日別アーカイブ: 2023年9月11日

二人の「夏の果て」の物語

 優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと思っている。
 コラムニストの小田嶋隆さんは、視点を左や下に少しずらし、人間社会の現象を分析する。
 多くの本を出している小田嶋さんであるが、二十代の後半の頃は半失業者のような苦しい生活だったという。そんな状況だったにも関わらずポジティブでいられたのは、高校・大学の同期生であり親友の岡康道さん(クリエイティブ・ディレクター)が、自分の事を評価してくれてたからだと語っている。

「夏の果て」 小田嶋隆

夏の雲が立ち上がるのを見上げていたぼくたちは、十六歳だった。
いいや、そんなのはウソだ。わかっている。
ぼくは十六歳ではなかった。
あらためて、記録に沿って数え直してみれば、おそらく、ぼくは十五歳だった。
それも、いまとなってはあやしい。
なぜなら、あの時、あの場所にいたかもしれない人間たちは、ひとり残らず、この世の者ではないからだ。

ぼくたちがよく知っていた夏に、ビーチ・ボーイズは鳴っていなかった。
当然の話だ。よくわかっている。
その代わりに、ぼくの目にうつっていたのは、灰色かかった砂と、その砂を濡らす不潔な出所不明の水流だった。
そこからやってくるのか、そのかぼそい流れは、砂浜を隠れるように逃げてまわり、最終的に波打ち際まで届いていた。彼方には、赤く錆びた色の缶と、そのまた向こう側に消えていく蟹の小さなハサミが揺れ動いていた。
どこからどう眺めても、美しい景色ではない。
それでも、日差しが一番激しい音を立てる時刻がやってくると、夏は比類のない季節である実感を残していった。

夏は、かたちどおりにやってくるものではない。
それは、いつだったか誰かが耳打ちしたとおり、本当のことだ。
でも、春夏秋冬と、四通りあるはずの道すじのうちで、夏に至る道程だけが、必ず、はるかに遠い高みで、特権的にわれわれを待ち構えていた。
どうして夏だけが、いつもあんなふうに、ウソそれ自体のまばゆさに満ちあふれながら、けっして手の届かない場所で輝いていることができるのだろう。
春・夏・秋………と、折り重なる季節の中で、夏だけが、どうしても手の届かないはるか彼方で輝いているその理由を。
もちろん、こんな話はウソだ。しかも間違っている。
夏だけが特別なわけではない。
すべての一日は等価で、しかも無意味だ。
これがぼくのたどりついた結論で、それを証明することがぼくの生活だった。
白色レグホンの無精卵みたいに等価で無意味な一日。そしてまた、おなじ一日。それらを無造作に積み上げて、積み上げたままに突き崩すのが、すなわちぼくの日々であり、義務でもあった。
でも、それにしても、どうしてあの夏の日々は、ありもしなかったことがはっきりとかわってしまったあとになっても、あんなに美しく輝いて見えたのだろうか。
同じように並べられ、繰り返される日々の退屈さと、それらの日々が本当に価値あるはずの時間をむしばんでゆく感覚に、ぼくたちは苦しめられていた。
それが若さだということに気づいた時、ぼくは、自分がもうなにも手に入れられないことをしみじみと知った。
ところが、なにも手に入れることができず、ひとつとして持ちきたえられていないのに、それでもにかを失うことだけはできた。
そして、それこそが、夏雲の向こう側にわれわれが仮定していたものの正体だった。
二度とかえってこないというそのことだけが、日々を特別な瞬間に変える魔法だったことを知った時、ぼくの時計は過ぎ去った時刻を指していた。そして、なんということだろう。きみの時計はゆっくりと動きを止めようとしていた。
「くだらない趣味だけどさ」
と、言い訳をしながら、見せてくれた雨水色の腕時計のことを、ときどき思い出す。
「こういう時計は、いったいどこの時間を指しているものなんだ?」
と、水を向けると
「ずっとむかしの、おまえが知らない時間だよ」
と言って笑った。
その時間に向かってぼくも歩きはじめている。また会おう。
はるかな、夏の果てに、待っているかもしれない、あの時間の中で。
(二〇二一年八月六日)

 この詩は、小田嶋さんが岡さんに贈った鎮魂詩だ。
 岡康道さんが二〇一三年に発表した自伝的小説『夏の果て』を、後年に小田嶋さんが読んで呼応するかたちで発表したものだ。
 岡さんの小説『夏の果て』に登場する「若松」が小田嶋さんの事である。
〈若松は、コンピューター関連のカタログや入門書や翻訳を膨大にこなしていた。その合間に、鋭いエッセイを書いた。これが面白い。同世代の書き手の中でも、僕は依怙贔屓を差し引いても若松が断然トップだと思った。しかし、書き続ける日々は、若松に次第にダメージを負わせた。あるいは、若松は本当に書きたいものを書いてはいなかったかもしれない。九〇年代に入るとアルコールに依存するようになった。生活が荒れ始め、雑誌で資本主義そのものを鋭く批判する。九一年のソ連邦崩壊によって共産主義の非現実性が露になり、バブルがはじけた日本では、これから先何を目指せばいいのか、みんなわからなくなっていった。若松の資本主義批判も次第に説得性を失っていった。若松は僕の作ったCM制作者の名前入りでこき下ろし、広告すべてを軽蔑する文章を発表した。弟の温は、それを偶然見つけた。「アタマに来るかもしれないけど、若松さんが言ってることは、今まで彼が批判していた視点から見れば当然のことだ。兄貴は怒ったらだめだよ」と僕を諭すように言った。しかし、僕は人からその掲載雑誌を見せられ、激怒し、若松と縁を切った。〉(『夏の果て』岡康道 小学館 P315より)
 二人が絶交していた期間は一〇年くらいだったと言う。僕はこの時代の小田嶋さんの本を読んだことが無く、思想・信条はわからない。執筆の勉強のためパクるように読み始めたのは、二人の共書を含め今から一〇年くらい前からという事になる。
 近年の日本社会は歴史修正主義者によって歴史が改竄されている。権力を私物化した為政者に対し忖度、迎合するヨイショ本ばかりが巷に溢れている。誰もが物事の本質を重層的に考えようとしない反知性主義者も多い。小田嶋さんは「政治や社会を鋭く批評したコラムニス」と言われているが、当たり前の事を言っているにすぎない。優れたコラムは、人間行動学や人間性心理学のテキストだと書いたが、小田嶋さんが亡き後に改めて書物を読み直してみると、小田嶋さんが遺したコラムは現代歴史学のテキストだとも言えるかもしれない。
 岡さんは二〇二〇年に亡くなり、小田嶋さんは後を追うかのように二〇二二年に亡くなった。二人は僕より少し上の世代にあたる。まだまだ若い。当たり前の事が当たり前でない社会の中で、真っ当な表現者が亡くなってしまった事は残念である。