投稿者「dada.sakai」のアーカイブ

共に平和を生きる

「死」 (『原爆詩集』峠三吉 より)


泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩こめた塵煙じんえんの
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている
背中から突き倒した
熱風が
袖で肩で
火になって
煙のなかにつかむ
水槽のコンクリー角
水の中に
もう頭
水をかける衣服が
焦こげ散って
ない
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵かかとがとれ
せなかに貼はりついた鉛の溶鈑ようばん
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴ふきこむ
火と煙
の渦
〈ヒロちゃん ヒロちゃん〉
抑える乳が
あ 血綿けつめんの穴
倒れたまま
――おまえおまえおまえはどこ
腹這いいざる煙の中に
どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまずき仆たおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつ癇高かんだかいさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥むけた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿のうしょう
むしこめる煙、ぶっつかる火の風
はじける火の粉の闇で
金いろの子供の瞳
燃える体
灼やける咽喉のど
どっと崩折くずおれて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

峠三吉の『原爆詩集』を高く評価している詩人のアーサー・ビナードが「死」の解説をしている。

「!」

原爆さく裂の瞬間を「ピカ」と称したのは被爆者の実感だが、それでも、後から言語化した感はある。「!」は、言語化するいと間もなく、熱線と放射線に射抜かれた感じが伝わる。そして、生き延びようと逃げる体験に読者を巻きこみながら、文は切断される。

<あ
にげら
れる>

日本語の常識では決して改行しない箇所で、なぜ切ったのか。峠はここで、「日本語をヒバクさせた」のだと思う。放射線でDNAが切断されたように、言葉が切れちゃっている。ヒバクさせた言葉で、読者を実体験の近くまで導く。
詩はこう終わる。

どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

巻きこまれた読者一人一人は、ついに逃げ切れず、死に直面する。心地よい調べではないけれど、21世紀半ばからの核時代になくてはならない詩の表現であり、内部被曝をもたらす放射能汚染が途切れない21世紀まで見通した言語的実験だ。

アメリカ生まれのアーサー・ビナードが『原爆詩集』を評価した事の意味は大きいことだ。
アメリカでは原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という考え方が主流で、学校でもそう教えられるという。
心の奥底から戦争への憤りを覚えるのは、人類の歴史で発展しきてた「文化」である。
「異文化」を理解することは、「文化」の多様性を理解することであり、それを十分に理解できれば、「異文化」の人に対してもいたずらに偏見を持ったりしないし、共感することが容易になるはずだ。
「文化」は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあり、人間は欲動から自由になれないが「文化」を獲得することで、知性の力が強くなりそうした欲動がコントロールされるようになっていく。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになる。いわゆる「オタク的」になればいいのだ。秋葉原に観光に来るアニメ好き、ゲーム好き外国人は礼儀正しくて、優しそうな顔をしているのも「異文化」を理解しているからだ。
新の平和主義者とは、「文化」の発展を受け入れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことだ。

(参考:『ひとはなぜ戦争をするのか』)

(2017年8月22日)

河島英五を聴きながら(1)

風を探しに旧東海道を歩いた。iPodに詰め込んだ河島英五の唄を聴きながら・・・。
河島英五を1975年に「何かいいことないかな」でレコードデビュー以来ながいこと聴いている。
時流に流されず、群れをつくらず、本質を見失わず生きた河島英五が2001年4月に48歳で亡くなってからもう16年が経つ。

♪ そこの角を曲がったところから 旅が始まると
何気なく歩き始めて こんなに来てしまった
振り返るなんて いじけた話しだと
からかうのはよせよ ひなげしの花よ
立ち止まっているだけさ
空には風 大地を流れる河
生きてゆくかぎり 歩き続けるだけさ
(「生きる」より)

メアリー・フライの「Do not stand at my grave and weep」の詩を日本語に訳して話題になった新井満によると「ネイティブ・アメリカンの人々は、すごくあたりまえに、死んだら風になったり、星になったり、火や雨や雪や小川や山になったりすると言う、それは、なぜだろう。彼らが太古の昔から大地(地球)とつながって、そこから決してはなれないようにして生きてきたからだ。だから彼らは、大自然に対する畏敬の念を忘れないのだ。さらに、自分たちは今たまたま人間の姿をしているけれど、そのいのちとは、無数に共生しているいのちの中のワン・オブ・ゼアに過ぎないということもよくわかっている。だから、人間だからといっていばったりすることはない。生きものとしての分をわきまえて、ひたすらひかえめに生きるマナーを知っているのだ。」という。
河島英五の曲には風という歌詞が多い。「いのちの旅人たち」「うたたね」「仁醒」「青春旅情」「泣きぬれてひとり旅」「ほろ酔いで」「伝言」「風は旅人」「十二月の風に吹かれて」「風のわすれもの」「ポプラ」などだ。河島英五もネイティブ・アメリカンのように風になったに違いない・・・。

♪ 誰もがひとつずつ持っている
心の中に風車を
風が光るのを見ましたか
風が詩うのをききましたか
風が通り過ぎたのを見ましたか
風が話すのをききましたか
僕は風になろう 君の心の風車を
くるくる回す やさしい風になろう
(「君は風になれ」より)

「合理性」と「利便性」を追求する現代社会は、古いモノを取り壊して成長していく。旧東海道のどの町にもコンビニがあり自販機がスラリと並ぶ。そんな風景の中で時代に取り残されたように何体かの道祖神との出会いがあった。「道祖神さん、人は死んだら風になるのですか?」と尋ねたが道祖神は何も語らない。風化したその顔は微笑んでいるかのようで、へばったわたしの体を何度も生き返らせてくれた。
2回の夜をくぐり、2つの山を越えて50時間歩いてムダな力を出しきったら、少しだけ心の中に風が吹いた。
「変われない人間」は「変わらないモノ」だけ信じればいい。これからも風を探しに歩くだろう。河島英五の唄を聴きながら。ウフフ・・・。

♪ 山よ河よ雲よ空よ 風よ雨よ波よ星たちよ
大いなる大地よ はるかなる海よ
時を越える ものたちよ
あなた達に囲まれて 私達は生きてゆく
たった一度きりの ささやかな人生を
くり返し くり返し ただひたすらに
くり返し くり返し 伝えられてきたもの
くり返し くり返し 伝えてゆくんだ
くり返し くり返し 心から心へ
心から心へ 心から心へ
(「心から心へ」より)

(2017年8月21日)

炎える母へ走る 

「炎える母」 宗左近 

走っている
火の海の中に炎の一本道が
突堤のようにのめりでて
走っている
その一本道の炎のうえを
赤い釘みたいなわたしが
走っている
走っている
一本道の炎が
走っているから走っている
走りやまないからはしっている
わたしが
走っているから走りやまないでいる
走っている
とまっていられないから走っている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
焼きながら
燃やしながら
走っている走っている
走っているものを追いぬいて
走っているものを突きぬけて
走っているものが走っている
走っている
走って

いないものは
いない
走っていないものは
走っていない
走っているものは
走って

走って
走って
いるものが
走っていない
いない
走って
いたものが
走っていない
いない
いるものが

いない

母よ

いない
母がいない
走っている走っていた走っている
母がいない

母よ

走っている
わたし

母よ

走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることが
できない

ずるずるずるずる
ずるずるずる
ずりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか

走っている

あれは
なにものなのか
なにものの掌の中のなにものなのか

走っている
ふりむいている
走っている
ふりむいている
走っている
たたらをふんでいる
赤い鉄板の上で跳ねている
跳ねながらうしろをふりかえっている

母よ
あなたは
炎の一本道の上
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
もちあげてくる
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
かざしてくる
その右手をわたしへむかって
押しだしてくる
突きだしてくる

わたしよ
わたしは赤い鉄板の上で跳ねている
一本の赤い釘となって跳ねている
跳ねながらすでに
走っている
跳ねている走っている
走っている跳ねている

一本道の炎の上

母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている

炎の一本道

走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの走るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
炎えている一本道
母よ

 1945年5月25日の山の手大空襲は、大量の焼夷弾が降り注ぎ3600人余りが亡くなった。
 宗左近は疎開先の福島から一時上京していた母を送るため、上野に向かっていたところで空襲に遭った。2人は手をつなぎ火を避けながら逃げ惑い、なんとか四谷の仮住まいに戻るものの、そこも炎に包まれてしまった。宗と母は、燃えさかる「炎の一本道」を抜けようとしますが母は転び、その手が離れてしまい母を置き去りにし、そして生き延びた。
 宗は炎の中で倒れた母をなぜ救いに行かなかったのか、母を見殺しにして自分はなぜ生きていかれるのかと自分を責め、
それから23年後、ようやく母への墓碑「炎える母」という長編詩を書くことが出来たのである。
 そして、書くことによってあがない続けた。「ぼくの生きてゆくことの中心は、書くことです。ぼくの書く力は母からのらっているにであって、書けばそこに母がふたたびよみがえってきて、ときにぼくを叱ったりしてくれるからなのです。」と語った宗は2006年6月20日、50冊に及ぶ詩集、100冊を越える著書を残し母のもとへ旅立った。

(2017年8月7日)

高村光太郎の晩年の生き方

岩手県の花巻にある小さな山荘は、冬になると雪の中にひっそりと眠ってしまう。
高村光太郎は1945年から1952年の7年間をこの小さな山荘で暮らしていた。

人間は誰しも過ちをおかすものだ。
そのつど謝ればすむこともあれば、謝っただけではすまないこともある。
先の原発事故後は謝ってすむ問題では全然ないのに、誰も責任を取っていないこの時代…。
ひとりの人間としての責任の取り方を、高村光太郎の晩年の生き方で学ぶべきだろう。
光太郎は戦争中、戦争を賛美し国民を戦争に駆り立てる詩を山ほど書いたという。
戦争が終わった時、周囲はもちろん、なにより自分が自分を強く責めた。
そのざんげと自責の念から人里離れた岩手の山に小屋を建て、そこに移り住んだ。

【わが詩をよみて人死に就きにけり】
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがった。
死はいつでもそこにあった。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になって私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かった。
その詩を毎日よみかえすと家郷へ書き送った
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

山での生活の過酷さは生半可なものではなく、
厳寒の東北の冬に、すきま風と雪が吹き込む粗末な小屋の中は零下20度にもなる。
いつも濡れたように湿気た布団の上には、吹き込んだ雪が積もり、
吐く息は布団の縁でたちまち凍ったそうだ。
また、水道もないところで野菜を食べたせいかl、
体内に寄生した虫が口から出てくるほどだったという。
そんな過酷な環境でも、村の人々から愛され、助け合って生きて行く中で、
自分を見つめ直し、人間として成長し、智恵子の思い出と共に暮らした7年間は、ともて幸せだったことだろう。

【山のともだち】
山に友だちがいっぱいいる。
友だちは季節の流れに身をまかせて
やって来たり別れたり。

カッコーも、ホトトギスも、ツツドリも
もう“さやうなら”をしてしまった。
セミはまだいる、
トンボはこれから。
変らないのはウグイス、キツツキ、
トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。

兎と狐の常連のほか、
このごろではマムシの家族。
マムシはいい匂をさせながら
小屋のまはりにわんさといて、
わたしが踏んでも怒らない。

栗がそろそろよくなると、
ドングリひろひの熊さんが
うしろの山から下りてくる。
恥かしがりやの月の輪は
つひにわたしを訪問しない。

角の小さいカモシカは
かはいさうにも毛皮となって
わたしの背中に冬はのる。

【裸形(らぎょう)】
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造形の瑪瑙質(めなうしつ)に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう。

現代は効率を求める時代であり、立ち止まって考えることを、面倒で非効率的なこととし、
出来るだけ、少ない労力で出来るだけ多くのものを手に入れることが「成功」と呼ばれる。
しかし人間が「生きる」上で、光太郎のような真剣に自分というものと向き合い、一生懸命自分だけの力で考え行動する、
頑なで不器用な生き方が、真実を求める「正しい」生き方であると思う。
「豊かさ」とは物や金が沢山ある事ではなく、自分自身の心であり、あらゆるものの中に見出し、作り出すことのできる「美」である。
混沌とした現代社会だからこそ、他者と競べるのではなく、自分の内面に目を向け豊かに生きていきたいものだ。

【牛】の一節から
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はって行く

(2017年8月5日)

戦争する国になりたくない! 多喜二の時代

近代国家は、自由と平等を手に入れたのではないのか。
何故、人間同士の殺し合いを続けなければならないのか。

国家権力は戦時中、国民から自由を奪い国民を戦地に送り殺人を強要させた。
原発事故では国民を放射能被爆させ続け、人質事件では個人の正義を自己責任と切り捨てた。
格差社会は右傾化し、反権力者を排除し、金融危機・経済不安が人間のこころを荒廃させ、若い世代からも「戦争待望論」が飛び交い始め、着実に戦争のできる国家体制が整いだしている。
そんな時代の中で、小林多喜二の『蟹工船』が爆発的に読まれている。
戦前の日本人は絶対天皇制の軍国主義であり、労働者や農民は搾取され、平和を口にしただけでも拷問され命を奪われた。
そのな暗黒時代に小林多喜二も戦争反対、主権在民を主張し、労働者や農民の為に戦い虐殺された。

【秋の夜の星】(小林多喜二)
輝く星! 見なさい。
 青い水底の静寂の中で。
仰げ。瞬く鈴蘭、
 おお、無限大の宇宙の。

おお輝く星! 瞑想なさい。
 不言うの神秘!……奥深いまたゝき。
―冷たい秋の夜、独りたゝずむ。
 仰ぐ、おゝ、遠い星。
 聞きなさい、心の耳を傾けて。
 幽玄な星の囁き―神秘な。
青白い沈黙。ゾッとする冷気の厳粛。
 おゝ、超自然!!

【ある時のわれ】(小林多喜二)
わがあゆむ歩の
さくさくと
なるが悲しも
砂漠の荒野。

つトとどまり
みつむれど
澄める大空に
つきも、星も
―我が胸を
おしいだく
なにもなし。

またあゆむ
ちからなく
サクサクと
なるが悲しも
恋う女のなければ。

ゆけど、歩めど
……ただ
長くひける影
おお、こは、
わが淋しき
恋うべき女か?

小林多喜二が虐殺された前年の1932年、日本は軍国主義化を加速し、植民地支配の激しさを増す中、19歳の槇村浩は反戦詩『間島パルチザンの歌』を発表した。
槇村浩は1912年に高知市に生まれた。幼児から神童と言われ、中学入学後15歳でマルクス主義を学び、17歳で軍事教育反対の闘争を組織し、19歳でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、また高知市の共産生年同盟に加わり、その指導者として軍隊内に反戦活動を展開した。1932年に検挙され1935年の出獄したが、獄中での拷問、虐待による病をえて、ついに終生治らなかった。しかし貧困のなかに母のたすけをうけ、執筆活動をつづけた。
1936年再び検挙、重症のため一ヶ月で仮釈放されたが、1938年病院で死んだ。
「間島パルチザンの歌」は当時日本にも伝えられた朝鮮人民の英雄的な反帝闘争を歌いあげている。

【間島パルチザンの歌】(槇村浩)
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪溶けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか
雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
目暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ
(以下省略)

日韓併合以降、朝鮮半島では学者や学生が中心になって独立運動が活発化した。
小林多喜二や槇村浩は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え朝鮮人民の独立闘争を支持した。
朝鮮半島に生まれた尹東柱 は1942年に日本の大学に留学し、1944年にハングルで詩を書いたというたったそれだけの理由で逮捕され、1945年に27歳で獄死した。
尹東柱の死は人体実験として薬物を何回かにわたって注射された理由ともいわれている。
その根拠は絶命する時に、”母国語で何か叫んだ”何か叫んだという証言があるからだ。

【序詩】(尹東柱) 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳)

暗闇ほど光は輝くものだ。
「序詩」は人の生が担っている重み、その生がかかえている真実の重みが、このように清潔かつ深みがあり、その崇高な精神、平和を愛する心は暗闇に光として輝いている。
今なお社会をみわたせば、「人権、イジメ、ひきこもり、殺人、自殺…」と病んでいる。
『蟹工船』はまだまだ航海し続けているのだ。
墓を掘り起こす愚挙を冒してまでも、彼らが残した声に耳を傾け、自由と平和について考えなければならない。
『蟹工船』が安住の地にたどりつくために…

(2017年8月4日)

「潮じまい」 鈴木文子の詩

その若い漁師は年に3~4回、ホームレス支援のために、
千葉勝浦から東京上野まで自分でトラックを駆り、
毎回トロ箱30箱以上のサバやイワシをボランティアで届けていたそうだ。
「お金や米でなくて申し訳ないが、この魚を役立ててほしい」と言って。
苦しい暮らしを強いられているホームレスの人たちや、
ボランティアの人たちからは「哲」、「魚のあんちゃん」と慕われていた。
そして、「もっと大きな船を買うのが夢だ」と話していたという。
2008年2月19日、その若い漁師と父親が乗った漁船は、
イージス艦と衝突して夢とともに海の底に沈んだ。

同県の詩人、鈴木文子さんはこんな詩を綴っている。
(詩集『電車道』より)

【浦じまい】
朝はいつものようにやってきた
いつものように 家族が無事を
いつものように 父子は大漁を交し
玄関を出た
ピリッ。肌を刺す二月の寒気
午前一時 七艘の仲間と出港した
風もない 海はまだ夢の中だ
……。
船団はまぐろはえ縄の魚場八丈島の沖へ向う
エンジンは快調だった

うわっ!
衝突したのは未明
海上自衛隊イージス艦「あたご」
全長一六五m 重量七七五〇トン
撃沈された「清徳丸」
全長一二m 重量はあたごの千分の一
吉清治夫さん五八歳 長男哲大さん二三歳
海よ 風よ 二人は何処にいるのか
真っ二つに砕かれた父子船
うつ伏せで ぷかぷか ぷかぷか

親潮と黒潮のぶつかる房総沖
世界でも貴重な魚場(りょうば)にイージス
〈おまえ等 通してやるから邪魔するな〉
〈……。〉

危ないっ! 取り舵(左折)
何時ものように直感で巨大怪物から逃れる漁船

川津港に響く祈りの太鼓(たいこ)
帰ってこい帰ってこい かえってこーい
吠えているのか 狂ったのか 海
漁師は時化(しけ)に立ち向かい
二日 三日 四日 手ががかりなし
雨 みぞれ 雪 めちゃくちゃに降る
七日 これ以上皆に迷惑は……。
親族の願いで打ち切られた捜索
「浦じまい」

波間に散らした酒は父子の身体を温めたか
投げ込んだリンゴやバナナで
二人の腹は満たされたと思ったか
いいや「浦じまい」は漁村の習わし
漁師仲間の血の通った捜索はこれからだ
海底一八〇〇メートルに赤旗が立った
「清徳丸」の文字が深海に泡立つ
テレビ画面を突き抜け呼吸している
父子は生きているのだ
(海底に赤旗が立った二〇〇八年三月二日にーー)

【川津漁港にて】
新勝浦漁業協同組合川津支部
漁協前でタクシーを降りると
玄関先に取材中のカメラがあった
父子は行方不明のまま一箇月

漁協の左手 生コンを流しただけの階段
港への近道らしい
地元民の専用なのだろう両脇は不燃ごみ
痛いっ!
むきだしの砂利(カケラ)が土踏まずに当った
厳冬のあの朝一時
父子はなじんだこの石段を降り
清徳丸に向ったに違いない

小さな漁港だ 人の気配はない
防波堤が温もっているのだろう
ウミネコたちが無防備な格好で羽繕いだ
波まかせの停泊船がずらっと並んでいる
一瞬
TVの映像が生き返った
金平丸
目の前でひらめく 三角の赤旗は
あの朝 吉清父子と一緒出漁した僚船だ
船長が自衛隊に怒りをぶっつけていた漁港は
この港 岸壁なのだ

午後三時
店らしいガラス戸を覗き
〈パンはありますか?〉
〈パンは売ってません!〉
〈この辺りに食堂はありませんよ!〉
棚にはインスタントラーメン ポテトチップ
……一食くらい抜いても死にはしないか
「海は生産の場であり 生活の基ばんです」
看板をメモしていると軽トラックは止まった
老人が〈国から 金で出たんか?〉
さぁ……。

イージス艦「あたご」建造費約一四〇〇億円
命 親子の命はいくらに換算されるのか
あちこちで額を寄せ合う漁民たち
ひそひそが小さな漁村を駆け巡っているのだろう
イージス艦一四〇〇億円
太平洋から吹き上げてくる
逃げ すりかえ 隠ぺい 開き直り
そんな国の言い訳は二の次でいい
不漁続きの漁村にとって今日のおまんまが先なのだ

水深一〇m毎に一kの水圧がかかると聞く
吉清父子は未だ海底一八〇〇mなのか
親子にのしかかっている一八〇kは
イージス艦 国の水圧

2011年5月11日、この衝突事故でイージス艦側に無罪の判決が出たが、
海に投げだされた二人を捜索もせずに、見殺しにした責任は重いだろう。

「日刊ゲンダイ」によると、事故当時イージス艦の乗員たちは酒盛りをしていたという。
酒盛りの痕跡を消すために、怪我をした隊員を運ぶという理由でヘリを飛ばし、
缶ビールなどのゴミを運んでいたという。

鈴木文子
1941年  千葉県野田市に生まれる。
1977年 『鈴木文子詩集』(オリジン出版センター)
1983年 『おんなの本』(オリジン出版センター)
1991年 『女にさよなら』(オリジン出版センター)
第20回壷井繁治賞受賞
1998年 『鳳仙花』(詩人会議出版)
2005年 『夢』(詩人会議出版)
2008年 『電車道』(詩人会議出版)

(2017年8月3日)

辻征夫の「突然の別れの日に」を読む

【突然の別れの日に】 辻征夫

知らない子が
うちにきて
玄関にたっている
ははが出てきて
いまごろまでどこで遊んでいたのかと
叱っている
おかあさん
その子はぼくじゃないんだよ
ぼくはここだよといいたいけれど
こういうときは
声が出ないものなんだ
その子は
ははといっしょに奥へ行く
宿題は?
手を洗いなさい!
ごはんまだ?
いろんなことばが
いちどきにきこえる

ああ今日がその日だなんて
知らなかった
ぼくはもう
このうちを出て
思い出がみんな消えるとおい場所まで
歩いて行かなくちゃならない
そうしてある日
別の子供になって
どこかよそのうちの玄関にたっているんだ
あの子みたいに
ただいまって

 辻征夫自身の解説によれば、「突然の別れの日に」は子どもが成長して全く別の人格に変わったように感じられることがあり、その瞬間を捉えたものだという。
 優しい「ママ」からうるさい「おかあさん」に変わった時が思春期のはじまりだ。
 思春期は大きく「変化」する時期で、それまでの幼児期が終わるということで「終わる」ということは、失うことであり「死」を体験することになる。自我に目覚め世界が広がり楽しいことが増えると同時に、深い悲しみと孤独を味わう。そのため空想の世界を作り、そおっと不安を逃がしてやるように、こころのバランスを求めるようとする。
 この頃は親と気持ちが通じず「自分はこの親のほんとうの子どもではないのではないか」と感じたり、「自分このとをすべて受け入れてくれる本当の親がきっとどこかにいるはずだ」と信じていたほどだ・・・
 思春期の成長とは、いくつもの「生(現実)」と「死(空想)」の折り合いをつけて大人になっていくことである。そして、大人になった今も思春期時代のことは鮮やかに残り、忘れることはない。何かつらいことがあった時、あの頃の自分を思い出して「がんばれ! がんばれ!」と自分で自分をはげましている。
(参考文献:『好きなのにはワケがある』岩宮恵子)

(2017年8月2日)

辻征夫の「かぜのひきかた」を読む

寒い夜は膝をかかえて朝が来るのを待っている。
こころに風邪が引っぱり出される時はいつもこんな感じだ。

S.フロイトの言葉に『mourning work(喪の仕事)』というものがある。
mourning workとは、強い悲しみや寂しさ、絶望感、孤独感、抑うつなどは『自己表象に対する愛着』によって自他の同一化が進んでいるからであり、対象を失ってしまうことが自分の身体・精神の一部を失ってしまうことのように感じられるからである。失われた対象に対する執着・愛着が残っている限りは、人は悲しみと寂しさ、孤独感で苦しみ続けるが、自分の感じている悲しみ・苦しみと正面から向き合って、その悲しみを表現して思い切り涙を流したり、自分の気持ちに区切りをつけられることによって、傷ついた心を整理していくことができるという。

mourning workは辻征夫の詩に寄り添っている。
風邪薬より良く効くのだ。

【かぜのひきかた】 辻征夫

こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて

びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている

こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから

ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる

それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく

かぜです

つぶやいてしまう

すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい 
ひとのにくたいは
 
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである

(2017年8月1日)

自然との共生 宮沢賢治の教え

 日本人は古来から、自然は単なる物質的、物理的な物体ではなく命を宿し、魂を宿していると考えられてきた。風には風の命があり、水には水の命があり、火にも火の命があると。自然現象は命の営みだからこそ、恩恵を与えてくれる神として敬ってきた。
 時として襲いかかる自然災害も神々との関わりの中で捉え、信仰に基づくさまざまな叡智を生み出してきた。自然災害とは神々の怒り・祟りと考えられており、神は「地域を守護する神」であるとともに「祟り神」としての性格の両義的存在だった。
 例えば、河川が氾濫した後は豊作になり、津波が豊漁をもたらし、地滑りの地の米はうまい…。など、自然災害は豊かさと裏腹であり、津波や、崖崩れや暴風も神なのだ。
 東日本大震災のあの大津波でさえも神の業なのである。神が怒るときは、人間が対抗したり押さえこんだりすることは不可能で、なだめ、いなすことができるだけだ。
 大震災は、「自然はやさしい」とばかり考え、自然=神への畏れを忘れてきた私たちに大きな反省を迫っている。私たちは自然の中から生み出された命の一粒なのである。今、求められていることは「自然との共生」という思想であり、”自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性”を取り戻すことだ。 
 そこで、宮沢賢治の詩を読んでみよう。
    
【雲の信号】
あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
そのとき雲の信号は
もう青白い春の
禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる

【林と思想】
そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 賢治の創作の原点は、自然と人間の営みの中に「命の輝き」を見たことだ。賢治は野外を散策しながら、動物や植物・鉱物、風や雲や光、星や太陽といった森羅万象と語りあったり、交感しあったりした。賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえないと考えていた。
 私たちは、賢治のたくさんの作品群から、自然に対する近代の人間に傲慢さを知り「自然との共生」の精神を学びたい。
(参考文献:『神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる』鎌田東二)

(2017年7月31日)

火だるま槐多

結核に冒され死を間近に悟った村山槐多は、
雪まじりの雨が激しく降るある日、
房総の波打際の岩の上で喀血しながら酒をあおって死を待ったという。
「一生懸命生きて、一生懸命死んだ」これが槐多だ。

 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 耽美の風は濃く薄く
 われらが胸にせまるなり
 五月末日は赤く
 焦げてめぐれりなつかしく

 ああされば
 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 われらは武装を終へたれば。
 (四月短章)

槐多は「血染めのラッパ」を吹き鳴らして、芸術創造の道を進軍した。
天からあたえられた才能の赴くままに、詩を書き、絵を描いた。
槐多の青春時代は、幸徳秋水、管野スガたちが国家権力に殺され、
自由が弾圧された時代潮流の渦の中にあって、
たった一人で、孤独感をいだき、えいえいとして、
自身における自我の確立を目指した。
槐多は「血」のような真赤な絵の具「ガランス」を愛した。

 ためらふな、恥ぢるな
 まつすぐにゆけ
 汝のガランスのチューブをとつて
 汝のパレツトに直角に突き出し
 まつすぐに濡れ
 生(き)のみに活々と塗れ
 一本のガランスをつくせよ
 空もガランスに塗れ
 木もガランスに描け
 草もガランスにかけ
 魔羅をもガランスにて描き奉れ
 神をもガランスにて描き奉れ
 ためらふな、恥ぢるな  
 まつすぐにゆけ
 汝の貧乏を
 一本のガランスにて塗りかくせ
 (一本のガランス)

槐多にとって「赤」は「血」そのものであり、情熱の喚諭であった。
それほどまでに若くして、生命と、情熱の発散にこだわりつづけた。
その裏がわには、つめたい孤独の深淵、
内的な抑制が限りなくはたらいていた。
「赤」は同時に生命を焼結させ焼き尽くす炎の「赤」でもある。
そして槐多は二十二年と五ヶ月の短い人生を、
ほうき星のように一天の空間を駆け抜けた。

 木が風にふるへる
 死神の眼の様にくらい葉が
 ざわざわとゆらぐ
 絶えまなく葉は光る

 命がその度に輝く
 幽な紫に
 私の命が
 もどかしさうに哀しさうに
  
 空が木をみつめて居る
 絶えまなくふるへる木を
 それから私を  

 その空をふつと風が吹き消す
 私はまばたきする
 命は消えそうだ。
 (木と空に)

(参考文献:「血染めのラッパ吹きならせ」長谷川龍生『ユリイカ』)

(2017年7月30日)