落合恵子の「沖縄の辞書」を読む

「沖縄の辞書」 落合恵子

あなたよ
世界中でもっとも愛(いと)おしいひとを考えよう
それはわが子? いつの間にか老いた親? つれあい?
半年前からあなたの心に住みついたあのひと?
わたしよ
心の奥に降り積もった 憤り 屈辱 慟哭(どうこく)
過ぎた日々に受けた差別の記憶を掻かき集めよ
それらすべてが 沖縄のひとりびとりに
いまもなお 存在するのだ
彼女はあなたかもしれない 彼はわたしかもしれない

沖縄の辞書を開こう
2015年4月5日 ようやくやってきたひとが
何度も使った「粛々と」
沖縄の辞書に倣って 広辞苑も国語辞典も
その意味を書きかえなければならない
「民意を踏みにじって」、「痛みへの想像力を欠如させたまま」、「上から目線で」と
はじめて沖縄を訪れたのは ヒカンザクラが咲く季節
土産代わりに持ち帰ったのは
市場のおばあが教えてくれた あのことば

「なんくるないさー」

なんとかなるさーという意味だ と とびきりの笑顔
そのあと ぽつりとつぶやいた
そうとでも思わないと生きてこれなかった
何度目かの沖縄 きれいな貝がらと共に贈られたことば「ぬちどぅ たから」
官邸近くの抗議行動
名護から駆けつけた女たちは
福島への連帯を同じことばで表した

「ぬちどぅ たから、いのちこそ宝!」
「想像してごらん、ですよ」
まつげの長い 島の高校生は
レノンの歌のように静かに言った
「国土面積の0・6%しかない沖縄県に
在日米軍専用施設の74%があるんですよ
わが家が勝手に占領され 自分たちは使えないなんて
選挙の結果を踏みにじるのが 民主主義ですか?
本土にとって沖縄とは?
本土にとって わたしたちって何なんですか?」
真っ直すぐな瞳に 突然盛り上がった涙
息苦しくなって わたしは海に目を逃がす
しかし 心は逃げられない
2015年4月5日 知事は言った
「沖縄県が自ら基地を提供したことはない」
そこで 「どくん!」と本土のわたしがうめく
ひとつ屋根の下で暮らす家族のひとりに隠れて
他の家族みんなで うまいもんを食らう
その卑しさが その醜悪さが わたしをうちのめす
沖縄の辞書にはあって 
本土の辞書には載っていないことばが 他にはないか?
だからわたしは 自分と約束する
あの島の子どもたちに
若者にも おばあにもおじいにも
共に歩かせてください 祈りと抵抗の時を
平和にかかわるひとつひとつが
「粛々と」切り崩されていく現在(いま)

立ちはだかるのだ わたしよ

まっとうに抗(あらが)うことに ためらいはいらない

 沖縄と親交のある落合恵子さんは沖縄の基地問題にも関心があり「新基地はいらない」と沖縄が声を大にして訴えている。「本土との溝を共感で乗り越えたい」という思いから「沖縄の辞書」を発表したという。落合さんは、詩について「平和な日本を守るための自分との約束」と語り「共に歩かせてください」と述べている。「ただ、出会っても自分には帰れる場所が東京にあり、沖縄の人はそのまま暮らす。そこに自責の念がある。沖縄を忘れてはならないと自分に確認し、約束するしかない」と言い「傷め続けられてKちあ沖縄を防波堤にして、日本の安全や安定があるというのに」とも落合さんは話している。「沖縄の辞書」は2015年4月10日付の毎日新聞の夕刊に発表された。

 落合さんが「沖縄の辞書」を書いたきっかけは、2015年4月5日の故・翁長知事と菅官房長官に会談である。
 この会談とは、米軍普天間基地の名護市辺野古への移設問題をめぐり意見交換をしたものであり、2014年12月に辺野古移設反対の翁長知事誕生以降、政府は話し合いを避け無視をしてきたがようやく実現した対談である。
 それにしても菅官房長官が知事に語った言葉は軽すぎる。「先に移設ありき」であるし、本気で考え吟味しているとは思えない。「辺野古移設を断念することが普天間の固定化につながる」と述べ、移設作業を「粛々と進めている」と語った。辺野古移設を「唯一の解決策」と言い張ることは、県外に移設先を求めないという日本政府の怠慢でしかないことである。
 2015年11月、政府は翁長雄志知事の埋め立て承認取り消し処分は違法だとして、処分撤回け向け代執行訴訟を起こした。それにしても、一体誰が誰を訴えるべきなのか。政府が知事を訴えるとは噴飯物だ。行政不服審査法を恣意的に解釈して法の原則に反し、沖縄の選挙結果を無視して民主制にも背いたのは誰か。指弾されるべきは政府の方である。法治国家であることを自ら否定するような政府の対応は、沖縄県民の民意を踏みにじるためなら手段を選ばない、米軍基地の負担は、沖縄県だけに押しつければよいという、安倍内閣の明確で意思の表れにほかならない。
 翁長雄志知事は、県民とともに、国の横暴に真っ向から立ち向かった。沖縄の民意をまったく認めない安倍内閣は、憲法九十二条「地方自治の本旨」に違反している。国と地方自治体は対等なのだ。
 2018年8月8日、残念ながら翁長知事は膵臓がんのため亡くなった。心から哀悼の意を捧げます。

 なぜこの国では、沖縄米軍基地に対する反対の声や批判の声があろとも、民意は絶対に尊重されず政策は強行されるのか。
 沖縄でどれほど基地反対の声が高まろうとも、政府の態度は変わることがない。沖縄に限らず横田空域をはじめとして、日本全土が米軍によって好きなように使うことができる空間として規定されているという事実は、本土の人間の日常生活では滅多に意識さてないからである。基地を止められない理由はアメリカの意思と、米国に自発的に隷従することによって国内での権力基盤を強化しつつ対米追従利権をむさぼる官僚・政治家が日本の中枢部を牛耳っているという構造である。日本政府と米国の傀儡は法的に根拠づけられている。
 基地は日米安保条約と地位協定が日本の国内法の上位に位置し、この優位性は法的に確立されている。戦後憲法には、民主主義の原則や基本的人権の尊重やらが立派に書き込まれている。しかしそれらは決定的な局面では必ず空文化される。なぜなら権力の奥の院——その中心に日米合同委員会が位置する——における無数の密約によって、常にすでに骨抜きにされているからである。つまり、この国には、表向きの憲法を頂点とする法体系と、国民の目から隔離された米日密約による裏の決まりごとの体系という二重体系が存在し、真の法体系は当然後者である。言い換えれば、憲法を頂点とする日本の法体系などに、大した意味はないのである。官僚・裁判官・御用学者の仕事とは、この二重体系の存在を否認することであり、それで辻褄が合わなくなれば二重の体系があたかも矛盾しないかのように取り繕うことである。この芸当に忠実かつ巧妙に従事できる者には、汚辱に満ちた栄達の道が待っているからである。
 副島隆彦氏の『〔新版〕属国二本論を超えて』によると、日本政府は米国に対し「思いやり予算」として年間6500億円支払っているという。これ以外に国民の目の見えないところで、この10倍の7兆5000億円のお金が、いろいろな形で毎年米国に支払われているという。これらのお金はすべて日本人の税金である以上、基地問題は沖縄だけの問題ではなく日本全体の問題でもある。
 日本は、米軍によって守られている、だから発展して平和だと思っているが、実際には日本を攻撃する国などはなく、抑止力のための軍事強化は世界中に戦争の危機感を高めるだけだ。ウィキリークスの暴露にした秘密公電によると、沖縄には海兵隊が1万3000人しかいないそうだ。もはや必要もない沖縄米軍基地のために莫大なお金を使うのはやめるべきだ。
 日米開戦70年を総括するならば、戦勝国・敗戦国という米日の「主従関係」から日本がいかに抜けだし、国民の意味を基に国家政策を決定できる真の主権国家、独立国家、民主主義国家としての「日本」をどう構築するかが最大の課題といえるだろう。

(2018年12月17日)

星になった少年 —父と子の物語—

「おい居るかい。まだお前は名前をかへないのか。ずいぶんお眼も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格はちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまでも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまからくださったのです。」
「いいや。おれの名前なら、神さまから貰ったのだと言ってもよかろうが、お前のは、言はば、おれと夜から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。」
〈略〉
「だってそえはあんまり無理ぢゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい。」

宮沢賢治の『よだかの星』を読むと、よだかと岡真史少年のことを重ねてしまう。
岡真史少年は中学2年生のとき、東京の西北郊外にある住宅団地の屋上から突然、鳥が翔び立つように夜の空へと身を投じて命を絶った。残された詩と作文が『ぼくは12歳』(高史明・岡百合子編)という詩集になり、版を重ねて今でも読み継がれている。この詩集に収められた詩は、真史君が小学校6年生かの晩秋から、中学2年生の死の直前までに書きためた詩である。

『よだかの星』とは「かわせみの仲間であるよだかが、その名前から鷹に嫌がられ「明日までに改名しなければつかみ殺すぞ」と言われてしまい、自分が鷹に殺されることがこれほど辛いのに、その自分は毎晩たくさんの羽虫を殺して生きなくてはいけないことを悟り、そして辛すぎるこの世を捨てる決心をし、空に向かってどこまでもどこまでも飛び続け、やがて青い美しい光を放つ「よだかの星」になり、今でも夜空で燃える存在となる」という童話である。

鷹がよだかを殺そうと思えば簡単に殺せるのに、わざわざよだかの家まで行って改名を要求したというのは、殺すつもりはなく、鳥の世界のしきたりを教えようとしたためだと思う。親子の関係に置き換えると、鷹=〈父〉であり、よだか=〈子ども〉のような存在である。〈父〉がいつまでも自由奔放に遊ぶ〈子ども〉に、大人になるための通過儀礼を与えたが、残念なことによだか=よだか=〈子ども〉はすべてを拒否して自分自身であるために死を選ぶことになってしまった。
〈父〉とは「社会からの要請」を代理としてリビドーの発露を抑圧する存在である。そうした社会からの要請を代理する〈父〉の機能をジャック・ラカンは「父の名」と呼んだ。幼少時の全能感・万能感を断念させる「父の名」を通じて、初めて社会のポジシャンを得る方向に向かうという。

「ぼくはしなない」 岡真史
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

父親の高史明氏は『いま「いのち」の声を聞く』(佼成出版社)で亡き真史君のことを語っている。
彼が中学生になった時に、私は三つの言葉を贈りました。「君は今日から中学生なんだ。中学生になったからには、これからは自分のことは自分で責任をとりなさい」、そして二番目に、「他人に迷惑をかけないようにしなさい」そう言いました。そして最後に、「自分のことは自分で責任をとり、他人に迷惑をかけなければ、お父さんはこれから一切る君のやるこに干渉しない。自分の人生だから。自分で責任をとっていきなさい」こう言いました。
ちょっと考えてみると、正しい。しかしその正しさは、「十二から四つを引くと八つ残る」という正しさとあまり変わらなかったのでした。私の言葉のどこに問題があったか。具体的に言いますと、こういうことです。
「他人に迷惑をかけるな」と私は言いました。しかし「ここまでくるのにどれだけ他人の働きを頂戴してきたか」——それを言うのを忘れておりました。「他人に迷惑をかけるな」——この言葉には端的に言って「明日から迷惑をかけるな」です。それこそ、今日ここへ来るまでの十二年間に、どれだけの人の働きを頂戴しているかを見失った言葉にほかならなかったのです。しかし、着ている洋服、靴。それは自分が作ったか。歩いている道は自分が作ったか。それをお金を出して買ったのだから誰にも迷惑をかけていない。と思うなら、生きた人間の姿がお金の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それだけではない。人間が見えなくなれば、当然たくさんの生き物のいのちも見えなくなります。人間は生き物のいのちを頂戴して生きているわけです。その生き物のいのちというものが見えなくなれば、美味しいとか不味いかだけでご飯を食べるようになります。それは、生きるということから、生きている人間や他の生き物とのほんとうのつながりを見失って、そのすべてを数の知恵に置き換えてしまうことに等しいことになります。それが人生というものでしょうか。その人生は実に虚しい、砂漠のような人生です。私は子どもによかれという思いから、ほんとうの生、ほんとうの人生を見失わさせていたのでした。
私は、彼が中学生になった時、違うふうに言うべきでした。
君は今日から中学生だこ。こまで来るのにどれだけの人の生きた働きを頂戴してきたか。どりだけの生き物のいのちを頂戴してきたのか。それをしっかりもう一度肝に銘じてほしい。それが他人に迷惑かけないことの始まりであり、それがほんとうの意味のいのちに根ざした『自分』というものの始まりだ。自分のことは自分で責任をとる、とは、自分がすべてでないということ、自分がこの世に誕生せしめられてきたそのいのちの働き全体に対して、真に責任をとっていくこと、いただいたいのちを生きること、それこそが本物の責任というものだ」そのように言うべきでした。それが、言えなかった。その言えなかったことろこそが、算数の知恵、それだけを良しとする私の間違いがあったのだと思います。

「じぶん」 岡真史
じぶんじしんの
のうよりも
他人ののうの方が
わかりやすい
みんな
しんじられない
それは
じぶんが
しんじられないから

子どもという存在は社会的な衣を着ていない存在であり、社会的な地位や階級や国籍などにも囚われない、いのちそのものに近い存在である。その子どもが大人になるとは、子どもの「自分を殺して」大人としての「自分に生まれ変わる」ことであり苦難や苦痛を伴うものである。大人なら誰でも心当たりがあると思うが、心の状態が不安定になり家出をしたり家庭内暴力をしてしまった時期が、子どもから大人に変わろうとしている時期である。
この時期の子どもたちは、大人たちの世界をどのように見ているのだろうか。「いのちを大切に」といいながら過剰に繁殖させて動物を食し、自然破壊の影響で住む場所を追われた野生動物を殺し、「平和の大事さ」をいいながら世界中で戦争が行われ、「差別はいけない」といいながら弱者を平気で切り捨てるのが大人の世界の現実である。子どもたちは、大人たちの醜い姿を見抜いている。そして、この醜い世界で生きているという絶えられないほどの苦痛があり、いっそのこと「死んでしまいたい」と思っても不思議でなないだろう。

「無題」 岡真史
にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべ
してた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない

この世の中に
自由なんて
あるだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに・・・・・・

大人たちは12歳の少年に「自分を、かえしてよ」と問われたら、何ことばを返したらいいのだろうか。たいていの大人たちは返答に窮し、言い逃れをするしかないだろう。けれども真史君は「きれいごとではすまされないこともある、まるくおさまらないことがある」と大人たちが返答できないことすらわかっていたのかもしれない。それが真史君の聡明さであり、優しさなのだろう。その優しさが「心のしゅうぜん」ができなくて自ら命を絶ってしまったのかもしれない。

よだかにしても、鷹にむかって「改名するくらいなら、死んだほうがましだから今すぐ殺して下さい」と言ったことを考えると、よだかの鷹に対する甘えと理解することができる。よだかは鷹が殺せないということを知っているのだ。〈子ども〉=よだかは〈大人〉になること「共同体」に参入して生活人となることの拒否の表明なのである。いわばとだかは鳥社会の中での自由人で詩人でありたいのだ。よだかは誰にも束縛されず、自由に空を羽ばたきながら生を謳歌していたいのである。しかし、このいつまでも〈子ども〉にとどまり。自由でありたいと願うよだかも、ついに共同体社会に参入するための通過儀礼の日を迎えざるを得なかった。鷹は、最後通告の形で、よだかを説得しに訪れたのでる。
〈子ども〉であり続けようよするよだかは、罪を知らず、生活を引き受けようともしない、そしてこの自由がもはや許されないと知ったとき、よだかは生きることよりは自ら命を絶つことを選んだのだ。

この考えですら大人である自分は、真史君の死を納得させるための都合のいいように解釈しているかもしれない。そして、残された高史明氏や鷹=〈父〉の苦悩のことも考えないわけにはいかない。ただ一つだけ言えることは、大人たちの「生」は亡くなった〈子ども〉たちに問われているということだ。
『ぼくは12歳』という詩集は悲劇性だけを考えるのではなく、純真な小さな詩人そのものと、向き合うことが大事だと思う。

「夕ぐれ」 岡真史
夕ぐれ
赤い
もえたつ太ようが
くもも空も
みんな
仲間入りさせてる……
くもも空も
まっかにそまる
ぼくも
仲間だよね
ほら
全身まっ赤だよ

創造的退行という言葉がある。退行というのは、人間のこころの状態が子どもの頃に帰る状態になり、馬鹿げた空想をしたりするようなことである。これは決して悪い意味ではなく、現在の閉塞した社会を打ち破るためにも、退行することが何か新たな想像力を生み出すことに繋がるからである。
子ども頃のように夜空をながめてみよう。
2つの美しく輝いている星が「何か」 を教えてくれるから。

〈参考文献〉
『宮沢賢治の神秘的世界』清水正
『いま「いのち」の声を聞く』高史明
『大人になることのむずかしさ』河合隼雄
「岡真史「ぼくは12歳」と「山芋」」(『大関松三郎の四季』)南雲道雄

(2018年12月15日)

愛しあってるかい!

ニール・キャサディが運転する “ファーザー・マジック・トリップ・バス” がジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、オーティス・レディング、ジェリー ・ルービン、リチャード・ブローティガンたちを乗せて今でも走っている。腹が減ったらオーガスタス・スタンレーが作ったアシッドを入れたサンドイッチとエレクトリック・クール・エイドをディガーズのエメット・グローガンがタダで配ってくれる。誰もが自由で哀しいほど優しい若者たちの “旅” だ。
カーラジオがエリック・バードンの「モンタレー」を唄っている。

ある者は聴きに、ある者は唄いに、またある者は花をあげにやって来た
若い神々は観客にほほえみかけ、生まれたての愛の音楽をかなで
子どもたとは昼となく夜となく踊り続けていたよ、モンタレーで

バーズがエアプレインが空を飛び、ああ、ラヴィ・シャンカールが僕を泣かせた
ザ・フーは炎と光炸裂させ、デッドは人々の度肝をぬき
ジミ・ヘンドリックスは世界を火にくべ、燃え上がらせたんだ

観客の間を笑顔浮かべながら、プリンス・ジョーンズは動き回っていた
一万ものギターがにぎやかに高らかに、それはぎきげんに鳴っていたよ
人生の真実を知りたいのなら、いいかい、音楽を聞きのがしてはいけない

3日間みんなで一緒になって動き、体揺らしながらわかりあったのさ
おまわりたちまでが、ぼくらと一緒になって楽しんでいたなんて信じられるかい
モンタレーで、モンタレーで、あの南の町、モンタレーで
(エリック・バードン 「モンタレー」)

60年代の若者たちが共有していたのは、“高度に発達した産業社会の統制と社会組織の改造をゆだねるテクノクラシーへの徹底した嫌悪感” だ。政府や大企業の権力者たちが、武装した警察や軍隊が暴力を使って民衆を押さえこむことに、若い反逆者たちは、この頃いっせいに立ち上がり異議を申し立てたのだ。
“ラブ&ピース” の時代は同時にアンチ・オーソリティ、反権力の戦いへとつながる時代でもあったのだ。自分たちが生活する場所をもっと自由な場所にしなくてはならないと、世界中の多くの若者を社会変革、制度改革にめざめさせた。その大きな引き金となったのは、ベトナム戦争だった。世界の警察官を自任したアメリカ合衆国がアジアの片隅の小国で50万人という兵力を投入して理不尽な殺戮を続けていることに誰が無関心でいられただろうか。
60年代は、“若者文化” が世界が初めて産声を上げた時代。わけのわからない戦争に加担する国や政府、古くさい道徳、価値観を押しつける社会や学校にベロを出し、自分たちの自由と楽しみとアイデンティティを求めて、それぞれの “旅” をしていた若者たちだった。

わたしは神の子と出会ったの
彼は道ばたを歩いてた
わたしが どこへ行くの? と訊くと
彼はこう答えた
ヤスガーの農場に行くんだ
ロックンロール・バンドを観に行くんだ
向こうでキャンプをするんだよ
自分の魂を自由にしてみようと思うんだ

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

だったら 一緒に行ってもいい?
都会はもうたくさんなの
自分が歯車みたいな気がして
毎年そういう時期があるのかもね
それとも もしかして人類がそういう時期なのかも
あたしは自分自身を見失ってる
でも生きているって学ぶことだものね

わたしたちは星屑
わたしたちは黄金
あの農場に戻って
わたしたちは自分自身を取り戻す

ウッドストックに着くころには
私たちは50万人の大群になっていた
いたるところに歌があり 祝典があった
そこでわたしは爆撃機の夢をみたの
ショットガンにまたがった人が空を飛んでるのよ
そしてそれは蝶々になった
わたしたちのこの国の上空で

わたしたちは星屑
何億年という年月を経た炭素
わたしたちは黄金
悪魔との取り引きにしばられた
だからあの農場に戻って
自分自身を取り戻さなくては
(「ウッドストック」 ジョニ・ミッチェル)

1969年の熱い夏、ニューヨークの郊外で行われたウッドストックは、あまりにも多くの若者たちが集まって急遽フリーコンサートとなり、MCのジョン・モリスが主催者たちの決定を伝えると、歓声とおどろきの声が丘を包んだという。
「ただし、フリーというのは好き勝ってにしていいということじゃないんだ」モリスは続けて語った。「このイベントを企画した人々は莫大な赤字を負うんだ。それでも彼らはお金よりもきみたちが最高の状態で音楽を楽しんでもらうことがずっと重要だと考えている。だから忘れないでほしい。今夜、森の中やいまいる場所で眠りにつく時、きみたちの隣にいる人間がきみの兄妹ってことを。そうやってお互いがいたわりの気持ちで接してくれなければ、この催しの意図はオジャンだ。これから先、この祭りの成功はきみたち、ひとひとりが担うんだ」
このお祭り50万人もの若者たちが集まったが、争いがひとつもなかった。若者たちは最高の笑顔を最良の態度で、心をひとつにして愛のパワーの大切さ、おたがいを思いやるという素晴らしさを、自分たちの望む社会の姿を世界に示して見せたのだ。
主宰者のマイケル・ラングは、コンサート終了後に機材をすべて欲しい人にくれてやったという。“みんなですべてを分けあう” これがヒッピーの哲学なのである。

私は有り金もなくなってベイトン・ルージュで当てもなく列車を待ってた
心はまるで擦り切れたジーンズのよう
そんなときボビーが大雨が来る前に、ディーゼルトラックをヒッチハイクした
トラックは私たちを乗せて、ニュー・オーリンズへ向かって走り始めた

私は汚れた赤いバンダナから、ブルースハープを引っ張り出して
ボビーが歌うブルースのかたわらでやさしく吹いてたわ
フロントガラスを行き来するワイパーのリズムに合わせて
私はボビーの手を自分の手の中にしっかり握って
それで、運転手の知ってる歌をかたっぱしから歌ったの

自由っていうのは、失うものが何もないってことよね
けど自由じゃなかったら、そもそもなんにも、なんにも始まらないじゃない
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ケンタッキーの炭鉱から、カリフォルニアの太陽へ
ボビーは私の心の秘密を分かち合ってくれた
いろんな天気の中を走りぬけ、たくさんいろんな事をしてすごした
そう、ボビーが私を外の冷たい世界から守ってくれていたのよ

そしてサリナスの近くまで来た日、私は彼が去って行くままにした
彼は故郷を求めていたし、私もそれが見つかればいいと思ったの
でも、本当は、彼の体にぴったりくっついていられるんだったら
そんなたったひとつの昨日を手に入れられるなら
私の明日を全部売ってしまってもいいとまで思ったわ

自由って、失うものが何もないってことね
ボビーが私に残してくれたのは自由、でも自由だけで何もなくなっちゃった
でも、気分がよくなるのは簡単よ、ボビーがブルースを歌ってくれれば
それで気分がよければ、私は、それで十分
それでよかった、私と私のボビー・マギーには

ねえ、私のボビー 私のボビー・マギー
ああ、 あの人は私の恋人、 私の男
あの人は私の恋人。 できるだけのことはしたんだけど
ねえ ボビー、 ねえ ボビー・マギー
(「ミー&ボビー・マギー」 ジャニス・ジョップリン)

1973年、学生運動が悲劇的なかたちで終演し “若者” は消滅した。“若者” だというだけで、何者であるか分かり合えるような、“ラブ&ピース”とか “長髪&エレキギター” というような共通感官が消え、音楽市場はギャングや大企業に乗っ取られ、自由も理想もあっという間に蝕まれていった。
リベラリズムの世界では、格差社会となり貧困が拡大し “自己責任” というスローガンによって、経済戦争に中に放り込まれ無意味な戦いをさせられている。人々はどんどん孤立し孤独になっていき、亀裂が生じ不安が蔓延した社会で、人々は拝外的や攻撃的になる。過酷な競争社会は、安定した社会基盤を失わせ、社会の流動化を加速さる。その結果、価値観を共有しうる相手だけと関係を紡ぎ、そこで世界を閉じることで、安定した拠り所を確保しようとする傾向を強めている。

私は生きたい、私はありたい
私は一人の美しい心を求める探求者でありたい。
それは私が決してあきらめないという意思表示で
私は金の心を探し続けてるんだ
そうして私は年をとって行く
私は探し続けている美しい心を
そして私は年をとって行く

私はハリウッドに行ったし、私はレッドウッドに行った
私は美しい心を求めて海を渡った
私は自身の気持ちのまま、それが良い道のりと
そうして私は美しい心を探し続けてるんだ
私は美しい心を探し続けるんだ
美しい心を探し続けてながら
そうして私は年をとって行く

私は探し続けている
美しい心をもとめて
君も探し続けている
美しい心をもとめて
そうして私は年をとって行く
私はひとりの探求者でありたい
美しい心を求める
(「ハート・オブ・ゴールド」 ニール・ヤング)

あの時代にもどることはできない。しかし、自分を変革して自由になることはできる。
あの時代のの運動家はエゴや野心につき動かされることがあったにしても、貧しい人々のことや、苦悩、不平等、不正義などについて真面目に考えていたものだった。人びとへの愛や、自分の人生を他人のために喜んで犠牲にしようという気持ちが強かったように、おたがいを思いやるという気持ちがあれば自由になれるのだ。そして、いつでも “ファーザー・マジック・トリップ・バス” に乗って、“旅” することができるのだ。
オーティス・レディングの声が聞こえる。
“愛しあっているかい?”

(2018年12月11日)

日々を慰安が吹き荒れる

近くのスーパーで、200円の海苔弁当か300円の唐揚げ弁当を買うか悩んだあげく、300円の唐揚げ弁当の欲望をレジ袋に入れて帰宅する途中、群衆が道をふさぐように集まっていた。「今日は何かのデモがあるのか?」と心躍ったが、期待もむなしく“ポケモンGO”の巣に集まった群衆だった。
吉野弘に「日々の慰安が」という詩がある。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が作る。
明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

慰安が笑い
ささやき
うたうとき
さみしい心の人が枯れる。
枯れる。
なやみが枯れる。

ねがいが枯れる。

言葉が枯れる。

ある解説によると「慰安」はテレビ番組のことで、自分の中に抱えている寂しさや悩み、それからもっと踏み込んだ精神性、プライド。それをテレビの慰安が吹き荒れて、紛らわしてしまう。何か考えなきゃならないことがあったのに、テレビを見てしまうといつのまにか時間が経ってる。心の中の淋しさや苦悩そんな精神が、人生にとって本当に大切なものかもしれないのに、それが浅いところで紛らわされてしまうということらしい。「日々の慰安が」は1952年に雑誌「現代詩」に掲載され、第一詩集『消息』に収められている。
この時代に流行した言葉で、社会評論家の大宅壮一の「一億総白痴化」ということばがある。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
適菜収は、テレビは基本的に“バカを生み出す機械”という。「テレビ番組の目的は、不特定多数の人間にCMを見せてモノを買わせるころです。スポンサーを得るためには視聴率を稼がなくてはなりません。そのためには「大多数が好む番組」を作る必要がある。だから「底辺レベル」に合わせた番組作りが行われます。「上のレベル」に合わせたら下がついて来れず、視聴率が稼げないからです。こうなると「底辺」に向かうスパイラルに陥ります。視聴者はバカな番組を見てバカになり、そのバカに合わせて番組を作るので、あさらにテレビは下劣になる。この構造が「モノを考えずに消費する人間=騙されやすい人間」が増えている要因です。」という。
現代社会はテレビに限らず、あらゆる娯楽があり「白痴化」が激化して「B層」社会化している。ネット社会は、おたくやフリーターを急増させ、世代間のギャップが目立つ。若者たちは政治から遠ざかり、目先の「お祭り騒ぎ」にしか関心が向かない。

サルトルが提唱した「アンガージュマン」という思想がある。「社会参加」という意味だ。サルトルがが1939年9月のある日、一枚の招集令状を受け取り、戦争という自らの個人的自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれ、いやおうなく「社会的状況」というものに目覚めることになったという。
「アンガージュマン」の思想は、サルトルが1947年の「文学とは何か?」において文学者「アンガージュマン」について述べている。だが「アンガージュマン」というのは文学者の「社会参加」という意味ではなく、一般の人間にも通じる思想である。
サルトルは『存在と無』において「人間は自らの“存在仕方”に関する限り全面的に責任がある」と主張した。人間は世界-内-存在として「事物や他者の存在する社会」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような社会と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような社会と関わって生きるということなのである。
サルトルは言っている。「たとえ石ころのように黙ってじっとしていても、われわれの受身の態度そのものが、すでに一つの行動である」このように、社会に背を向けて生きる場合でさえも、それは社会に対する一つの関わり方であり、一つの社会的立場をとることなのである。

安倍(アメポチ)政権は「戦争のできる国」から「戦争をしたくてたまらない国」へ、戦後の平和主義を否定し、海外で戦闘可能な体制を作りだし、軍隊を復活させ帝国主義に回帰したいようだ。そして、安全保障も外交も経済システムもすべて壊してアメリカに売り飛ばそうとしているのが安倍政権である。集団的自衛権の問題は、日本という国が対米追従国家であることを露呈した。
いつまでも経済会国でありたいという欲望は、グローバル経済秩序における教義とさえ言える新自由主義を絶対視している。何でも自己責任の“改革”が格差社会を作り、ワーキングプアや失業者を大量に増やすことによって「戦争」をしやすくしている。弱者は強い立場の者にへつらい、より弱い立場の人間を差別することで内心のバランスを保とうするからだ。そして、官僚や企業は政権からおこぼれにあやかろうと忖度し、メディアは権力に飼いな馴らされ社会は集団化し、対米従属を不可侵の大前提としとした帝国主義国家化へと進んでいる。
日本は世界から「働きバチ」といわれ、「ウサギ小屋」といわれ揶揄されてきた。しかし、精神性と勤勉さで「豊かな国」になったのではないのか。国民から搾取したカネを米国に貢ぎ、福祉を切り捨て、決して「豊かな国」になれない日本でいいのだろうか。年間3万人の自殺者は決っして「豊かな国」になりれない日本を象徴しているようだ。カネは人を殺す為に使うのではなく、人を殺さない為に使うべきだ。
トーマス・カーライル は「この国民にしてこの政府あり」というように、私たちは「B層」を生きては行けない。安倍晋三氏は、選挙の演説で反対派に対して「こんな人たち」と発言し、麻生太郎氏は、選挙演説で支援者に対して「下々(しもじも)の皆さん」と発言した。この程度の政治家を生み出しているのも私たち自身である。
自分の存在など、路傍の石ころみたいなものだろう。「右」も「左」も関係ない、自由を圧殺する暴力的な状況に投げ込まれないために「下」から「上」を睨み続けていきたい。
ハンナ・アーレントはいう。「思考し続けろ!」と。

(2018年12月7日)

谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~

 杉並区中央図書館で開催している「谷川俊太郎の世界 ~二十億光年の孤独~」を観てきた。

 「どこに行っても谷川さんに会える」をコンセプトに、中央図書館全てをキャンバスとして谷川さんの詩や写真などを展示します。読書に疲れてふと見上げると谷川さんの詩や写真がある。図書館全てが谷川さんの「ことば」(メッセージ)で溢れています。
 また、谷川さんの詩に感動したら谷川さんへの「メッセージカード」にあなたの思いを書いてみよう!特別展示コーナー(1階CDコーナー横)にあるとのこと。(杉並中央図書館HPより)

 谷川さんが詩人としデビューするきっけとなった手書きの2冊の詩集ノートがあるという。
 谷川さんのお父さんが知人であった三好達治氏に、この2冊のノート見てもらい評価されたことによって、出版社に推薦され第1詩集『二十億光年の孤独』の出版に至ったものである。
三好達治氏は『二十億光年の孤独』の「序にかえて」で書いている。

 この若者は
 意外に遠くからやつてきた
 してその遠いどこやらから
 彼は昨日発つてきた 
 十年よりもさらにながい
 一日を彼は旅してきた
 千年の靴を借りもぜず
 彼の踵で踏んできた路のりを何ではかろう
 またその暦を何ではかろう
 (略)
 一九五一年
 穴ぼこだらけの東京に
 若者らしく哀切に
 悲哀に於て快活に
 ——げに快活に思ひあまつた嘆息に
 ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は
 ああこの若者は
 冬のさなかに永らく待たれたものとして
 突忽とはるかな国からやつてきた
 (『二十億光年の孤独』 序にかえて 三好達治より)

 この2冊のノートが現代詩の出発点といっていいかもしれない。そして、穴ぼこだらけの心を解放と安心で満たされた人も多いことだろう。
 この展示でこの2冊のノートと、三好達治氏の「序にかえて」の生原稿が見ることができます。ガラスケースに入っているので実際に手にとることはできないが、「二十億光年の孤独」「新緑」と「雲」「ある世界」が載っているページがそれぞれ開かれている。
 平成30年11月3日(土曜日)から平成31年3月31日(日曜日)まで開催しています。無料ですので、お近くの方は観にいかれたらよいかと思います。

■2冊のノートとは
 ノートは全部で4冊(谷川さんは2冊だと思い込んでいた)あるという。1冊目のノートは「傲岸ナル略歴Ⅰ」には60篇(1949年10月12日〜1950年3月4日)、2冊目のノート「電車での素朴な演説Ⅱ」には56篇(1950年3月6日〜5月9日)、3冊目のノートには80篇(1950年5月10日〜1952年2月23日)の詩が収められている。3冊のノートの詩を合わせると、196篇となる。年度別に見ると、1949年8篇、1950年には、150篇1951年には、35篇、1952年には3篇と、詩の数は高校を卒業した年の1950年が圧倒的に多い。
 この時期の詩で活字になったものは、『二十億光年の孤独』(創元社、1952年)に50篇、「二十億光年の孤独 拾遺」(『日本の詩集17 谷川俊太郎詩集』(角川書店、1972年))21篇、「〈62のソネット〉以前」(『愛について』(東京創元社、1955年))に11篇、『十八歳』(東京書籍、1993年)に62篇、合わせて144篇の詩を私たちは目にすることができる。
 詩には、書いた日が添えられている。制作された日の順に詩を読んでいくと、作品が多い17歳後半から19歳半ばくらいまでの時期は、若い詩人の詩の変化がたどれるように思えるという。
 4冊目のノートはデビュー後の作品が大半で、詩の性格も『62のソネット』につながるもので、谷川さんの運命を変えたノートとして、3冊と考えるのが自然だろう。(『ぼくはこうやつて詩を書いてきた』山田馨より)

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。(『徒然草』)

 詩でなければ伝わらないことがある・・・。
 それを探し続ければたとえ孤独であっても豊かになれる・・・。

(2018年12月2日)

詩人であったテロリスト

 石川啄木は「ココアのひと匙」で、大逆事件で処刑された幸徳秋水たちテロリストの悲しい心情を詠った。

「ココアのひと匙」  石川啄木
われは知る、テロリストの
かなしき心を──
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
奪われたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を──
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

 大逆事件から12年後の大正12年に起きた関東大震災のどさくさに紛れて、社会主義者の虐殺が軍・警察の手で実行され、故意に流されたデマに踊らされて多数の朝鮮人・中国人が犠牲になった。
 アナキストたちがもっとも激昂したのは、大杉栄・伊藤野枝夫妻の虐殺だけでなく、思想的には何も関係ない大杉の甥の橘宗一少年(6歳)が、一緒にいたというだけで締殺された事だ。しかも反抗がバレないように遺体は大杉夫妻とともに古井戸に投げ込まれた。これはおそるべき犯罪行為である。
 その復讐に起ち上がったのがアナキスト中浜哲と古田大次郎が率いるギロチン社と、大杉直系の労働運動社の和田久太郎たちだった。

 人は「この社会を変えよう」と思いつめた時、自分の肉体のみを武器としてテロリストを目指す。自分の目の前で人が苦しんでいて、政府や富豪やら、だれが悪いのかもはっきりしている時、どうしようもなく義憤に駆り立てられる。たいていは弾圧されて、ぶっ殺されるだけだろう。いまの自分の利益を考えたら損するだけだ。でも、それでもいい。ただ一撃でいいから、悪いやつらに鉄槌をくだしたい。そうやって、世のため人のため、身を捨てておのずから動くのだ。

「詩人であったテロリスト」 辺見吉三 (『墓標なきアナキスト像』より)

 アナキズムが、今もなおダイナマイトやピストル、そして暗殺者の黒い恐怖として、人の胸裏に伝説となっているとしたら、それはただアナキストのみのゆえんであろうか。
 明治43年夏、幸徳秋水らは明治天皇暗殺をはかったとしてつぎつぎに逮捕され、翌年1月12名は死刑、12名は無期となった。
 そのとき幸徳らは誰をも殺さず、また傷つけたのではない。さかさまに彼らこそが、天皇制にくびり殺されたのにある。

 大正12年から13年にかけて、違いわゆるアナキストのテロルとよばれる一連の事件が連続しておこった。
 そのテロルとは、合計した結果でも、あやまって1人の老人をころし、わずかに2人にかすかな負傷をおわせただけのものにすぎない。しかも天皇制政府は、それへの見返りとして数十人をとらえ、数十人を獄死させ、あるいは死刑に処したのである。
 そして政府はそれらの内容の漏洩をまず記事差し止めで防ぎ、ついで理不尽な処刑にふさわしくデッチあげ、全く一方的に潤色して発表したのにあった。
 このようにして、アナキズムの歴史がテロルの血によって書かれている、と人々というならば、その血は、天皇制政府によって流されたアナキストのものであること、テロルの黒い伝説は、アナキストに対しての天皇制そのものにこそ、与えられねばならぬことが明らかだろう。
 だが、それはもちろん、アナキストが、他の誰よりも目立って、天皇制への反逆者であったことを意味している。
 しかしまた天皇制絶対状況のもとでの、ことに〈大逆〉は、それ自体として存在しえないもの、または〈死〉にほかならなかった。
 それゆえにアナキストたちが——日々の〈生〉が〈生そのものとして死化している〉日常において、自己の〈生の死化〉を認めつつなお闘おうとするとき、おのれの内面を今まで支えた確たるもの——〈志〉あるいはアナキズムの喪失をしらなければならなかった。
 またその〈志〉の喪失感の深さは、その深刻さに比例した自己処罰のニヒリズムとして、彼らをはげしく衝ききゆるがすものであった。
 それゆえ彼らが、〈大逆人〉の位置にみずからを捉え、自己を律することでおのれの〈生〉を絶対化しようとしたとき、うかびあがってきた〈死〉は、〈生〉そのものとしての〈志〉の復活であった。
 しかしそれは古田の手記にある「死と結婚した」人間の「死と握手している寂寥やる方なき心をば、深く胸中に蔵した時のみ得られる」という——〈生〉のアナキズムから転生した〈死〉テロリズムへの——〈志〉にほかならなかった。
 このようにみるとき中浜鉄、古田大次郎、後藤廉太郎、和田久太郎、村木源次郎……と彼らのほとんどが詩人であったことは、また偶然ではない。
 彼らにとって、〈死〉はまた〈詩〉の極致でもあった。
 そしてテロルが〈詩〉とむすびつくのは、生の跳躍としての自己投企において、〈死〉を貫徹させること、その〈死〉的燃焼の完結性——完璧性としてである(その故に、中浜や和田は無期をでなく、裁判でも死刑をあのように望んだのでだった)。
 このようにして彼らが、その最後の〈死〉において表現したものは、それそのものとしての〈志〉であり、また〈詩〉であった。
 いいかえれば〈死〉によってしかあらわすことのできない、それは〈志〉であり、〈詩〉なのであった。
 もはやそれそのものが目的となった〈詩〉あることによって〈志〉の、はげしくうつくしい〈死〉であった。

 チェ・ゲバラが語ったなかで好きな言葉がある。
ラテンアメリカ革命のための山岳ゲリラ戦で、山の中を追われて逃げている時、撃たれてもう動けなくなってしまった仲間が「足手まといだから自分をここに置いていってくれ」と言ったら、ゲバラは「お前さんを釣連れて一緒に行くのが革命のポエムだ」と言ったという。ただ足でまといだからというのでどこかに収容するのではなく、それを一緒に背負っていくことが人間的な社会を象徴する、革命というのはそういうことだと思う。

 大杉栄は喝破した。「国家がやっていることは、暴力をつかって人びとを生きのびさせることである。ただ生存のために生きさせること、それ以上の生きかたを認めないこと。キーワードは奴隷根性であり生の負債化だ。人びとは、負い目をせおわされることによって、特定の尺度をうけいれ、こうやって生きるべきだと思わされる。まわりの評価を気にして生きること。もっと評価されようとして、他人と競い合うこと。それは、奴隷が主人によろこんでもらおうと、四つんばいになってしまう」というようなものだと。

「むだ花」 大杉栄
生は永久の闘いである
自然との闘い、社会との闘い、
他の生との闘い、
永久に解決のない闘いである。

闘え。
闘いは生の花である。
みのり多き生の花である。

自然力に屈服した生のあきらめ、
社会力に屈服した生のあきらめ、
かくして生の闘いを回避した
みのりなき生の花は咲いた。
宗教がそれだ。
芸術がそれだ。

 闘うとは「ポエム」なのだ。
 生きるとは「ポエム」なのだ。

(2018年12月1日)

石牟礼道子さんへ② 「問い」

 想像してみよう。
 「自分の住む町に大きな工場があり、もくもく煙を吐いている。ある日突然猫がよだれをたらし、激しく痙攣して海へ飛び込み、鳥が空から落ち、近所に住んでいる人たちが狂ったようになり奇声を発して次々に死にはじめる。両親も、子どもも狂死する。何とか生き残った住民たちはその侵害された身体を引きずりながらも、工場に排煙を止めるよう要求し国や県に訴える。工場は因果関係の証明がないとして訴えを拒否し、国も県も何の対策もとらない。むろん、住民たちの抗議の暴動が起こる。だが、警察は被害者を逮捕する。被害者は周辺の住民たちから徹底的に差別され続ける」ということを。
 これが映画でも小説の世界ではなく、今から60年前に日本の水俣で起きた現実の出来事である。

水俣病とは何だったのか?

 水俣病事件とはジェノサイド(大量殺害)だ。アウシュヴィッツが陸のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空のジェノサイドだったとすれば、ミナマタは海のジェノサイドである。ジェノサイドの本質とは、国家と産業の発展を優先させ、生命の尊重や人間の尊厳を二の次とする倒錯した政治にほかならない。
 戦後日本の急速な高度成長は、チッソ(当時は新日本窒素肥料)の生産したアセドアルデヒドなしでは達成できず高度成長のためには、つまり「豊かさ」を追求するには、有機水銀を海にたれ流してもアセドアルデヒドの増産を中断することなく続ける必要があり、政府もそれを黙認した。それは一部の人間を犠牲にしてでも「豊か」になる社会システムだった。

「豊かさ」とは何なのか?

 現代社会の支配的な価値観である効率主義や物質主義は、家族やコミュニティーをバラバラにひき離し、友情を忘れさせ、人びとが共有する未来について、あるいは自然とともに生きる人間の生き方について、考える時間を奪い去ってしまった。
 もともと経済活動は、人間を飢えや病苦や長時間労働から解放するためのものであった。経済が発展すればするほど、ゆとりある福祉社会が実現されるはずであった。しかし、日本は金持ちになればなるほど逆である。人びとはさらに追い立てられ、自然はなおも破壊されていく。
 効率を競う社会制度は、個人の行動と連鎖的に反応しあっているから、やがて生活も教育も福祉も経済価値を求める効率社会の歯車に巻き込まれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るため利己的にならざるを得ないから、人間は意地悪になったり欲張りになり、弱者をかばうこともなくなり、万人は万人の敵となり、自分を守る力はカネとモノだけになる。

自らの「問い」を生きていきたい。

 「豊か」になる社会システムでは、政治家が寄生している企業があり、その企業は人権や自然を破壊してまで利益を追求する。企業には従業員がいて、消費者が存在する。自分自身やあなたがその従業員であり、消費者の一人なのである。水俣病事件は利己的な醜い自分自身を深々と映し出した。「豊かさ」の影で弱者が犠牲になるシステムに加担しないために、体現者たちの声を聞き、この時代に生まれた者として自らの「問い」を生きていきたい。

■緒方正人の「問い」
 水俣病被害者で水俣病患者運動のリーダーだった緒方正人さんは「チッソは私であった」と語った。
「チッソとは何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり便利なモノであったり、いわば「豊かさ」に駆り立てられた時代であるわけですけれども、私たち自分の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。
 この40年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスティックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にたくさんあるわけです。水道のパイぷに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけど、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」と求めたこの社会は、私たち自身ではなかったか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかというころが、大きな問いとしてあるように思います。」と自ら「問い」て、人として生きたい。一人の「個」に帰りたいという。

■原田正純の「問い」
 水俣病に一生をかけて向き合った原田正純医師は、「水俣病の臨床的な研究をすることとなり、水俣を訪れたのが水俣病との出会いであったと。その最初の経験では、東京の豊かさと水俣の悲劇と貧しさの落差に愕然とした、治らない病気を前にして医者に何ができるか、何をすべきか」という患者からの深い問いかけに直面することとなった。医師と患者の関係は単に「治してあげる、治してくださいでしかないのか」と自らを「問い」た。無力である自分を突きつけられ、逃げず水俣病につきあうことを選択したという。そして「人類は、自然界には存在しない科学物質を開発し、気がついてみれば、私たちの周りには化学物質によって取り囲まれてしまっている。人間はどんでもない過ちを犯そうとしているのではないか。人類はもうこれ以上、何をどう便利に、豊かにしようというのだろうか。しかも、その恩恵に浴しているのは一部の人間だけである」と世界各地で公害病の調査研修をした、第一人者が強く批判している。

■山内豊德の「問い」
 環境庁企画調整局長だった山内豊德さんは、水俣病認定訴訟において、国側の担当者となり、被害者側との和解を拒否し続ける立場にあったが、人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み、1990年12月5日に自殺した。
 山内豊德さんは、東京大学法学部を卒業して厚生省に入省した。中学生の時に骨髄炎にかかり身体はあまり丈夫でなかった。経済的には恵まれており、成績も抜群で、まさにエリート中のエリートではあった。しかし、生い立ちもふくめ、家庭的な愛情にはあまり恵まれて育たなかったため、社会的な弱者救済を設けられた厚生省を選んだという。
 厚生省で福祉課長をしていた時代には、「人間はね、人を愛するという気持ちがなかったら人間じゃないよ・・・・。これは福祉に限ったことじゃない。行政に携わるすべての人間の基本は人を愛するという気持ちを持つことだよ」、「相手の心を汲み取って人に対処するようにしないといけない。自分の立場だけで判断していちゃ福祉の仕事は駄目だよ」と部下に語っていたという。
 文学志向でもあったという山内豊德さんの15歳の時の詩がある。

【しかし】 山内豊德
しかし‥‥‥と
この言葉は
絶えず私の胸の中でつぶやかれて
今まで、私の心のたった一つの拠り所だった
私の生命は、情熱は
このことばがあったらこそ‥‥‥
私の自信はこのことばだった
けれども、
この頃この古葉が聞こえない

胸の中で大木が倒れたように
この言葉はいつの間にか消え去った
しかし‥‥‥と

もうこの言葉は聞こえない
しかし‥‥‥
しかし‥‥‥
何度もつぶやいてみるが
あのかがやかしい意欲、
あのはれやかな情熱は
もう消えてしまった

「しかし‥‥‥」と
人々にむかって
たゞ一人佇んでいながら
夕陽がまさに落ちようとしていても
力強く叫べたあの自信を
そうだ
私にもう一度返してくれ。

 人は年齢を重ねていくにつれ、人は「しかし」という言葉を自分の中から失っていく。そして、その言葉を「だけど‥‥‥」という言い訳の言葉に変えながら生きていく。山内さんはそれが許せなかったのかも知れない。「しかし」と言えなくなった53歳の自分を、15歳の自分によって裁いてしまったのでないか。“もう一度返してくれ”という山内の叫びは、自分に向けてのものだったのか。「だけど」という時代へ向けてのものだったのか。
 山内豊德さんは、加害者なのか被害者なのか。
 福祉にとっての理想主義が経済優先の現実主義に圧倒されていく、その下降線の時代を山内さんは必死で生きようとしたのだと思う。高級官僚としてその下降に立ち会ったと責任においては彼はやはり加害者側の人間だったと言わざるを得ないし、又同時に時代の被害者だったとも言えるような気がする。彼はそのふたつのベクトルに引き裂かれながらアイデンティティの「二重性」を生きたのだろうと思う。少なくとも彼は自らの加害者性というものを痛みとともに鋭く認識していたはずである。それは彼が出した結論からも推測できる。しかし、これは彼に限ったことではなく、今という時代にこの日本という国で生きていくということは否応なくこの「二重性」を背負わざるを得ないということを意味している。ただ多くの人はこの内なる加害者性と向き合うことが辛くて、眼をそらしているに過ぎない。
 この「二重性」を生きているという自覚こそが、そして開き直るのではなく、そこから出発する覚悟が私たちに求められている。そして、その辛い自己認識から眼をそらすことなく、私たちはその「二重性」と向き合う態度を身につけ、覚悟を持って生きなければならない。

 被害者は苦しみながらも日本の未来に向かって自らを「問い」た。そして、多くの人間たちが水俣病から逃げずに寄り添い続けた。
 しかし、加害者側の人間たちは自らの「問い」を生きていたのだろうか。チッソや行政の多くの人間たちは、有機水銀を海にたれ流していたことは知っていたはずだ。ジェノサイドとはナチスのアウシュヴィッツがそうだったように、決して悪魔のような人間が行うのではなく、普通の人間が自己保身のために行うものだ。アンブロース・ピアスの『悪魔の辞典』によれば、「会社」とは「個人が利益を得ながらも、個人的にいかなる責任も負わないで済むための巧妙な仕組み」というが、チッソや行政の人間が一人でも見てみぬフリをせずに早い段階で反対の声を発していたなら、ここまで被害が拡大することはなかっただろう。

水俣病は終わっていない

 企業の責任は法的には明らかにされたが、企業の裏にある国や行政の責任が今なお明確にされていない。今までに一度も不知火海一帯の人たちへの健康調査すら実施しておらず、健康破壊の実態はわからないままだ。いじめが怖くて隠している人、チッソに気をつかってきた人、病気を我慢している人など、さまざま理由で取り残され苦しんでいる人たちがたくさんいいて、被害者救済は決してうまくいっていないのが現状だ。そうしたなかで、すでに多くの人が亡くなってしまった。
 国や行政の責任が明確になり、すべての被害者が救済され、人間が差別されず自然と共生する地域社会を創造するまで、水俣病事件は終わることはない。
 日本人は歴史に学ばない、歴史の教訓を生かさない。振り返らない。検証しない。後悔しない。反省しない。悩まない。やっぱり3.11の福島原発事故でも同じ過ちをくりかえした。不誠実な情報提供、責任の不追求、なし崩しの政策回帰、すべての生き物と自然の破壊。そして東電の経営者は現状の体制を維持すると決め、株主もたま原発の維持を承認した。これらすべてはこの国が水俣病事件から本質的に何も学んでいないという事実を突きつけている。歴史は繰り返す、という言葉をこれほどに再現した例は稀有だろう。
 何よりも深刻なのは、子どもたちの健康被害だ。水俣病事件では、チッソが有機水銀をたれ流していた当時の子どもたちが今苦しんでいる。子どもたちの人権が守られなかったのが水俣病事件であり、国の論理では個人は守られないと証明されたのが水俣病事件である。
 どうして、この国は「人を人と思わなくなってしまった」のだろう。子どもたちを守れないこの国に未来はない。そして、壊した自然は二度と元には戻ることはない。この国が辿り着く先には「豊かさ」という言葉だけが虚しく響くだけだろう。

 決して忘れてはいけない言葉がある。
 原田正純医師の「公害が起こって差別が生まれるのではなく、差別のあるところに公害が起きる」という言葉である。そして、「差別は必ず強い者から弱い者へと向けられていく」ということも。
 水俣病は1956年4月、総合病院に狂躁状態を呈した5歳の少女、田中静子さんがかつぎこまれたことが始まりだ。そして、8日後には3歳下の妹、実子さんも同じ症状で入院した。
 この姉妹の姉の下田綾子さんの手記によると「私の家は、チッソの排水口に近い水俣湾の坪谷にあって、すぐ下が海になっているんです。潮が満ちてきたら家から魚が釣れるぐらいです。上の妹の静子は当時5歳で、下の実子は3歳でした。静子はうちの中でも一番明るい子でした。近所の人が通れば、お茶も沸いていないのに「おじさん、お茶が沸いとるから飲んで行かんな」なんていうて人を寄らせていたんです。実子はいっつも「静子ねえちゃん、静子ねえちゃん」ちいって静子のあとをついてまわっていました。2人には海岸が遊び場、運動場だったんですよ。貝とかビナ(巻き貝)を採るのが好きで、船をつなぐ波止場に小さなカキがいっぱいつくんですけど、潮が引くと、すぐ二人で弁当箱とカキ打ちを持って行くんです。静子は上手だったから、2人分ぐらいはすぐ採って、実子にも食べさせていました。カキとかカラス貝なんかも毎日、味噌汁にして食べてました。いま考えれば、毒が入ったのを「美味しい、美味しい」ちいうて食べていたんですね。静子も実子もやっぱり魚は一番好きでしたから、たくさん食べていたんです。
(途中略)
 熊大の病院に3年間入院してたんですが、脊髄から水を採ったときの怖さが頭にこびりついとったんでしょうか、ずっと目も見えないままで、ものもいえないし、手も足も曲がってしまって、身体もエビが曲がったようにしとったんです。そして昼も夜もずっと泣いて、泣きつづけて亡くなったんです。話せば淡々としてしまうんですけど、静子は本当に苦しんで死んだんです。口ではいえないくらしです。今日、熊本大学に保存してあった静子の脳の標本を初めて見ましてね、ひどく小さくなっていましたから無理もなかったんだなと思って、残念でたまりません」と無念さを語った。
 静子さんは、病院にかつぎこまれてから3年後の1959年1月2日に亡くなった。実子さんは24時間、ヘルパーの介助を受けながら、水俣病の症状のある姉の綾子さん夫婦と一緒に暮らしている。

 想像してみよう。
 大人たちが有機水銀をたれ流した海で、何もしらない3歳と5歳の幼い姉妹が貝を採ってる姿を・・・。

参考文献
『証言水俣病』栗原彬 岩波新書
『水俣病は終わっていない』原田正純 岩波新書
『チッソは私であった』緒方正人 葦書房
『雲は答えなかった』是枝裕和 PHP研究所

(2018年11月24日)

辻征夫の「電車と霙の雑木林」を読む

「電車と霙の雑木林」 辻征夫

霙の雑木林のはずれを
電車が通過して行きました
いくたりかの乗客がいましたが
窓に顔をおしつけて
霙の雑木林を眺めていたのは
子供のときのわたくしです

子供は
冬枯れの景色を覚えていて
作文を書きました―
霙の
雑木林に
背の高いひとがいて
ぼくを見ていた
くぬぎ
けやき
いぬしで
うつぎ
こぶし
やまざくら
霙の雑木林で
そのひとは
電車の中のぼくを見ていた
傘をさして
黒いコートで

霙の雑木林のはずれを
電車がガタビシ通過して行きましたが
あの小さな乗客が
ここに来るまで
およそ四十年かかるというのは
気のとおくなるはなしです
いくつかの都市と
学校と
いくつかのこころの地獄を
なんとか通過してくるのですが


 
静かな夜だ。
小さな灯りに映った自分の影を視ていると、時空を超えて古い時間の自分と出会えるようだ。
私たちは、私ちのまわりの世界と対話することはできない。
すべての物の存在には意味はないからだ。
そもそも、私ちがそれぞれ「この私」であることにすら何の意味もないのである。
だからこそ、日常を超えて時空も超えて、古い時間の自分と対話するのである。
それでも生きていけるのは、くぬぎ、けやきの繁る暗い森に、こぼれ日が射す明日があるからだ。
自分の中の何かだけが時空を超えて、ただここに存在している。
静かな夜だ。

(2018年9月25日)

茨木のり子の戦後

 自ら始めた戦争を自ら終わらせることが出来ず、ただ無責任に継続させて南方戦線では飢餓と病死、沖縄決戦と日本軍による沖縄住民への虐殺、広島と長崎への原爆投下、東京大空襲と戦争末期に死んでいった人々の数は膨大であり、その甚だしさが「天皇の詔書」というたった数分のラジオ音声で一変してしまうというとんでもない理不尽さを、日本の「戦後」は問い続けなければいけなかった。
 だが、そんな問いなど気にも留めず、あっけらかんと始まった日本の戦後は戦中と同様に「無責任」な体質は変わることはなかった。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 茨木のり子さんが、詩を公表しはじめた一九五〇年代初めは、朝鮮特需の時代。いわゆる人殺しの片棒を担いで儲けたお金で戦後復興した時代だ。
 茨木さんの代表作である「私が一番きれいだったとき」(『詩文芸』一九五七年二月)は、敗戦後の心情を謳い、青春時代を思い起こすとともに、その時間が戦争に奪われた悔しさを取り戻すべく謳ったものだ。
 茨木さんはこの詩を書いた心境を「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」としみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「私が一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったからかもしれない」(「はたちの敗戦」)と記している。

「わたしが一番きれいだったとき」 茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

 茨木さんの古くからの詩友である谷川俊太郎さんは、「「基本的に茨木さんは正しいことを書く人で、詩というものは正しいことを書くものじゃないと思っていたから、ちょっと肌に合わないところがあった。」「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩がありますよね。あれなんかでも僕は書き過ぎていると思う。この行(第五、第六、最終節)は切っちゃえばいいのになんて直接言ったりして、茨木さんは苦笑してました。」と記している。
 この詩の第五節では「そんな馬鹿なことってあるものか」と、第六節では「異国の甘い音楽をむさぼった」と、最終節では「できれば長生きすることに」と謳われている。敗戦を喜べないが、解放を思う存分に謳歌する。それは「わたしの国」の敗戦にとまなう解放であり、また「異国」による占領もとでの解放であるため、矛盾と葛藤をはらんだ解放の心情が謳われている。一九四五年八月の複雑な心情を、一九五七年の時点であらためて整理し、その時期の社会にぶつけたのが、この詩である。一九三一年生まれで、茨木さんより五歳年少の谷川さんとて、敗戦に複雑な感情をもったはずだが、であるからこそ茨木さんのこの詩の第五節で敗戦の屈曲をいい、第六節で全面的な開放感を謳うという、相矛盾する心情をそのまま書き付けたことに、谷川さんは違和感を持ったのでないかと解釈できる。
 文化人に限らず、誰もが戦後の生き方を問われた時代であっただろう。
 茨木さんは「国のためなら死のうと思った」と語るほどの軍国少女だったという。だからこそ、敗戦と占領の負の記憶をたどることによって「正しい」ことを書き、国とは何か、大義とは何か、生きるとは何か……。内省を強いる深い「問い」を抱きつづけた。

 「四海波静」 茨木のり子

 戦争責任を問われて
 その人は言った
 そういう言葉のアヤについて
 文学方面はあまり研究していないので
 お答えできかねます
 思わず笑いが込みあげて
 どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘

 昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五年十月、皇居内で記者会見した際に、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。」と、質問をしたことに対して、昭和天皇が、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えた。
 「四海波静」は、この昭和天皇の「無責任」な発言への直截な憤りを込めた詩だ。
 茨木さんはこの詩を書いた気持ちを、「かつて戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。
 しかし、ジャーナリズムの反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」という頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私は長く詩を書き続けてきたものだが、、この天皇の言葉を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった。」と、記している。
 この詩は天皇だけを非難しているのではなく、「頼朝級の野次ひとつ」飛ばさないジャーナリズム、さらにその背後にある「黙々の薄気味わるい群衆」の自ら思考停止し、歴史に向きあることをしない人間を非難しているのである。
 この昭和天皇の記者会見が行われたのは戦後三十年目である。さらに四十余年の月日を重ねた現在、敗戦を「終戦」、占領を「駐留」とすり替え、あったことをなかったことにせんとするばかりの糊塗、権力への忖度、萎縮、自己規制がまかり通っている。「歴史」に向きあることなしに過去が過去として精算されることはない。
 茨木さんは、「私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持ちで詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っておいう思いがいつもありましてね、信じられないかもしれませんが(笑)。それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある。それが間接的に人を励ますことになっているのかもしれません。とにかく私自身は強くはない。弱い人間です。」と自ら語るように決して強い人ではなかったと思う。だからこそ、自分自身を律することにおいて強靭であり、その姿勢が詩作するというエネルギーに源であっただろう。正しく生きるとは、「歴史」にきちんとした筋を通して生きることである。
 はたして戦後の日本は平和なのだろうか。「直接の銃撃戦」という意味において戦争の最前線には参加していないが、戦争そのものには「兵站」「後方支援」という形で積極的に関与している。そして、その結果、日本は数多くの国際戦争で間接的に他国の兵隊や民間人を殺している。「平和国家日本」は欺瞞であり虚構である。わたしたち日本人は両手を赤く血に染めているのである。現在も、戦中となんら変わることなく人を殺す社会であり国家である。ただその方法が巧妙で、直接的でなくなったというだけの話である。平和とは誰も殺さず、そして誰にも殺されない社会のことをいうはずだ。
 茨木さんの走り続けた戦後は決して終わっていない。わたしたちが、そのバトンを受け継がなくてはならない。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

と、自分に言い聞かせて………。

参考文献
「茨木のり子 女性にとっての敗戦と占領」 成田龍一 〈『ひとびとの精神史』〉 (岩波書店)
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治 (中央公論新社)

(2018年8月27日)

最後の放浪(されく)詩人 高木護

子どものころ森に入ると、風にも、川にも、木にも、草にも、魚にも、声があった。
自然こそが最高の教師だった。

「童謡」  高木護

海を買いにゆく
がったんごっとん
むかしの少年は
むかしの唄を
口笛にのせて
いそいそ
青い海を買いにゆく
ここらには
涙を溜めた貝がいて
ここらには
法螺吹き魚がいたそうな
恋をして
あの、あの
そっと指切りして
たったそれだけ
忘れられない人は
海の瞳

「こんな詩は、いまの時代になかなか生まれなくなった。それほそ人間は知らず知らず詩を生み出せぬような、乾いた世界にとりかこまれて、心の荒廃限りもないということだろうか。それを排除して、高木さんは生きている」と評したのは永畑道子だ。
 高木さんは昭和二年に熊本県山鹿市に生まれたが、生まれつき体が弱く、戦時中は軍属としてシンガポールへ送られときにマラリアに罹ってしまった。奇跡的に一命を取り留めたものの、復員してからマラリアの後遺症に悩まされながら、残された五人の兄弟姉妹を食べさせるために仕事を探した。しかし、どこの会社の面接を受けても採用されなかった。それならばせめて自分尾食い扶持くらいは減らそうと、自然の山道を孤独に歩きだした。脳裏には自然の中での「野垂れ死」という言葉を描き、宗不早のような行く着く先での自然死を心のどこかでは願っていた。高木さんのいう「野垂れ死」とは、人が何かに失敗して死んでいくのではなく、生きていくうえで垢のように身につけてしまってきた物を捨てて生まれたままになって死んでゆくことであり、いかにして裸の自分になるかという努力することだという。

「返す」  高木護

むずかしいことは判らない
この世にうまれてきた理由も
判らない
なぜ、といわれても判らない
すみません
あなたに骨を返します。

 辛いことばかりが続くと、「なんのためにこの世に生まれてきたのか」「何故生きているのか」「これからどうすればいいのかわからない」と、人生を深く考えやすくなる。
 高木さんは、逃げているわけでもなく、居直っているわけでもなく、まるで子どものように「判らない」という。そして、「人間は自然の一部であり自然に生かされているといる」、「ここまで生かしてもらったことにともて感謝している」ともいう。
 高木さんの心の中には今でも森があり、川が流れ、雲が流れ、緑の木が揺れていて自然と一体なのだ。欲望を捨てて「無」になれるから自然の声が聞こえるのだろう。歩いて「無」になることが大切である。「無」とは生と死が同じであり、等価である。生は死へつらなり、死があるからこそ生が生まれる。その無限に巨大な「無」、あるいは自然を高木さんは表現しつづけてきた。
 だから、高木さんは急がない。求めない。ぶらぶらとただ歩く。自分をたのしませることによって、人をたのしくさせるのだ。

「夕御飯です」  高木護

灯りがゆれると 私の胸に想いがいる
想いを 箸でつゝくと
お前らの瞳の中に
遠い湖があり
青い魚が跳ねている

呼ぼうよ 遠い日を
こゝには 父が坐っていたね
そこには 母が坐っていたね
いまその暗い影に
私が 坐り
お前らが 坐っているね
時に流れ
それは 哀しみのぎつしり
敷詰められた小径だった

「足こそは私の思想であり、私の哲学である」と語る高木さんは、「足は、歩くだけにあるのではなく、歩くおれらの心の道をみつけるにもある」、「人間は他の生き者たちの心と比べたら、使い方によっては大きくもなるし、小さくもなるし、豊かにもなるし、乏しくにもなるし、広くもなるし、狭くもなるし、善くもなるし、悪くもなるし、楽にもなるし、苦しくもなるし、明るくもなるし、暗くもなるし、しあわせにもなるし、ふしあわせにもなる」という。
 「歩く」とは自分の心の道を探すことである。ただ、足で歩くだけではせいぜい歩いたというだけの自己満足しか得られないが、自分の心の道を探し出して歩いたら、よい人間になる修業になるのである。

 高木さんの「足の思想」は、老子の思想と通じるものがある。老子のいう「道」とは普段歩くために使う道路のことではなく、人間社会からはるか宇宙に至るまでの根本的な原理であり、人間が生きる上で手本とするべき最高の理想、すなわち道徳のことだ。その「道」からあらゆるものが生まれてくると老子はいう。また「道」とは本来、言葉にできるものではなく「名無し」の状態を指し、なにもない天地の始まりのようなものであるそうだ。そこから万物が生まれることで、はじめて「名有り」の状態になり、無から有が生まれるという構図ができるという。その後に、「道」に内在している「徳」の働きが、万物を養い育てるという。