投稿者「dada.sakai」のアーカイブ

弱者を見殺しにする国

 ネットニュースによると、埼玉県川口市内に住む高校1年の男子生徒が「教育委員会は大ウソつき」と書いたメモを残し自殺した。生徒は中学時代にいじめにあい、いじめを伝える手紙を何度も書いていたが、中学校側はそれまでSOSと受け止めていなかった。3回目の自殺未遂で後遺症で足に障害が残った。学校や市教委はようやく、いじめの重大事態として、調査委員会を設置した。ただし、生徒側にはそのことを伝えておらず、聞き取りもされていなかったという。
 彼は3回も自殺未遂をし、教育委員会にいじめを伝える手紙を何度も書いたにもかかわらず、学校や教育委員会は彼を見殺しにしたとしか思えない。すでに、学校や教育委員会は教育機関としての体をなしていない。
 いじめはいじめる人間が一番悪い。しかし、いじめ問題とは生徒を学校という強制収容所にも等しい地獄のような空間に閉じ込めて、群れて生きることを叩き込むことに原因がある。この学校制度を廃止しない限りいじめは無くなるわけがない。そして、いじめられている生徒が学校に相談しても解決するわけがない。
 学校はいじめ問題より自らの保身が大事であり、校長や教員にとって生徒は中学校・高校なら3年間でいなくなる存在であり、生徒よりも学校の校長や教員、教育委員会の「もちつもたれつ」の関係が大事なのである。市町村の教育委員会のトップでる委員長のほとんどが、校長経験者によって占められていて、学校でいじめが発生した場合、まず重要視されるのはいかにいじめを解決するかではなく、この「もちつもたれつ」の生温かい世界、居心地のいい人間関係をいかに維持するかだ。その世界が維持される限り、自分の生活も安泰ということになるからだ。
 この「教育ムラ」の人間たちは、どれだけの生徒を見殺しにしたら変わるのだろうか。

 学校のいじめ問題に限らず、今の日本社会は権力に迎合する人間や既得権者が優遇され、弱い人間が憂さを晴らすように自分より弱い立場の人間を攻撃する。
 2012年11月24日、東京・日比谷野外音楽堂で「安倍『救国』内閣樹立! 国民決起集会&国民大行進」が行われ、安倍首相もこれに参加した。そして「チャンネル桜もできたし、今、インターネットがあります。インターネットでみなさん、一緒に世論を変えていこうではありませんか。みなさん、ともに、日本のために戦っていきましょう」と聴衆に呼びかけた。この日以来、社会が右傾化への坂を転がり落ちていくように排外主義者によるヘイト・スピーチが各地で起きた。しかし、警察は排外主義者を逮捕するのではなくヘイト・スピーチを止めるカウンターたちを逮捕した。財務事務次官のパワハラ事件がを起こしても、安倍御用記者がレイプ事件を起こしても処罰されることはなかった。
 相模原障害者施設殺傷事件が起き、川崎殺傷事件が起き、電通社員過労自殺事件が起き、元自衛官によるカンボジアで強盗殺人事件が起き、いくつかの児童虐待死事件やいじめによる死亡事件起きた。数えればキリがないこのような事件のすべては弱者が被害者だ。
 安倍政権は大企業は優遇して、国民に負担を押し付けている。株式投資に失敗して国民の年金14兆円を損失させても知らん顔をしている。福祉は切り捨て、弱者を餓死や自殺へと追いやっている。日本では1日に5人が餓死し、1日に37.5人が自殺し、先進国30ヶ国中、貧困率が4番目に高い国に暮らしているのが私たちだ。
 国のリーダーが国民に間違ったメッセージを発すれば社会はどんどん病んでいく。狂っているのは、国のリーダーの頭の中だけではなく、それは「反対だ」と指摘しなかった国民の問題でもある。

「反対」 金子光晴

僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。

ぼくは第一、健康とか
正義とかがきらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無精にするものはない

むろん、やまと魂は反対だ
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻を向けてゐる。

なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
ぼくは、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、

きもの左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。
 
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。

 戦争中多くの文化人は戦争に協力する活動をした。しかし、金子光晴はたったひとり信念をつらぬいて反戦詩を書きつづけた。
 自分も金子光晴のように、反対といえる人間になりたい。ダメのものは絶対にダメなのである。
 彼ら彼女らの尊厳と名誉のためにも・・・。

(2019年10月15日)

鳳仙花と桜(봉선화와 벚꽃)

鳳仙花を見ながら  (봉선화를 보면서)
桜を見ながら  (벚꽃을 보면서)
語り合おう  (이야기를 주고 받자)

鳳仙花を見るように  (봉선화를 보도록)
桜を見るように  (벚꽃을 볼 수 보도록)
お互いを慈しもう  (서로를 사랑하자)

花が人を呼び  (꽃이 사람을 불러)
人々が笑顔を呼び  (사람들이 미소를 불러)
笑顔が平和を詠う  (미소가 평화를 노래하네)

「あの素晴しい愛をもう一度」
作詞:北山修  作曲:加藤和彦

命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

「그 멋진 사랑을 다시 한번」
작사:야마 오사무  작곡:가토 가즈 히코

목숨을 걸겠다고 맹세한 날부터
멋진 추억 남겨 왔는데
그때 같은 꽃을 보며
아름답다고 말하던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

고추잠자리 노래를 불르던 하늘은
아무것도 변하지 않았지만
그때 계속 저녁노을 쫓아갔던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

넓은 황야에 외로이 있으니
나도 모르게 눈물이 흘러내렸죠
그때 바람이 불어쳐도
변하지 않겠다던 두사람의
마음과 마음이 이제는 통하지 않네요
그 멋진 사랑을 다시 한번
그 멋진 사랑을 다시 한번

https://www.youtube.com/watch?v=emUUAu0q6zw

( 2019年9月4日)

ツバメの巣

あの古着屋さんはきっといい人だろうと思う。
毎年、近くの古着店の軒下にツバメが巣作りをする。今年も無事に数羽の小さなツバメが巣立っていった。
ツバメは人間が危害を与えないと信用しているから、あえて人間の近くに巣をつくることで天敵から身を守っている。
しかし、近ごろでは落ちた糞が汚いといい軒下のツバメの巣を叩き落とす家もあるという。

日本人は自然が好きで、自然をよく生活に取り入れているのに、どうして今日のようにひどい自然破壊が行われるのか。
日本人は、自然というものを自分たちの対象として客観化してとれてはいないからである。
日本人は自然と一体化しているが、それは自分勝手な意思で自然を取り入れているだけで、植物や昆虫の区別、名称などということには、ほとんど興味をもっていない。
人と自然は未分化の世界を形成しているのだから、人の欲望によってどういうことにもなりうるのである。自然を家の中に取り入れることも、自然を自分の欲望実現のために破壊してしまうことも、両者は同じ観点の異なる表現にすぎない。自然破壊に対する自然保護の叫びは、自然を客体として、どう扱うべきかという発想からではなく、保守的なセンチメンタリズムに裏付けられているのが特色で、両者は相対立する格好をとっているが、同じレベルにおける保守と進歩、あるいは好み、利害の相違の問題であるために、問題解決のきめ手をいずれも出すことができず、結局、どちらか強いほうの力におされていく、ということになってしまう。

「つばめ」 金子みすゞ

つういと燕がとんだので、
つられてみたよ、夕空を。

そしてお空にみつけたよ、
くちべにほどの、夕やけを。

そしてそれから思つたよ、
町へつばめが來たことを。

かつて石牟礼道子さんは都心のビル群は「近代の卒塔婆」といった。現在の都心は卒塔婆と補助金欲しさに造られてた緑化施設が点在している。そして、駅前の風景は赤や黄色のチェーン店だらけでどこも同じ顔をしている。
自然破壊とは街を破壊することだけではなく、人間のこころも破壊することである。
また来年、優しい古着屋さんの軒下にやってくるツバメが楽しみである。

(2019年8月3日)

横田弘の闘い

 現在の若者たちは不平を言わない。
 ブラックバイトや非正規雇用の雇い止めに怯え、賃金の上昇の望みを絶たれ、国民年金保険料や国民健康保険税の滞納し、スマホの使用料に圧迫され、親よりも狭い家に住み、結婚や車を諦め、奨学金の返済に苦しみ、れでもなお現代の若者たちは、与党を支持しデモに集う人々に冷淡な視線を浴びせ、サービス残業に従事している。

 1970年代、「秩序や道徳なんかクソくらえ! 俺はしたいことをする!」と思想をもち、世間を騒がせた人たちがいる。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」である。
 教育、就労、など、あらゆる機会から閉め出されていた彼らは、障害者差別反対を旗印に、各地で激しい糾弾闘争を展開した。施設を占拠して立てこもり、ロッカーや引き出しを引っかき回し、そこに小便をひっかけた。バスジャックを慣行した上、道路に寝そべったりして交通をマヒさせた。しかし、警察は彼を逮捕しなかった。重度障害者が多かった青い芝のメンバーを拘束すれば、思い言語障害を持つ者が多く介護しなければならないし、事情聴取も大変だからだ。何をしても逮捕されない彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。青い芝のメンバーはよくいえば個性的、悪くいえば無軌道だった。いつでもどこでも自己中心、人の言うことは聞かない。思いついたらあとさき考えずに即実行。あとはどううなろうが知らんぷり。そんな彼らの問題解決の路を選ばない運動は、必然的に大衆から遊離し、やがて終息していった。

 その中心メンバーの横田弘さんは、1933年5月15日に横浜市鶴見区に生まれた。母親は身体が弱く出産に6、7時間かかった。結果として、脳性マヒという障害を負って生を受けた。横田さんは、1950年に母親が亡くたったときに17〜18歳で、それからしばらくして詩を書き始める。1955年に横浜の『象(かたち)』という同人誌に参加したことが詩人の始まりであった。しかし、より正確に言うならば、母親が亡くなった17歳以降、横田さんは1人で詩を作り始めている。『少女クラブ』に従妹の名前を使って入選したことなどを経て同人誌『象』への参加であった。1人で詩を創っていたのは、1950年前後、横田がまだ10代のことである。さらにその2年後、20歳の頃には、西条八十が選者を務める『講談倶楽部』という大人の雑誌に歌謡曲を書いて投稿し、3等に入選している。したがって、22歳の時点で現代詩の同人誌『象』への参加は、児童詩、歌謡詩を経てのものであったということになる。
 横田さんが詩の創作を始めたのは、母親が亡くなった後の10代後半からであり、母親を亡くしたことに伴う母性の喪失により生じた心の隙間を埋める行為としての詩作であったと考えることができる。そして雑誌に投稿し同人誌に参加することで、横田さんの中に別の世界とのつながりが芽生えたと解することが可能である。それまでは家の中にいて、そばにある本をかたっぱしから読んでいるだけであった横田さんの、外の世界との最初の接点が詩作であった。そしてこのようにして芽生えた、詩作を通した社会とのつながりが、横田さん自身のなかにゆっくりではあるが、自己の形成を促していったのである。それを裏付けるかのように、横田さんは次のように述べている。
「私は1955年から横浜の同人誌『象』で詩を書いていました。それは私にとっては家族以外との初めての「外界」との関わりだったのです。」
 就学猶予によって小学校に行くことが出来なかった横田にとって、10代後半から始めた詩作が、少しづつではあるが学校とは別の形で社会とのつながりを形成していった。

「櫛火」 横田弘

朽ちていく肉体に注ぐ
哀別の泪を
だれが
奪えるのか

二度と還ることのない
旅への調えを断ち切る
メスのきらめきは
決して 許されない
存在への 挑み

〈脳死=人の死〉

虚しさの深さを 見失い
哀しみへの愛しさを 投捨て
わななく畏れさえ 忘れて
ひとは
幻の果を盗み続けていくのか

いま
確実に
操られた頷きの微笑みに潜む群れが
増える

だが

じっと 地に蹲り
蒼黒を見据えるのは
衝動の憤りではない
遠い母達が残した
たった一つの言霊(ことだま)を呼戻す作業の筈
なのに

「見送るだけか」 横田弘

午後
初冬にしては激しすぎる雨が
フロント・ガラスを打つ
研修集会の帰り道

私の 不遜
五十九年の暮らしのなかで
無意識に育てていた 黝い驕慢が
また
サイド・ミラーから 嘲笑(わら)いかける

こんな楽しい思いをさせて貰って
本当もありがとう

たまさかの宿泊の酒に
笑顔で語り掛ける施設暮らしの友の言葉に
全身を凍らさせ
身動きさえできない自分を
そんな怯えを冷ややかに見据える
もう一人の 私と

本当にありがとう

無音のまま頷きが
自分への免罪符にしか過ぎないと
判っていたとしても
 
いま
それを責め続ける若さが
私から 去って行く
 
とっても
雨音が寒い

(『そして、いま』 横田弘 1993年 より)

 人権とは、個別具体的な個人の権利であり、今ここに生きている人間の切実な命に関わる問題である。「青い芝の会」のラディカルな運動は、多数派を形成できないために無視されてしまうマイノリティの権利を主張するための運動ある。現代の格差社会の若者たちの環境も同じようなものだ。既得権益者たちが、豊かな社会を創るという資金や時間や仕事を食べ散らかしてまい、若者に残されたものは食べカスに近くなってしまった。
 横田さんはいう。「僕たちにできることは、「脳性マヒ者でも何が悪い! 差別するな!」って叫ぶこと。叫び続けること。」だと。
 日本人の15歳から39歳までの死因のトップは自殺という。たかが貧困や障害などで死んではいけない。我慢することが強さではない。人に依存でき、助けを求められることが強さである。声をあげずに静かなままだと何も変わらない。声を上げて変化を求める力が強ければ、政治も無視することはできなくなるはずだ。残念ながら、政治が本格的に貧困世代に向き合う兆しは見えない。政策も自己責任論に終始し、突破口を示すことができていない。逆に、若者が声を上げないがゆえに、何をしても抵抗がないのをいいことに、暮らしにくさを加速させるように進んでいる。このまま静かにおとなしく待っていれば問題解決してくれる人が現れるということはない。ちっぽけで意味のない行動などひとつもない。自ら主体的に社会変革をしなければいけない。

参考文献
『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』 角岡 伸彦 (講談社)
『われらは愛と正義を否定する 脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』 横田弘 (生活書院)

(2019年6月28日)

「夕焼け売り」の声が聞こえる

「もしかしたら、自分が狂ってしまったのではないか?」と思う時がある。
 狂った社会ではマトモな人間が狂人になる。異端の中の異端とは常識にほかならない。必要なのはひっくり返された言葉をもう一度ひっくり返すことだ。歪んだ言葉を正常な言葉に戻すことだ。

 政治家の言葉が言葉として機能しているのだろうか。言葉が他者との対話や論争のためのものではなく、国民をダマし、その場をしのぐ為だけのツールにすぎない。
 安倍首相は、「女性が活躍できる社会」と言うが女性を使い捨てにし、「積極的平和主義」と言うが積極的に戦争をする国にしようとし、「沖縄のみなさんに丁寧に説明する」と言うが辺野古の新基地建設を強行し、森友改改竄隠蔽問題では改竄を強いられた現場の職員が自殺に追い込まれたにもかかわらず、「私や妻が関与していたら総理大臣も国会議員も辞める」と言いながら辞めもせず政治責任すら取らない。
 そして、場当たり的に公案された「お・も・て・な・し」という広告代理店が考えたと思しき薄っぺらな啓蒙標語で始まったIOC総会の最終プレゼンテーションでは、福島第一原発の汚染水は漏れ続けているのに「完全にコントロールされている」と嘘をついた。この国際舞台での「アンダーコントロール」発言は、IOCむけてのメッセージであり、その発言で問題になっているのは現実に福島第一原発がコントロールされているということではなく、「日本の状況」が完全にコントロールされているということだ。そして、これからもコントロールされていようが、汚染水問題がどれほど深刻であろうが、アスリートにどのような影響があろうが、それはIOCにとってはたいした問題ではない。最大の心配は、そうした問題のため東京五輪ができなくなることである。IOC総会は日本政府とIOCの「暗黙の了解」という談合の茶番劇を全世界に見せつけたものであった。
 福島第一原発は、「アンダーコントロール」どころか収束のメドさえたっていない。汚染水は海にダダ漏れし、格納容器から溶け落ちた核燃料は永遠に取り出せないといわれているのが現実だ。
 東京五輪で浮かれている社会の陰で、猛烈な放射能汚染が大地に拡がり、数十万人が故郷を追われ、生活が根こそぎ破壊されて流浪化した。原発関連死と呼ばれる数千人が死に、甲状腺がんで多くの子どもたちが苦しんでいる。そして、廃炉や除染の作業に多くの労働者が日々大量の被曝を被りながら従事している。どうして、わずか数週間ほどの五輪のために巨大な予算をつぎこんで膨大な財政赤字を抱える東京五輪を開催しなければならないのか。東京五輪に使うお金や人材あるなら東日本大震災の復興に回すべきだ。特に放射能汚染に苦しんでいる福島の人々の困難救済を優先すべきだ。

「夕焼け売り」 齋藤貢
  
この町では
もう、夕焼けを
眺めるひとは、いなくなってしまった。
ひとが住めなくなって
既に、五年余り。
あの日。
突然の恐怖に襲われて
いのちの重さが、天秤にかけられた。

ひとは首をかしげている。
ここには
見えない恐怖が、いたるところにあって
それが
ひとに不幸をもたらすのだ、と。
ひとがひとの暮らしを奪う。
誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。

だが、それからしばらくして
この町には
夕方になると、夕焼け売りが
奪われてしまった時間を行商して歩いている。
誰も住んでいない家々の軒先に立ち
「夕焼けは、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」
夕焼け売りの声がすると
誰もいないこの町の
瓦屋根の煙突からは
薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。
恐怖に身を委ねて
これから、ひとは
どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。

夕焼け売りの声を聞きながら
ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。
あの日、皆で囲むはずだった
賑やかな夕餉を、これから迎えるために。

 「夕焼け売り」は、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故によって剥ぎ取られた「文化」や「文明」の在り方を問い掛けた詩だ。この詩が収められている詩集『夕焼け売り』(思潮社)は、第37回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)を受賞した。
 粟津則雄氏は「齋藤貢さんのことばには、読む者の感情をことさらにかき立てるようなところはまったくない。彼は不思議な虚心をもって人や物や出来事をあるがままに迎え入れる。その凝視の底からある沈黙のしみとおったことばが身を起すのである」と語っている。
 齋藤貢さんは、震災後の福島の悲惨を静かに見つめてきた。そして、人としての自然を奪われた理不尽な現実に抗うためにこの詩は生まれた。
 狂った社会とは嘘付きの社会である。嘘の蔓延した社会では「自分さえよければ」と誰もが人を思いやることをしなくなる。正しく生きているからこそ正しい言葉生まれる。正しい言葉を拾い集めて正しい社会にしなければならない。
 何処からか声が聞こえる。
「正しい言葉は、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」

(2019年6月27日)

棚夏針手詩集

 段ボールに詰め込んであった詩集を整理してたら何冊かの『VOU』と『O』が出てきた。
 いつ購入したのかも覚えていないこの詩誌のページをめくると「棚夏針手(たなかはりて)」の記述があった。

―― あまり知られていない詩人であるが、といって、それはむしろ当たりまえのことで、大正末期から昭和初期にかけての数年間、同人誌に発表したまま不明になった詩人である。それを鶴岡善久氏が周年に燃えて8年間をかけてまとめたのが『棚夏針手』である。鶴岡氏によれば、「サンボリックなものが形を解体しながらにシュルレアリスティックなイメージに変形していくところに棚夏針手のオリジナルな先駆者的な価値づけが生じてくる」といい、サンボリックからシュルレアリスムへ至るきわめて独自的な秘教的餐宴、といっている。わが国における直輸入的シュルレアリスム機関誌の発刊の前に、すでに彼のシュル開眼の活動は終りかけていた。つまり輸入以前に独自的に切り開かれていた。として高く評価し、またその発展的必然性をいちはやく実証していたということになるらしい。しかしわたしのみるところでは、ボードレール、ランボー、マラメル等の象徴主義がかなり強烈に働きかけ、そこへ日本的な美意識が、ひと癖ありげにまた生真面目に加えられて、あなたの皿に盛られた。そんな果物のようにみえる。それはシュルレアリスムがサンボリスムから必然的に発展する過程の詩の実証(近藤東言)であるよりは、やはり和風サンボリスムという感じが強いのである。日本のシュルレアリスムが衣裳として心を軽くしたとみるならば、棚夏針手の和風サンボリスムは、それ以前の、心の重みにあでやかな衣裳を着せかけているようにみえる。軽快な竹馬と靴のような関係である。ともあれ、現代詩への重要な足がかりをもつものとして意義深い。

「黒支那麦の婦人帽の内部」
  
黒い夕焼は
黒支那麦の婦人帽の内部。
黄金の渡守と語る白い巡礼が
初めて罌粟畑に下りた象牙の保護鳥のやうに
午終一面に張りつめた蜃気楼の帆陰で
見知らぬ昼の都会に狂ふ牛の胸の
燕脂色の第一闘牛賞のメダルを見る
それは月だ。
お前が私に贈ると云つて桃色の半巾(ハンケチ)に包んで置いた
基督磔刑像の痛々しい御胸だ。
密培の赤い象牙の保護鳥が啄むので
双手を伸べて抱擁の美眉術をつくさうとする夢が
石垣の氈襖(かもぶすま)の上を匂のやうに歩いて来る
月の常春(きずた)が軽く
背後の花壇は行手の泉にうつる。
それは薔薇の花。
お前の置いて行つた一本の金髪のからんで居る
基督磔刑像の蒼白めた御足だ。

不日(いつか)
久しく帰つて来ないお前が帰つて来て
私の「陶然」の客間(サロン)で  
その黒い夕焼の婦人帽を脱ぐ時があらうも知れぬ。

私は 其時 
畳まれた水色の粉油が
お前の耳かくしの束髪に雪のやうに積るのを
さうして白藻はお前に
快く眠られるだけの冬を招くのを
尚、魂が蝸牛(かたつむり)のやうな瑣瑙の手燭に
麹色の果汁氷果(アイスクリーム)を盛つて推(すす)めることを知つて居る。
けれど
黒い夕焼の婦人帽の内部の月と薔薇の都会の紫の蓋をした巨大な蒼白い密瓶の側面では
白い巡礼と黄金(きん)の渡守とが乳房をあはせ
その影の弁髪の密航者は
象牙の保護鳥を捕へんものと
黄金の泊木を空に灯してゐる
  
おお それは
黒い夕焼の月の常春藤(きずた)に懸(かか)つて
透蚕(きさご)のやうに皮膚を匿さんとなしつつ
悶えてゐるお前ではないのか。

「薔薇の幽霊の詞」

これは花粉色の絶筆の集である。
「今」の二月廿九日である。そして又、
「明日」の二月廿九日である。
私であるお前達の薔薇の幽霊であるモノタイプなのだ。

私は懇願した招待は嫌いだ。
これは私自身のための招待だ。
私はこの招待を衷心から寿つて呉れる数人に限つて、
嬉んでここにある幾個かの快い椅子を使用して欲しいと依頼したい。
私の範囲にゐる数人は嬰児の背後から偶然の催芽が神の平均を失はせる「真」を、
私は怕らくは知つて居やうから。
私はこの優れ行く盛花を禁断したくはないのだ。
私は恒に背後にゐる女(ひと)の像に乱祝であることを悲しむ。

けれど、
私は彼女のために斯うして何時ともなく創くられた  
「巨大なるソロモンの櫃」の五穀の一握を、
一指づつ掌に啓いて行くことをゆえなく怕れる。

私は誰呼する。

私はこの手に
「明日」の二月廿九日の君臨を知つて居る神々の、
私であるお前達の、
EX.VOTEを支へ終はせたい、
私はアルチュール・ランボーの径に死んだ若い商人であるが。
  
これが私である薔薇の幽霊だ。

読者よ、私は直截に申します。
都(すべて)、常識を以て認識して欲しいと。

 棚夏針手とはペンネームで、彼は本名を田中真寿という。 
 また彼には田中真珠というペンネームも用いた(これは堀口大学からの言葉もあって本名の真寿に戻る意味もあったらしい。昭和二年十二月の「近代風家」第二巻第十二号に発した「寝明り」、「星」などの作品にはこの田中新珠が使用されている)。棚夏針手は、そのほか「明星」、「詩と音楽」、「白孔雀」、「君と僕」、「指紋」、「青騎士」などの諸雑誌に作品を発表した。近藤東、竹内隆二、添田英二、大河内信敬などわずかに詩的交渉があった。活動期は大正十年代で彼の十九歳から二十代前期にかけてであったと思われる。とくに当時注目されたようでもなく、わずかに北原白秋、堀口大学などの詩人が雑誌の選者あるいは編集者として注目した程度であったらしい。棚夏針手のビオグラフィについては、まったくつまびらかではないが、わずかに竹内隆二の「作家・山本周五郎の生いたち」という文章のなかに、「桜橋の『高治』という親質屋には棚夏針手というのが居て、これの詩が当時シュルレアリスムの先駆となりました。」、「そのうち、添田英二と棚夏針手が与謝野晶子の「明星」に推薦され、北原白秋の「詩と音楽」に私と添田、棚夏が推薦となりました。」という記述がみいだせる程度である。残した作品はおそらく三十篇前後ほどで、当時彼は「薔薇の幽霊」という詩集を、二十一篇ほどの詩を集めて出版する計画であったらしい。が、これはついに実現しなかった。棚夏針手は二十代後半からおそらく詩からさっぱり離れたらしく戦後いささか左傾して青年文化運動にたずさわったりして、常磐線の牛久あたりにいるのではないかという推察も存在するが実際には彼の失われた足跡はまったくたどれない。(『棚夏針手詩集』蜘蛛社)

 彷徨の青春時代はあきれるほどカラッポで、奴隷船のような部屋で小さな窓から波間の太陽を見上げるように、ダダやシュルレアリズムや幻想文学を読んでいた。妄想するとこによって現実から逃避するためである。奴隷船から海に飛び込んで何処かにたどりつくために必死で泳ぎ続けている。少しは泳ぎは上手にはなっているが・・・。

(2019年6月7日)

長沢延子の春夏秋冬

 冬は長沢延子と出逢う季節だ。

【別離】
友よ
私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ
花を供えたり涙を流したりして
私の深い眠りを動揺させないでくれ

私の墓は何の係累も無い丘の上にたてて
せめて空気だけは清浄にしておいてもらいたいのだ
旅人の訪れもまばらな
高い山の上に--

私の墓はひとつ立ち
名も知らない高山花に包まれ
触れることもない深雪におおわれる
ただ冬になったときだけ眼をさまそう

ちぎれそうに吹きすさぶ
風の平手打ちに誘われて
めざめた魂が高原を走りまわるのだ
…………

 終戦後のレッドパージの時代に、思想と哲学に生きた17歳の長沢延子は毒を喰って死んだ。
 吉田松陰は、遺書ともいえる『留魂録』に次のように書き残した。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」と。
 長沢延子の人生とは「生まれた時から死ぬ気で生まれてきた」と自らが語るように、敗戦という混乱の季節の中で、早熟で聡明な魂を「春と夏」切り捨てて「秋と冬」だけの短い時間で、すばやく自己変革し、すばやく成長させ、自己完結させた。

「折鶴」 長沢延子

紫の折鶴は
私の指の間から生れた
ボンヤリと雲った秋を背中にうけて
暗い淋しい心が折鶴をつくる

ああ秋は深く冬は近い
机の上にひろげられた真白なページに
今日もインクの青さがめぐっている

友よ何故死んだのだ
紫の折鶴は私の間から生まれた
落葉に埋れたあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう

私とあなたは折鶴など縁遠い存在だったけれど
あなたが私のもとを去った日から
何故か折鶴があなたの姿のように見えるのだ

もの言わぬあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう——紫の折鶴を
あなたと私とのはかない友情を表した
  
あの淋しい折鶴を

 歌人の福島泰樹は『悲しみのエナジー』(三一書房)に中で「「暗い淋しい心が折鶴をつくる」の声調に、萩原朔太郎の余韻を感じる。「折鶴」は詩人長澤延子の誕生を飾る詩である。そして、思うのだ、「友よ」の「友」は、自身への呼びかけではないか。墓にいる自身に、向かって「紫の折鶴」を折るという、生と死の「複合」によって成り立った詩ではないのか。長澤延子は、14歳10ヶ月にして、一気にその自身の詩の方法論を獲得してしまった。」と賞している。

「墓標」 長沢延子

うしなわれた数々の幼ない画集の中
流れながら野辺おくりの郷愁の唄が光る

朝飯にと供せられた一切れのパンに
あのキューバの砂糖をつけて口に運べば
あまりに困惑した眉根がうかぶ
——自ら訪れて年をとろうとした
 苔むした墓場のかぎ
——自ら生命をたとうとした
 あまりに底ぬけな空の青さよ

死にそこなった疲れに
むなしく窓外をみつめた時
あてどなく雪は降りつもっていた
そのゆくては見えず
充血した脳髄をひやすように
どこともなく駆けて行く
馬車のわだちを聞いたのだ
小さな風気孔から血が降ってくる

この別れに何と名をつけろと迫るのだ
私はドアを閉めて外へ出た
閉ざされた窓に風が吹きつける
雪よ あの家を埋めろ
私の墓標はこの涯ない草原に群をなす
裸体の人々の中にある
すでに家を捨てた者が
逞しく この草原を闘いを知ったのだ
打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ

雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
もうすでにおそい
私は限りない闘いの中に
私の墓標をみた

 16歳で日本青年共産党同盟「青共」に加盟した長沢延子は「激しい生存への、人間性への、社会への、歴史の希求と、底深い死への密着が私の中の共存していた。」と自ら語るように、真のコンミュニストになるために歴史的必然と自己否定、〈生〉への希求と〈死〉への傾斜を同時に共存させ、はげしく葛藤した。早熟で純粋な〈生〉は「革命」を目指すものだ。革命理論とは、資本家階級を「搾取階級」として糾弾し、革命的打倒を呼び掛ける理論のことある。この理論に忠実であろうとすると、まず自分で自分を打倒しなければならないことになる。そこに「自己矛盾」に陥り煩悶することになる。しかし、矛盾を抱えた存在と悟った人間でなければ詩は生まれない。長沢延子矛盾の中で詩を書き、思想と哲学を学び、真のコンミュニストとして死んだのだ。
 詩人の松永伍一は『荘厳なる詩祭り』(田畑書店)の中で、長沢延子の〈死〉について語っている。

◆かの女は1949年6月1日、服毒自殺をとげた。なぜ、死の淵をすべり降りていかねばならなかったのか。健康な女学生が〈生〉を放棄するのは、家庭の不和だの、知ってはならなぬものを知った絶望だの、不具の哀しさに耐えきれなかったからだの、といった理由からではない、もっと深い〈生〉そのものの意味からであった。〈生〉とは歴史と関わることだ。いや、歴史と関わる自己を発見することだとすれば、〈死〉を積極的に死んだ長沢延子は、その行為によって〈生〉の本質を胡摩化しぬきでつかみ出そうとした一個の求道者に化身していたといえよう。

◆かの女は、私が10余年近くたって具体的に気づき不満(戦後の自称コンミュニストたちによる政治運動の思想的空洞化とイデオロギーの風化)をもつにいたったそれらの事柄を、3年足らずのうちに洞察しつくしていたのである。「全てを知って青共に入った」と書くあの誇らしさがもつ悲劇の調べは、それが敗北の予感を受け取らせるものであったためにかの女の〈死〉は〈生〉そのものをきびしく裏打ちするところまで、鳴りひびいていた。暗いといったらいいのか明るすぎるといったらいいのか。足許に安定感のない若い青春が何時も死という深淵を無造作に自分の中に抱えこんでいたこと。あびやかされることもないただすべてうっとうしい感受性——おのみずみずしい暗い粘着性をもった感受性——は俗流政治主義者の内面に息づくことのなかったものだった。それためにかれらは偽装しつつ長生きしたが、思想的に妥協を許さぬかの女の真生コンミュニストへの情憬は、矛盾を多くかつ深く早目に知ってしまったために、死を急がねばならなかったのである。

◆かの女は言う。「魂が破滅をえらぶなら肉体も運命を共にしなければならぬ」と。魂は肉体であり、そして肉体は魂だからだ。このぎりぎりの地点まできたとき、かの女は唯物論者ではなく一種の運命論者に変質していたが、いんちき唯物論者の偽装よりも、人間の実存を手さぐりするウソのない運命論者の方が数等すぐれていることを自覚していたかどうか、それはわからない。「私の精神、無用者の年輪」という自嘲は、唯物論に対する観念論の敗北への自嘲と同質のものだとすれば、一応の想定はくだせよう。しかし、きみは、自嘲することもなく敗北の怖れすら予感しない思想家を賛抑できるか。そういう政治家を組織の指導者として信頼していけるか。それをかの女は沈黙することによって憎んだのである。純粋な世界を目ざす誠実さが、不純な人間を憎むのは当然であるが、罵声を浴びせるかわりに〈死〉を選んで抗議したのではなかったか。

◆かの女は1948年すでに、共産主義運動の一枚岩という固定観念の妄想を衝いていたのだ。あの組織のなかの衆愚性に目を開いた人間は、権力にこびたその衆愚性によって復讐される運命を負わねばらない。この悲劇は、有頂天になっている情勢論者たちにはとうていおとずれることのなづかぬ愚昧な生き方が組織を侵していく現実に、いち早く気づいたかの女の群を抜いた歩みは孤独この上もないものになっていたのである。唯物論の偉大さを知ったかの女が、唯物論者と自称する組織体の人間どもにあいそをつかし、そのことをかなしみ、進みすぎたものの悲劇的運命を感覚していくとき、〈死〉はもう避けがたい深淵のほとりまで誘惑の手をさしのべていたのであって、まわりの衆愚性はそれを拒むための何らの助言すらできる資格をもたなかった。かれらは、死を喰いとめさせる力を所有していなかったことを恥じるどころか、「死は敗北だ」という高慢な非難を浴びせ胡摩化すだけしか知らなかった。長沢延子の死がそういう非難への非難という意味を含んでいた事実を、一体何人が知っていただろうか。
真に思想に目覚めたものは、妥協という方法をとって後退することはできないのだ。前進をめざせば、それ敗走になってしまう。きみは、「人々は私の敗走を何の好意を持ってか“前進”の意に名づけてくれたから、私もこの栄誉になってみようかと思ったまでだ……」というかの女の言葉を、ここで反芻できるだろう。偉大さとは、こういうことを指して言うのだ。

「旅立ち」 長沢延子

光る舗装が目にまぶしい
もはやおさらばを告げてよい時節
  
喫茶店よりコーヒーの香りは失せ
悲しい玩具が飾り窓に
あれが私の生命——
母よ
静かなくろい旗で遺骸を包み
涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか

私の魂は波頭を越えて
あなた方の
知らぬ異国の旅人となろう
母よ
渚に立ちながら
私は何の幻影もなく
あなたの名をおもう
私を生んだ
あなたの生殖器に思いを走らせる

母よ
あなたはオーロラーを知っているか
あなたが幼ない恋人の胸に抱かれた時
あなたはふと北国の氷山を
燃えあがる心の内に浮かべはしなかったか

——あなたの古びたアルバムを土蔵の隅から発見して
私は捕鯨船と
そのマストに登る
しなやかなあなたの眼ざしを見た
  
母よ
私の心に暖かいざわめきが漂ってくる
あの暖かいあなたと恋人のロバタには
私の生誕を祝う余地はなかったはずなのだが——
  
私は私がおどおど立ち上った所に
あなたの遠さを道ばたに捨てたまま
かえって行こう

もし幾年かの後
あなたが小さい女の子を思い出したなら
私のベッドの固さに驚かされることだろう

私は何の夢もなく旅人を志願した
遥かな異国の街々で
とどける術のない
あなたへの贈物を買おう
珍らしい宝石や美しいヴェールや
そして
あなたに教えられなかった
無為の花々を

 思想とは正解・不正解、勝者・敗者を決めるものではなく自からを成長させるものだ。長沢延子の〈生〉と〈死〉が、わたしを孤独から救いあげてくれた。人生は孤独だし不安である。ニーチェは体調が悪いときは必ず母親の元に帰ったという。長沢延子はこの世に帰る場所はなく、季節を最初からやり直すために母の腕の中へと旅立ったにのだろう・・・。
 古代ギリシャ人は「最も良いことは、この世に生まれないこと。次善は、早く死ぬことだ」と考ていた。この苦痛ばかりである人生を耐えるためには、〈死〉の深淵と関わること。そして、終わることのないの苦痛があるからこそ、ギリシャ人は美しい神殿や彫刻を作り、思想や哲学を極め〈生〉が輝いたのだ。〈死〉から目を背けずに注視しているからこそ、今を大切に生きていける。疲れたら長沢延子という原点に帰ればいいのだから。

(2019年5月10日)

あいづち

 教育評論家の尾木直樹さんが関係している小学校で、子どもたちに好きなものを挙げさせたら、小学校高学年の子どもたちがほっとするものが、ゲームとかではなく、北村宗積さんの「あいづち」という詩だったそうだ。「子どもたちは、共感して優しくあいづちをうってくれる欲していて、現実にそういう大人が廻りにいないことの現れなのだろう」という。

「あいづち」 北原宗積
  
そうかい そうかい
そりゃあ たいへんだったねぇ

つらいはなしには 
かおをくもらせ

なるほど なるほど
そりゃあ  よかった

うれしいはなしには 
かおを ほころばせ

いまは
むかしほど ちからもない
じょうぶな はも
なびくかみも ない

あるものといえば
ふかいしわと
とりすぎたとしばかりの
おじいさん

だれがはなしにきても
やさしく あいづちをうっている

 現代社会では、子どもに限らず若者や大人たちも「他者からの承認願望」を希求しているのではないだろうか。
 ネット環境は多くの友だちを増やし、人間関係を拡大していこうとする傾向を強めるが、その一方で、できるだけ価値観の似通った人だけと確実な関係を維持していこうとする傾向も同時に強めるという。
 友だちの数が人間として価値を測る物差しとなり、出来るだけ多くの友だちを確保しようとし、遊ぶ内容によって友だちを使い分けるという。しかし、付き合う相手を勝手に選べる自由は、そのあいて相手から自分が選んでもらえないかもしれない恐怖がつきまとう。友だちに嫌われないためにお互いの内面にまで深入りすることなく、ひたすら空気を読み、自ら作ったキャラを演じ、スマホの着信にびくびくしながら生きていかなければならない。
 現代の価値観の多様化した社会では、各々が意見のぶつけあう方向にではなくむしろ対立を避け、がむしゃらに主張を押し通そうとはせず、互いに譲りあうような関係になっている。しかし裏を返せば、互いの内面にあまり深入りをしなくなったと捉えることもできる。その背後にあるのは「承認願望」の強さである。絶えまなく承認を受けつづけるためには、つねに衝突を回避しておかなければならず、互いに相手を傷つけないように慎重にならざるをえないのである。
 「予定調和」の関係とは、ひたすら相手に合わすだけの関係であり、他者を気にするあまり自分のことはわからい。必要とされる役回りだけが互いに期待され、それ以外は求められないからだ。自分の本当の姿を相手が教えてくれることはなく、本当の自分の姿と出会うこもできない。
 新聞記者の小国綾子さんは、生きづらさを抱えた若者や子どもの取材を長年にわたって積み重ねてこられた方であるが、中学時代には自分もリストカッターだったそうだ。その自身の中学時代を振り返りつつ、吉野弘さんの「生命(いのち)は」という詩を引用して、こう語っている。「長いめしべと短いおしべ。簡単に受精できない花の形。吉野さんは「生命の自己完結を阻もうとする自然の意思が感じられないだろうか」と問う。常に好ましいわけではなく、時にうとましくわずらわしい他者。しかし「そのような『他者』によって自己の欠如を埋めてもらう」のが人間なのだ、と。/好きな相手や似た者同士で固まるのは楽だけど、それでは「自己の欠如」は埋まらない。ある時は見知らぬ誰かが私のための虻となり、ある時は私が誰からのための虻となる。/確かに私の人生、そんな他者との出会いの積み重ねだったのかも」(『毎日新聞』2014年2月4日)。

「生命(いのち)は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 人間関係とは、互いの衝突を契機にそのあり方が見直され、再構築されていくもであり、そうすることで周囲の環境の変化にも柔軟に対応していける。そして、新しい自分を発見していくこともでる。しかし、あらかじめ衝突の危険性を回避し「予定調和」の関係を営んでいるかぎり、その関係は次のバージョンへとレベルアップされ、深まっていくことはありえない。自分の知らない自分に出会うこもできず、したがって環境の変化にも絶えられないことになる。キャラを演じあうことで維持される人間関係は、表面上は安定した関係のように見えるが、それは今この場かぎりのものであって、長い目で見ればじつは意外と脆いものである。
 互いの本音を理解しあっている人間関係であれば、多少の摩擦が生じたとしても、それで関係は壊れるかもしれないなどと不安に駆られることはないだろう。自律的に個人は相互に信頼して尊敬しあえる関係を築き、そこで互いに承認を与えあうことができれば、自己肯定感も揺るぎないものになるだろう。そうすれば強い他者に依存することもなく、弱い他者を気遣うこともできるだろう。
 誰だって若い時は不安定だし孤独だ。小国さんは自らを振り返り「自分探し」をするなという。
「自分から心に高い影を築き、独りぼっちで生きる理由を探しているだけで、頭の中だけで「自分探し」をして見つかる自分でなんて、ろくなもんじゃない」と。
「狭く閉じてしまわず、あきらめず、一歩踏み出そう。誰かに会って「はじめまして」と言おう。「こんにちは」と「ありがとう」を重ねていこう。そんなことから見えてくる「自分」が大事だ」と。

〈参考文献〉
『つながりを煽られる子どもたち』 土井隆義(岩波書店)

北原宗積(きたはらむねかず)
1931年 信州松本に生まれる。信州大学工学部卒業。中部日本放送勤務をへて児童文学の道へ。
第10回新美南吉文学賞 佳作受賞
第1回日本児童文学賞制作コンクール入選

(2018年12月27日)

冷たい雨とネコ

二匹の野良ネコの出会いは、冷たい雨がやんだ高円寺の遊歩道だった。
一カ月前から一匹が消えた。
「おいで おいで」
「ミャ~ ミャ~」
今は、五十センチメートルが許してくれる距離らしい。
野良ネコが野良ネコのプライドを生きるのに、五十センチメートルがいい距離なのかもしれない。

吉原幸子に「猫」というの詩がある。

「猫」 吉原幸子
〈ゐない〉

ネコが死んで 半としもたってから
セーターをつくろった
 
幼いあの子が 背中をかけのぼり
船長のオウムのやうに肩にとまって
やはらかな爪をたててから
ずっとそのまま着てゐたのに
今になって
今になって——?

でも きっと
半としたったから やっとわかったのだ
もう セーターは
ほつれないのだ と

あの子をひいたくるま
亡がらのないお墓
(抜け毛と手紙を埋めただけの)

ほつれた糸を
一針一針 裏側へ押しこんで むすぶ
弔ってゐるやうでもあり
終らせてゐるやうでもある

あの子は もう ひっかかない
いちど 死んだから
もう二度と
死なない

〈ゐる〉

死んだネコについて書いたものを
ベッドで よみかへしてゐると

ドアが小さく開いて
誰か入ってきた
足音はきこえなかったから
風か

ふしぎなことに
メモが一枚 どうしても見当らない
サイドテーブルのうしろ
椅子の足もと
をかしいわね 今しがたまであったのに

思ひついて
ベッドの下に手をさしこむ
すると あ!
わたしの指は
柔い 毛ぶかいものに
たしかに さはったのだ

のぞきこむのはよさう
そこにゐるのは あの子にきまってゐる
でものぞいたら きっと
スリッパのふりをするだろうから

青びかりの瞳で 詩をよみ終へ
わたしのしほからい指をなめ終へたら

たましひよ
今夜はその暗がりで
おやすみ

子ども頃、十年くらいネコを飼っていた。
冷たい雨の日はネコの温かさを想いだす。
明日も冷たい雨だ。

(2018年12月26日)

永瀬清子の「あけがたにくる人よ」を読む 

 永瀬清子さんは1906年2月17日に生まれ、1995年のちょうど誕生日と同じ日の朝に亡くなった。
 4人の子どもの母であり、体の弱かった夫を助け、戦後は農業もし、岡山家庭裁判所調停委員の仕事を持ち、いわば主婦、詩人、仕事の3つをやりぬいた人生であった。
「多くの女性をやっていることを詩人の名でやらずにすませ得る事はなく、それをのけて女性詩人があるものではありません」と語るように、このようなまともな考え方のできる人だったからこそ、1度読んだら忘れられない詩を残せたのである。 
 永瀬さんの残した作品は、詩集18冊(アンソロジーを含めて)とエッセー集5冊、短章集5、6冊であり、ほとんどが絶版であることを考えると、現代詩の先駆的な存在である永瀬さんの作品が広く読まれるべきだと思う。
  
「あけがたにくる人よ」 永瀬清子

あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
わたしはいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

 「あけがたにくるひとよ」は、詩人永瀬清子が81歳にして第12回地球賞を受賞した詩集の中に収められた同じタイトルの作品である。
 “てってぽっぽう”という語感に残るの印象的な言葉は、山鳩の鳴き声の事であるという。たまたま上京して従姉の家に泊まったその明け方早く目がさめ、ててっぽっぽうの声を聞いて郷愁を感じ在りし日を思いこの詩を書いたという。
 あけがたに来る人とはどんな人なのか。
 永瀬さん自身の言葉によると、「あけがたに誰かがくると云えばこの「詩」が来てくれた事が一番あたっていると云えよう。何の誰それと云ってももうそれは何十年も年月がすぎて昔の事情とはちがっている。でもこの『詩』が来たのは嘘いつわりではないのだ。それは本当に「来た」のだ。(『女人随筆』(1991年1月号))」ということらしい。
 清水哲生氏によれば「若い頃に、ひそやかな恋心を抱いた人——。あるいは、すなおにそう読むべきかもしれないが、この読み方どうも通俗に流れすぎるようでおもしろくない。あくまでもこの人物はひとりなのではあるけれど、未知の人物も加えて、若き日の詩人の「こころ」に何らかの影響を与えた人々の総体なのだと、私は読んでおきたい。だからこそ作者は、「もう過ぎてしまった」というのであり、「一生は過ぎてしまったのに」と断言できるのである。昔の想い人に託した形式はとっているけれども、もっとうがった見方をしておけば、「あけがたくる人」とは、実は詩人自身にことでもあると読めないだろうか」という。
 永瀬さんの詩の根底を貫いている主題とは、「遠い日々に思いに馳せながら「人の世の生業」への情愛に自ら縛られて老いていく女たち」であり、「憧れや幻想を捨てて選びとった地上」を生きることである。
 この「あけがたにくるひとよ」という恋物語は寓意の世界である。一日のうちで夜と朝の狭間に置かれた「あけがた」という神秘な時間がごく短いように、「恋人」は一瞬のの至福として彼女の前に現れ去ってゆく。だが、この律儀な娘には生きる真実を捨ててまで夢を老い続けることはできなかった。——「恋人」とは「夢や希望」の象徴表現であり、今や晩年を迎えようとしているかつての少女は、捨てられたかに見えた若き日の「夢や希望」を、こころの奥深くにつつましく抱きしめて涙するのである。
 永瀬さんにとって詩とは基本的に己の「自我」と向き合い、それを確認するための場、そして主張してやまない自我の抑制から、より普遍的なはれやかな場所へと自己を解放するための鍛錬の場であった。したがってこの自我は芸術家らしい野放図な拡大を求めるものではなく、つねによき「女性」として在るための内省の場を求めたのである。
 『短章集』を読んだ谷川周太郎氏はこう語っている。「永瀬清子という人がひとりの日本の女でるということ、妻でもあり母であり農夫であり勤めの人であり、それらのすべてでありつづけることによって詩人でるということが、私にも分かってきたのだ。彼女は他の多くの、特に男の詩人たちのように、たつきはたつき、文学は文学と和割り切って、昼の仕事を終えたあとに書斎にこもって詩を書いたのではない。『ほしいもの』というという本集に収められた一文を読むだけでも分かる。永瀬さんは女の戦場の只中で書きつづけてきた。」(「ひとりの日本の女」より)
 永瀬さんは、女性が何かを表現するというのが許されない封建的な時代を、「女性」であることの詩と真実を求め続けてきたからこそ、現代の女性の詩人たちの存在があるのだろう。

〈参考文献〉
『近代女性詩を読む』新井豊美(思潮社)
『永瀬清子』井坂洋子(五柳書院)
『現代詩つれずれ草』清水哲生(思潮社)

(2018年12月25日)