものは、他人の死をごっちゃにしたもので、われわれは生きている限り自分の死のことは知りようがないし、生きている人は誰もそれを知らないから、自分が死ぬことは考えられない。なぜならそれは、どこにも「ない」から。この世界のどこにも、自分の無としての死は存在しない。無が存在したら無ではないのだから。なぜ在ることしかないのかを考えていくと、わたしたちが「生きている」といっている生存とは、存在することの部分集合にすぎず、存在するといることは、必ずしも生存していることだけをいうのではない、ということがわかってくる。自分が生きているという当たり前と思っていたことが、とんでもなく謎であり、わたしたちは「存在」と「無」とい宇宙的なからくりのようなもので、「生かされている」ということがわかる。この宇宙の中に現れて「自分が自分を生きている」こと「あなたがあなたを生きている」ことが奇蹟的なことである。
 わたしたちは毎日のように奇蹟を生きている。そして、人と出会ったり、ものと出会ったりしていることは奇蹟と奇蹟の出会いであり、とても愛おしいことである。
 この「りんご」という詩を改めて読めば、まどさんがリンゴとの奇蹟的な出会いを、微笑んでながめている姿が目に浮かんでくるようだ。

(2019年12月14日)

横田弘の闘い

 現在の若者たちは不平を言わない。
 ブラックバイトや非正規雇用の雇い止めに怯え、賃金の上昇の望みを絶たれ、国民年金保険料や国民健康保険税の滞納し、スマホの使用料に圧迫され、親よりも狭い家に住み、結婚や車を諦め、奨学金の返済に苦しみ、れでもなお現代の若者たちは、与党を支持しデモに集う人々に冷淡な視線を浴びせ、サービス残業に従事している。

 1970年代、「秩序や道徳なんかクソくらえ! 俺はしたいことをする!」と思想をもち、世間を騒がせた人たちがいる。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」である。
 教育、就労、など、あらゆる機会から閉め出されていた彼らは、障害者差別反対を旗印に、各地で激しい糾弾闘争を展開した。施設を占拠して立てこもり、ロッカーや引き出しを引っかき回し、そこに小便をひっかけた。バスジャックを慣行した上、道路に寝そべったりして交通をマヒさせた。しかし、警察は彼を逮捕しなかった。重度障害者が多かった青い芝のメンバーを拘束すれば、思い言語障害を持つ者が多く介護しなければならないし、事情聴取も大変だからだ。何をしても逮捕されない彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。青い芝のメンバーはよくいえば個性的、悪くいえば無軌道だった。いつでもどこでも自己中心、人の言うことは聞かない。思いついたらあとさき考えずに即実行。あとはどううなろうが知らんぷり。そんな彼らの問題解決の路を選ばない運動は、必然的に大衆から遊離し、やがて終息していった。

 その中心メンバーの横田弘さんは、1933年5月15日に横浜市鶴見区に生まれた。母親は身体が弱く出産に6、7時間かかった。結果として、脳性マヒという障害を負って生を受けた。横田さんは、1950年に母親が亡くたったときに17〜18歳で、それからしばらくして詩を書き始める。1955年に横浜の『象(かたち)』という同人誌に参加したことが詩人の始まりであった。しかし、より正確に言うならば、母親が亡くなった17歳以降、横田さんは1人で詩を作り始めている。『少女クラブ』に従妹の名前を使って入選したことなどを経て同人誌『象』への参加であった。1人で詩を創っていたのは、1950年前後、横田がまだ10代のことである。さらにその2年後、20歳の頃には、西条八十が選者を務める『講談倶楽部』という大人の雑誌に歌謡曲を書いて投稿し、3等に入選している。したがって、22歳の時点で現代詩の同人誌『象』への参加は、児童詩、歌謡詩を経てのものであったということになる。
 横田さんが詩の創作を始めたのは、母親が亡くなった後の10代後半からであり、母親を亡くしたことに伴う母性の喪失により生じた心の隙間を埋める行為としての詩作であったと考えることができる。そして雑誌に投稿し同人誌に参加することで、横田さんの中に別の世界とのつながりが芽生えたと解することが可能である。それまでは家の中にいて、そばにある本をかたっぱしから読んでいるだけであった横田さんの、外の世界との最初の接点が詩作であった。そしてこのようにして芽生えた、詩作を通した社会とのつながりが、横田さん自身のなかにゆっくりではあるが、自己の形成を促していったのである。それを裏付けるかのように、横田さんは次のように述べている。
「私は1955年から横浜の同人誌『象』で詩を書いていました。それは私にとっては家族以外との初めての「外界」との関わりだったのです。」
 就学猶予によって小学校に行くことが出来なかった横田にとって、10代後半から始めた詩作が、少しづつではあるが学校とは別の形で社会とのつながりを形成していった。

「櫛火」 横田弘

朽ちていく肉体に注ぐ
哀別の泪を
だれが
奪えるのか

二度と還ることのない
旅への調えを断ち切る
メスのきらめきは
決して 許されない
存在への 挑み

〈脳死=人の死〉

虚しさの深さを 見失い
哀しみへの愛しさを 投捨て
わななく畏れさえ 忘れて
ひとは
幻の果を盗み続けていくのか

いま
確実に
操られた頷きの微笑みに潜む群れが
増える

だが

じっと 地に蹲り
蒼黒を見据えるのは
衝動の憤りではない
遠い母達が残した
たった一つの言霊(ことだま)を呼戻す作業の筈
なのに

「見送るだけか」 横田弘

午後
初冬にしては激しすぎる雨が
フロント・ガラスを打つ
研修集会の帰り道

私の 不遜
五十九年の暮らしのなかで
無意識に育てていた 黝い驕慢が
また
サイド・ミラーから 嘲笑(わら)いかける

こんな楽しい思いをさせて貰って
本当もありがとう

たまさかの宿泊の酒に
笑顔で語り掛ける施設暮らしの友の言葉に
全身を凍らさせ
身動きさえできない自分を
そんな怯えを冷ややかに見据える
もう一人の 私と

本当にありがとう

無音のまま頷きが
自分への免罪符にしか過ぎないと
判っていたとしても
 
いま
それを責め続ける若さが
私から 去って行く
 
とっても
雨音が寒い

(『そして、いま』 横田弘 1993年 より)

 人権とは、個別具体的な個人の権利であり、今ここに生きている人間の切実な命に関わる問題である。「青い芝の会」のラディカルな運動は、多数派を形成できないために無視されてしまうマイノリティの権利を主張するための運動ある。現代の格差社会の若者たちの環境も同じようなものだ。既得権益者たちが、豊かな社会を創るという資金や時間や仕事を食べ散らかしてまい、若者に残されたものは食べカスに近くなってしまった。
 横田さんはいう。「僕たちにできることは、「脳性マヒ者でも何が悪い! 差別するな!」って叫ぶこと。叫び続けること。」だと。
 日本人の15歳から39歳までの死因のトップは自殺という。たかが貧困や障害などで死んではいけない。我慢することが強さではない。人に依存でき、助けを求められることが強さである。声をあげずに静かなままだと何も変わらない。声を上げて変化を求める力が強ければ、政治も無視することはできなくなるはずだ。残念ながら、政治が本格的に貧困世代に向き合う兆しは見えない。政策も自己責任論に終始し、突破口を示すことができていない。逆に、若者が声を上げないがゆえに、何をしても抵抗がないのをいいことに、暮らしにくさを加速させるように進んでいる。このまま静かにおとなしく待っていれば問題解決してくれる人が現れるということはない。ちっぽけで意味のない行動などひとつもない。自ら主体的に社会変革をしなければいけない。

参考文献
『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』 角岡 伸彦 (講談社)
『われらは愛と正義を否定する 脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』 横田弘 (生活書院)

(2019年6月28日)

「夕焼け売り」の声が聞こえる

「もしかしたら、自分が狂ってしまったのではないか?」と思う時がある。
 狂った社会ではマトモな人間が狂人になる。異端の中の異端とは常識にほかならない。必要なのはひっくり返された言葉をもう一度ひっくり返すことだ。歪んだ言葉を正常な言葉に戻すことだ。

 政治家の言葉が言葉として機能しているのだろうか。言葉が他者との対話や論争のためのものではなく、国民をダマし、その場をしのぐ為だけのツールにすぎない。
 安倍首相は、「女性が活躍できる社会」と言うが女性を使い捨てにし、「積極的平和主義」と言うが積極的に戦争をする国にしようとし、「沖縄のみなさんに丁寧に説明する」と言うが辺野古の新基地建設を強行し、森友改改竄隠蔽問題では改竄を強いられた現場の職員が自殺に追い込まれたにもかかわらず、「私や妻が関与していたら総理大臣も国会議員も辞める」と言いながら辞めもせず政治責任すら取らない。
 そして、場当たり的に公案された「お・も・て・な・し」という広告代理店が考えたと思しき薄っぺらな啓蒙標語で始まったIOC総会の最終プレゼンテーションでは、福島第一原発の汚染水は漏れ続けているのに「完全にコントロールされている」と嘘をついた。この国際舞台での「アンダーコントロール」発言は、IOCむけてのメッセージであり、その発言で問題になっているのは現実に福島第一原発がコントロールされているということではなく、「日本の状況」が完全にコントロールされているということだ。そして、これからもコントロールされていようが、汚染水問題がどれほど深刻であろうが、アスリートにどのような影響があろうが、それはIOCにとってはたいした問題ではない。最大の心配は、そうした問題のため東京五輪ができなくなることである。IOC総会は日本政府とIOCの「暗黙の了解」という談合の茶番劇を全世界に見せつけたものであった。
 福島第一原発は、「アンダーコントロール」どころか収束のメドさえたっていない。汚染水は海にダダ漏れし、格納容器から溶け落ちた核燃料は永遠に取り出せないといわれているのが現実だ。
 東京五輪で浮かれている社会の陰で、猛烈な放射能汚染が大地に拡がり、数十万人が故郷を追われ、生活が根こそぎ破壊されて流浪化した。原発関連死と呼ばれる数千人が死に、甲状腺がんで多くの子どもたちが苦しんでいる。そして、廃炉や除染の作業に多くの労働者が日々大量の被曝を被りながら従事している。どうして、わずか数週間ほどの五輪のために巨大な予算をつぎこんで膨大な財政赤字を抱える東京五輪を開催しなければならないのか。東京五輪に使うお金や人材あるなら東日本大震災の復興に回すべきだ。特に放射能汚染に苦しんでいる福島の人々の困難救済を優先すべきだ。

「夕焼け売り」 齋藤貢
  
この町では
もう、夕焼けを
眺めるひとは、いなくなってしまった。
ひとが住めなくなって
既に、五年余り。
あの日。
突然の恐怖に襲われて
いのちの重さが、天秤にかけられた。

ひとは首をかしげている。
ここには
見えない恐怖が、いたるところにあって
それが
ひとに不幸をもたらすのだ、と。
ひとがひとの暮らしを奪う。
誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。

だが、それからしばらくして
この町には
夕方になると、夕焼け売りが
奪われてしまった時間を行商して歩いている。
誰も住んでいない家々の軒先に立ち
「夕焼けは、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」
夕焼け売りの声がすると
誰もいないこの町の
瓦屋根の煙突からは
薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。
恐怖に身を委ねて
これから、ひとは
どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。

夕焼け売りの声を聞きながら
ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。
あの日、皆で囲むはずだった
賑やかな夕餉を、これから迎えるために。

 「夕焼け売り」は、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故によって剥ぎ取られた「文化」や「文明」の在り方を問い掛けた詩だ。この詩が収められている詩集『夕焼け売り』(思潮社)は、第37回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)を受賞した。
 粟津則雄氏は「齋藤貢さんのことばには、読む者の感情をことさらにかき立てるようなところはまったくない。彼は不思議な虚心をもって人や物や出来事をあるがままに迎え入れる。その凝視の底からある沈黙のしみとおったことばが身を起すのである」と語っている。
 齋藤貢さんは、震災後の福島の悲惨を静かに見つめてきた。そして、人としての自然を奪われた理不尽な現実に抗うためにこの詩は生まれた。
 狂った社会とは嘘付きの社会である。嘘の蔓延した社会では「自分さえよければ」と誰もが人を思いやることをしなくなる。正しく生きているからこそ正しい言葉生まれる。正しい言葉を拾い集めて正しい社会にしなければならない。
 何処からか声が聞こえる。
「正しい言葉は、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」

(2019年6月27日)